京都公安のマイクロ波使用について

このエントリーをはてなブックマークに追加
414名無しピーポ君
ちょっと長いで〜す。私の主張としては大事なところなので。

★「理論」として受け入れられるのが正しい科学のプロセスだと ・・

◇まさしくその点は仰る通り。合理的に考えても間違いない方法論でしょう。た
だしそれは専門的学術的な科学界ではね。しかし、この場合は、事実を取り巻く
環境が科学界とは違う一般の社会です。一般社会は不可思議に対しては未だ科学
的に対応しきれない半信半疑のオドロオドロした社会でありませんか。或いは科
学的だと誰もが信じている医学であっても病理の説明が例えあっても本当はその
確かな原因は今もって充分に証明されていないことなのです。まだ古木に霊が宿
る世界なのです。そういう意味で問題は未知の事実が明らかになったときの社会
の反応でした。幽霊がいると言うのと事実を有り得ないとするのは科学的に言え
ば実は裏を返しただけの違いだったりして。

★誰も現状維持的に理解なんかしていない。

◇いいや、そうでしょうか。原因となる可能性の一部(この場合には病理)をも
って否定することで事実が存在する可能性の全てを否定すべきではないというこ
となんだ。事実の存在の重さ(可能性)とその原因の可能性は同じものではない。
事実の存在の可能性の方がその原因の可能性よりも意味するところの範囲は大き
い。一つの可能性を否定することを以って事実そのものを否定するのは、場合に
よって危険です。有り得ないとする根拠がどうしても既成知としか見えないので
すね。例え、その見解による可能性の否定ができても、それ以外の原因の可能性
も探らなければ、事実が体験としてある以上、それだけで事実が存在しているこ
とを否定する根拠は乏しいと見えます。その意味で現状維持的な所から出ていな
いと思えるのですよ。つまりこの場合は、おカルトであったり、病理であったり、
それまでの既成知による有り得ないことになったり・・・。それ以外にも・・・。
それが科学なのではないですか。それがこの場合でもその事実を裏付けるような
理論のみ求めはするが、肝心の事実を在るものと仮定してそこに科学的メスを入
れようとしない。何か変です。勿論それは国のそして科学者の責務であり役目だ
とは思いますがね。

事実を知る事とその理論は別ですね。事実があってその理論を唱える。或いは逆
に又理論を実験によってそれを裏付ける。科学的には両方の迫り方が有る筈でし
ょう。自然現象などは前者、理論物理などは後者でしょう。

ですから、この場合自然現象に似ているのですが、その理論を考える場合、事実
があるとしているのですから、当然色々な事を考えるのが科学としては当然でし
ょう。その事実の不可思議を究明するのが科学と思っています。ところが、我々
一般の大衆は事実を知るだけで精一杯。

或る事実に整合するような理論を考えるのは科学の役目であって、我々の体験事
実そのものとは直接的に関係しない。ニュートンの万有引力にしたって、林檎の
存在とそれが落ちるという現象が有ったから理論を構築できたもの。勿論それは
当然科学的素地があったからできたことですが・・・。一般知識しか持ち得ない
大衆が万有引力の理論をどれほどまでに編み出せますか。

昔から誰でも林檎は落ちるものだということだけは知っていたのですが、只その
原理を考える人がいなかったのです。ニュートンが始めてという訳でしょ。
415名無しピーポ君:2001/08/24(金) 05:58
前の続きです

そこで、今度はその理論のどれが正しいかは科学者同士の役目ですが、事実でし
かないこと、つまり林檎が落ちる事を素人が何故といわれても答える事は無理な
ことだったでしょう。科学者同士ならお互いがその理論の正しさを大いに主張し、
その中から真に評価に絶え得るものを見つけるべきだとは思いますが。その辺り、
事実を提示することとその原理ないしは理論を考えるということの役割分担の問
題ではないでしょうか。歴史的な事例で言えば、説明つかないこと、都合の悪い
事は全て魔女狩りではありませんでしょう。それ以前の段階に於いて、最初の入
り口で、体験事実が一つの可能性にしか過ぎない筈の病理という理由で事実その
ものまで否定してしまうというのは科学的アプローチとしては根本的に何か不足
している気がしているのです。

どうも科学者の世界で言う論のように感じます。そこで必要なのは仰るように事
実と理論それを裏付ける為の証拠ですね。それでも良いんですが、我々一般大衆
は体験事実イコール”それが証拠です”ということでしょうね。

事態は”林檎が落ちる”のは『知っている!』という段階に止まっているという
こですしょうね。

それなら現在この問題に対する国、あるいは科学者はどうなんでしょう。
『 ・・・・・・? 』、そこに求められるのは病理でしょうか、それとも誰にも
了解可能な確かな証拠でしょうか。ハハ〜アと言う訳です。


繰り返しになりますが、理論が正当か否か試されるプロセスで必要とされる根
拠??誰の理論ということになるのでしょう。そこにはまだ確かな理論など有り
ませんし、その”理論の為に”するような客観的証拠もありません。在るのは理
論でなく先に事実があるのです。その可能性の理論ばかりにとらわれて事実の存
在そのものを棚上げするなら、新しい原理や法則は発見でき難いことでしょう。
言うところはその事実(証拠としての事実)を”さらに証明する為の更なる証
拠”が必要だというものですね。私はそれは国であり、科学者の役目だと考えて
います。理論的に理解可能なもの事実のみが有効で、肝心の事実を軽視するよう
な科学があるとしたらそれは山葵のない刺身のようなものではありませんか。科
学は空理空論に窒息してしまい兼ねないものと思いますが。要は鳥を見て空を飛
んだようにね。

太平の眠りを覚ます蒸気船哉

体験事実以外にも事実があれば提示しますが、理解するのにその事実だけでは何
が不足しているのか。想像と創造する意欲と。既成の科学知識による技術にとら
われない新しい技術を考えることも必要かもしれませんね。

あの一つ一つの事実から有機的に何か想像できることがあれば、その結果として
理解出来ないところなどはありませんか。これが解かればあのところは理解でき
るなとどいう個所はありませんか。