帰還

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1茨木隆
(1)

 雨に打たれにまかせ
 河を下るにまかせ
 滝は落ちるにまかせ
 私という死体がたどりついた先は
 こんな暗い日の差さぬ
 どこの果てとも知らぬ沼地であったとは

 私の水晶の輝きとも言われた眼は
 黒い鳥がついばんでいったきり行方知れずだ
 半々音まで聞き分けた絶対音階の耳は
 死貝の殻となって辛うじて汚泥に埋まっている
 そもそも私の死体はどこへいったのか
 この暗い湖沼のどこかに白く浮かんでいるはずの
 私の死体はどこにある

 思い出してみよう
 私がどこから流れてきたかを
 あのひとしきり雨脚の強かった夜に
 私はあの排水口を流れてきたのだった

 米のとぎ汁だの菜っ葉の粉砕屑だの小便だの
 時にはメッキ工場の飴色の排水だのを
 流し込んでいるあの下水路をくぐって
 この汚水溜めに落ちたのだった

 どぶんと 頭から真っ逆さまに
 雨が容赦なく降り続いていた深夜
 誰もその音も姿も知らぬままに

 私に 私という死体に
 帰還は可能なのだろうか
 あちこちでぶつぶつと悪臭を放つ
 最果ての滞留地から
 私は生きて帰れるのか
2茨木隆:2000/04/30(日) 12:46
 (2)

 思い出さなくてはならない
 汚水溜めにはまるずっと前
 私は滝をなだれ落ちたことがある

 とうに失せた痛覚ではあったが
 あの時 私は四肢の一つをもがれた
 滝上で岸辺の突起に腕を取られているうちに
 重い胴体が水圧のまま落ちてしまったのだ
 あれ以来 片腕と別れたままだ

 あの滝を轟々と下る水流に逆らって
 私という漂流物は 私という死体は
 這い上がらなければならないわけだ

 その滝の先は確か渓流であった
 鳥の声が聞こえた 人家が見えた
 その時
 私の死体はまだ腐乱してはなかった
 河の流れにまかせ むしろ私は快適だった
 油断していたのだろう
 急降下してきた黒い鳥がちょこなんと
 私の顔にとまった
 首をかしげて私の眼を見下ろしていたが
 いきなりくちばしで私の眼を突いた

 あの水晶の輝きといわれた眼だけは
 私の矜持であった
 たとえ私の肉体は地上から消えうせても
 眼だけは永遠の輝きでありたいと
 眼だけは世界の過去も未来も
 そして世界の隅々までも透徹して見守りたいと
 あれほど願ってきた眼が
 こんな滑稽な最期を遂げたとは

 めくり返されるタコ焼きのように
 あっさりと両眼を持っていかれ
 私は深く悲しみながらも笑っていた
 残された空洞に涙だけはたまっていった

 私という死体が帰還したとしても
 あの黒い鳥が持ち去った眼の所在を
 たずねるのは不可能だろう
3茨木隆:2000/04/30(日) 13:15
 (3)

 なぜ 私は死体になどになったのか
 なぜ また生き返ろうとするのか
 まさか産卵のためではあるまい
 むやみにたまっていく古新聞の束は
 無意味で退屈な日々を重ねていった
 この私に産み残すことなど あったはずがない

 子供のころ ジグソーパズルが好きだった
 たとえば
 ミッキーマウスの耳や鼻や眼や口
 あるいは手や足や腹やしっぽやらを
 たどってはつなぎ合わせていく

 解体されたものを復元し蘇らせる
 最後の紙型の一つをはめ込み終えた喜びは
 忘れられない
 なぜ 形あるものをバラバラにしたか
 なぜ それを元通りに組み立てたか
 パズルであったからとしかいいようがない


 家人が留守のとき
 私は誤って北欧製の高級皿を割ってしまった
 星屑のように飛び散った砕片を
 つなぎ合わせ床に並べた
 帰ってきた父はそれを見るなり
 膨大な償いの量として理解し
 何も言わず私を抱いた

