1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
シレジウス、またはジレージウス
このドイツ神秘主義の代表的詩人について語りましょう
薔薇はなぜという理由なしに咲いている。
薔薇はただ咲くべく咲いている。
薔薇は自分自身を気にしない、
ひとが見ているかどうかも問題にしない。
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 21:28:13 ID:sPcGx46g
薔薇は何故なしに有る
それは咲くが故に咲く
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 21:29:00 ID:sPcGx46g
ここは汝の肉眼が見る薔薇、
それは永遠に神の内でこのように咲いているのだ
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/17(水) 22:38:51 ID:7ghcxkK3
薔薇が咲くのにもそれなりの理由がある
『故無しに
薔薇は何故無しに在る、それは咲くがゆえに咲く。
自分自身を気に留めることも、人に見られているかどうかを問うこともない。
この有名な二行詩は、シュレージエンの詩人・神秘家であり、
ライプニッツの同時代人であったヨハン・シェフラー〔アンゲルス・シレジウス〕の
著作『ケルビムのような巡礼者』に登場するものです。
これは、いつの時代でも引用する値打ちのある詩であって、その証拠に、
この詩句は、マルティン・ハイデガー、ハインリッヒ・ロムバッハ、ジャック・
デリダといった現代の多様な著述者によって、幾度も参照されています。
けれども、この詩句はなおわれわれにとって意味をもつでしょうか。
そして、何を考えさせてくれるでしょうか。それはまた全く別の問題です。』
エーコの『薔薇の名前』の詩を調べたら、中世普遍論争の
唯名論と関係すんのな。ふーんと思った。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/22(月) 22:30:59 ID:foKi7b8R
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/24(水) 12:30:44 ID:9mT9bXhn
わたしは神に死に神に生きている
神と永遠に生きようと思うなら
永遠に神の前でわたしは死ななければならない
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/25(木) 08:51:00 ID:KovwrLRz
「薔薇」は通常の意識にとっては一つの自然物であり、キリスト教的にいえば
被造界に属し、近代的にいえば対照的自然界に属している。
しかし「薔薇は何故なしに有る」と歌われているこの薔薇は、いわゆる自然物ではない。
アンゲルス・シレジウスはまた「ここに汝の肉眼が見る薔薇、それは永遠に神の内で
このように咲いていたのだ」歌っている。ここでは、薔薇が咲くという事が、
神の内の出来事、従って神の出来事として見られているわけである。
この時、「薔薇は何故なしに有る」。すなわち、薔薇の何故なき有」は
比喩的ないし類比的にいわれたことではなく、神の有(存在)そのもであり、
神の有として「何故なしに有る」。この時、薔薇は被造物的自然界をつき抜けて、
神の内で咲いていることになる。
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/25(木) 20:53:21 ID:049ec3T1
なるほどつまり類推的悟性ではなく、直感的知性(または神的直知)に依って捉えたことか。
そして薔薇の土壌はタウラーの云うグラウント(存在の根底)を予想さすものがある。
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/26(金) 01:41:53 ID:mbtUjbOC
>神の内で咲いていることになる。
そうではなく、薔薇の花々は、神々の秩序とは無関係に外に咲いている。
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/26(金) 02:15:29 ID:0Wvczmyq
25
神は純粋な無である
いついかなるところでも神に触れることはできない
神をとらえようとすればするほど 神はあなかたら遠ざかる
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/27(土) 19:08:40 ID:+rtJIuNf
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。: