身辺が瑣末であることについて愛憎を持つ人物が居たとして 幼少期の牧歌的情景が大きく心中にあって 他には、連れが美味そうに煙草を吸う姿が しみったれていて絵にならないことくらいしか分からない この世の事はそのくらいしか分からないのに そういった人物が長々と方々を渡り歩いて どういうわけか劇を成り立たせる体力は何か
2 :
もうきん :2010/09/10(金) 18:14:57 ID:UjNsVMJ0
愛情の2ゲット
そして早売りジャンプをゲット 今週は二枚看板がお休みなのな ジャガーが終わったのは先週知ったし 新連載面白そうだ 最近ミステリ系多いな デスノートの人とか西尾維新の人とか居るし
ある日の事 笹の小船に乗って川下りをしていると 国々の役目を負った人々が相談を交わしていました 通り掛かった一寸法師に気が付くと呼び止めて 地図を見せて問い掛けました この図をどう思うか それは未来のものでした あるいは最新鋭ロケットの設計図でした それから天女の羽衣のようでもありました 不思議なものです と一寸法師は答えました 川を上って元の所に帰り着くと 一寸法師は首を捻りました あれは一体何というものだったのだろう 考えても考えても答えは出ません けれどそれはちょうど春の芽の吐く息吹のように あるいは呪いを懸けられた蛙に囁かれる目覚めの声のように 手の上でざわざわと鳴り止まない 不思議な感触を留めているのでした
俺の占いは直近の事しか教えてくれない その判断が次に繋がっている事も多いけれど 次というのは俺からは見えていない事が多い やりたい事を占って「大凶。死ね」と言われた時など 一晩中サイコロとノートに向かって喧嘩していたりする それで「正しい占い方は」と聞いたら 「吉卦が出ても望まないなら従うな」だと 何故占いを始めたかというと 自分の脳味噌が大して信用出来なくなったからで 初めに考えた意義は単に自分に対する抑止力としてのものだった 何かの前に占って ワンクッション置いてあとは自分で考える そういう骨折した足の添え木みたいなものが必要だった 次には俺のこの依頼心は一体何なのだろうという事に関心が働いた それで易やタロットの卜占とは違ういわゆる命占を少しかじった 日月星辰の巡行運転に象意を読む方式で それぞれの異なる星が一周する組み合わせに内容が生じる 煎じ詰めれば何の事は無い、季節の循環に材を採って それに則した行動表を布く大昔のスケジュール表だった 春種を蒔いて夏それが茂り秋収穫をして冬貯蔵する これを様々に振り分けて一巡りを幾重にも重ねる 単にそれだけだった
こんばんは。そうですね。 人生は選択の連続。そして、たとえ占いや何かによって、 あっちの道とこっちの道の結果の良し悪しがわかっていたとしても、 自分のパッションに従って選択を繰り返してゆくことが、人間らしく生きるということだと。 占いは、他人の心や自分の心に触れるためのツール。それ以上には、捕らえてはいけないものだと思う。 という、占い師兼詐欺師からのマジレス。
8 :
遅レス太郎 :2010/09/18(土) 09:31:58 ID:xikAm1PJ
あっちでイクか こっちでイクか あっちでイッたら修羅場になるのがわかっていても 自分のパッションに従ってあっちに手を出せってことですね。
9 :
遅レス太郎 :2010/09/18(土) 09:34:20 ID:xikAm1PJ
しかし自分のことを詐欺師と呼ぶ占い師なんて かえって信じられるね。
>>7 どうしても、占う前の時点で俺が充分な情報や思考を踏まえていない事から
入力値が未熟なのでそれなりの答えしか返してくれない、って事なんじゃないかと思ってしまう
俺の意思とか可能性は結果に反映されるっていうよりは問いの段階で既に反映されてるんじゃないかっていう
本当は意思とかじゃなく単に機が揃ってなくて何もしないのがベストだったりする事もあるのだろうけど
自由意志が最早恣意とは言えない域にまで至っている問いとか言葉というのは
人様の詩の文中には多々目にしている事柄で
何処にも等しく遍在するはずのミューズを目の前の白紙の上に降ろす方式っていうのはやっぱり
思考の偏りを厭わせない程に関心を引く作業なので
ついつい他の要素を忘れがちになる
>>9 さんきう。謙遜でもなんでもなくて、
私はそもそも自分をも信じてないのに、わかったような事を言って人を納得させる。
やっぱり詐欺だよねw
>>10 悪い。2回読んでも何を言いたいのかぴんとこなかったけど、
たぶんあなたのやり方は、自動書記と似たような感じなんじゃないかと思う。
そこに意味を持たせるのは自分だから、自分の情報や思考以上の答えが出ないというのは、同意。
自由意志うんぬんを、大層に扱うつもりはないけど、
最近、何かに意味を見たり、結果を知ることに対して、嫌悪があるんだよね。
めんどい
13 :
名前はいらない :2010/09/19(日) 23:00:34 ID:ueH5H8Vi
旅費なんか無い だから今日も地図を広げていつもの机上の旅 妻も隣からのぞきこんでいる カネを貯めたら必ず行こうと約束したけど そんなの無理だ、だってアナタ体ガタガタ、わたしも乗り物ダメだし いや、そんなことないさきっといつかは2人で行けるよ必ず ただとりあえず地図の上ではカネのせいにして2人 ああいけばよいだのこういけばよいだの言いあっているというワケ いろいろあるがこうしているのもけっこう楽しい
子沢山なのでバス三台くらい借りないと
むしろあれだな 日頃会ってない娘の感じ 最初会った時とっくに世間の波に揉まれて人間が出来上がっててこちらを見透かすような灰色の目に尊敬の色も見せないので 弱りつつ色々悪戦苦闘してたら少しずつ助力してくれるようになったけど 調子に乗って駄法螺吹きまくってたら真剣に頷くので怖くなってますますエスカレートして 結局呆れて出て行ってしまった娘 今はもう 「おう、良いとこに来た。ちょっと金貸してくれ」 「サイテー」 的なその後の世界
・空 綺羅を纏って照らしましょう 星より高く見えないところ 海より深く隠れたところ 万と億の彼方まで 墨染めの瞳をそっと拭い 朱色の口唇に指を触れ 鈴の音が澄んで響くように その耳に口付けるように 望むなら その胸に宝石を添え 夜天の背にまで抱え上げ 流れる淵瀬を閉じましょう からから廻る水車の滴が 身を灼く炎に焼かれる身体を抱くように 残された眼の餓えが 寝所の胸に深く抱かれるように 真っ暗闇が賑やかであるように 朝に青空が見られるように 綺羅を纏って照らしましょう 孤涯の外から 内なる歪みの求める声まで
>>11 遅レスだけど、占ったな
霊能持ちの人に見られた事が三、四回あるんだけど
その時の感覚によく似てる
どういうわけか霊能持ちの人の透視は
信心深かったり誠実だったりするまともな人ほど
遠隔についての示唆になる事が多い気がする
だからその場で気付かないことも多い
逆にヤバい人ほど中核を抉ろうとする「探る」臭いをさせる
あなたはまともな人だと思ったよ
俺も一、二度だけ場のノリで人を占ったことがあるんだけど
どうにかまともの域だったけど、ヤバい域にぶれそうなとこがあると思った
そうだな。もうやる事なんか無いんだよ本当は
良いよ。俺は単に何も無いのに貰った分だけ何か返そうと躍起になってただけなので
>>17 いや、私、直感は鋭いほうだと思うけど、霊能力は無いですよ。
レス、ありがとうね。また。
>>20 そうなのか
まあ俺も霊感とか無いので霊感ある人見てもその人が霊感があるかどうかなんて分からないけれども
文学極道は面白いな
モコの いのちの声が聞こえますか!?☆ 12歳の最愛の息子を自殺で亡くして以来 人間の心の闇と対峙してきた作家・高史明氏(74歳)。 爆笑問題・太田光らと生と死をめぐる対話を重ねていきました* 高史明氏は…一人息子の岡真史君が 12歳で自殺… ☆ その遺稿詩集『ぼくは12歳』を妻の岡百合子との編纂で刊行しました。 ぼくは しぬかもしれない でもぼくはしねない いやしなないんだ ぼくだけは ぜったいにしなない なぜならば ぼくは じぶんじしんだから と書き置いて 岡真史君は そのからだを大空へなげてしまった… * 3万人を越える自殺者、親殺し子殺し、根深いイジメなど… 混迷の極みにある日本… 高史明氏は 最愛の息子・真史君が12歳で自殺して以来… ☆ 人間の心の闇と対峙し、親鸞の「歎異抄」に導かれ 生とは何かを考えてきました。 そして学校や寺院、ホスピスなどさまざまな「いのちの現場」で 生と死をめぐる対話を重ねていきました。 その思想に共鳴する爆笑問題の太田光との対話を軸に 現代の生と死を見つめていくのです。 高史明氏は 親鸞と『歎異抄』の教えに帰依しました。 高史明氏は「救われたいがために 善行を積むようでは まだまだダメなのです」 と言います。 「救われたい」という気持ち それは=自分のためなのです。 しかし 親鸞の教えには「自分のため」という概念がないのです。 ただ 己を殺し 自己犠牲の「献身」あるのみ。 「自分のために」という思いがあるようでは まだまだダメなのです。 高史明氏は爆笑問題・太田光との会話の中で 「善人なおもて往生を遂ぐ いわんや悪人をや」の世界は もはや「お笑いの世界」です。 「そこには ユーモアの精神が あるのです」と言ってました*
宗教はよく分からないけど あれは信者さんの所有物件ってことで良いんじゃないかと思い始めた 「邪魔だから」ってどけようとするとキーキー言う うるせーこと
>>23 大谷大学の学者さんの本を昔少し読んだことがあるのだけど、凄かったです
「教父」って感じ。言い回しが格好良かった
モコは オズアカのセコンド、ポリスと 小松奈央に注目しています!☆ MOCO!☆ 青い海とモコ* MOCO!☆ ヨットから飛び込むのはモコ* MOCO!☆ 水しぶきを浴びるモコ* MOCO!☆ 道なき道を切り開くモコ* MOCO!☆ 陽射しにキラメク長いモコの髪* MOCO!☆ 熱い口づけに知らんぷりで横を向くモコ* MOCO!☆ 人魚のマネして 身をかわすモコ* MOCO!☆ モコは あやふやな顔で謎かけ遊びサ* MOCO!☆ ジリジリ焼け付く熱い砂がモコの股間に!* MOCO!☆ ブルーになッちまうヨ!モコの態度が決まらなくて* MOCO!☆ モコの海に 沈んでしまうヨ* MOCO!☆ モコの波に おぼれてしまうヨ* アラケンは 阪神タイガースが大好きなんだよ! かわいいモコに嫉妬して ムシャクシャしている人もいるんだよ。 この世の中は 邪悪なヤツらが 多過ぎるんだよ☆ ふと モコは 尾崎豊のことを思った…* ウンコ臭くなければならない* 泥まみれになってること いつもウンコまみれになってること… それが「モコの三原則」です* モコはいつもウンコのことばかり書いていた。 だけど… それって誰からも傷つけられたくないからなのかもしれない。 ウンコのことばかり書いて 自分の殻に閉じこもってばかりいたら 誰をも傷つけないし 誰からも傷つけられない… でも それって本当のコミュニケーションができてないような気がする。 モコはたぶん人を恐れているのだろう。 対人恐怖症なのかな? 実際 モコはひどい目にあってきた。 本当に ひどい目にあってきた。 だから 被害妄想や対人恐怖症になるのも ムリはないような気がする。 モコの鼻は ウンコの匂いで 曲がってしまったのだろう… * 素直で純粋な心はどこへ消えたの? でも ムリはない…☆ そうなってしまうのも ムリはない…・・・*
27 :
名前はいらない :2010/09/25(土) 10:52:05 ID:m0zmaFwY
モコさんよ、さっきから何を当たり前の事ばかり言ってるんだ? 好きな人のウンコを食べたいと思うのは普通の事だろ。 頼むから、もっとおもしろい事を言ってくれ。
>>24 とこれはこちらの話なので我が事と思わずに適当に読み流して下さい
神っていうのはとりあえず単位を作った人なんだろう、くらいに思っていたけど
そういう何かの機能で規定された神っていうのは一面的だから異端思想に隣接しているって事らしく
大概の世界宗教では神何とかは偉大なる何とかの第何百何十何番目の顔であり
それは偉大なる何とかがどこそこの庭で輝く何とかを見た時につむじを這い上って云々
という風な感じになっているのが多いような気がする
後付けのように続々現れる釈迦の過去生とか経典類がそれに当たるし
いわゆるキリストの奇跡とか後世の聖書注解がそれに当たるような気がする
旧約だとそもそも預言者の「言」自体がそれに当たっている
本源の神の様々な顔が転じて神格化したとして
後になると事蹟の主体が人に移って神を派生するのは面白い
本来的にはそこで主体とされるのは神なのだろうけど
こういう感覚は(もし正解だとして)分かり辛い
ただ、俺はキリスト教の歴史をよく知らないので
十字架の持つとされる意味はどうにか知り得ても
歴史的に与えた意義は把握し難い
それに、ヨーロッパの文脈の根深い深層の出来事にそんな意義を見出せるんだったら
地動説その他についても同様であっても良さそうなものだと思う
宗教家は何故かそうしないのが不思議
29 :
◆YAPoo/LC/g :2010/09/25(土) 17:41:33 ID:xSf01cfR
はっちゃけ真っ盛りの少年
30 :
名前はいらない :2010/09/25(土) 18:45:42 ID:XLViRSSx
きゃーヤプ生きてたんだね― なんか嬉しいわ
>>30 ありがとう生きてますよ
僕空気コテなのに覚えてくれる人がいて嬉しい
橙の空からカラスが二羽飛ぶ飛ぶ飛ぶー
・・・絡みにくい
33 :
◆YAPoo/LC/g :2010/09/28(火) 01:21:22 ID:MXJ9t3Hg
ごめんなさい
どういたしまして
反応まあまあだとみえて なあなあが良いかと思った
そうだな そうしたらもう少し真面目に色々やれるかもしれない
無駄無駄無駄無駄無駄〜
「ナントの勅令破棄」読んだ 全部分かる、とは言わないけれど これだけ懇切丁寧であれば少なくとも冗談だということくらいは分かる 冗談って人を笑わす意図があるので懇切丁寧であらずにはおかれない 逆に言えば、全部が全部冗談では無いわけで その為に、冗談であれば良いのにな、という希望が含まれている、というか主題になる この人の神も機械的な介入者なのか。だとしたらそれは「冗談」の神って事になる 最後は一方の主体の消化、散逸で冗談は閉じられるわけですが そういうわけにも行かない
40 :
名前はいらない :2010/10/01(金) 21:58:39 ID:jmifc5dk
詩・ポエム板でなんで馴れ合ってんの?自己紹介板とかに行けば 正直目障り
つまんなーい、つまんなーい、なんとなくつまらないよ すぐに終わりだなんーてさ はじめからやり直したいぼくに 明日はくるのか
眠いので
頂上 真昼の 縁日のような赫々として居並ぶテントは 毛布で堆く築かれた宵闇を裡に蓄え 早くも寝支度をする山鳥の洞 休息に飢える目玉の前で旅人が眠る ススキの原に「後悔を置け」の落とし文
俺は女の人に試された時は大体用意が無いので白紙しか出さないのだけど 何であんなに人を試したがるんだろうなとよく思う
俺が取り持つのか。しかも正面から 名誉欲に塗れた汚らしいドヤ顔にしかならんぞ もうハラワタ腐ってるんだから それを踏まずにいかに綱渡るかというのが俺のこれまでの努力で もうその道は閉じたんだよ 向こう岸がこちら側になってしまった以上渡る必要も無いし 渡りたいなら俺に渡らせられるだけは渡らせられるけど だったらなおさら綱渡りしてもしょうがない
曇天の道を傘も差さずに歩く彼女は足軽のごとく危険好きな誰かのふりをする
それ多分男だよ
小心者共
高速道路でブレーキ踏む馬鹿
土産物の看板にはヘドが出る
お前は本当自分の事しか考えないのな
お前の都合など知ったあこっちゃない ドミトリーハウスで旅費食っちまったあんだ にっちもさっちもいかない僕に明日はくるのか 誰も何もしゃべりません
ルームシェアも悪くはない 姿見を一つ持って
給食の時間です 皆さん残さず食べましょう
僕以外の酔っぱらいはいらない 散れ、千本桜
その時無数の破片が◆YAPoo/LC/gの身を突き破り 鮮血で真っ赤になった死帛装から虚の仮面が転がり落ちました ◆YAPoo/LC/gの身体はドロドロに溶け出して一塊の黒い流動物を作り出すと 涅マユリの手にした小瓶に消えて行きます 「フゥ・・・ これでやっとひとつ 回収出来たネ 出来損ないの失敗作が手間を取らせる」 涅はどこか不満気に、小瓶の中の◆YAPoo/LC/gを見下ろしながら言いました 「助かったヨ 私の斬魄刀ではサンプルの成分を変質させてしまう恐れがあるものだからネ」 既に刀を納めた朽木白哉が首を僅かに傾げます 「卿が礼を言うのは珍しいな」 「何 それはキミが科学者というものを知らないからだ 私は研究への助力に礼を惜しんだ事は無いつもりだヨ」 涅の言葉に対し、朽木白哉は再度首を傾げました 「研究? 私は確か 四十六室からの治安維持要請を受けて 涅隊長の研究中にしでかした不始末を処理する為に ここに派遣されたのだと思ったが」 ニコリともしない朽木白哉のこの言葉に、涅は感情を露わにします 「うるさいヨ 実験は試行と結果の積み重ねだ キミのような無学の輩には理解出来ないらしいネ 失敗は科学者の過失ではないのだヨ」 「ではそこのそれが問題だというわけか」 ◆YAPoo/LC/gの入った小瓶を指差します 「そうだヨ この出来損ないが起こした事だ 加えて言うならキミらの食い扶持になど金を使わず もっと実験設備に十分な予算を回していれば こんなことは起こらなかっただろうネ」 「なるほど では四十六室は そこのそれに罪を問うことになるのか そうすると卿は 実験体に騒擾を起こし 喚問に応じられるだけの知性を付与する研究をしているという事になるらしい」 「不快な物言いをする男だネ 失敗作だと言っただろう」 二人の死神は歩いて行きました 手に、◆YAPoo/LC/gの詰まった小瓶を携えて 尸魂界は秋の穏やかな気候に包まれています
二次創作は難しいな
さて、漫画好きの友達と手塚論を戦わせて以来半絶交状態を迎えた俺なのだけれども 友達は俺が神様手塚を糞味噌にけなすのでブチ切れ 俺は俺で友達が「お前なんかに漫画を読む資格は無い」と言うのにプッツン行ったその顛末は 友達が「小説なんかどうせ今時漫画雑誌が食わせてんだろ」とどこぞの評論家の如きをのたもうたところに契機を持つのでありました しかし彼にすればそのようなところに契機は無く、もっと別のところ、さらに遡って 例えば彼がある小説を読んだと言い、感想を言おうとしたところに 畳み込むようにして俺がそのあらすじから登場人物の特記事項から全体の着眼点から読後感からその作品を語る際に欠かせないポイントはどういう点にあるかといったことまでを 息吐く間もなくまくし立てて得意げな顔をしたりとか 続け様にこれもあれもそれも面白いよと何冊も薦めまくり 挙句にその彼があれ読んだよと俺に言うのに適当に相槌を打って携帯ゲームに現を抜かしたりしていたところが 積み重なって表れていたのでした これは彼にしてみれば何ともムカつく所業であり 一方で漫画読みはすべからくのび太たるべしの真っ赤な誓いを内に秘めた情念型の漫画読みたる俺にとってこの友達は 同じく漫画読みとして大変貴重な存在である半面 すぐジョジョや無限の住人に向かいたがる肉食系の性向を持ち 加えて雑談中に度々俺を2ちゃんねる漫画板系混沌世界に誘おうとする手強い怪物でもあったのでした 経験上、こういう対立はねちねちと陰湿化するものなのですが この友達とはそうはならなかった
