告発します ≪第六部≫

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>>693の続き...
<統一教会について 第三回>
・日本においての反共活動
当時の日本の情勢は、日本最大の組合「国鉄労組」による左翼活動や安保
闘争がおこなわれたのに続いて、池田内閣が強行しようとした政暴法案に
反対する共産党・社会党を中軸とした行動が進められていた。米CIAに
とっても、偉大な安保闘争におびえた日本の支配層にとっても、新しい
共産活動に対抗する既成右翼勢力ではない新しいタイプの反共団体が必要
であった。とくに献身的無条件に、疑いを抱かず反共活動たけに専念する
若いエネルギーが求められていた。そして、韓国においてキリスト原理主義
のもと、数多くの若者が献身的に活動している統一教会に目をつけるまでに
時間はかからなかった。
すぐにソウル統一協会の宣教師崔翅翼が、文鮮明の指示で日本に密入国
し、西川勝という日本名で統一協会を発足させ原理運動の「布教」を始めた。
呼応するように笹川良一は、密入国で逮捕された崔翔翼の身元引受人となり、
1963年、統一協会顧問に就任、財界、政界、警察にわたりをつけて大々的な
テコ入れをした。
国家による暗黙の了解の下、原理運動はキリスト教の外被と呪術的な方法
(血液精液を服用する)で、現代日本社会の矛盾に押しひしがれた若い男女
の一部を吸収していく。そして、国際勝共連合が結成される。
国際勝共連合が、日本で誕生したのは1968年4月である。発足に至る具体的
経過も明らかにされており、それによると1967年7月、笹川良一の肝入りで、
韓国側文鮮明(統一協会教祖)、劉孝之、日本側笹川良一、児玉誉士夫代理の
白井為雄、市倉徳三郎らが山梨県本栖湖畔にある全日本モーターボート競走
連合会の施設に集まり、「第一回アジア反共連盟結成準備会」が開催され
たが、ここで韓国流の反共運動を日本で受け入れることが決められた。
日本の右翼暴力団の「二人の首領(ドン)」が、そのシマ(縄張り)の
中で、韓国系ヤクザの活動を承認した手打式と言うことができる。
会合の目的とされた日本における「アジア反共連盟」という名の団体の
結成は、日本の旧右翼の中につよい反発があって実現しなかったが、
その後の話し合いで、日韓両国の統一協会が、「国際勝共違合」という
看板を掲げ、宗教と反共団体の二足のわらじをはくことが合意された。