 私の内部にはどういうわけか廃材が積まれている
 この窓枠はあのビルのもので
 この外壁は筋向いのアパートのもので
 あの広告板は駅前に立っていたもので
 私にとってジグソーパズルの種は尽きない

 ところで
 私の死体はどこなのだ
 それはこの暗い沼のどこかに浮かんでいるはずだ
 滝でもがれた一本の腕
 黒い鳥に食われた二つの眼
 それ以外は無事であるはずだ

 まず 私は私の死体捜しから始めなければならぬ
 ジグソーパズルのように
 行方不明の私の手や足や顔や胴体をつないで
 形あるもの つまり私自身にしてやることが先決だ
4茨木隆:2000/04/30(日) 13:36
 (4)

 ここに流れてくる死体は私だけではない
 というより、無数にある
 しめやかな葬儀に見えるものの多くは
 死体という粗大ゴミの処理に過ぎない

 墓など実は無いのだ
 墓の無い死に過ぎぬのだ
 これは 喪主と保険屋の黙契である
 世間体やら企業秘密で
 口がつぐまれているだけなのだ

 棺はゴミ箱であるし
 霊柩車は収集車に過ぎない
 死がそれほど重々しくも尊厳あるものなら
 なぜ 葬儀屋は聖職とならぬのか
 この人類史最大の偽善を
 私は許せぬ

 だから ここには
 犬猫の死骸ばかりではない
 墓の数をはるかにしのぐ死体が
 流れつくことになっている

 私が自分の死について曖昧なのは
 私が自分の生について曖昧であるからだけではない
 余りにも多すぎる死のためだ
 この沼でさえ私の死体だけで十指に余る
 私の記憶がぼやけて不確かなのもやむをえまい
5茨木隆:2000/04/30(日) 14:20
 (5)

 日時は知らぬが嵐の日があった
 普段は痩せた大人しい川が
 濁流を氾濫原いっぱいまで満たし
 両岸の土砂を立ち木を抉り取っては
 押し流していた
  
 水位は刻々と高まり住民が総出で
 僅かに残された川岸に土嚢を積んでいた
 夜を徹しての作業ではあったが
 風雨はさらに激しく吹きつけ
 堤防の決壊も時間の問題であった
 発令寸前の避難命令を前に
 私は必死で逆巻く川べりに土嚢を運び続けた 

 そのとき
 私の背後に底深い暗闇があるのを発見した
 私の積む土嚢のすぐ背後に
 奥深い無尽の闇が広がっていたのだ

 眼前の濁流など一飲みにしてしまうほど
 ばっくりと深淵を覗かせた闇
 とっさに私は土嚢の山を崩し始めていた
 濁流の水路を築くため
 積み上げたばかりの土嚢をぽんぽんと闇に投げ込んだ
 すでに危険水域を越えていた濁流は
 すこしずつ堤防を崩し 闇に近づいていった

 堤防を割った最初の水流が
 一条の滝となって静かに闇に落ちていった
 それを合図に濁流は向きを変え
 私の背後の闇へなだれ落ちていった それは深く底知れず静かに落ちていった
 あまりの静けさに
 私はその深い底をのぞこうとして身をのりだした
 水流は切っ先を霧状にして視界は閉ざされていた

 誰か呼ぶような声を聴いてさらに身を乗り出したとたん
 私は足をすべらせて滝へと落ちていった
 それが私の死体のはじまりであったようだ
 
 私の生死の境界線があまりに不鮮明であるため
 私は詳しい死の日時を特定はできない
 しかし この嵐の夜の記憶は
 腐刻画のような明瞭な線で彫り込まれている
 
6帰還(5):2000/04/30(日) 22:16
 (5)

嵐の日であった
普段は痩せた大人しい川が
濁流を氾濫原いっぱいまで満たし
両岸の土砂を立ち木を抉り取っては
押し流していた
 
水位は刻々と高まり住民が総出で
僅かに残された川岸に土嚢を積み上げていた
夜を徹しての作業ではあったが
風雨はさらに激しく吹きつけ
堤防の決壊も時間の問題であった
発令寸前の避難命令を前に
私は必死で逆巻く川べりに土嚢を運び続けた