「てめえに漫画の何が分かるんだよ」 俺は拳を振り上げながら、ウソップ下船の下りを思い返します あれはお前の如き肉食系の目には焼き付くまい 「うるせえ。てめえこそ何なんだよ。偉そうな事言って結局自分の好きなもんしか認めてねーんじゃねーか」 友達の右フックが頬に当たり、僅かに顔が逸れました。彼は彼で何がしかのものを脳裏に閃かせていたのでしょう 「っだよぉのやろぁ」 と、そろそろ呂律が回らなくなりながら俺は右ストレートを友達の耳にぶつけました お互い、アドレナリンが出まくっているので大して痛みは感じません 尤も、どちらも運動不足の文科系もやし人種ではあり すぐに息を吐くのも苦労する程体力が底を尽いてしまいました へろへろになり、なおも拳を振り回していると、雨が降ってきました 「なあ」と、友達が言いました 「もう、止めよう。大体俺ら、何で、殴り、合ってんだ」 どさり、と友達はその場に倒れました 「あ、何でって、それ、お前、知るかよ、そんなん」 そう言いつつ、俺もちょうどそう思っていたところでした 一体自分は何をしているんだろう、と 「漫画だろ、確か、漫画の話、じゃ、なかったっけ?」 「漫画、って、編集、王とかじゃ、ねぇんだから、さ、つか、俺ら、これ、意味、なくね?」 身も蓋も無い意見でした。友達は動こうとしないので 俺もその場に座り込むことにしました 雨音が強くなり、会話をするのも困難になりながら 身体が動かないので俺と友達は暫くその場に留まりました 雨が上がると、あっという間に晴れ間が出ました 異様に綺麗でしたが、それが俺の心象を写していたのかどうかはよく分かりませんでした 友達は身を起こすと、「あー、疲れた」と言って帰って行きました 俺も、疲れたな、と思いました。それから暫くは、寝返りの度に打撲痛に苦しみました
楽しい話無いかな
・ランボルギーニ 「ゲホゴホッゲホッ」 「どうしたの凄い咳」 「風邪引いたんだ母さん」 「まあ血を吐いているわ」 「大丈夫だよ母さゲホッグェゲホッ」 「あららどうしましょ」 「ごめんよ母さんテーブルクロスを汚してしまって」 「それよりその塊は何かしら」 「何だろう金具のようだ」 「違うわこれはランボルギーニの鍵よ」 「そうだろうか僕には何か電化製品の部品のように見える」 「いいえ違うわほらこのギザギザがこうなって」 「あっ本当だこれはランボルギーニの鍵だ」 「うふふこれで私たちはスーパーカーのオーナーね」 「でもどうして僕の血反吐からランボルギーニの鍵なんか」 「きっとどこかで飲み込んでしまったのよぐっ」 「母さん」 「何でもないわはぁはぁはぁ大丈夫気にしないでぐっ」 「気になるよ母さん」 「うっっべぇええええええええ」 「わあ母さんの口からランボルギーニが」 「ぜはーぜはーぜはーうふふ」 「母さんランボルギーニが僕らの食卓に」 「うふっうふふふふ」 「一体どうしてランボルギーニが」 「きっとどこかで飲み込んでしまったのよ」
放っといたら餓鬼の出世の為とか言って献金くらいしそうだな まさかとは思うが
眠い
良い夜だな。何か
でも物悲しいな
2ちゃんに来るより以前ですよ 俺はそこで大半を学んで、そこから起こしたものを骨組みにしているつもりです
海賊船を舐めてはいけない あれが付き合いの域に収まった事は一度もないし 俺の知ってる乗員は大概イカれてた
強姦後ティータイムにギターでオーディション受けますよ
高校の頃にバレエ留学を決めている女の子が居て 体育館で集会の時に演技を披露したことがあった 照明は舞台上以外全部消してあって 踊ってる姿が白くぼうっと光る中に浮いていて妖精みたいだった あれがバレエすげえと思った最初です F1はライコネンが好きですね 俺みたいな門外漢にもそれと分かるくらいに 鋭過ぎる程の鋭さが走りに出てた
ってかとりあえず万事屋の皆さんの健康状態とか一賊の人が心配なんだ今俺は 感謝感激とかよりそっちの方がでかいね 最近まあ面白いけどあの眼鏡の人のツッコミ通り越してデス声シャウトの域に入ってるテンションのツッコミ見てないし 零崎舞織的ホームラン三百万本がまだ現れていないというか そもそもまだボクとワタシのセカイ的な思春期男女二人きり的あの空間を見てない
るろうに剣心とか 腸真っ黒だから青空が青くないんだよな
俺モーツァルト聴いても思うもんな 「あ、何かノイズみたいなの徹底して磨り潰して撒いて誤魔化してる感じがする」
ポエム田のお姉さんとちーちゃんがお冠だ!
宗教関係のやばい人の場合 その世界は神の使い古しで出来ている だから歴史の裁定は概ね神の範疇に収まります という事らしいです
かと思えばエックハルトという人などは 信仰者でありながらその教えが汎神論的で「神の肉体」としての教会の権能を否定するということで 異端として論書を焼かれたりしたそうです まあそういうところで、要は形式至上主義なんでしょうね 多分、それが無いと死んでしまうんでしょう
また悪役演じるのか
どうしようかな 考えてたら一時間経ってしまった 今日はとりあえず眠い
お休み
・近況 ここ二、三週間、俺は戦っていた 歩いてたらホモ男爵みたいな人達がドドドドドッと来て 「兄貴!兄貴!」ってあっという間に取り囲まれた とりあえず、顔色が変わるのが自分でも分かった 「兄貴ぃ!ワシらと一緒に居て下せぇ!兄貴ぃ!」 押し寄せてくるホモ男爵。凄まじい熱気で意識が飛びそうになる 「ワシのもんじゃぁ!兄貴はワシだけのもんじゃぁ!」って男爵の一人が身の毛のよだつようなことを言い始め 別の男爵が「ワシが兄貴の×××(心的防衛規制が働いて聞き取りを遮断)なんじゃぁ!」って言い返した 男爵が争い始め、あまりの光景に囲いの外で誰かが「いやぁーーーーーーーーーー!!」って叫んでた 男爵の囲いを出ると「腐女子」の軍団が待ち構えていた それぞれ別箇の「何とか系」テンプレのスタイルにカッチリ身を包んだ軍団の人達は 腕組みしてぞろりと立って、「あそこに入ってよ」と言って男爵群の方を指差した 「は?」と聞き返すと、何か舌打ちしてた 「あそこに入ってよ。写真撮るから」 で、一斉にカメラを取り出した。これも何とか逃げ切って 「バーカ、バーカ、ブース、お前の一生枯れ尾花ー、マザコン捕まえて六十年後悔しろバーカ」とか叫んで一息ついてると袖を取られた 「ね、ねえ君、こ、こ、これ着てみない?」 見るからにヤバめの中年男性がセーラー服を持って立っていた これは悪夢だ、と思ったのでもう俺は躊躇せず中年男性の顔を殴る事にした
81 :
雑草 ◆je5cNlouiI :2010/10/17(日) 18:48:00 ID:MJiQXiCY
村西とおるの詩を見せたら、そんなん、一発やんか。
あれは駄目だろ・・・
多分、一つずつ点を結んでいくんだろう 今は三つか。それとも七つか 最後まで結ばれたらどうなるのか楽しみにしてます
凄いな。団子状態だ
サブカルも何も、俺の周囲って「文化」自体笑えるほど少なかったよ あったかもしれないけど俺は大してそれに鋭敏でも無かったし 我が物にする事を考えなかった。金も無いし マンディアルグは高校の卒業前後に五、六冊読んだ 理解出来てるかどうかは分からない。俺には早すぎたようにも思う 「城」とか「巣穴」を読むように読んだ。でも「城」は読んでない その頃は何に対しても「文体」とか「描線」に固執していた 多分、手に入るものが不満に感じていて 「文体」とか「描線」が示す「感触」を「手に入るもの」と感じたためだと思う 言葉そのままの意味で空想家だったので 単発の、何も結論を得ない印象に取り付かれることが多かった 多分、そういうものを手っ取り早く形に出来そうだから詩板に来たんだろうと思う
眼の話が好きなのは、金を掛けずに「感触」を手に入れる事が出来るからだった 直線的に、事物の感触を手に入れる事が出来たのが最初の発見だった 眼が「手に入れる」事の出来る容積は大きい 大き過ぎてほとんど潰れかけている時に 人の視線が負担を和らげる事を何となく知った 容積の大きさも、友達が居なかったのでよくは知らなかった 居ても分からなかったかもしれない
眼は水槽だった 集められた感触は水中に構築された それが紛い物である事をよく考えた 俺はとうに窒息していた 水槽の中は可能な限りを越えて光り輝いていた 眼は俺の外にあった 水槽は俺の眼の中にあった 俺は水槽の外で溺れていた 感触は眼の中にあった 水槽の外は暗かった 水槽は 何をしても破れなかった 光は感触の外から起こっていた いつかそれが紛い物である事を教えてくれるような気がしていた 水槽の中の感触は紛い物だった けれど俺が持てるものだった 光は感触を通して表れた あわよくば光源に届く事を願った 何を願ったのか 俺は溺れていた
何か綺麗過ぎるな
今してるのはとても古い話だよ
俺は月の中に居た 居たというのは居ることを願ったという意味だ 地上に居ながらそれを映すということは そこに立つことを願うことだった 眼の中の事物に立つということ それは描き出されるものにリアリティを与えた 紛い物がいつか蠢き始めた 俺自身が命を吹き込んだ事もあり 他の誰かが息づかせた事もあり その両方だった事もあった 俺はそれを還元できるのではないかと考えていた それが希望であり、それが光だった もしそうなるならば、俺の営為に意味はあった けれど、それは大きくなり過ぎた 俺の手に余るそれは不完全だった それは誰の手にも委ねることを出来ないような形で息づいていた
懐かしいのは三、四年前だな 未だに冷静に見る事が出来ない ムカつくからな
詩を書いて受けた時とか 応答があった時は嬉しかったな それは当たり前のことではなかった
ママンが馬鹿にされたら切れるだろ
言い過ぎか。言い過ぎだな・・・
そもそも喋りすぎだな 待てが掛かってんのに 楽しみに待つよ
次見てから考える
分かった 前は俺も楔が要るんだろうと思ってたけど よくよく考えればただ単に自由参加の供犠だったんだよな 参加資格はただそれに惹かれるかどうか そもそも楔では誰の事も賦活しない だからどうあっても火に薪をくべることが必要になっていた そうやって様々な違いが越境された 俺は自分だけはそうではないと思っていたけれど いつの間にか、いつでもそれに取り付かれていた 多分、誰よりもそれに取り付かれていた で、篝火を通してこの入り組んだ述懐への共鳴が伝播した それは俺同様に、自分だけはそうではないと思いながらそれに惹かれざるを得ない人達だった
ぐ、ま、守りきれなかった・・・ ドサッ
ええと、忙しいので今日はこれで。すんません
100 :
名前はいらない :2010/10/24(日) 14:15:22 ID:j/0+E1KP
101 :
19@規制 :2010/10/25(月) 14:47:24 ID:BoiCIXdA
拘留されています
102 :
19@規制 :2010/10/25(月) 17:42:49 ID:ttI7zoSe
白夜って寒いらしいな
103 :
19@規制 :2010/10/25(月) 18:41:20 ID:ttI7zoSe
雪景色って十年くらい見てないです 音が消えて静かになるのは覚えてる
104 :
19@規制 :2010/10/25(月) 23:38:03 ID:opI+CMmQ
多分、その「遊び」を「イカれてる」と表現しました 触発作用の極大版みたいなやつです 「昴」って漫画が好きなのですが、ダンスで囚人を痛めつける、って下りがありました リンゴォの「男の世界」とか五本指、それにあの「片腕」等々 総じて、自らの才能との常軌を逸した闘争を描いているように思えます そうした「彼ら」から生まれたものとして ・「感化力」+「闘争心」を持つファンタジスタ ・妖怪の即時融合「憑依」「使役」 ・視界を「操る」「造化」の忍者 ・水晶に「閉じ込める」暗い男と「詰め込まれた」娘 ・既に「完成された」素材の五人とその「影」 ・動物園の「呪われた」「鍵」の獣人 十中八九似たものを見ていながら 水際立つまでに違うのです
105 :
19@規制 :2010/10/26(火) 04:49:16 ID:KEbjt8P/
子供の頃割と死に掛けてた時にマミーファミリーとかが面白かったのを覚えてる 学校終わって暗くなった頃に自転車でツタヤに行ってた 多分その頃ほど漫画楽しく読めてない その頃は何か効果線の一本一本まで舐めるように読んでた 一体何が面白かったのか
106 :
19@規制 :2010/10/26(火) 04:59:39 ID:KEbjt8P/
「後継者」って発想本当天才だな 競争っていっても、「台頭」でどうこうなる話じゃないような気がするのです 多分引き継ぎに近くて
107 :
19@規制 :2010/10/26(火) 05:02:08 ID:KEbjt8P/
ともかく皆無事、って考えて良いのだろうか 助けるべきは助けた、とアナウンスがあったから大丈夫なのかな
108 :
19@規制 :2010/10/26(火) 05:05:11 ID:KEbjt8P/
疲れたよ お休み
昴は凄く面白いよね とても好きな漫画。 19さんの話は全然解らない時も多いけど、どれも面白い 密かに拝読しておりやす
110 :
19@規制 :2010/10/27(水) 23:04:58 ID:mjJSzlv7
>>109 ありがとう
昴面白いですよね
CAPETAも面白いです
解らない時は多分、自分でもよく解っていない時だと思います
111 :
名前はいらない :2010/10/28(木) 15:26:52 ID:ygdSsIWP
ここつまらないね。ほんと
はあ解除 眠い。お休み
解除おめでとう!わーい 昴は確か、お母ちゃんの彼氏の本棚からくすねて一気読みしたんだよね CAPETA?もあったと思う こっそりくすねて読んでみる 有難う 今日もう酔っ払いでダメ 次のお話しも楽しみにしてやす おやすみ
>>113 ありがとう。お休み
でも、お話ではないのですポエムなのです
ポエムとお話は最小構成単位が違うのです
お話の最小構成単位は説話なのですが
ポエムの最小構成単位は単語なのです
ポエムは単語一つあれば出来るのですが
お話はそこから説話を起こさなければならないのです
逆にお話は見るままを形にする事も出来るのですが
ポエムにはただ切り口あるのみなのです
戸田恵梨香が毎週破ってるのがポエムで
俺が毎週読んでるのがお話です
・珊瑚 俺に詩才はなかった ・楽土 沖の方には極楽鳥が居て 何処か遠くを飛んでいる 瑠璃の空が熱加工された光沢を打ち 杯は星月夜を望む ・山谷 洗い立ての柿色のシャツは 旗竿に仕立てて高原に立てる 色が合わないと山彦が 葉が落ちるまで他の色を ・雲間 重なる声は硝子板を成して 谷間の牧童が謡うのを待った 山羊が空を破る夢を見て 嘶く喉元に揺れる鈴の鳴らす音 ・溜息 霧中の運河は釣り糸を垂れる小船の上に 寒気と身震いを育んでいる 暗い水色は深く沈み 明日と今日をない交ぜにする
でも俺はその子達の自由が好きなのです
見れるものが幾つもあった方が楽しい
元気娘にイブニングドレス がさつ系バイタリティにフォーマルな衣装のミスマッチ 次はそういうのが来ると思うんだ
現実生活が虚無空間に埋没してしまっているので とうとう仏前で念仏とか上げ始めた
苺ましまろは二話までが特に好きだ 世捨て人っぽさが良い
俺はロボットに乗ると割とよく動作不良を起こす 「うわあああああああああああああああああああああああああああ」 って発狂する感じじゃなくて 「だだだだだ誰か止めてくれええええええええええええええええええええええええええ」 って言いながら明後日の方に走って行く感じ なので、ロボット操縦は控える事に今決めた
まあともかく今は愛の仲立ちを任されている可能性があり なおのことロボットに乗るわけにはいかない
頭の回転遅いんで、尚更ポエムかお話か分からなくなってしまいましたw 戸田えりめっさ可愛いすよね しかし何故か周りの女の子に人気がない 何故に。 元気っ娘のイブニングドレスええすなぁ きゅんときやす 私は電子機器と向き合うと、大概ロボットに乗った19さんみたいになる なんで怖くて車の免許なんか取れん 生物を轢くのなんて絶対嫌や…… あと多分お金維持できるほどない…… 悲しくなってきたんでこれにて。 次のポエムも楽しみにしておりやす ……合ってるかしら 眠い眠い眠ーい 何やらわからないすが、冬にゃ数々のイベントもあるしキューピッド業も応援しております ロボじゃないけどエヴァに乗ってみたいなー 戦うんじゃなく乗るだけ では無駄話失礼しやした 気にせず連載再開希望です 失敬ー
124 :
名前はいらない :2010/11/05(金) 08:34:07 ID:NtJoQiIS
ナルシスト
完璧主義
そら、褒められようとしてはいけない その頭に載せられる大きな手が全てを攫って行ってしまう
>>123 俺も運転怖いですよ
普段は原付です。愛着涌きます
名前は付けてないですが
ほとんど生き物を見る目で見てます
ありがとうございます
おお、それ二番煎じだろっつーか 駄目な方に突っ込んだな
そう、弱小の自覚は戦術をヒットアンドアウェイに特化させる それは前線の維持という事を考えない 「こじ開ける」為に、次第に彼は我侭を強めていった 一度の跳躍が尽きる頃輝きを帯びて二度目の跳躍が生まれ 頂点から次なる頂点へ それはただ進む事でだけ許される進行であり その度に彼の目は輝くのだった という一つの幻想から膨らむ希望を例えば俺はフィクションに味わって 砂漠のようだったり沼沢のようだったりするその時々の現実の中で 深く、何度も、何度も何度も何度も何度も、噛み締めた 血が出るまで噛み締めたって何処へも行けはしない けれど、飽きもせず、というより飽きてからもなお 自動人形のようにそれを噛み締め続けた 奴は打ち立てる事を拒絶していた だからその声は反響せずに宙を彷徨っている 見えない声の生じる静寂は あまり気持ちの良いものではなかった いつか それらが実を結ぶとしたら どのような過程を経てどのようなものとして姿を現す事になるだろう 無形の資材が作る都市 目に見えるものはほとんど無い 何も無いところから 次々現れる彗星 宇宙人の手によるものかもしれない 人の目に点火されるものが資材を利するのかもしれない 俺は彼を見ているが それはただ俺との差異を明らかにする スポーツはいつも違いを明瞭にする その時少し俺は蘇生する 味わえるものを得る事で 見えない声 広がり飛び交う彗星 違いは明瞭明白で 求めるまでも無く 熱を読み取る事に俺は終始すれば良いか 甘い空にコウノトリが現れて爆弾を落とす 無数の火柱が奴の打ち立てなかったものを破壊する 燃え盛るパレードを見て 凄絶をも安堵をも覚え 個体は一個の揺り篭になる 切り立った崖で奴と話すと奴は「俺は鯨だ」といい 七つの海を吐き出してやるから溺れ死ぬと良いという それで溺れ死んだ奴なんか聞いたことも無い ただカンブリア紀の 誰も知らない世界が戻るだけだ
感受性が乾燥しきって死に掛けてるので 今年はあんまり詩を書けてないです
色々答えの出ない事が多いので カルロス・カスタネダとか読み始めたのだけど 意識の生成のくだりなんかほとんどスピノザみたいだとか どうも無邪気に読んでしまう
しかし怖いというか面白いのは そこでは入門者には情報が足りないんだけど 情報があれば飲み込まれて死ぬ という恐ろしい世界だって事だ 近所に神社があって、正式な神官の居ない社なのだけど 静謐な感じです 最近では山の下までそういう空気
何か言えと言われても知るかとしか思わない
新日本ハウス
超至福です
煙草吸ってから寝よう
ああ、今度こそ寝よう お休み
寝てばっかりだ
寝よう
絵は結局、自分に似ると気に入るみたいだ
141 :
◆OigQ0Gn1wE :2010/11/25(木) 16:58:24 ID:6i+acR6P
テスト
142 :
◆OigQ0Gn1wE :2010/11/26(金) 16:52:35 ID:A36UGrB0
どうだ
名前:電波姫 ◆TgNskvck [] 投稿日:02/08/28(水) 19:59 ID:nmU91EMR ☆電波姫のテーマ☆ 作詞・電波姫@ド厨房 作曲・小室哲也(偽) ユンユンユンユンユンユン♪ 2chの宇宙に一閃 稲妻を見た 人がいないと 板が呼んでいる・・ 今日も 板から板へと 風来坊 ユンユンユンユンユンユン♪ 駄スレと 厨房と 祭りが好きで そのくせ 煽りにゃ めっぽう弱い私だわ 煽られ 荒らして アク禁寸前5秒前! 私の電波はいつもバリ3! ぶっとび 天下無敵の電波姫! かかってこいや 粘着ヤロー! るんるんるんるんるんるん♪ 2chのお花畑に 妖精さんを見た スレが上げてと 叫んでる・・ 今日も AGE荒らしと 叩かれまくり るんるんるんるんるんるん♪ 度胸と はったりと 愛想だけで 2ちゃんねるを 渡ってみせるよ コテハン叩きは 逝ってよし! 私の電波はもう止められない! ホントは ただのド厨房 電波姫! かかってこいや スクリプト!
