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名無しさん@お腹いっぱい。:
あ
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名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/03(土) 22:05:23.80 ID:2G+CT1jF
佐藤 忠康(さとう ただやす、生年不詳 - 永禄8年8月29日(1565年9月23日)は、戦国時代の武将。加治田城主佐藤忠能の嫡男。通称は右近右衛門。信氏とも。兄弟に昌信、斎藤利治室、佐藤継成室、仁甫竜義大姉、岸信周養女(八重緑)、能信がいる
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名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/03(土) 22:06:21.55 ID:2G+CT1jF
初め、父忠能は美濃斎藤氏に仕え、
尾張の織田信長の侵攻に備えるため
関城主長井道利や堂洞城主岸信周とともに盟約を結び
その際に妹の八重緑は信周へ養女(人質)として出された。
しかし、忠能が信長に内通したため、八重緑は加治田城に
面した長尾丸山で磔にされた
その翌日の永禄8年8月28日(1565年9月22日)に行われた
堂洞合戦では、父忠能とともに忠康は堂洞城を北側から攻め
織田軍が南と西から攻めた結果、堂洞城は落城。
その夜に信長は忠能の屋敷に一泊し、忠能・忠康父子は
感激して喜んだという
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