そのとき
私の背後に底深い暗闇があるのを発見した
私の積む土嚢のすぐ背後に
奥深い無尽の闇が広がっていたのだ

眼前の濁流など一飲みにしてしまうほど
ばっくりと深淵を覗かせた闇
とっさに私は土嚢の山を崩し始めていた
濁流の水路を築くためだ
濁流をこの闇に落としさえすれば
水量は間違いなく減り 水位は下がるはずだ

私は今度は必死で積み上げたばかりの土嚢を
ぽんぽんと闇に投げ込み始めた
すでに危険水域を越えていた濁流は
すこしずつ土嚢を越え堤防を崩し
手招きされるように闇に近づいてくる

堤防を割った最初の水流が
一条の滝となって静かに闇に消えていった
それを合図に濁流は向きを変え
私の背後の深淵へとなだれ落ちていった
深く底知れず静かに

あまりの静けさに
私はその深い底をのぞこうとして身をのりだした
水流は切っ先を霧状に広げて視界は閉ざされていた

誰か呼ぶような声を聴いてさらに身を乗り出したとたん
私は足をすべらせて滝へと落ちていった
かすかに避難警報のサイレンが
地上から聞こえていた

もちろん これがいつの日のことか私は分からぬ
しかし この嵐の夜は
腐刻画のような明瞭な線で
私の記憶に彫り込まれている
たぶん この時が
私の死体のはじまりであったのだろう
7帰還(6)−2:2000/05/01(月) 07:00
 やはり雨の日
 奴はずぶぬれになりながら都会の路地をうろついていた
 精彩ののない毛並みが濡れて 剥き出しの痩せた体躯からは
 半分 死臭が漂っていた
 すでに死期を悟った彼は死に場所を探していたのである
 都会は死に場所にも事欠くほど不便なところである
 彼は異様な息苦しさを覚え 住み処を離れた
 彼は本能的に人気のない路地裏のさらに細い
 軒と軒の連なりに入りこんでいった
 そこはドブさらいのため 人が年に一度か二度しか
 立ち入らない場所である
 立ち小便を終えた酔っ払いと出くわしたのはその時である
 通路を塞がれた酔っ払いはしこたま彼の腹底を蹴り上げた
 よほどイラついていたのだろう
 その程度の悪戯は散々やりつくしたので
 文句をいう筋合いはなかろう
 だけど ご慈悲があろうってものだ
 次の朝 ドブにはまって 奴は死んでいたのだから

 そいつのむくろがぷかぷか浮かんでいたときは
 さすが敬虔な気持ちにさせられた なにしろ自分の
 ご先祖さまをおがめたのだから

 ただ 奴のあまりに美しい死顔を見たとたん いやな思いに
 させられた 生を全うした者の死というやつほど
 私を苛立たせ嫉妬させるものはない ただの犬ころであっても
 世界ときっちり和解し全てを了解して死を迎えた姿は
 羨ましい限りだ

 私という死体はこれからあの下水をさかのぼり
 河を滝を逆進し あの嵐の夜 土嚢を積んでいた場所に
 戻ろうとしているのに
 私はまだ満足な死を死んでいない
 死の仕切り直しをしに 旅に出ようという私にとって
 奴の美しい死顔ほど迷惑なものはない

 奴はきっと晩年の悲惨を担保に
 残虐な絵画や彫刻や阿鼻叫喚の音楽をしこたま積め込み
 得々と死んでいったのだろう 羨ましい限りだ
 その意味で私はまだ死をまっとうできない
 野良犬ほどの死もまっとうできていない
8帰還1:2000/05/01(月) 11:24
(1)