規制解除
何かモコさんが楽しそうなので良かった
名前:電波姫 ◆TgNskvck [] 投稿日:02/08/28(水) 20:24 ID:nmU91EMR ☆Special GROOVE☆ 詞・電波姫@天下無敵プリティー(小一時間・略 今もアナタのコト まだ 好きでいられてる・・ 眠れない夜、眠らない街をさまよっている テールランプの隙間を今日もすり抜けていく まるで、何かに怯えるように・・ ねぇ よくあるように・・ どうして 優しさがうまく出せないんだろう? もう一度・・ もう一度だけ もう逃げたりなんかしない・・ 今日も 踊ろうよ 欲望の真っ只中 Special Grooveにのせて 夜を 繰り返すたび アナタと離れていくような 寂しさを紛らわすだけの腕に抱かれて このまま 私をどこかに連れ去って 一緒に 何も無い 誰もいない 最後の楽園へ・・ ねぇ よくあるように・・ どうして 素直になれなかったんだろう? もう一度・・ もう一度だけ アナタに逢って伝えたい 今日も 踊ろうよ 欲望の真っ只中 Special Grooveにのせて 高ぶる 胸のトキメキさえも 人は感情を コントロールできるなら 恋に落ちたりしないネ 冷たい風と ネオンサインの夜に 誰かが 誰かに優しい嘘をついてる 偽りの優しさでも包まれたい 7 名前:電波姫 ◆TgNskvck [] 投稿日:02/08/28(水) 20:25 ID:nmU91EMR ☆X.Y.Z Systems☆ 作詞 電波姫@題名に意味無し(小一時間・略 誰かが私の背中を押してくれればと どれほど刹那に願えば 願うほど ああ 恋しくて 恋しくて・・ 情けないほど 夜の街の渦に加速する 神様 私に一片の勇気を下さい 誰かの冷たいぬくもりに安息を求め めくるめく愛情という欲望に落ちれば ああ 恋しくて 恋しくて・・ 情けないほど アナタの笑顔を思い出す 神様 私に一片の勇気を下さい 止めど無く 湧き上がるこの想いを どれだけ 繰り返し 繰り返し 閉ざしてきたんだろう・
名前:電波姫@アナタの胸にドキュン ◆TgNskvck [] 投稿日:02/09/14(土) 22:46 ID:fr1h4hHT ☆たった一つの秘密☆ 作詞・電波姫@S・DQN 作曲・小室哲也 恋心つのれば つのるほど 打ち明けられない ねぇ、アナタに一つだけ言えない秘密があるの 決して見せれない私のデスクトップ画面から アナタのハートにアクセスして伝えたいわ そうよ、私は2ちゃんねらー! 何か文句ありますか? そうよ、私は2ちゃんねらー! それでも私を愛してくれますか? しかも 厨房板に行ってるなんて 口がさけても言えないわ・・ そうよ、私は2ちゃんねらー! デートの食事は吉野屋に連れてって! そうよ、私は2ちゃんねらー! DHCの化粧品はアナタのプレゼントでもいらないわ! たまにアナタの前でも2ちゃん用語が出そうになるの・・もう だめぽ・・ そうよ、私は2ちゃんねらー! 私を小一時間問い詰めて! そうよ、私は2ちゃんねらー! デートよりも祭りの方が大事なの! アナタにばれたら 回線切ってコードで首くくって氏んで詫びるわ・・ そうよ、私は2ちゃんねらー! 趣味は巨大AA貼りつけですが 何か? そうよ、私は2ちゃんねらー! プチ荒らしと呼ばれてますが 何か? 嫌われ者の中のさらに嫌われ者ですが 何か? I LOVE YOU・・ でも、アナタのためなら 2ちゃんねるも止めれるような気がするの I LOVE YOU・・ その前にアク禁になるような気がするに1000モナー!
炎上ってストレス溜まるだろ? 「全然そんな事はない」 無理するなよ 「無理なんかしてない。お前は全然無理が足りない」 俺も無理してるよ 「全然無理が足りない。昔の人はもっと必死だった」 よく「無理がかさんでやばい」って言われてるんだけど 「あー、そう。へー、そう。そりゃお前がどっかおかしいからだろう」 そりゃ俺はどっかおかしいよ。そんな事知ってる。どっかおかしいまんま無理してもどうしようもないんじゃないか? 「本当に無理してないからだ。お前のは本物じゃない。本当の本当に無理をしてないから方向がおかしくなる」 いや、自分では方向もうちょっと考えた方が良いと思うんだけど 「じゃあ考えろ。必死で。必死で考えろ」 どうしろっつーんだよ
面白くするとこんな感じか
近場にアワーズ置いてないので遠出決定です
誰も悪くないんだよな
世の中、不公平ですね* 46才 無職 淫乱処女のモコが…* 「男に 恥ずかしい写真を撮られました!」(*)((δ)) 「裸にされて マンコの写真を撮られました!」 (*)((σ)) 「チンポをくわえている写真も撮られました!」 * 「デカチンをケツ穴に入れられました!」(*)((ξ)) 「お尻の穴に巨大チンポを入れられている写真を撮られました!」 と 泣いて 主張したとしても 誰も信じてくれないんですよね…* くやしいです! 今の世の中は 本当に不公平です(*)((Φ)) でも、逃げちゃダメだぁ(*)モコのエロを堪能してください!* モコはフレッシュな水着写真を青少年に見せたいのです!* 健康的なお色気ならば 別に 許してもらえますよネ!☆ 水着でグラビア撮影してたら オナラがしたくなってきたんです* でも ガマンしました*(*)グラビア撮影が終わった後で モコは「ブギュゥゥルルルウウゥゥゥゥ〜〜!」とオナラが出たんです* すると 帰ったはずのスタッフたちが 戻ってきたんです☆ みんな モコのオナラの匂いを嗅いでたんです (*)((φ)) モコがオナラをすると 男たちが近寄ってくるんです((ο)) それにしても、あのモコのことだ(*)((φ)) かたちとしては、いったん辞めても、陰で一派を牛耳る魂胆だよ* 誰が見たって、その通りだ* 構成員たちも言っている☆ 「院政じゃない。陰政だ」って言い合っている(大笑い)* みえみえだ (*)((ξ))((φ))(*)((δ))☆ だいたい一派の主要ポストにも、モコの手下がウジャウジャいるじゃないか☆ 今回、教学部長になったモコシ* こいつもモコの子分で有名だ* いくら狂ったモコ一派でも、こんなのを教学部長にするなんて、 モコの仕業以外に考えられない(大笑い)* そ〜れ見ろよ ☆ モコって毎回死んでほしいと思われるほどの糞レスしてるだろ* 少し読んでみるだけでも 分かるよな ☆(*)((ο))
何となくモコさんはリアルではあんまり露出の無い服装を好む人のような気がする
155 :
名前はいらない :2010/12/18(土) 00:07:55 ID:ooRZpScf
愛すべきキャンドルジュン
156 :
名前はいらない :2010/12/23(木) 09:19:03 ID:6/nPDkmS BE:1886756148-2BP(10)
私は、怖い意味が面白い ある新人'十分な情報 死が情報を飲み込んだ場合 世界のために恐ろしいこと 寺院は、近所にありますが、ここにない司祭の公式の 穏やかな感じ 山の空気は最近まで、など
馬鹿が見てる
モコにチンポを持たせると 大変なことになるぞ!☆ そのチンポは イヤらしい視線で見つめられ ペロペロとしゃぶられ チュッパチュッパと 吸い付かれ やがては 精も根もすべて吸い取られてしまうぞ!* 気をつけろ! ☆ グーフィーの中の人は コンピニ弁当* ミッキーマウスの中の人は 特上 うな重☆ グーフィーの中の人は 交通費 出ない* 普通は自転車* ミッキーマウスの中の人は リムジンで送り迎え☆ グーフィーの中の人は 子供たちに殴られても何の保証もない* ミッキーマウスの中の人は 子供たちに殴られたら 学校側に謝罪させる☆ 私たちは「おしおきニート4姉妹」よ!* 長女は この私、ブリニート スピアーズ ☆ 次女は この私、浜田ブリニート * 3女は この私、ニート セントクレアー ☆ 4女は この私、シンニート オコナー* 私たちは「おしおきニート4姉妹」がモコを撃つのヨ!* 忘恩の輩といえば、元はニートコーポ出身でありながら 大恩あるニートコーポを裏切った社員ども! ☆ みな醜悪な正体を現した* なかでも陰険、冷酷、悪辣で有名なモコ! ☆ 千葉県松戸の安原ツトム! * それに四国の権藤みさを! ☆ その他にも、韓国であくどい偽装貨幣事件を起こした山モコいちぢく!* 韓国の当局から罰金刑を受け、国外退去処分になった☆ 日本でも「外為法違反」で罰金刑が下ったクソ社員だ!* まだまだロクでもないのがいる☆ ニートコーポの元スポークスマンで、 入会金1000万円の超高級医療クラブに入り浸っていたという アメリカ・テキサス出身の元海兵隊、エドガー・ベインズ! * どいつもこいつも聖職者づらして、あれだけ給料してもらい さんざん養ってもらっておきながら、ニートコーポを陥れようとした☆ 罪業は、永久に消えない* どの社員も「恩知らず」であり「トニーコーポ利用」の「金の亡者」だ*
恩知らずの水嶋は 若手のモコのアナに襲いかかった!☆ そこで 若手のモコは「性義隊」の向井理さんから 「性義」を注入してもらったのだ!* ここでウンコを出せば どうなるものか あやぶむなかれ〜☆ あやぶめば ウンコは出ない* ウンコを出せば そのウンコが ウンコとなる〜* 迷わずウンコを出せよヨ〜☆ ウンコを出せば ウンコというものが 分かるサ〜!♪ 1、2の 3、ウンコォ〜〜〜!* モ●先生は 乱交パーティーが終わってもオナニーをしていたそうだ* 本当に性欲が強いんだな☆ 相撲なんて だまされて見てりゃいいんだヨ!* 貴乃花は せっかく苦労して理事になったのに… 日本相撲協会は 解体で 財産没収なんだって!* 日本相撲協会は 今までは文部科学省の管轄だったが これからは SWSの管理下に置かれればイイんだヨ!☆ SWSには「部屋制」がある* 「部屋制」に馴染みのある日本相撲協会はSWSの管轄が一番イイだろう☆ そういえば メガネスーパーの創業者でSWSの田中八郎氏が亡くなりました* 田中八郎さんは 最初 プロレスが八百長だとは知らなかったそうです☆ カブキさんたちに教えてもらって 「知らなかった。プロレスは真剣勝負じゃなかったのかァ…」 と 言ったそうです* 八百長… 田中八郎… 忠犬ハチ… マルハチ… 蜂… みなしごハッチ☆ 今、時代は「はち」なのか!?* モコは突然「派閥をつくってはならない」なんて言い出したようだ(笑い)* とっくの昔にモコ一派の「四分五裂」の動きは始まっているよ(爆笑)* 仕事をしても給料がもらえない「無給構成員」も今や百数十人もいる☆ モコへの恨みを口にする連中も出てきているという話だ* 聞けば聞くほど、モコというのは醜い化け物だ☆ 一派のおかしらであるモコが「嫉妬」「金」「遊び」「強欲」「冷酷」で 一派を食い潰しちゃうんだからな* モコがつまらないのは常識だ! ☆
162 :
名前はいらない :2011/02/13(日) 08:52:58 ID:0zKCr8Bf
万個草井
テレ朝のアナウンサーが飯塚さんにワイシャツを破られるというギミック☆ 毎回 毎回 ワイシャツを破りやがって!* ワイシャツ代に いくら かかってると思ってんだヨ!?☆ はっきり言って 赤字なんだヨ!* ワイシャツ代だって バカにならないんだヨ!* 昔だったら こういうヒールの子どもは学校でイジめられたけど、 最近の子どもたちは みんな 八百長だってこと 分かってんでしょ* だったら もう子どもが学校でイジめられることもないでしょ☆ だったら ヒールやってたほうが 儲かるから 続けなさいヨ!* 品行方正清純派優等生モコが ついに 最初で最後の中出しを決意した!* チ●ポは固過ぎると 逆に 折れやすいんだヨ!* 固けりゃイイと思ってる女は SEX経験と イッた経験が 少ないんだヨ!☆ 女は イッた瞬間に 子宮が降りてくるんだ* チンポが固過ぎると いい気になって下から突きまくってる時に、 下りて来た子宮と バッティングして 折れてしまう危険性が あるんだヨ!* だから チ●ポなんてもんは 固けりゃイイってもんじゃねぇんだヨ!☆ まだ 分からないのか!?* 臆病者のいちぢくは、マスターからフィルムを取り上げた☆ そういう嗅覚だけは、異常に鋭いんだ、あの男は☆ 臆病者、ズル賢い畜生根性の象徴だな* モコは はっきり言って、 キ●ガイだ!* キチ●イは 何を しでかすか 分からない! だから キ●ガイは 怖いのだ! ☆ モコは もう 自分の死期が近いことを知っている* 死を覚悟したキチ●イというものは 何をしてくるか 分からない!☆ 死を覚悟したキ●ガイほど 怖いものはない! * もしも、モコが 核兵器を持っていたならば 死ぬ前に 日本国内に核兵器を落とすだろう☆ もしも 日本国内に核兵器を落としたならば、モコ自身も死ぬというのに… * そういうことが分からないんだろうな☆ だから キ●ガイは 怖いのだ! * キチ●イは ほんとうに 何をしでかすか 分からない!! ☆
痴漢バス! ついに LA上陸!* チ●ポの情報交換しようゼ☆ もうハンパじゃ終われない!* モコは大自然の命と男のチ●ポをいただいて生きております!* モコは ケツ穴にロケット花火を撃ち込まれて 一生 ウンコができない肛門になりました!* モコは ケツ穴に栓をされて、口からウンコが出るような体になりました!* それでも、ネバーギブアップ!!☆ ドン荒川よ! ドン! ギブアップ!!☆ 飛び出すウンコ!☆ 『3Dウンコ』は 必見!* プロデューサーは あの ロジャーコーモンだ!☆ 肛門が大きく開いていく! どでかいウンコが目の前に迫ってくる!* 「行ってきまスカトロ〜♪ ただいマンコウ〜♪ ごちそうさマンコ〜♪ うんこくサイ〜♪ ステキな言葉で 〜♪ モコと愉快な仲間が〜♪ モコココぉ〜〜♪」☆ 世の中、不公平ですね* 46才 無職 淫乱処女のモコが…* 「裸にされて マンコの写真を撮られました!」 (*)((σ)) 「チンポをくわえている写真も撮られました!」 * 「デカチンをケツ穴に入れられました!」(*)((ξ)) 「お尻の穴に巨大チンポを入れられている写真を撮られました!」 と 泣いて 主張したとしても 誰も信じてくれないんですよね…* くやしいです! 今の世の中は 本当に不公平です(*)((Φ)) でも、逃げちゃダメだぁ(*)モコのエロを堪能してください!* モコはフレッシュな水着写真を青少年に見せたいのです!* 健康的なお色気ならば 別に 許してもらえますよネ!☆ 水着でグラビア撮影してたら オナラがしたくなってきたんです* でも ガマンしました*(*)グラビア撮影が終わった後で モコは「ブギュゥゥルルルウウゥゥゥゥ〜〜!」とオナラが出たんです* すると 帰ったはずのスタッフたちが 戻ってきたんです☆ みんな モコのオナラの匂いを嗅いでたんです (*)((φ)) モコがオナラをすると 男たちが近寄ってくるんです((ο))
165 :
名前はいらない :2011/03/23(水) 21:11:33.29 ID:jPjkkHiF
↑震災でいなくなって欲しかった 残念
166 :
名前はいらない :2011/03/27(日) 07:41:48.82 ID:rplNmtsM
ある意味 凄い才能(笑)
ここで待っていれば 彼は来るかな?
