警察庁の電波傍受機関“ヤマ”とはどういうものなのか。その存在
を始めて報じたのは『週刊文春』1997年5月1日号である。その要旨は次の
通り。
「警察庁のごく目立たないセクションの一つに、通称″ヤマ″と呼ばれる長官
官房傘下の極秘情報機関があった。戦後すぐに設立されたこの機関の正式名称を
聞いても、秘密のセクションだとは誰も気がつかない、アッサリしたものであ
る。だが、地味な肩書きのキャップの下には400名を超える要員がいた。″ヤ
マ″の存在を知っている者は、日本の警察機構の中でも数少ない。警察庁キャリ
アは、警察庁の課長クラスに昇任して初めて″ヤマ″の存在を知り、その想像を
超える能力に驚嘆することになる。この機関の主な任務は、日本に到達する様々
な諜報電波の傍受である。横田めぐみさんが行方不明になった頃(1977年1
1月)″ヤマ″が狙っていたのは、北朝鮮工作船の動きと、日本に潜入している
北朝鮮諜報員に対して平壌から定期的に流されるA3放送と呼ばれる暗号放送の解
読だった。横田めぐみさんが忽然と消えた数日前、″ヤマ″は、北朝鮮東岸にあ
る清津の海上連絡所から、一隻の特殊工作母船が発進するのをキャッチした。当
時、北朝鮮には、工作船基地が3カ所(ほかに南浦、元山)あり、朝鮮労働党直
属の工作機関『連絡部』が運営していた。母船は基地とメリット交換を行った
後、無線封鎖を行った。母船は、新潟の30キロ沖まで来て、再び停止した。小
型特殊工作船が吐き出された。警察庁の極秘機関″ヤマ″の全国に数カ所ある巨
大アンテナは、これら母船や小型特殊工作船の動きを、すべてモニターしてい
た。北朝鮮の工作船は、短波の周波数帯を使っていたので、内容を捉えることは
容易だった。“ヤマ“が北朝鮮の工作船が日本に向かっていることをキャッチす
れば、直ちに目標とされている県警本部にKB(コリアン・ボート)情報が発令
される」
東京都日野市三沢3−20ー11。市販の地図には「警察庁第二無線通信所」
と表示されている。ちなみに「第一無線通信所」は東京・中野のICPO送信所
である。小高い丘の上に立つ同通信所では、24時間体制で北朝鮮の暗号通信の
解析、平壌放送、朝鮮中央放送の傍受を行っている。職員は通信の技官である。
チーフは警備局外事課の外事技術調査官。
頂上東側に短波用のダブレット・アンテナが一基、南北に張ってある。西側の
中腹にも、短波用の大きなワイヤー・アンテナが一基、やはり南北方向に張って
ある。都内には、小平市にも極秘の場所に傍受施設がある。外事通信所はこの
他、千歳、仙台、本荘、館山、守山、高浜、枚方、信太山、白浜、丹後、出雲、
丸亀、小郡、出水、沖縄にあるといわれる。
朝日(4月7日)によると、船からの電波発信は異例だとしている。3月30日
の共同通信は、大韓航空機爆破事件の金賢姫・元工作員の教育係りとされる元ホ
ステスが北朝鮮に拉致されたとみられる1978年7月初めにも、新潟県・佐渡
島周辺で同国の工作船のものとみられる電波を政府関係の電波情報施設が傍受し
ていた、と報じた。この施設は、“ヤマ”を指すものとみられる。
どの報道も傍受された電波のモードには触れていない。麻生の記事からは、モ
ールスであったと推測される。一方、秘話装置がかけられていたという読売の記
事からすると、音声ということになる。しかし、常識的には、やはりモールスだ
ったのではないか。
今回の事件では、異例な再放送パターンを示した4770/5870kHzの
A−3が事件に関与したのはほぼ間違いないのではないか。工作船がいまだ短波
を使用していることも明らかになり、どのような波を使用しているのか興味が持
たれるところだ。
http://www.246.ne.jp/~abi/fushin.htm
「公安庁の無線傍受機関が練馬区内に極秘に設立されたのは昭和27年9月5日。寺田技術研究所という民間研究機関に偽装してスタートした。発足当初は、暗号解読要員が2人、無線傍受要員が2人、総務班2人の計6人という小規模の組織だったものの、予算は当時としては破格の154万円が投入された。
2年後には高速受信機2台、低速受信機15台、方向探知器4台、人員120名にまで増強されるが、この機関は公安庁長官の直属機関で、その存在は一般の職員にはまったく知らされていなかった。(中略)
この機関がまず手をつけたのは国内の破壊活動団体の無線傍受だったが、間もなく海外無線の傍受に重点が移される。東西冷戦の中でソ連の動向を調査することが最大の要請であり、ハバロフスク、ウラジオストック、千島、樺太、カムチャツカなどソ連国内で飛び交う無線を寺田技術研究所が傍受していたのだ。この機関の活動の中で最も特異で、しかも我国の公共の安定の確保に最も寄与したのは、いわゆる諜者無線の傍受だった。(中略)
寺田技術研究所が最も活躍した時代は、昭和32年から37年頃まで。
九州や北海道にも極秘に傍受アンテナを設置してエリアを広げ、任務も大幅に増えていった。寺田技術研究所が傍受していたメインの地域はソ連だが、1960年の安保闘争の頃から、ソ連と中国の間がおかしいという情報が入り始めた。
これを契機に公安庁は、中国情報の収集にも力を入れるようになる。(中略)
公安庁では寺田技術研究所の傍受活動を通じて、人民解放軍の軍事行動を
始めとするチベット情勢が手に取るように判り、新聞などではまったく
報道されない中国によるチベット人民抑圧の情報を入手していたしかし、絶大な成果を誇った寺田技術研究所も、やがて大きな壁にぶちあたることになる。一つは暗号、通信手段など科学技術が目まぐるしく発達する状況に、予算的に対応できなくなっていったことだ。(中略)
寺田技術研究所が解散したのは、昭和51年8月だった。受信した総通信件数は計381万件で、そのうちファイリングしたのは4万1千件。
解読した暗号は31種類で、暗号から得た情報は370件にも上がったのである。(以下略)」
公安庁の傍受施設は今でも練馬区内にあるのではないだろうか。