雨に打たれにまかせ
河を下るにまかせ
滝は落ちるにまかせ
私という死体がたどりついた先は
こんな暗い日の差さぬ
どこの果てとも知らぬ沼地であったとは

私の水晶の輝きとも言われた眼は
黒い鳥がついばんでいったきり行方知れずだ
半々音まで聞き分けた絶対音階の耳は
死貝の殻となって辛うじて汚泥に埋まっている
そもそも私の死体はどこへいったのか
この暗い湖沼のどこかに白く浮かんでいるはずの
私の死体はどこにある

思い出してみよう
私がどこから流れてきたかを
あのひとしきり雨脚の強かった夜に
私はあの排水口を流れてきたのだった

米のとぎ汁だの菜っ葉の粉砕屑だの小便だの
時にはメッキ工場の飴色の排水だのを
流し込んでいるあの下水路をくぐって
この汚水溜めに落ちたのだった

どぶんと 頭から真っ逆さまに
雨が容赦なく降り続いていた深夜
誰もその音も姿も知らぬままに

私に 私という死体に
帰還は可能なのだろうか
あちこちでぶつぶつと悪臭を放つ
最果ての滞留地から
私は生きて帰れるのか
9帰還2:2000/05/01(月) 11:25
(2)

思い出さなくてはならない
汚水溜めにはまるずっと前
私は滝をなだれ落ちたことがある

とうに失せた痛覚ではあったが
あの時 私は四肢の一つをもがれた
滝上で岸辺の突起に腕を取られているうちに
重い胴体が水圧のまま滑り落ちてしまったのだ
あれ以来 片腕とは別れたままだ

あの滝を轟々と下る水流に逆らって
私という漂流物は 私という死体は
這い上がらなければならないわけだ

その滝の先は確か渓流であった
鳥の声が聞こえた 人家が見えた
その時
私の死体はまだ腐乱してはなかった
河の流れにまかせ むしろ私は快適だった
油断していたのだろう
急降下してきた黒い鳥がちょこなんと
私の顔にとまった
首をかしげて私の眼を見下ろしていたが
いきなりくちばしで私のその眼を突いた

あの水晶の輝きといわれた眼だけは
私の矜持であった
たとえ私の肉体は地上から消えうせても
眼だけは永遠の輝きでありたいと
眼だけは世界の過去も未来も
そして世界の隅々までも透徹して見守りたいと
あれほど願ってきた眼が
こんな滑稽な最期を遂げたとは

めくり返されるタコ焼きのように
あっさりと両眼を持っていかれ
私は深く悲しみながらも笑っていた
残された空洞に涙だけはたまっていった

私という死体が帰還したとしても
あの黒い鳥が持ち去った眼の所在を
たずねるのは不可能だろう
10帰還3:2000/05/01(月) 11:27
 (3)

なぜ 私は死体になどなったのか
なぜ また川を遡上してまで生き返ろうとするのか
まさか産卵のためではあるまい
古アパートでむやみにたまっていく古新聞の束は
私の無意味で退屈な日々の感触そのものであった
部屋の一隅に山を築いたそれらを枕に
安酒をあおって寝るだけ
地上に この私が産み残すことなど
あったはずがない

子供のころ ジグソーパズルが好きだった
たとえば
ミッキーマウスの耳や鼻や眼や口
あるいは手や足や腹やしっぽやらを
たどってはつなぎ合わせていく

解体されたものを復元し蘇らせる
最後の紙型の一つをはめ込み終えた喜びは
忘れられない
なぜ 形あるものをバラバラにしたか
なぜ それを元通りに組み立てたか
パズルであったからとしかいいようがない

家人が留守のとき 父の書斎に飾られてあった
北欧土産の飾り皿を割ってしまったことがある
星屑のように飛び散った砕片を
私はつなぎ合わせ床に並べておいた
帰ってきた父はそれを見るなり
膨大な償いの量としてそれを了解した
何も言わず私を抱いた父の手の熱さ
私は抱かれるままにしていた