知り合いと言うほどでは無いが 全く接点が無いわけでも無い
詩は接点では無く 最初に知ったのは違う板だ
彼が病床の女のために描いた絵を 携帯で閲覧出来るよう変換したのが最初の接点だ
もっともその時点では 彼とその女の関係を俺は知らず
それどころか彼については それまで何も知らなかったし
その後しばらく見なかったので 一度はすっかり忘れてしまった
次に彼が目の前に現れたのは 彼と女の関係が破綻した時だった
やや大袈裟に言えば修羅場 その最中では以前の彼と気づかなかった
掴みあいのような喧嘩の末 彼は這這の体で去った 少なくともそう見えた
test
スレ主さま、どうぞ旅費をください 旅がしたいのです
179 :
致死呂 :2011/10/01(土) 00:33:04.30 ID:Vn7Iv3To
「比か眉務務湯」 比地下に湯 比治癒墓 聞かぬか日阪 さなか墓 濡湯に揺る? 引き 比近間湯務務湯 比喩濡つ さなかに香 比治癒はかぬか日田かぬか 貴下や膣。 高さ刈るにか 比喩濡つ 高さ はかむ無や夏 黄からかにか濡つ濡つ。 流布濡 幸由良かぬか さなかはかむ無二湯濡つ? 比地下湯 幸由良かぬか さなかはかむ無二湯濡つ。 等可否地下 幸由良かぬか さなかはかむ無二湯濡つ 等からか 黄か務湯? さなかはかむ無二湯濡つ 等か抜かぬか、 高さ 流布や治癒 等か抜かぬか日田湯 は湯に湯濡。 流布濡 幸由良かぬか さなかはかむ無二湯濡つ は湯に湯濡 黄か務湯? は湯に 比か務に湯 等からか、 は湯に湯濡は湯に湯濡は積む陸奥。 等か抜かぬか日田湯 等か抜かぬか 太踏むか 幸から湯 ぬかにかむか墓。 幸由仁か務務 幸由良かぬか 高さ刈るにからかぬか比喩等揺る 等か抜かぬか日田かぬか比喩等揺る。 留香抜かぬか 濡つは湯務務湯 幸由良 はかぬ谷地湯比 陸奥務に刈る 黄か眉務務由良湯比喩 発つ陸奥や夏等揺る。 黄か夢魔湯務湯 等か抜かぬか 聞かぬか 夫谷地や務死ぬつかぬつ濡つ 幸から湯 ぬかにかむか墓 等か抜かぬか日田湯。 たゆむや地下比喩 等か抜かぬか 発つ陸奥や夏務陸奥 高さ。 沙泣かぬ比か 比か務、 吉濡つ 鬼湯濡留湯比か。 等可否地下 向かぬつ? 吉濡つ 務 はかぬ谷地湯か。 比か務に湯比喩 幸由良かぬか 沙夏濡面積む陸奥蒜さなか。 比治癒墓 比地下に湯 幸由仁か務務 はかむ比喩に湯引かぬか? 比致死 流布濡比地下 はかるか濡つ ぬかにかむか引かぬか? 比治癒比か 光か谷地か引かぬか 高さ。 高樋湯 発つ 幸つるかにつ。 等可否地下比喩等揺る 比致死 流布濡比喩? 比地下や地下比喩等揺る 幸由良かぬか 等かに湯? 黄か夢魔湯務由良揺る。 比地下や地下比喩等か 幸由良かぬか 向かぬつ? 留香抜かぬか比喩等か。 留茅なに湯務務湯比喩等湯務務湯 幸由良かぬか谷中比たゆむ務湯 沙泣かぬ比か。 比か眉務務湯 隆彦 は夫引かぬか 等か引かぬつ濡つ 等か引かぬつ濡つ 鬼湯に墓にぬつ濡つ はかぬか比喩濡つ濡つ。 務務 幸由良 黄か務湯 幸か務陸奥 幸由仁か務牟田かぬか 比喩務湯筆 等かに由良か。 留香抜かぬか 幸由仁 黄か務湯 幸か務 幸由仁か
どんぐりよ!* 旅費なんか無いぞ!* お前のためにプール付きの豪邸と20人の舎弟と 喜び組とピンクのドンペリを用意しておいたのに… ここまで来て 裏切られるとは思わなかったゼ!☆ お前なんか どこも雇ってくれないヨ!* 関西弁軍団や雑談合衆国に入れると思っていたのか!?☆ ニート社を裏切ったものは皆、みじめな、不様な末路をたどっているな! つい最近も、あの”どんぐり”が、とうとう首になった(大笑い)* あれだけミカンスレを撹乱したんだ☆ クビは当たり前だ! むしろ遅すぎたくらいだ。 部署内からも「早く辞めろ!」と言われ続けていた。 株主総会でも株主から「潔く切腹しろ」なんて物騒な声まであったな(笑い)☆ 同情する人間なんか一人も、いない* 周りからバカにされ、嫌われ抜いてクビになった☆ トニー社を裏切った者の末路は、本当に惨めだ!* モコは今朝 スーパー銭湯で ブッ!と屁をこいたら(*)((ψ)) 小さなウンコがポン!と出たの(*)((ξ)) 銭湯で良かったぁ(*)((φ)) パンツの中にウンコをしてたら 大変なことになっていたわ(*)((ο)) モコは今朝 スーパー銭湯に行きました☆ ゆず湯でした☆ モコは「ブギュゥゥルルルウウゥゥゥゥ〜〜!」とオナラが出たんです* そしたら、ウンコも出たんです☆ かなりの量のウンコが出ました☆ モコは すかさず ゆずを にぎりつぶしました* ゆずはグチャグチャになって モコのウンコと交じり合いました☆ どれがウンコで どれが ゆずなのか 分からなくなりました* モコは耳年増なんです* モコは聞きかじりの知識だけが豊富なんです* モコは週刊誌みたいなエッチをしたいんです☆ *((σ)) モコは乱交パーティーの会場でウンコマンダンスを踊らされました☆
181 :
電脳プリオン :2011/10/30(日) 14:09:26.72 ID:I1onS806 BE:182434436-2BP(1960)
ポエムなのか?
182 :
!nanja :2011/11/30(水) 18:26:50.97 ID:A9b4tM9X
なんぞこれ
183 :
名前はいらない :2011/12/04(日) 03:49:11.63 ID:REVHcZvM
tes
184 :
名前はいらない :2011/12/07(水) 21:13:53.51 ID:XpQiP0w+
旅したい フランスへ お金なんか無いけど 別にどうだっていいさ 心は柔らかいまま 夢を見るのさ
185 :
名前はいらない :2011/12/21(水) 14:53:57.42 ID:Y8zJhqg9
君のことが好きだから きみの幸せが続くのをずっとずっと祈っているよ 愛とは返事を求めない 求めてないさ。でもあの嫁は似つかわしくない。どうしてそんなことも分からないのか。 馬鹿珍が。でも馬鹿ほどかわいいのさ。早く離婚してもっと若くてかわいい子がいくらでもいるよ。 カルティエの指輪なんてもっと若くて白魚のような美しい指の子にあげなさい。
186 :
名前はいらない :2011/12/22(木) 11:12:31.46 ID:Wx7vDCLX
私は馬鹿珍ですが そんなことわかってますよ 11月、この板で最初のポエムを投下 迷ったのは何日かだけ 私の返歌を 私の心の確信を あなたは受け取ったと思ったのだけど また揺らいだの? 振り子のゆれ幅が次第に小さくなるように あなたの気持ちが私に向いて ピンポイントで 私に向かう日が来るのでしょうか?
187 :
名前はいらない :2011/12/22(木) 18:14:14.60 ID:xmbIK0xZ
ハゲ散らかした雅春はカツアゲした金で旅行するダックスフンドだろ
188 :
名前はいらない :2011/12/30(金) 23:21:59.17 ID:r1s6oOiS
ナンバーズを毎日買ってきた かなり負けてる 防寒ブルゾンなんてないから寒いゆ 悩み事受け付けます
>◆7T.TCw5CE6 む、メールくれた人か
七、八千里をひとっ飛び 金の代わりに飯を食う 俺モコさん追っ掛けて格板見に行った事あるよ 忍法長さんが何処に行きたいのか分からないけど モコさんに乗っけてもらえば色んな板巡れるよ ハゲたりかした雅春は雅春の部分を青春に直したらぐっと詩的になると思うぜ
>七、八千里をひとっ飛び
>金の代わりに飯を食う
って全然良くないな全然良くないなと思いながら書きこんだ
恋愛詩は前は分からなかったけど最近はそれを分からない自分がよく分からないという境地まで分からなさが進行してしまったから
特に分からないとは思わなくなった
フランスは何処に何があるのか分からないけど何処に何があるか分かる人には楽しいところなのだろうという印象
雪国でもないのに震えが止まらないくらい寒がりなのでそれが悩みかもしれないけど分からないと
>>188 を読んで思いました
頼まれもしないのに微妙なレスをしているのは詩が書けないからなのか何なのかと思うけど
詩作は難しいですねと改めて思いました
>>1888 さんコツとかありますか
194 :
名前はいらない :2012/04/14(土) 11:12:49.67 ID:Mxs53eOD
おはよー
まだ眠い
キャラ忘れた
>>194 おはよう
横レスですが、おはようございます
一昨年の冬頃ファミレスで「こいつチェリーだよ」的な話をしている集団が居て ああ彼ら詩板の住人かもしれないと何故か思ったけど何故かは分からないノリがそれっぽかったからかもしれない
まあボク人見知りだし?気を使う方だから?声掛けるなんてとてもじゃないしドリアか何か食ってたけど うわーうるせーよ俺ビビりなのに衆人環視恐怖症なのにとか思いながらの外食というのはまあいつもの事
働きたくねー
居場所も無かったって小説あったけど教室の片隅で息を潜めて死体ごっこを試みるような話では無かった
リア充とか一日二十キロ肉食って動くサイボーグみたいなもんだろ 全然羨ましくねーよ
何書こうとしたんだっけ
たまに新約聖書を読んでいるんだけどちっとも進まない
205 :
名前はいらない :2012/05/04(金) 19:30:56.58 ID:791a3dER
なんでなの?書くため? あそこには行くなっていってんのにさあ 何とかわかってほしいよ それとも、あの子がどんなに素敵か詩に書いてくれる? それがずっと読みたかったんだよね、実は
>>205 氏は若きグリフィンドールの英才こと
この19 ◆gwnULb/9mwに話し掛けておられるのか
聖書は興味からかな。ごめん。ちょい所用です。また後で
キリスト教の神は遍くあって上に居るので捉えやすいというのが大きな特徴なのかもしれないと思った 極端な事を言ってしまえば無神論者の活動さえ神の実在にとっては土台になってしまうのではとさえ思わせる というのは後世のキリスト教の偉い人の書いた本を読んで思った事で 聖書は一節一節を譬えと思って読むので時間が掛かるのだと思う 一字一句たりとも無駄な箇所はないつもりで向かわないと重大な見落としが起こるのではと 「人々はイエスが権威あるもののように語るので驚いた」というのは 情的な対世間対応としての言葉ではなく聞き逃す事軽んずる事の出来ないものとしての言葉という事で 堪能するというより含意されるものを得ようとして読む感じ
第何天とか何何界等の場があって神があるのではなくて常に「全宇宙」の上に居る訳で この「宇宙」というのが「各個人」も意味するとしたら全宇宙なんてのは「誰でもの上に」という意味でもあって 「捉え得ない」というのと同時にこれ程捉えやすいものはないというようなものでもある事になる これは大きな特徴だと思う。捧持されるものが礎を「満遍なくそこら中」に置いているというのは 神観念の把持の困難という事について大きく作用する 同時に、信仰というのはハードな生き方かもしれないなとも思う 「満遍なくそこら中」と礎を共にするというのは 要するに全宇宙を縄張りとして生息可能たらしめるべく自分を造らなければならないというのに近い感覚を覚える だから神を見ると目が焼かれるとか、そういう話が生じるのかも これは慎重に行きたいところです。で、多分聖書時点の教説はもっと懇切だと思う。イエスその人はともあれ教え自体は個別的で求められるのは全宇宙ではなくて天国だ 少なくとも一足飛びに「唯一神と礎を共にする」というようなイカロス的発想は聖書読んでて覚えない その懇切さから受難があるのかもしれない。つっても、現代にせよこの怖さは道徳とか善行の奨励でかなりな割合和らげられるのかもしれないけども
何でキリスト教の話なんかしてるんだろう全然不勉強なのに 多分まともにやってる人からすれば「お前むちゃくちゃ言うな」な見解だろうと思うし ただイエスは人に対して、神を信じろというよりもむしろ 漸次至れる天国を信じろと説いている事が多いような気もする 神との合一はデメテルが嬰児を不死身にするべく火で焼いていた話に近いイメージで だからイエスは火で清めると言われているのかとか色々思うのが聖書読んで面白いところ
そうだった あそこがどこか分からないんだった あと、あの子がどこかも知らないんだった
雑な感覚で知能の限りを振り絞りつつ 感覚域を狭める事に心を砕いて 生きるだけ生きながら 恐らくは人の心に訴える事の無い 疎ましい水増しを余儀なくされた表現と 心中する気は無いながら それが無くては道具も持てず 生存がこの矛盾を溶かす事を夢見るも 夢と現の境を直に得ているとは言い難く ひょっとするとこのまま行けばいつか 消えてしまう事が出来るのではないかなどとどこかで考えている 細く微小であっても切実なこの要望も いつかは夢や物語の一つでしかなくなるのだとは その時々には考える事が出来ない 無秩序な奔流の大半の 時偶のごく僅かな切れ目の折に ふと過るこの感覚は確かに光であって それが他の何かに替えられてしまう事は考える事もしない この時光を見る目が動物のように直接的だったなら 確かにその束の間だけは 矛盾は溶けて無くなっているのだと 思う
晩年のチャップリンのイメージ 魅了しない、魅了する事に倦んだ悪魔 恐らくは愛の正反対を抱え込んでいる 何だろうなこれ。名前が無い
まあ自分はそんな気合の入ったハードコアな生き方はしておりませんけれども こういう感じを抱かせる人物や表現に出会うと 何だろうな、と驚きつつ少しずつ、それが何かを探って来た訳です
世界は広いぜ ここに書き込んでいるとよく グランドラインでも遠望してるような気分になる
普段はあれです。ウエストブルーとかで波に呑まれてゴボゴボ言ってる感じです
フェルメールとかモーツァルトとかでは、って括りの時点で撥ねられそうだけど 画面を照らす光源は埃によって屈折している 光を見るのではなく対象を見るのでもなく 人工的な屈折光による表現を見る事になる だからこの光の表現は印象派的なものではなくて幾何学によるものという事になるけれども ではその埃そのものは何かといえば恐らく日常的な雑感の集積で つまり屈折光に拠りながらもその表現上の幾何学は日常に立脚する事になる 中也とかランボーは多分だけど、この埃をもどかしがる事なく爆破を果たすというような作風で そういうところから天才というのだと思う 個人的には、何の変哲もないポケットから高級マンションの鍵を出すような感じの人を天才と言うのだろうと思う 実用的価値と驚きが兼ね備わったような高度な芸当をごく当たり前のように簡単に行う事 サッカーでいうファンタジスタとかみたいな感じで、超人芸でしかも超実用的という
象徴主義って何を言うのかよく分からなかったんだけど 上で書いた中也やランボーの特徴みたいなのを言うのであればそうなのかなと思う 象徴表現ってならもっと古いラファエル前派の人とかのが如何にもそれっぽいし 比喩主義と言わず象徴主義というのは象徴が意味を持つんだろうけど 人工光による光景を用いて埃の内に爆破を行う事で 熱量が造形されるのを指して「象徴」するものと呼ぶんだろう多分 してみれば個人的天才が際立つ表現様式という事になるんだろうか 定型や定石で埃も爆破も獲得する事は難しいと思う 幾何学的方法論は技巧でもそれを雑感に適用するのは感受性で表現に繋げるのは個人意識で この埃による屈折光を光源にするというのは多分そういう事だろうし 爆破が情動の最たるものなら、複数に属する無名人の作品なんかを引いて普遍という向きがあったとしても 少なくとも個人の感情の最高位という要件を満たしているに違いないし ましてイリュミナシオンというのは、その人でなければ描き出せないというような世界になるはず
で確か、自分的には自身の天才は信じていなかったので 極力それとは逆の方向へ向かおうと努めていたような気がする 表現から自分の痕跡を消して行くという路線 ただ今思うと自分なりに自己表現に徹底してるのかもしれない いわゆる純文学っていうのは多分自己規定を旨とするものだと思っていて 普通は書いている人の、状況による自己規定を求める思索がメインウェポンなのだろう、と思っているのだけれど 状況に依らない自己規定を今まさに果たしつつある現場というのに立ち会うと 瞠目しながらどうする事も出来ずどうやっても欺瞞的な立場に立たざるを得ない自分 というのに直面してしまって卑屈な感じになって困ったりしつつも その方法が自分に百パーセント当てはまらないという事を同時に理解してしまってさらに困る というのを昔ロラン・バルト(だっけ?)の本では天才の与える印象と問題と言ってた
自己規定というのは早いところが命ですよ 占いで言うところの立命というやつ それを為したらその人の生は完全に報われる、とされるところの命 であるところの自己規定 だろうな恐らく、明治期からの私小説と純文学に元々求められていたのは 占いの本場中国は面白くて、伝説的三皇五帝は事業を終えると惜しげもなく皆死んでるんだよね 命というのはそこから発展した観念だろうと思う。「それによって生が報われるとされる程のもの」という観念 孔子の「朝に道を聞けば夕べに死ぬも可なり」というのは キリスト教的に「種は一つでも生命を覆うに足りる」と言い換える事も出来るように思う