私の内部にはどういうわけか廃材が積まれている
この窓枠はあのビルのもので
この外壁は筋向いの鉄筋アパートのもので
あの広告板は駅前に立っていたもので
そのシャッターは改築前のA店舗のもので 
このように
私にとってジグソーパズルの種は尽きない

ところで
私の死体はどこなのだ
それはこの暗い沼のどこかに浮かんでいるはずだ
滝でもがれた一本の腕
黒い鳥に食われた二つの眼
それ以外は無事であるはずだ

まず 私は私の死体捜しから始めなければならぬ
パズルを解くように
行方不明の私の手や足や顔や胴体をつないで
形あるもの つまり私自身にしてやることがまず先決だ
11帰還4:2000/05/01(月) 11:28
 (4)

ここに流れてくる死体は私だけではない
というより、無数にある
しめやかな葬儀に見えるものの多くは
清掃事業なのだ

墓など実は無いのだ
死がない墓はただの石くれなのだ
これは 喪主と保険屋の黙契であり
世間体と企業秘密で
口がつぐまれているだけである

棺はゴミ箱であるし
霊柩車は収集車に過ぎない
死がそれほど重々しくも尊厳あるものなら
なぜ 葬儀屋は聖職者とならぬのか
なぜ 墓掘り人夫はあそこまで蔑まれるのか
なぜ 坊主は悪相なのか

生きている死体?
確かに棺おけに納まるばかりが死体ではない
私は死体と棺おけで
かくれんぼごっこまでしたことがある
街を歩く死体
ゴルフに興ずる死体
デスクで仕事をする死体
渋谷や六本木にたむろする死体
どれもこれも
地上の死体にはうんざりさせられるばかりだ
地上では無数の死亡通知が
わけもなく受け取りを拒否されている
それだけのことだ

だから ここには
犬猫の死骸ばかりではない
墓の数をはるかにしのぐ死体が
流れつくことになる

私が自分の死の日付を知らぬのは
私が生年月日を知らぬのと同じである
死は余りにも多すぎる
この沼でさえ私の死体だけで十指に余る
私の記憶がぼやけて不確かなのもやむをえまい
12帰還5:2000/05/01(月) 11:29
(5)

嵐の日であった
普段は痩せた大人しい川が
濁流を氾濫原いっぱいまで満たし
両岸の土砂を立ち木を抉り取っては
押し流していた
 
水位は刻々と高まり住民が総出で
僅かに残された川岸に土嚢を積み上げていた
夜を徹しての作業ではあったが
風雨はさらに激しく吹きつけ
堤防の決壊も時間の問題であった
発令寸前の避難命令を前に
私は必死で逆巻く川べりに土嚢を運び続けた

そのとき
私の背後に底深い暗闇があるのを発見した
私の積む土嚢のすぐ背後に
奥深い無尽の闇が広がっていたのだ

眼前の濁流など一飲みにしてしまうほど
ばっくりと深淵を覗かせた闇
とっさに私は土嚢の山を崩し始めていた
濁流の水路を築くためだ
濁流をこの闇に落としさえすれば
水量は間違いなく減り 水位は下がるはずだ

私は今度は必死で積み上げたばかりの土嚢を
ぽんぽんと闇に投げ込み始めた
すでに危険水域を越えていた濁流は
すこしずつ土嚢を越え堤防を崩し
手招きされるように闇に近づいてくる

堤防を割った最初の水流が
一条の滝となって静かに闇に消えていった
それを合図に濁流は向きを変え
私の背後の深淵へとなだれ落ちていった
深く底知れず静かに

あまりの静けさに
私はその深い底をのぞこうとして身をのりだした
水流は切っ先を霧状に広げて視界は閉ざされていた

誰か呼ぶような声を聴いてさらに身を乗り出したとたん
私は足をすべらせて滝へと落ちていった
かすかに避難警報のサイレンが
地上から聞こえていた

もちろん これがいつの日のことか私は分からぬ
しかし この嵐の夜は
腐刻画のような明瞭な線で
私の記憶に彫り込まれている
たぶん この時が
私の死体のはじまりであったのだろう
13帰還6:2000/05/01(月) 22:25
(6)