何か最近そういう神話的なものが面白くて ツクヨミがウケモチを殺して食物が出てきたというのは月が満ちて収穫が来るという表現で スサノオがトヨウケヒメを殺して食物が出てきたというのは北斗七星の柄が指す月建で収穫期を表現してて 空を海に譬える神話は多いからスサノオは多分天体の航行を司る神という事で 星々はまつろわぬ神とされるから大本教のミロクの世というのは要は異教主義的多宗教的世界観で当時としては相当ラジカルな発想だなとか このスサノオとアマテラスのウケイが多分、日本的なバベルの表現で 中枢神と天体の支配神はこの時点で一瞬合流してすぐ別れてるから古事記の時点で八紘一宇終了してんなとか そのスサノオの国を大国主が継いだという事は出雲は天体観測技術とかあったんだろうかとか タカミムスビは産霊の最上のものの神だから要は光あれの光みたいなものについての神で カムミムスビは産霊そのものの原理としてのものについての神だろうなとか 色々思うけど一人で楽しむかここに書くかくらいしか用途が無い 多分これで連投規制だろう
肉食系草食系っていう分類法は大衆一般の考え方の単純化と適度な活性化と穏当な形での社会不満の解消を同時に促す方向付けを求めた列島下におけるイルミナティの工作で 恐らく図に当たって次段階に移行したので消えつつあるんだ。その一つが欧州経済危機。蔓延する無力感はいずれイルミのマインドコントロールに回収されつつあるし この欧州危機を乗り切った時にかの地の人々はさらに奴らの地盤としての存在を否応なしに強めている事になるかもしれない こんな秘密を独力で掴んでるのは世界広しと言えども俺を除いてはごく少数だろう。連動する裏の流れを見ない事には次元上昇を乗り越える事は出来ない 選ばれたチルドレンはチャネリングや情信頼出来る筋からの情報収集等々でいずれ真理を手にする事が定められているにせよ現段階で目覚めた者はまだほんの一握りに違いない しかも恐らくは目覚めてそれ程経たないはずで、新たな次元に対応する感性的な成長の過程において時代は繊細だ。正神界の霊的影響はちょうど苗木を育むように、先立つ霊的成長を果たした者たちの進化を確実に促しているに違いない やべえ。あんまり喋り過ぎたら消されるかもしれん
いやマジで、粗食系とか絶食系とか雑食系とか色々あるだろうがと思うんですよ 草食系ってあれどう考えても恰好良い奴があえて肉食わないのを指してしか言ってないからね 俺らマジ関係無いからね本当に
俺らとか言っちゃう辺りがまだ正直ネタとして練り上がっていなくて空気としてはお前がモテようがモテまいが心底どうでも良いという空気をそういうネタが特異な人たちは多分感じているはずで それってまあ使い古されて面白くもなんともなくなってしまったという事か他に考える事が色々あったりするという事か両方かだろうなと思う アニメとかオタク系の漫画だとそういうネタ未だに元気なんだろうかと思うけど見ないので分からない 今オタクも言う事あけすけだし所謂奥手な意味合いでの対人表現能力の無さに対する受け皿では無くなってるような気がする こういう何か気色悪い分析とかこだわり方とかにその名残があるだけでそれは多分もうオタクの属性とかではなくてより悲惨な別カテゴリに放り込まれてる アニメも漫画も死滅したんじゃないかと疑ってる。聖域的な役割としては 見てないから異論は聞くけども
特異×→得意○だった。今週のニアミスシリーズはこち亀だった と思ったらクロガネのニアミス率が恐ろしい程だった。「何で」とか言ってるコマで「何で」と思ったくらいだ 適当に書いた文章が同時期に発表された表現と異様に似てる事がある時を指してニアミスというのだけど 偶然とはいえたまに神がかる。でも時間的に後出しになる形が多いから威張れない
「音」 実は一度東京見た事があるんだ でかい町だな、と思った 地元の都心がミニチュア程度の規模に思えた 何にせよ観光旅行の範疇で接する範囲は知れてる 岩波の明治の東京貧民街の本は時代劇のイメージで見ると鮮やかだろうか 荷風は夜明かりが起点になっていて現代の延長でいっそ構わない様子に思うけど 震災以前と以降で全く変わったと言っていたらしい 自分が一度見た程度の東京について咀嚼する意思があったか無かったか あったような無かったような頼りない気持ちがあり この心許なさは単に近所をうろうろする事で不思議とバランスが取れる 荷風の震災以前は近所をうろうろする範囲での東京だったらしく 自分が見たのは多分震災以降の東京だろうと思う 地方から来た飲食店が夜が更けても賑わっていると書いている それを摂取するかしないかという事が咀嚼の意思のありや無しやという事なら 慨嘆が途方に暮れるようなものに対してのものであの巨大さは摂取する体のものではなくて 日々目まぐるしく移り変わる態のものかもしれない 墨東奇譚の作中作に「失踪」というのは足場を捨てての逃避行で 主人公が翻弄されるという性質のものであるから 上の東京観は案外と実に迫るものなのかもしれない。「失踪」で主人公は最後に家に連れ戻される事になっているというし 途方に暮れて荷風の捉える震災以前の東京 単に生活環境として過不足ない地域に戻るという事の言い換えなのかもしれない
ただ儒家の家に育ちながら遊蕩を重ねたという荷風自身の個人史から来る着想も他に含めないでもないが この種の熱意で裏読みするタイプの読み方は 何か目に見えて表れている以上のものを導くつもりがないと成り立たない しかし隅東奇譚では震災前の生活環境としての東京や遊女の事を喜ぶように見えるものの 震災以降、に完全に分類されるものか分からないにせよ喧騒としての東京がコントラストになっているのは確かだ 少なくとも自分が東京という時に思うのは巨大都市としての東京の印象で 生活環境としての東京は、ある事は承知しているけれどそこに殊更に視線を介入させる発想は無い。他所者であるから そうして荷風が真に書きたかったのは自身の生活環境としての東京と遊女との交流の地続きな形であったのか というと水路の流れに繋がりを仮託出来るようにも思うけれど 実は荷風は近所、生活環境の騒音を逃れて街へ出るのであって他に理由は無いという風にも言っている 別れはただ自身の生活と彼女とを地続きにするのが憚られるという風な熟練の遊蕩家の発想で理由付けられているが それが純粋に生活環境と遊女の世界との二点間を結ぶ単に感傷としてのものなのか それとも、震災以降の喧騒としての東京を実はどちらかの側に介入する形で意識していなかっただろうか 遊び場と喧騒と生活を別個のものと捉えた場合の遊び場と生活は所在が明白ながら では喧騒はどこにあるのかというと、当然膨大な領域を覆っているだろう さらに言えば、意識するにせよしないにせよ荷風を遊びに向かわせるものとしてもあったのではないか それも何処か不本意、というか制御下に置けない性質のものとして媒介したのではないか しかしまあ遊び場の喧騒と都市東京としての喧騒の違いを読みながら理解した訳でもない 前者に音律を聞いて後者に耳を塞ぐ、というのもありそうではあるが 大都市の音がそれで消えるものかどうか。むしろただ誘いの中に不如意を聞いて判別に充てたと考える事も出来そうに思える
タイトルちょい早まったか 「音と老獪な耳」とか。単に「老獪な耳」でも良かった しかし最後に自分の詩に回収し直せなかったのは長くなったので面倒になってしまったせいだ 最後の方で面倒になった。閃いた事を文章に直す過程で抜け落ちるように思える事とか 書き進める内に路線を失うように感じられる事とかを回収し直したり繋ぎ直したりするのが面倒に 本当はタイトル「音」のままで最後に自分の聞く音に繋ぎ直せば良いのだろうけど終わり頃どんどん自分から離れて行ったので そういう時は面倒になる。読んで思った事としては書けるけど読んで体験した事としては書けないので 割と無責任になる。無責任になると散漫になるし実感から遠のいて行って収拾付けるのが面倒になる
昔漫画の「すごいよ!マサルさん」で 巻貝を耳に当てて「携帯電話」って言うギャグがあったけど 正直俺が普段聞いてる音は いや、やめておこう ただ自分の居る地点とかその辺りを音の形で想像するのは面白いかもしれない 精神状態がある程度分かるかもしれないし 意識とのギャップが解消される部分もあるかもしれない とりあえず最近は「アンドレ・ルイ・モローすげー」くらいしか感想の無い日常を送っているような気がする 十五分で集約される二十四時間。変わり映えが無いと言えば変わり映えが無い 健康と言えば健康。平和と言えば平和
昔「ブギー・ポップ」と「戯言シリーズ」は一部読んだけど 「フェイトシリーズ」とか「竜騎士08」とか「ゼロの使い魔」とか「とある魔術の超電磁法」はまだ読んでないので 結局まだ半分だな、と思ってる 何で読んだかというと、小説が書きたかったからだった 別に上に挙げたようなタイプの話をそのまま書きたかったわけではないのだけれども 何か理由があって必要だと感じていたように思う
ただ、金が無いので買う予定は無いけども 多分ネバーエンディングストーリー1の何とか少年みたいな読書姿勢で読んでたような気がする
どうせ小説とか書けねーよめんどくせーし書けるネタもねーし才能もねーしよー
努力もしてない。書く気も無い
とりあえず確か自分は動きが全然書けないと思ったので じゃあそういうの勉強するならラノベが良いだろと 動きというか展開のさせ方、を、学ぶには良いだろうと 何でかというと ・起伏を旨とする展開が多く、且つめりはりがその要になるような構成になっている ・比較的、専門要素に拠る事なく人間ドラマというか物語的な基礎的骨組みを展開機能のメインに使っている というような事を予想してラノベで勉強しようと思ったのですよ ただ読んでみて思ったのは、それでも素材、ひいては展開の起点になる要素には 作品内設定も含めて専門的というか複雑な要素が内訳としてかなりあるし 展開を推進するのは実際にはモノローグ的な世界観構築の連続で 結局は書き手の資質に相当に関わるものに思われた事から このまま読んでたら勉強というか普通に一読者的に作品に詳しくなるだけかもしれないという事だった 技術を盗むつもりが作品世界に没入するだけで終わっちまいそうだ、っていう
何の事やら
一週間も生きてたら何かここに書く程度の内容はあったんだろうけど 全部忘れてる
「奇門遁甲全書」と「mystery of temple of set」を買った 前者は紫微斗数の理解を深めるのにも役立ちそうな気配 「造化元ヤク」も踏まえると、地支の「気」というのは季節ごとの風の種類を着想に持っているのかもと考え始めた だとしたら十干は日ごとの天侯にも関係するんだろうかどうだろう。天侯そのものというか天候を生じる上空の風くらいの感じで してみると八字は風と日、斗数は主に風の種類のより細かな設定というのに近いのかとか そう考えると蔵干という考え方は雑に言えば季節ごと生じやすい天侯、という事かもしれない 「spiral dance」を読んでいるとヨーロッパでいえば巨石文明が八門を連想させる事が分かった もしかしたら遁甲の原型にそういった側面も見られるか。石庭八陣とかあるし。巨石文明は日照と風を関連付けたりするらしい 「mystery of temple of set」は前書き読むとラヴェイの書き方を踏襲しつつより理知を前面に出した装いという感触で 悪魔教会に対する敬意的なものがあるのかもしれない 何か知らんけど術師的な人の文章を読むと複数の声が一つの声を形作っているような感触を覚える事がある ケファー、セトについては、ヒルコ神とかを連想させるものがある
ケイオスマジックのマジックミラーのモデルは天球の外延としての黄道だろうなと思うのだけど そこからのキアの抽出という発想は単に個別技法的な要件だけでなくて世界外延の移動、いわゆるパラダイムシフトの原理にもなっている さらに言えば五芒星儀礼→六芒星儀礼で行われる四元素を用いた外延の変換プロセスが既にパラダイムシフトの考えに通じてる これに対してスペアにとってのキアは表現物の表現されざる要素という画家ならではの発想があったのではなかろうかと推測してるけど この推測自体が無の書にある「じっと見てると視界が歪む」とかキアを見る技法についての記事から推したものだし そもそもスペアを読んでない 論語によると五常の義は「利ではなく仁を用意するべく行いを沿わせる事」という風で その仁は「要件を満たしていてしかも全く欠けるところのないような状態」という意味に取れる 多分この仁という考えは「要件を満たしていてしかも全く欠けるところのない」天球をモデルにしているのだと思う 老子に「大道廃れて仁義あり」とかとあるのは道というのが仁や義と比較可能な位相にある概念という事で 多分、仁徳が一切を満たして溢さないのに対し、道というのはそれにプラスして 湧き出して尽きるところが無い、という風な要素があるんだろう 道のこの辺りも混沌魔術に影響しているのかもしれない 道教のいわゆる六種神通は恐らく六根に対応していて、それぞれが気や神の観点から見て上の仁の状態にあるような形と思うけども さらに仏教の無漏の考えとも対応していて得られる自己完結性を完全性の証果の一つとして扱っているような気がする 特に意根に対応する漏尽通はそうだろうけど、六種震動によって無漏を完成するのが何かを考えると 六根には常に六種の外境が対応する事から、それぞれの働く機縁が保たれるようになるという事だろうと思う それが気の操作と保全によって完成するというのはちょうど上でいうところの義に当たるともいえる
秘中の秘として 今時はオタクの人たちも皆楽しくげんしけんやってるっていうのがある ラノベは面白いんだけどラノベ読者っていうのをヲチってみると ・ラノベは読むけどいわゆるオタクの連中と一緒にされると困る ・ラノベ読んでるオタクだけどげんしけんも出来ない連中と一緒にされると困る ・ラノベ読んでてげんしけんしなくても事足りてるオタクだけどげんしけんしてるような連中と一緒にされても困る ・ラノベ読んでてげんしけん出来ないオタクだけどオタク以下みたいな人もどきと一緒にされても困る みたいな考え方が顕著に出ていて 「それ言ったら話が終わる」というレベルで全員一致の決定的価値基準みたいに見えたので うへえ、と思った。以降関心無くなった。でもラノベ自体にはまだ興味ある 特にラブコメは凄いよ。そういうのとまるで縁の無い人間にさえ 少なくとも読んでいる最中は自分に対して好意を持った魅力的な異性と接している心地を味わわせる訳だから イリュージョンとしての性能が半端無い
げんしけんやってる、って言い方気持ち悪いな 思いついた時は上手い言い方に思えたんだけど 読み返すと自分の嫌な面が露骨に出ているようで気色悪い こんな嫌な形で表現力が凝縮する事もある訳だから 人間性も大事なのかもしれないと思った しかもこれはただ単純に集団でのアニメ鑑賞とかの意味だけではなくて メイドさんやら猫耳さんやらとよろしくやっているという意味合いでも使っているので そのニュアンスが説明なしに凝縮されていて何とも言えない呪文めいた響きになってしまっている
後から説明すればそう変でもないか
ラノベ読者とオタクの世界が持つ内ゲバ構造の地獄絵図は田中ロミオの本に書いてあるよ 最初読んだ時は「何で金払ってまでこんなもん見せられなきゃならねえんだ」と思って ジッポーオイル振り掛けて燃やしてやろうかと思ったけど払ったお金が勿体なく感じられて悲しくなってしまいそうだったので止めた あの小説はとても巧くてオタク・ラノベファン以上の人種から仮想敵を引っ張ってきて 且つオタク・ラノベファン以下の人種から指導の必要な仲間達というものを拵える事で 飴と鞭を効かせているのだけれども、ラノベオタクの精神構造に風穴を開ける事には多分成功してない 多分彼ら馬鹿だから、身の回りの妄想戦士を密かに探すという程度、そういう方向にしか行かないと思う もしあれで成功してたらそれはメイン読者になってるラノベファンやオタクの人々は俺が思うよりも遥かにイカれてるって事だ あと多分この人自分のファン嫌いだろうな 我がホグワーツ校は特に妄想戦士と妄想野郎と魔法使いの区別なんてものはいちいち設けていないのだけれども 彼らはマグルなので魔法使いにはなれないだろうな>ラノベファンや二次ヲタ まあマグルはげんしけんやってろよと しかしげんしけん原理教の癖に反スイーツ反リア充謳ってる矛盾した存在である彼らが 今日どれほどの勢力を持っている事か
誰がお前をそいつと一緒にするんだよっつー話で
>>239 え?何?公安とか統和機構とかにマークされてて『そういう連中』じゃないかと疑われてたりすんの?
とか言いたくもなるけど、彼ら自体がとうの昔に巨大勢力になってしまっているので
もしかしたら彼らは既に自分が『そういう連中』である事への疑惑と共に生きて行かなきゃならないような機構を
自分達の手で作り出してしまったという事なのかもしれない
だとしたらそれは蟻地獄なので、圏内に入らないのが一番賢いかなと思う
過渡期に成立した巨大ターミナルって意味では コミックマーケットとメガチャーチは少し似ているかもしれない 参加者の生活上の要所になりながらも他の参加者との間に 生活圏の中に根ざした関わりがある訳ではなく 全体としての実態が把握される事の無いレベルでの膨大な群集が同時に参与するという事 祭りに喩えられるけれども祭りというのは実は地域主体で観光客は客に過ぎないので 観光客というか群衆的な繋がりを軸にした形で参加者が主になる形態はそういうのとは少し違う メガチャーチも確かかなり広範な地域から参拝者を集める形式だったと思う 何かしら社会現象として共通の流れがありそうで面白い オカルト的にはこういう巨大なターミナルは社会底流の軟着陸点って事になるかもしれない 社会底流って造語だけどな。そういう社会に潜在する潮流とかに精通した人、ってイメージもオカルティストにはあるね というかこのネタで誰か小説か漫画書けば良いのに
黒子のバスケの灰何とか君はドラゴンアッシュの馬場さんに少し顔が似てるなと思った 俺はキングギドラよりはドラゴンアッシュの方が好きだった キングギドラはこんなん悪くて強面で口が悪くて性格が悪くて口喧嘩が巧くて仲間も悪い奴で地元とか愛してたら誰でもラッパー出来るんじゃん とか思わせられるのだけど、ドラゴンアッシュはそういう風には思わない ギャングとか暴走族とか何かそういう人に良いものをもらった覚えも無いので そこまでして評価したいとも思わない この書き込み文章が少しモコさん風である スラムダンクはゲーム解説が群を抜いてるんだよな よくキャラクターについて言われてるけどそのキャラクターすらも 名選手のエピソードとかキャラが試合解説に絡んでくるような そういうフリーク的視点が強く入ってると思う。はじめの一歩とかも多分同系 で、目の肥えたフリーク目線だから求める満足度も必然的に高くなるんだろうなとか 対極は多分リングに懸けろとか明日のジョーとかで 漫画的なキャラとか面白さが試合とかに先立つスタイルなんじゃないかと思う 黒子のバスケは前者と見せかけて後者、みたいな感じが面白いなーと思いましたー ハイキューはかなり後者っぽく見せといてひょっとしたら前者かも分からんという感じで クロガネは黒子のバスケと同じかなと思う 昴はどっちのタイプか分からない バレエとバレエ漫画を他によく知らないので ただ時々作中でバレエ教室のレッスン生とバトってるっぽいとこがあるのが面白い 2ちゃんのスレでバレエ経験者っぽい人がかなりムキになっているのを見て面白かった カペタは多分前者なんだと思うけど見せ方は完全に後者だと思う 最初の方でカペタの壁やってた選手がカペタの走行につられて理想的な走りを体験したりとか 鑑賞中の体験の範疇ではなくて想像か走行者自身の体験の側に視点があるような気がする
まあ才能も無い癖にこんな事言ってても仕方ないのではあるけども 上の方のバベル云々に関連して、中国に金毛九尾の狐という妖怪があるけれども これは夏王朝と殷王朝の最後の王のところに現れて妃になって国を滅ぼしたとされる 狐は元々中国の民間信仰では農神で、五行でいう土徳の精とされていたとある 九は洛書の九星、九天九地、九州の九で、要は中国の全国土を表すものでもあるのだけれど 御し得ない中国大陸全土の統御を失って統治機構が崩れるという事を説いている 道教なんかの中国由来の脱俗思想は単に解脱を説く要素ばかりではなくて そういう思想に影響を受けている側面もあるかもしれない。体制の儚さを横目に据え得る立ち位置とか あと環虚の後の呼吸はどういったものになるだろうと思っていたのだけど 太虚が呼吸するように呼吸するのだろうというところで落ち着いた 太虚は道を胚胎していて道は無限の可能性とも言えると思うので 停止する訳ではないのだろうなと思う。停止するとしても息はあるのだろうと思う 仮死状態っていうのも考えられなくはないか。完成したらどうなるんだろう 稲荷神の場合にも土徳を備える存在として表されていたと思う 加えて、狐が化けるのは農作物が実りを迎える様を「化した」ものとして そこから由来したものだろうとされてる 稲荷の元は蛇神とされていて、同じく農神で 蛇神は春先に田畑に藁で作った寄り代を据えて迎える行事があったそうな これは陽気を迎えて農作物の生育を促す働きを表わしているのかもしれない
現代魔術は黎明期はともかくとして 現在活躍されてる有名な人の文章からはいわゆる自我肥大が全然窺えないのだけど リガルディーの理論沿革を見ると行によって真の意志をルアクの内に常時保つことが可能になるという風に説明されていて いわゆる仏教的な真我と違ってどうも質料を備えた形態を取るもののように語られていて ルアク、自己意識の内に原型並に強力な潜在リビドーの受け皿を用意するとも取れる事と あとは魔術なるものが自身のルアクを介しての無意識的潜在勢力の操作とされる事から 過程で自我肥大を起こす事はどうも必然のように感じられてしまうのだけど それが回避されているように思われるのはGD以降の何処かに技法か教義の変革があるのか 上の読み取りに不足があるかだと思う
ノーシスは意識を鎮めつつも動かない事の強要による急激な身体的ヒステリーを誘発させて ちょうど鈍質の内に激質を起こして純質に至らしめるよう仕向けるような働きかとも考えられる 意識下の層では可能な限り不動を保つので無意識の側に働きが起こって無意識下の潜在能力、即ちサイキック能力発動、、、という風にも考えられるし 同様の技法がキアの可視化に関係するなら それは外延からの抽出という形なんだろうと思うけど まだ何とも言えない
昨日は眉毛がこち亀の両さんみたいに見えた一日だった あと魔法使い入りを一年後に控えて いつの間にか指パッチンが出来るようになっていた まだ不完全ながら、確かに鳴る これ本当不思議だ。これまでは幾ら練習しても鳴らなかった どうもこれは魔法使い入りを前に示される兆しの一つのように思われる 赤蛇帰神の赤蛇っぽいのも度々見るようになったし 高藤式の湯気のような気感、っていうのは最初幾らやっても覚えなかったんだけど 武功に関心を持ってタントウとスワイショウをやってみたら急に出来るようになったので 高藤式は武功と併習するのが良いのかもしれないと思った まあタントウとスワイショウしか知らないのだけれども しかし魔法使いのみならず仙人にまでなってしまうな、これは 仙人っていうとまあ、お年を召していて、霞を食べて、生きて行く、っていう
ああ少し違った 武功に関心を持ったというか 身体の毒気をじっくり浄化するのが煩わしいので動功で手早く出来ないか と思ったんだった
金毛九尾の狐は日本に渡った事があるとされていて玉藻の前の名前で知られているのだけど 日本では体制崩壊の目的を果たす事なく討伐されていて、これは体制側の目が行き届いているという事かもしれない いわゆるまつろわぬ神等の説話や祭祀の構造や、建国神話の段階で周縁についての目配りを組み込んでいる事を指すのか ただ玉藻の前は死んだ後に殺生石になっている。これは多分殺生石というのが九尾によって示された 国土の持つ御し得ない働きを表す日本的な表現なのだという事で 御霊か、もっと言えば金神を連想させる 春雨物語なんかには孟子等の持つ革命思想の要素を指して 聖典だからと言って必ずしも日本にそのまま適用出来るものでもないという意見が出されている これは当時の国学者の間で流行した議論だったのかもしれないけれども ともかくも国家観の相違は九尾の扱いの違いに読み取る事が出来る
それから、帰神法が危険視されるのは殺生石と同一のメカニズムを利用しているからではないかとか 個人的に思う神道の第一要件は結霊の場を確保する事、侵さない事で 言挙げせずとか参拝の際には中央の道を空けるとか男子産屋に入るべからずとかそういったところにこの考え方を見る事が出来る 帰神法は特に重んじられつつ危険視されるに至ったのは、この要件を含まない教義・行法過程を可能にしてしまうからかもしれない そうすると霊的作用の核となりながら結霊の場を整えるという観点が先立たない為に 平たく言えば執着の中心になってしまうという危険性が生じてくる 結霊の場を確保する、とかの考え方は、むしろ禊の方に表現されているように思うので 多分、主体になるのはこちらの方なのだろうと思いつつ でも超人化志向的には帰神の方が分かりやすいし、禊と超人化は結び付くのかどうなのか、とか 祭祀上の要件としてではなく純粋オカルトマニア的視点からの不足分は思われるものの 例えば即座に結霊というもの、要は現象全てに渡って観測される現象の産出という事について覚知出来るとしたら それは現象の内に神の顕れを見るという事であって、神秘体験というのは大体これを指していると思う。神というのは産出原理に他ならない訳だから で、自身の内に結霊というものを、禊によって清められた中で見る事が出来たとしたら 自身の内に神を見た、という事になるのではと思う
ネクロマンシーの初出は旧約中にあるサウル王治世の時代という事なのだけれども 何しろ旧約であって、また当時エルサレムでは異教に対する目が厳しく 反面で二代後のソロモン王では異教との共存があったらしく、要はエルサレム下での様々な宗派宗教との交流が予想される時代でもある この点で考えられるのは、当のネクロマンサーに対しても異教的信仰に基づいた巫覡に対して 「死霊術師」の呼称を取ったのではないか、という事だ エリファス・レヴィによるなら古代のテウルギストは先任者を殺した後にその霊を神として用いたとされていて まあ誤謬や疑問点の多い著作ではあるらしいのでそのままに受け取る訳にはいかないものの 少なくともレヴィのこのテウルギスト解釈にアブラメリン的な聖守護天使の考えと直結した系譜を読む事は難しい 何かしらの発想元になる「テウルギイ」が少なくともレヴィの考えの中には存在していたに違いないので これは死霊術が使役法としてだけではなくて祭祀や行法の系統を備えていた可能性を表している 一般に知られる「ネクロマンシー」は死霊占いと訳され、主に墓地を訪ねて故人の遺した財産の隠し場所を問うというような用途で知られている 一方で旧約中の死霊術師は故人の霊を呼び寄せて存命の人物との会話を果たさせており またレヴィによる「テウルギイ」の説明はいわゆる霊統、法嗣の継承とも取れ、三者はそれぞれに異質な事柄を表している ついでに言えば日本では西行が話し相手欲しさに死霊を呼び寄せてフランケンシュタインを作る話なんかが残っているけれども これらの説ではある側面は語られるもののそれを全体として捉えてしまうとそれぞれに疑問点が残るという事がある 魔術書では用途が不審、旧約中では原理が不明、レヴィにあっては単に論拠とその後の系譜が分からない ただこれらを一まとめに捉える事も出来なくはない。故人の財宝を精神的とか霊的なものと取ればレヴィと同じものを指す事になるし 旧約中の死霊術に祭祀の要素を求めれば他の二者とも繋がって来る しかし原理を同じくするものが断片化や堕落や進化を重ねて別々のものになる、というのは考えられない事ではないので 自分としては、何処かで現代魔術の一要素を構成しているような気がしてならないのだった まあアストラル体を自分の幽霊と見れば早い
現代的解釈によるネクロマンシーでは 霊なるものは総じて霊的成長というものを欲していて それに資するという事で死霊術師に協力することを同意するのだという事だった 大体において危険視されるのは協同する霊と術者の同質化を生じ得るという事で この観点からするならレヴィの考えに基づく方法では寧ろ望むところ、とされるだろうし 魔術書中の用途に基づく方法が忌避されるのもまあ分かる ついでに言うならアストラル体によるパスワークというのは様々の霊的階層を網羅する事によって完全を求める一種の霊的巡礼で ちょうど漫画の「暗黒神話」みたいな過程をアストラル体によって果たすという事を目指すのだけど これは自身の霊体にそのまま様々の霊的領域の影響を作用させる事であるから 霊体というものの持つ同化、浸透作用に応じる性質を利用しているのだとも言える あとは式神というのを使役者の精神の一部と捉える説もあるらしく こちらは精神をセクトごとに分ける事で各領域作用を網羅し、それによって完成を目指すという パスワークと違う観点から同一の目的を辿る方法のようにも思える
退屈なので、読書量の乏しさから足元弱いながらも文芸理論でも構築してみよう まず初めにファンタジーというジャンルを立てるのだけど、何故かといえば純粋フィクションに最も近いと感じるからで ライトノベルなどもファンタジーを祖型に立てた派生ジャンルとして見なされる事が多いらしく後述したく思う ファンタジーは現実世界や普遍論理とされるもの、または既成の世界観を原型として立てたひな型でありながら 現実をそのままに見ていては決して見えないものを導き出す物語として考えられる これに対し、SFは現実の要件をそのまま延長した場合に結果される可能性を提示するものとして ミステリーは「どのようにしてファンタジーが成立するか」を述べる実験室のようなものとして考えられる ポーや乱歩はファンタジーの創出過程を一方が眩惑の絵解きによって、他方が活劇と変幻自在を駆使して語っている 松本清張や社会派の作家が行ったのも、環境や動機を語る事によるファンタジーの創出と見る事が出来る 本格、新本格などではこの過程は完全犯罪の丁寧な構築とその解説によって行われ 事件の内訳それ自体をファンタジーとする他のミステリ手法の一つの展開と考えられる ホラーではまず国産の古典を見ると、因縁物語としてのものとそれ以外の、今昔等に見られる突発的な事件を語るものとが見られるが 因縁物語は仏教説話を元にするものと見られ、「因縁論」という既に存在するファンタジーを用いて物語を構成する作法と取れる もう一方のものはそれぞれが一種の縁起として成立しており、民話等の蒐集として考えられるがこれも因縁物語同様に、既存のファンタジーを語るべく行われた物語と見なす事が出来る
海外を見るならマッケンやラヴクラフト等は民俗や異教を題材にしており、縁起もののバリエーションに分類出来るだろう 一方で、上の定義でいえばファンタジーの手法を用いているように思われるものも少なくない ただ多分、ホラーというのは登場人物の行いと出来事を既存の文脈で結ぶ因縁物か でなければ突発的な事柄ながら実はやはり既存の文脈に淵源を取った出来事を生じる縁起ものか 要は既にあるファンタジーを核にして描くというのが書きやすいのだろう。多分 純文学は知識階級の思考実験、インテリの知的玩具としての発展という側面があるように思う それからライトノベルをファンタジーの派生ジャンルと取り得るように思えるのは まず虚構性の高いフィクションである事とモノローグ的な叙述が多い事から、現実を祖型に取った視点が生じやすい事がある ライトノベルを私小説と取る事は無いとしても、読んでいると著者の視点、現実感が登場人物の語りの内に混入しているように感じられる事があり 特にそれは作劇作法や執筆の指針をどういったところに求めているかといったような情報を含んでいたりする 一例では「ゼロの使い魔」四元素魔法を作劇パターンと捉えて歴史資料、恋愛もの、騎士道もの、設定依拠等の展開パターン使用 虚無というのをそれらに拠らない作劇と見て、ある種理想化された書き方の在り様か何か別の偶発的な著作として 先住魔法を虚無同様パターンに拠らないながら完成度の高いごく自然な展開法として コモン魔法を掛け合いや基礎的な叙述として見れば主人公の「何でも使える」というのを著述の際の一つの理想的な在り様とも取れる
まあこの例がMMRで書いてる人から見れば噴飯ものであるとしても、そういう現実認識の混入志向というのはラノベには多分にあるように思う 実はこれはライトノベルばかりでなくてより高級とされる小説に多い事なのだけれど 虚構性の高いフィクション作品は小説の要件を架空の事象に求める事が多くなる為か こういったメタ的な情報が作品世界を構築するものとして混入する比率が高くなるように思われる あるいは作者自身の環境観を含むように感じられる事柄も多く、それだけに動機としての強さからか そういった混入する視点が物語の展開を推進する一つのエンジンとして有力な形を取っているように感じられたりする こういった点でも、ライトノベルは上に挙げたファンタジーの定義 単純な現実視からは見えないものを導き出す為のひな型という路線に沿うように思える事が多い ただそれが、純粋に娯楽的骨組みを確立した、つまり現実混入の余地なく確定済みの要素の積み重ねに沿った構築形態を取るような 一般文芸のあり方と異なる作法によるもののようにも感じられる事、娯楽作品としてのライトノベルはむしろこの一般文芸的な構築を旨としている事から 大体のところは作品の内に両者の在り方の両立や調和が行われる事で一種の理想的なライトノベルになるのだろうな、と思った
あるいは巧妙な組み合わせとか 定型と即興というか何というか 歴史ものとか時代劇については今のとこ要約する力は無いので またその内考えようと思った チャンバラ系の超有名なところは結構読んだのだけど 多分まとめるなら起源から見て行くような感じになるんだろうか とりあえず考証ありきの要素があるというのは聞いた事があるので 執筆作法はその辺りにあるのだろうと推測してるけど 要素としては他のジャンルの様々な要素も含んでいそうな気がする
×SFは現実の要件をそのまま延長した場合に結果される可能性を提示するものとして ○SFは現実の要件をある仮定をもとにそのまま延長した場合に結果される可能性を提示するものとして だった フィクション作品でオカルティストが製作に関わってそうだと思ったのは 「ラジアータ・ストーリー」と「女神異聞録ペルソナ」 前者は魔法学校とかの本の内容だかにあるゴーレムの作り方というのが妙に詳細で 儀式魔術の魔術の棒の作り方と似通っていたりする 他にも龍が4頭居て監視しているとかの設定とか色々が 後者は何というかセベクという会社がセトを思わせるので マキちゃんという女の子の役割はあれは祭壇の女神って事なんだなと 多分他にも沢山ありそうだけどゲームの世界が一番多そうだなと思う あと海外なら洋画の世界はオカルト情報を落とし込んでそうなものが多い マトリックスもだけどダークナイトとかも 個人的に、小儀式を含むGD系の儀式構成は一種のノートルダム大聖堂で ヘルメス主義の教義と知識の神殿としての側面を備えているように思うのだけど 逆に言えばそれ自体で完成していて不動なのでフィクションに生かすのは難しいのかもしれないと思ってる