この沼地に流れ着いて感激したのは
ご先祖さまに会えたことだった

私の前世は野良犬だった
彼は実に贅沢な奴だった そいつにかかっては
愛とか慈悲とかの言葉は反語か死語であり
残虐とか酷薄とかの言葉は無効無意味だった
彼は禁じ手を知らなかった
彼の遣り口を平たく言えば
ボクシングをするのだといっては
角材で殴りつけるようなものである

同時に彼は 自制ということを知らなかった
あたかも水を飲み 排泄し 眠るように
近所中の犬猫や 時には小鳥や人までにも
襲いかかり なぶり 虐殺していった

長じて悪の味覚に肥えてくると
わざと飼い主の眼前でカナリヤを食いちぎったり
友人の愛猫をその眼の前でかみ殺したり
自分に石を投げた家で赤ん坊が産まれたと知ると
近くに住み付いては夜な夜な
コヨーテのような遠吠えでうろつき
威嚇し 脅迫し なぶっては
チャンスをうかがったものだ
勿論 生まれたばかりの命を噛み殺すチャンスを

贅沢な奴だった そんな具合に
毎日生贄を捧げ 悪魔にひたすら奉仕しては
近所中での憎悪と恐怖を独占してきたのであった
しまいには町内に自警団まで設けられ
彼の首には懸賞金がかかったほどであった

晩年 彼はその地を離れて
都会の死角に潜まねばならなかった
多くの凶悪で冷酷な逃亡殺人犯は
決まって ひっそりと はにかむように
不器用な日常を演出していたものであった
彼もその例に漏れなかったのである

そして これも多くの逃亡者と同じく
彼は他人の視線を恐れた
他人の眼を見て話すことがないので
彼は仲間内で「シャイ」と呼ばれていた
瞳の奥には彼以外立ち入ることのない
美術館や音楽ホールの入り口が見えた
その入り口のドアすら眼を伏せ
誰にも見せることがなかった
14帰還8:2000/05/02(火) 03:59
(8)

彼のむくろがぷかぷか浮かんで
この沼に流れ着いたときには
さすが敬虔な気持ちにさせられた
なにしろ自分のご先祖さまをおがめたのだから

そして
この饐え臭い最果ての汚水溜めにまで流れてきた
彼の因果がほほえましくかった
私という死体がここにやってくるにはそれなりの
報いがあったはずである
彼という死体もここに流れてくるからには私と同じ
報いがあったはずである

私は彼の死骸に近づいていった
暗い湖沼に降り注ぐ月明かりが
彼のふくらみ加減の横腹を白く照らしていた

濁った汚水越しに見える彼の死顔
目許や口元からかすかに笑みを漏らした彼の死顔
彼のあまりに美しい死顔を見たとたん
私はいやな思いにさせられた

見るべきものを見 聞くべきものを聞き
森羅万象 思い残すこともなく燃焼し尽くして
生を閉じた者のみが発する後光
彼の死体を包む光とはそれではなかったか

私は生を全うしたかのような彼の死顔に
苛立ち また嫉妬した
ただの犬ころであっても
世界ときっちり和解し全てを了解して死を迎えた姿は
羨ましい限りだ

私という死体はこれからあの下水をさかのぼり
河を滝を逆進し あの嵐の夜 土嚢を積んでいた場所に
戻ろうとしているのに
私はまだ満足な死を死んでいないのに
死の仕切り直しをするため
遡源への旅に出ようという私にとって
彼の美しい死顔は迷惑この上ない

彼はきっと晩年の悲惨を担保に
残虐な絵画や彫刻や阿鼻叫喚の音楽をしこたま積め込み
得々と死んでいったのだろう 羨ましい限りだ
その意味で私はまだ死を全うできていない
野良犬ほどの死も全うできていない
私はまだ死を死んでいない
私はまだ生きている!
15名無しさん@1周年
長いよぅ