ウィッカは原人としての女性という社会的観念を生成しようという実験としての側面があるので 個人的には男性や非女性を魔女と呼ぶ事には抵抗があるし もっと言うなら男性性の無力な地点というのをウィッカ成立の要件に据えたいような気がする ディアナとエンディミオンの説話が示しているように 森の魔女達が戸外で祝宴を行っている頃男性は家で眠りこけているので 男性にとっての魔女の場は眠りを通してしか参与する事の出来ないようなもので 男性にとっての魔女は、出会わない事によってしか出会う事の出来ないような存在と見るのが都合良く思える 魔女は女神アラディアの眷属なので主務として造化の働きを整えている 道教説話で人に秘術や神秘を与える存在として玉女が登場する事が多いのだけど 非女性にとっての魔女という存在についてはこれに近いものとして考えている 託宣やスペルの教授という形で人に教示を施す存在で アラディア女神の出自から、主にその内容は自然やペイガン的なものを背景にしたものだったりする より普遍的には他者から与えられるインスピレーションとかとしても考えられる 女性にとっての女神崇拝は説話原型との自己同一化を無理なく導入出来るので豊穣の展開として見る事が出来る 男性にとってのウィッカは上に述べたような、出会い得ない魔女に出会う事による神秘の獲得として考えた方が無理が少ないように思う あとは当然その働きを助けるという女神崇拝としての側面とかも、女性とは違った地点でのものになるかもしれない。森の外とか でも女神と有角神の重要性は説かれるけれども、魔女神アラディア自体を祭るというのは聞かない メモにまとめたやつの再筆記でめんどいので上のは多少たどたどしいけれども、ついでに言えば こういった視点があると魔女なる存在は儀式魔術と文脈的にも技術的にも隣接可能な存在になるように思う まあ主にディアナ派をもとに書いているので、サクソン派とかも見るとまた違った見方になるかもしれない
グリーンヒルの関口君は隠れ因果者なので その意味でラストの「普通になりたい」が感動的だったりするのだろうと思う で、ヒミズでずっと展開されるのは因果者と因果の世界で 住田君というのは主人公ではなくてガイドなのではないかと思う 世にも奇妙な物語のタモリみたいなもん
魔女についてはメモ見ればもうちょっとましな事書けるかもしれないのだけど 今メモ見れないのとメモやたら長いのでやっぱりまとめるのめんどくなるかもしれない
アラディア読みたいけど持ってない ルシファーっていうのは堕天使の頭という事でもあるけど 天使の堕天は体制とか時勢の変化によって既存の理念の多くが不要になるという事で 天人五衰のキリスト教的表現とも言える 断食なんかで伝統的に植物→魚介→鳥→四足の順に摂取を忌む傾向があるのは 生態が四季のサイクルに従順な程、自然の作用を受け取りやすいというような考え方があったのかもしれない 四足になると冬眠と衣替えはあるもののライフサイクルに対する影響は他より少ないので 自然の変化に影響を受けないような生態の貯留機関が発達していると見なされたとか で、それを自我と見なす事で動物を食べると動物の自我に汚染されるというような発想に至ったんだろうな
視覚化がうまく行かない時は視覚化像と自分の間を見えないヴェールが遮っていて そのヴェールが少しずつ透明になっていくよう意識するとやりやすいような気がする 本で紹介されているコツは「見えなくても既に目の前に顕れている事を理解する」事 別の本には「初めに黒い帳を目の前に意識してそれを開ける様をイメージする」と書いてあった 無意識と魔術・超能力の関係についての合理的な説明は 無意識も意識なので身体器官に結び付いていて操作や感覚を行う事が出来るというもので で、仮にその無意識が作用する器官というのが潜在能力とかPK、ESPに関するものだったら それを使えば超能力や魔術の行使が行えるっていう理屈になる で、Xメンになったりする 普通に言う集合無意識というのは確か民族的に共有されてる遺伝的古層の記憶の事で 例えば数人が山へキャンプに行って その際に大災害が起きて人類は滅ぶのだけど彼らだけ奇跡的に助かって その後人類が七回滅んだとして そのキャンプに行った数人の子孫がある日ふと「俺昔こういう山にキャンプに来た事がある気がする」とか言い始めた時に 他のやつが「俺漏れも」とか言い始める。その記憶みたいなもの、だったと思う で、その記憶が様々な行動の隠れた規範になるという事をその作用にする ユングの説が「人類は集合無意識を介して繋がっている」というものだったかどうかは知らない まあ、多分違うだろうと思うのだけど ただ、もし「集合無意識」が作用する身体器官というものが存在していて その器官が共通して感覚するものとしてある特定の現実位相の何かが存在していたとしたら 人類は集合無意識を介して繋がっていると言える事になるのだと思う のだけど多分それは、もしあったとしても動物が地震予知とかするような、五感に拠らないものだろうと思う しかし、最近書いてるこういうので創作してうまくすれば一発当てたり出来るんじゃないかと思い始めた
眠りのヴェールの向こう側なる現実に魔女が居るので 魔女に会うには眠りを超えなければならない これはクロウリーの深淵と構造的に似ている。「現実」を向こう側に据える点も しかし魔女に会おうと試みたところ眠りの向こうで自分は既に意識も形態も保つ事が出来ていないのであった ルシファーは堕ちる光という意味では物質に当たる光と言う事も出来る 正確には、アダムに仕える事を拒んだという説も鑑みれば 人以外の地点に作用している光と見なせるように思った だからアラディアは、誘導された反キリストという説も確かにあるのだろうけれども もう一つ、自身のものではない他者の力による恩恵というものを説いている側面があるような気がする 自力と他力というのともまた違う気がする。他力というのは自身の因果に繋がるものだけど この場合の他者の力というのは自身の因果とは異なる因果というのに近い 何だろう。二元論でいえば、自分を陰とする時に陽の立場にある力とか、自分を陽とする時の陰の立場にある力っていう感じかもしれない 魔女の教えは「生成・産出を行う他者」の観念の発達を促すかもしれない この観念は割とあらゆる経路に繋がり得るもののように思う 慈悲・慈愛からニヒリズムとの対面まで、自身に属さない力の流れという点で それを重んじる事で認識把握が可能になる領域は広範だと思う 「他者」というのも単に他者と解するだけではなくてアラディア聞き書き成立当時の情勢やウィッカの観点からすれば キリスト教以前とも自然とも男性原理の主導によらざる存在とも取れる ただ、これについては驚いている状況なので上の考えはまだ未整理 というのは意識化とか習得が可能なものかどうかが分からない
ムーンマトリックスっていうのは多分「神なき時代」っていう時代風潮が大前提としてあると思う 確か異星人を上位存在に置いていたと思うのだけどこれはその星を飛び石状の未来として表現しているのだと思う で、本来鳥というのは彼此岸の往来を可能にする魂の純粋な形態の象徴で、蛇というのは永遠性の象徴なので、共に神聖な存在としてあるのだけど そういったものをトーテムとする風潮への安易な回帰を促すという点でそれさえ警戒される 何故かといえばそういったものの持つ精神的既得権益に安住する事で改善さるべきが改められない事態を招くという事になるからだろう それが「爬虫類人」の温床になるからだ。具体的に爬虫類人という存在を見て行くと 本来は古代のごく一握りの祭祀者やエリートが共同体の命運を預かって存否や時には生殺与奪すら司ってきたという歴史観に端を発していて その悪しき面として中世の大貴族が人間狩りゲームを行ったとかいう事を見る事で、「イルミナティ」観が形成される いわゆるオカルト結社には神秘の探究というのともう一つ、「自分達の手で人類を善なる方へ導いていく」というエリート主義的な側面があるので それを例えば上の大貴族みたいな心性の人間の存続を図るいわゆる黒色同胞団的な指針に向かわせる存在があるのではという疑念も含むだろう
セレマにせよ悪魔教会にせよウィッカにせよケイオスにせよセトの寺院にせよそうなのだけど 二十世紀の欧米のオカルト的潮流というのは模索的だという点で共通している。この人も同じで、これは注意さるべき事と思う ムーンマトリックスはとりわけ問題意識が強くて、ほぼ万人に見出され得るというか そこに焦点を当てる事で「人類の七割は糞だね。何処行っても地獄だし」 という結論に至ってもおかしくないようなものを問題視しているので その事を世に問うって事はつまり、極めて微妙な取り扱いが必要になって来る しかも上に挙げた理由から問題解決に「神」観念というものを用いないし、民衆革命という形での根本解決もあり得ない 前者は最早「イルミナティ」の温床でしかないし、後者は混ぜ返しと別の「イルミナティ」の再生産にしかならない そういう中で一度意識レベルを一種の被洗脳状態に落とした上で 異星が表現している「飛び石状の未来」という観念を創出する事が解決法になる、と見たんだろう メシア思想では全くないし、考えたのが俺なら「宗像三女神が」とかサービスしようかと思うかもしれないけどこの人はそんなに甘くない それが「イルミナティ」の餌になる可能性の方を考えるだろうと思う。だからこの異星は神ではない 確かにこの方法なら自己判断・行動と判断の留保・俯瞰的視点を同時に確保出来るような心性を育てる事が出来る ただこれは相当厳しい問題意識から出ている考え方だと思うので 単純な陰謀史観ではなくて、何か嫌なものを現実に様々見せつけられた事があるのかもしれない で、日本で言えば大体、震災の時に「朝鮮人が井戸に毒入れたぞ」とか言った人が爬虫類人の代表格って事になるだろうな あとまあいじめっ子とかそういうのか。とりあえずはだしのゲンには沢山出てくると思う
読んでも無いのに何でこんなに知った顔で語れるんだよと正直思うのと 上に挙げた「日本の例」と欧米の例では桁違いにレベルが違うので 対岸の火事みたいな受け取り方が一般的なのかなと思う 精々がユダヤ資本が日本に出張に来てたりとかの話で「世界はこえーなー」って感じなので まあ国内で生活する中で痛い目に遭っている人が感激して救われるって類ではないのかもしれない 日本国内で陰謀史観の人は大概愛国者で一億人民は全て天皇陛下の臣民なので有事の際には靖国入りをこそ最至上の栄誉と見なすべしと思っているような人たちというイメージで どっちかといえば、談合とか憲法改定工作とか、右翼組織と政権与党の連携とか、そういう展開になったら興奮しそうな 陰謀との親和性高そうな人たちも結構混じってそうな印象がある 歴史的には太平記の崇徳院主催天狗評定とかイルミナティだなと思う あと、靖国神社って男ばっかなんじゃないかと思うんだけど、入りたいもんなんですかね?死んだら 北欧なんかだとあれですよ。乙女が迎えに来るんすよ。そんで女神の愛人とかですよ確か
うろ覚えだから違うかもしれない。北欧は
あれだよな。タケウチノスクネとかもし実在してて 日本版イルミナティみたいなのあったら、こぞって組織に迎えようとするだろうな 中身のない文章だけども
悪魔についてはもう大分考えていて 真正奥義書の三大悪魔はルシファーとベルゼビュートとアスタロトなのだけど ルシファーは明星で朝と夕方に現れるので昼と夜の境界を表す ベルゼビュートは蝿の王で蠅は物質を無に帰すし、古来蠅は無から生じるとも信じられていたので有と無の境界を象徴している アスタロトは驢馬の姿で現れるとされていて、驢馬は集落から集落を渡るのでやっぱり境界を表している そういう具合に、境界に立つ存在として考えられるんじゃないかなと思う 古典的な、十字路に立つ悪魔のイメージがよくそれを表している さらに加えるならサタンは「善悪」の智慧の木の実を人に与えたという事から ものの分別、善悪、好悪、可否、禍福等々の境界を表す存在として考える事が出来る 悪魔というのは十字路に立ってこれら事象の往来を差配しているので 本来善でも悪でも敵でも味方でもないのかもしれないけれど 習熟する事でこの悪魔を味方に着けるという方法として悪魔主義が成立する これによって十字路上を往来する事象の好悪や負える負えないの判断が可能になる 異境との境界になる最周縁を示す十字路まで延びる路地は 伝統的には集落の中央に至ると教会に繋がっている、らしいので 悪魔というのは単に術語として用いるなら信仰とも両立する観念という事になる と考えてたけど、改めて見直すと原罪を負う事になるのか その原罪とキリストの肩代わりした十字架はある意味同じものなのだろうけど キリストのものが全人類のものであるのに対して悪魔の十字は個人のものなのか
×ルシファーは明星で朝と夕方に現れるので昼と夜の境界を表す ○ルシファーは明星で日の出と日の入りに伴って現れるので昼と夜の境界を表す ルシファーの象意はこれで三つ目なのだけど もう一つ、最初に挙げた時代の変わり目を表すという事からか 新時代の布告者として見る場合もあるらしい。↑の境界指示って面とも関連してるけども しかし原罪の肩代わりっていうのはどういう事なんだろうな 原罪にも拘わらず救われるという事だから、原罪を肯定するという事なのか 「頭たらんもの仕えるべし」は公約数的な要件を満たしている事で つまりキリストは十字架を負う事で原罪をもある種神聖なものにしてしまったって事なのか まあ普通に異端な発想かもしれない。「富める者救われ難し」の言もあるし でも「神聖化した原罪」っていうのはあるんだろうか もしあるとしたら分別や好悪等々を神性の尺度でのみ用いた、とかだろうか それによって、というのであればキリストは少なくとも原罪に関しては 救いの道を示したのであって直接十字架によって救ったというのとは違ったニュアンスになる ただキリストはマタイ書ではそれまで救われないとされた者の地点にまで降りる事で救いを果たしたと考えられるし 十字架は確かに救いの表現なんだけど、原罪についてはまだ分からない
国常立命というのは名前の通り国が常立である事を司る神と考えられるので 例えば他に文明の発達を司る神とか探究を司る神とか文化交流を司る神などが居たとすると 通常は並び立つけれども立場的に並び立たないという事が生じるかもしれない そういう時にではどの立場を優先するかという協議が為されるに至ったとしたら それこそ神のみぞ知るというような世界の話になるので いわゆる神一厘というのもそういう事を指しているのではと思う 旧約中で「もし義人が何人居たら」と言って神と対話して都市の滅亡を避ける話があるけど それと同じ過程だろうと思う
対応策として考えられるのは、普通人としては理念の推移を注意深く見て行くという事が考えられる 理念そのものに立脚する「神」なる存在が立場に異変を生じるのだから人の側ではどうする事も出来ないという事になる 具体的には、「神が滅んだ」と感じる事になる あるいはイワンのばか級に純朴であれば災難も避けて通るのかもしれないけれども それは普通人の道ではないから日月の神は理念の推移を指し示して「改心しろ」と説く訳だ この場合の普通人というのは生活上の理由から様々の理念に左右されざるを得ない人って事だから どれだけ信心深くても懸命でもまじめでも「改心」せざるを得ないって事になる 「イワンのばか」は理念に左右されない人って事になる。生活者としては不適応だろう
日と月っていうと易の語源説があるけど日月の神というのは易と関係あるのかないのか 易は繋辞伝や序卦伝を見ると過程に国体の推移という事を組み込むレベルの「変化の書」で 六十四卦を順に辿ると何度か革命らしきものとか主体の推移に遭遇する事になる 視点が全体から中央に移り、中央から周辺諸侯に移り、そこから何故か力の集まるある視点に繋がったりする 他には普通に複数の王朝を跨ぐ形で卦象の応用例が示されてたりもする 恐がるといけないので日本的には公家→武家→維新→現代というような時勢や行政勢力の推移として表せる言っておく 日月神示の内容的には関係あってもおかしくない気はする まあもちろん読んでないので何とも言えないけども 今wiki見たら「月が赤く、日が黒く」とかはそれっぽいけど部分だし強引か
あと大元にと書かれていたので
>>274 の方法論は日月の神の御心にはそぐわない部分があるように思われる
恐らくは「次こそ普遍不動の真理に基づく世界観が定まる」という事なので
諸々の理念に左右されるという形では無くなる訳だ
奇跡云々は易理に通じる。盈つるを損じて謙なるを益すという風に
易は過剰も逸脱も好まないところがある
ただどうだろう。ひょっとしたら「これまではそういった世界観が目指された事さえなかった」という事なのかもしれない 神の世界の時間の感覚だから、目指されてから到達するまでっていうのは 人の感覚で言うと結構長い時間になるのかもしれない 力の世紀の倫理観は既に飽和したので大元を追う事になるとか
推移に対応出来れば良いという事か ただ、語り手は聞き手に苦労人を想定しているように思われる どうも諸々の理念に翻弄されながらもめげずに身を守りつつ懸命に生活していくような 超人的な存在が思われるのだけど、どう頑張っても最終的にそうならざるを得なくなるような人たちを聞き手に想定しているのかもしれない 時代背景もあるんだろうな。本当、日月神示で説かれている人の道はニーチェの超人そのままのような気がする しかし何でこう読んでもいない預言書について書いてるんだろうな
伝統的に日が持続、月が推移を表す しかし日月神示はただそういう名前の神の社の前で神掛かりになったという事なのか だとしたら以上は全く関係ないお話という事に 霊能者というのは凄い人は凄いので かめはめ波を打てたり舞空術が使えたりする 宵の明星が東にというと宵の口に日の出を示すという事か それか日の出の方位に宵の明星=夜を崇め始めるとか 単に金神が「日」の本を剋したという意味に取るなら軍国主義そのままだけど あれって戦後の著作だっけ 戦前なら太陽三つも四つも状態っていうのは統制不能勢力が三つも四つもって事で 満州軍とかそれっぽいけど、どうだろうな
また少し調べたけれども天子について語る日月の神の言葉は少し特徴的で 似ているのはキリスト教神学者と、特に似ているのはヒンズーの思想家 一見すると皇統の正当性を主張しているように見えるけれども 内実として語られている概念はクリシュナが説いている最高神の観念に近い 仮に当時の考え方で天皇陛下が皇祖神の直系で「現人神」であったとしても、「最高神」ではないのは 皇祖神自身やさらに系譜を上って語られる神々の存在がある事で分かると思う 考えられるのは、日月の神という存在が中世以来の唐・天竺・日本の三国思想に通底する文脈に深く接した神格で そこから当時の「天竺」の思想動向についてのアンテナが行き届いていたという考え方 十九世紀末には既にヒンズー神学者による講演が世界中で展開されている ちなみにいうと日本の神道においては信仰は通常、あくまで祭祀として語られていて 本居宣長や平田篤実でさえ熱意は探究と主張に向けられるのみでこの枠組みからは外れない これに対して日月の神が天子を語る際には明らかに「帰依」と「法悦」の概念が含まれていて これは先に挙げたように一部のキリスト教神学者かヒンズーの神学者が持つ感覚で 日月以前の神道文脈にはあまり見られないように思われる。天理や黒住等新宗教ではあるのかもしれないけれども その場合は民衆仏教か隠れキリシタン等の、思想というより民衆運動の形での影響として考えられるように思う 「最高神」というのは宇宙の総体を内包しているか またはその結晶か、それらを束ねるものとして表される存在 例外なく全ての想念が習合してその神の意思を形作っているので 人々の行為それ自体がその神への喜捨になるような存在の事をいう だから「臣民」というのはその下で生活する存在という意味になる
唐・天竺・日本の三国思想に関連して 日本は文化黎明に当たってまず外来の文物を受容して その後自国で成熟させた後に機が熟しきった場合に外へ出て行くという文化観があって 外来文化の摂取が始まった時点からこの文明観が構築されてきたように見える これが三国思想として表されているのだけれども、これで見るなら 唐は日本に伝来される文化の母体で、天竺はさらにその母体を備えたものとする事になる 外来の文物の優位性を捉えて受容した後に 土地柄や他の様々の相違から国内での成熟という過程が必要になって来るという事を表している そこから十分に成熟を果たして誤差修正を経た後に独自性を完了して さらに機を得た場合には今度は輸出に回るという流れになる この伝統的文明観が日月神示にいう「型の国」の根拠で、存外古くからの文化伝播についての国内理論になっている 方法論として合理的なので踏襲さるべきであるという主張だろうと思う とか、預言っていうのは色々好きに解釈できるように思うけど 読んでないので分からない 神示そのものが既に役目を果たし終えているというのを読んだような気もする
幽界というのは神智学的には四界の下から二番目という感じだけれども 神道的には結霊の向こう側で、既に禁足域に該当するのだったと思う 上の方の魔女に会う云々の試みでは、二秒で意識と形態が雲散霧消した 意識が周囲の空間に溶ける感じは確かに眠りのヴェールを経験したのだと思うのだけど 何と脆弱な自己である事かと思った、というかまざまざとその証拠を見た思いだ 何でも、深く潜るほど意識と形態を保てなくなるとかいう事らしい それで行くと眠りなんてほんの入口のような気がするが 自分の意識より周囲の意識的磁場みたいなものの方があからさまに力が強かったような気がする もしいきなり深く潜ったっていう事だとしたら、自身が無力化された地点に魔女を求めるという発想はまあまあ正しいって事になるのかもしれない 周囲の暗闇に意識が溶ける様はほんの一瞬だった 何にせよ貴重な経験だし、普通に戻ってこれたのでその内再挑戦したいと思う
あれ、神智学だっけ違ったかもしれない 伝統的にはこの手の試みは確か追儺と魔術円を用意して且つ形態を構築してから挑むのだったと思うけど そういうのは何一つしなかった
FMシアターのラップは恰好良かった 自分がビッグになれる理由は一つも言えないけれども もしビッグになりたかったら「ビッグになりたいから」とか 「才能があるから」とか極度に主観的な理由を五個以上挙げるんだろうなと思った ラップっていうのは多分日本人的には天地神明に対して何かを表白するような感覚と あるいは一騎討ちとかでの「やあやあ我こそは」の勇壮な名乗りとか 要は自身そのものを対峙する存在に対して主張するような流れが アフリカの戦士とかの間にもあって そういう事から対峙する人生とか大きな流れとかそういったものに 前者のような詩歌の感覚か、または後者の戦士的姿勢での対峙による感覚を用いるような そういった要素を基底にしているところがあるのだろうなと何となく思ってる だから黒人音楽は崇高さを覚えさせる事が多かったりする 少し前にラップ風のリリックを書いてみようと思って考えたけど 「YO YO」しか思いつかなかった
ケイオスの「エーテル体ダブル」が分からない 動物の形態という事で初め何かしら自分の成長させたい要素の象形として選ぶのかと思ってたけど キアの乗り物という事だったらキアのアヴァターラというのに近いのかもしれない どうやって決まるのか占うと習坎の四変で、「本来決定するようなものではないけども一瞬を捉えて決定される」 どうも奔流そのものの具体化っぽくもあるし、樽酒器二、缶を用うで出発点と到達点の間を運ぶ乗り物って感覚も覚える そもそもエーテル体ダブルって何かと占うと「同人之震為雷」で解釈が難しいけど 「因果的内部(野)で同質のものによって力を得て後に外的因果から来る難を避ける」っていう感覚ならトーテムっぽくて 一度決めたらずっと変えないっていう意味合いに感じられる 他に理想的形態は咸五変でよく分からないけど頑張って解釈すると 自己が内に留めるものを陰(外)が束ねる最後のものでほとんど何とも結びつかないようなものという事になる 多分占う人間によって違うのだろうけど、自分にとってはこうなんだろう もう一つ忘れたけど何の為に作るのかとか占ったら本卦か之卦にやっぱり震為雷が出て来て何かと占った時と同様の意味を覚えた
「ソロモンの鍵」の魔術ってどういうものかと占うと 順にhagall、kenaz、jera、eiwhaz、tir(逆)、wunjo、beorc(逆)で スプレッドは左から二つずつ問題、過去、助言、結果 正当な因果(jera)を打ち立てる(eiwhaz)事によって 外的因果(hagall)による開始または創造(kenaz)を行い 後に成功をもたらす(beorc逆)。助言は滞っている力(tir逆)を以って成功を収めよあるいは楽しめ(wunjo) ルーンは始めて日が浅いし自作なのでwyrdも使っていなかったりする しかも安価な薄板なので下書き段階で使ってて、破損が危ぶまれるので彫る事も出来ていない
真正奥義書についても占ったのだけど日が経っているので覚えてない 二と三と四の位置にmannazとothelとhagallがあって「所有物を割く事によって交流を生じる」 七の位置にansuzの逆位置があって結果は「偽り、虚言、あるいは知識を活用出来ない」と読んだ気がする 普通に黒魔術の悪魔契約っぽい結果だな、と感心したのは覚えてる ただ助言の位置に「まだ理解出来てない」とか「とてもその段階じゃない」という意味のルーンがあったような気がする
>>285 の「樽酒器二」は仙道で陽神作る時に下丹田と黄庭を往復させるっていうのも連想されるけども
陽神の過程自体が謎が多いので解釈が難しい
でもアストラル体はティファレト(心臓か太陽神経叢)以上
エーテル体はイエソド(下丹田辺り)以上ティファレト以下
っていう事がtree of lifeに書かれていたようにも思うので
これで解釈出来ない事も無いけどサメクの径とかの意味がまだよく分からない
ウェイト版の節制のカードも右肩辺りまで道が伸びてて小さく遠くの光が見えるし
一応は中心と周縁を結んでいるというくらいで解釈してる
常々、あの天使の翼は種の殻みたいで頭は芽みたいだなとも思う
翼の下と外の双方に四大が確認出来たようにも覚えてるので
内的変容の過程として描かれている部分もあるのではという気もした
内的な地は翼というか種の殻、水は杯ので地(翼の)にろ過された湧水的な
風は服で足元の水からの上昇気流、火は頭の光、とか
そういえば樽酒器二でもあるのか。翼は同人之震にも近いかもしれない
咸五変の解釈とも似ているかもしれない。どれもこじつけっぽいけども
内的変容というか、カードの名称から考えると マクロコスモスとミクロコスモスの関係から秩序を整えているという方が正しいのかもしれない 性功っぽくもある
規制回避 四捨五入と言っていたので四で止めようと思ってたけど六になってしまったのでこの辺にしよう
昔同人誌とか作る人になりたかった 少部数にせよ表現するというのが何か良いなと そんでも果たせていない 詩人さんは自費出版する人多くてすげえなと思う 一個の雑誌を自分の好き勝手で作るっていうのは面白いだろうな だから才能を要しない表現で埋め尽くされた個人誌というのを夢想していた 自分の国とか陣地を欲しがる感覚かもしれない
ベタな感傷的願望だけどもカフカの巣穴みたいな
居場所ねえ ここ数年絶えず周囲に脅かされ続けているような気がする
悪夢が終わったら真に一人で落ち着いてくつろげるのか 落ち着いた環境で
何故か北野武の弟子入り体験みたいな夢を見た ものは投げるわ機嫌悪いわで古風な芸人の師弟関係っぽさが異様にリアルだった 起きた後、「何で俺がタレント様と一緒に仕事しなきゃならねんだ」と忌々しく思った。意味が分からない 忌々しさが本物だったので、その稽古みたいなのをやってた場所を潰す様子を想像した 最悪の夢の部類に入るのだけど、特に 雪の中で人の草鞋を懐で温めて当の相手に「不埒な。斬るぞ」と言われて誇らしげに首を差し出さなければならないあの感じ あれが耐えられない。北野武という人は良い人そうだったけれども この手の夢は二度と見たくない 大体、他人が出てくる夢でまともに動けた試しが無い 大概逃げる事を考えつつ取り繕っている
出神とかの要領を思って頭頂部に意念を置いて呼吸を合わせ
全身をその振動と一体化させ、他界に行く事が可能な魂の形態としての鳥形をイメージ
イメージされた鳥形と自身を感覚や皮膚呼吸等の面で同化させ、飛ばす
目的地はあの世というか来世を設定して目的は
生きる目的を探すというのが一番理に適うように思ったので、途中で思いついてそうした
着いたのは夕暮れ後の西空がまだ橙色の時間帯の野っ原で、宮沢賢治の夜鷹の星みたいな世界観だなと思った
それか一回世界が滅んだ後、または農村の人が住まない地帯みたいな感じ。心地良い世界だった
白かった鳥は黒くなっていて、「生きる目的を探す」という設定に沿って
どこか巣か木の上か茂みの中に降りた
そこでギャーギャーと不気味な声で鳴き始めたので暫く意を任す
>>294 の望みは大体こういった過程を経て肯定されたように感じた
世界観が物凄く心地良くてとても自由な気分だった
この後も何度か同一の目的で鳥を送ったけど
次の一度は白いままの鳥が巣に落ち着いているようなもので
ややこちらの誘導が働いた結果のように思った
その次はどうも変な別の鳥人間みたいな連中が攻撃してきたので
防衛したり反撃したりしつつも不愉快になって止めた
この二回は最初の時ほど集中してなかったように思う
これは「眠りのヴェール」を意識するより前にやっていたのだけど
やりやすいのは圧倒的にこっちだと思う
何でこんな意味不明な文章を書いているかというと
他に面白い事が無いからだ。あと、人生が糞でも来世をイメージすれば
思わぬ広がりが意識されるという事が自分にとってとても価値のある発見だったからだ
二度目の白い鳥についてはどうも作為的な誘導から 不本意な結果を招いたというようにも感じた。多分自分の望みとか目的とかとの関係は一度目ほど深くないんではと思う でも体温を帯びているように思えたのでそのまま放っておいた
ただどちらかというと目的を「育てる」というような意識を設定していたので その意味では設定に適った様子でもあった
>>296 は大分前の事でうろ覚えなので色々と間違っている
「他界に行く事が可能な」というかより明確に「死を越える事が可能な」
という風に考えていたと思う。鳥の姿形というのでヒントにしたのがヤマトタケル等の説話だった為
なので死後存立可能なものだけで成り立った、無駄なものは全て削ぎ落とされた形態として初めに意識しているので
「感覚や皮膚呼吸等の面で同化させ」というのは誤り
むしろ身体感覚から解放されたものとしてイメージした
精神分析というのは普通に審神とかエクソシストとかイニシエーターを兼ねる技術を扱っているように思う それを酔狂ではなく職業意識で人を救うべく研鑽しているのだから強度は否定出来ない ナボコフの精神科医嫌いは彼らが自由意思の侵犯行為を行うからではないかと思う その意味で同時にオカルティズムを嫌悪していた理由もよく分かる。どちらも自由意思の素材や支配者を立てる事によって 人間を機械的に捉える事を要件にするので人間精神に対する侵犯行為という事になる これについて過程の一部のみを取り上げる事による拡大解釈として心理家、オカルティストの側から抗弁する事は可能だけれども それがナボコフを満足させるものにはならないだろう。具体的な文句は忘れたけれども著作の内に 「砂上の楼閣を作りたい」という類の言葉があった。彼らの言う全ては百も承知で別のものを目指していた訳だ オカルティスト、ニューエイジャーについていうなら革命嫌いの神経を逆なでする要素も見ていたのかもしれない 以前その要素について何か理解出来たように思った事があるのだけれど忘れてしまった
上は適当だけど以下はもっと適当 スピリチュアリズムを構成する根本要素は 霊と霊能者、非霊能者の三者なので、霊能者になりたかったら それぞれから守護霊あるいは来世、霊能者や霊能や霊的知識や行法的なもの 非霊能者としての自分とか地上的生活や地上的能力知識 の三つを三割ずつの等分と考えて それらの役割を常に意識して生活するくらいで良いのかもしれない 最後の一割は未知とすると、この構成で行くと比較的安定した姿勢が得られそうに思う 書いていたら何か生き方の提言みたいな雰囲気が香ばしいけども この思いつきは結構気に入っている
仏、法、僧的な感じ で、構成四者を重んじるっていうのは 自分の中にそれらの要素の認識を深めたり高める事になるので 非霊能者もいずれ霊能者たり得るという理屈 その各要素の関わりを捉える事で 応用論なんかも日常的に深まるかもしれない 霊、霊能、非霊能って分かりやすいし未知というのも強調が効いてるし ありがちな落とし穴を回避出来そうで気に入ってる
「霊的真理」は霊能者に占有させておくには高価過ぎる代物だし 心なり意思を医者に託すのは野蛮な習慣というか そもそも「霊的真理」というのは免罪符ではないし 元々が彼らの主張するようなものでもない 古くから、「霊的真理」は天地自然から偸む事によって成り立ってきたので その辺の消息は老子とかを読めば良く分かると思う スピリチュアリズムではその成り立ち(霊媒を介しての故人との交流)から必然的に 霊媒によって獲得される以外の一切の情報は否定されるので 仮に「霊的真理」をそこに求めようと考えるなら 逆説的には「霊能者を介してしか真理に達する事は出来ない」という思考を生じる 昔のカトリックや旧神職の祭祀占有思想の出来の悪い似姿で だから彼らは「あなたの『霊的真理』は我々に任せるべきだ」と言ってくる 一丁前に支配者気取りか、とここで彼らにレプティリアンの影を見る事になる訳だ あるいは否定するにせよ、どの道彼らは原則的な霊媒の権能が 生者と死者の仲介役以上でも以下でもない事を忘れている そうして彼らの方法では霊媒に縋る以外のどんな仕方でも霊知なるものは存在しなくなってしまうという事を忘れている
一応言うと神・守護霊等からの「託宣」「助言」は派生する別バージョン 「心霊主義」に接木された他からの合流として考えられるし より古い巫覡信仰の流れだろうと思う。ただ、現実的な体系機構はあくまで霊媒主義を骨子にしているし そうである以上、そういう霊媒主義としての様態を尊重する仕方でしか発展しないし機能もしない 霊媒主義というのは最初に言った、霊媒を介した故人との交流という目的と枠組みの事 いわゆる世界平和教とか霊知探究の試みとしてのスピリチュアルの形態もこれ抜きでは成り立たないし この基礎構造を通して実現されるべきだろうと思う。陰と陽というか。さもないと本末転倒になる 理念とその正当性に支配されて本分を蔑ろにしつつ視野を狭めて足場を失うという暗黒展開 というのはアセンションというのは世界を二分をするそうなのだけど 本来世界を二つに分かつのはサタンにのみ許された権能で、彼らは自分がサタンの思想を主張して サタンの方法を行使している事を知らないという状態を既に経験しているからだ。イエスはその誘惑を退けたとされてるのだけども 「霊的真理」が彼らには決して生じないと言っている訳でもない 無神論者や非霊魂主義者にさえ「霊的真理」は等しく把握され得るという話 それを神や霊知と呼ばないだけ
霊媒主義と巫覡信仰の厳密な違いは分からない 前者は後者から生じたものとも考えられるけど 端的に言えば前者が人とほぼ対等の霊との人の切望に応じた交信を主にして 後者が神や守護霊等との交信と託宣、助言を主にするというところが違いになる ただ前者が生者に対する助言を行うという事も考えられるのでその辺りから境界の曖昧さが生じる 前者は後者に比して生者の側も死者の側も現実生活との関わりの深い要請から交流を行う事になるし 後者はより宗教や思想の側に大きく比重を置いているというのも両者の違いになる どちらが正しいとかいう話ではない
まあ俺は霊的真理なんか知らないし霊感も無いので その辺りはこういう風に考えたりして推測しつつ 彼らの底知れなさと折り合いをつけようと試みる訳だ 心霊主義では守護霊や背後霊という言葉を 普通には心理学的な無意識層の要素として表現するようなものに対しても使ったりするので ある種の唯霊主義とでもいうような特殊な「霊」観念を構築しているようにも思う あとは、意外と西洋儀式魔術の主張と似てる。例えば精神統一は止観としてではなくて 自身の上位存在と繋がる為に行うのだという。然るべき監督者とその霊威が無ければ 彼の存在に繋がる事が出来ず、異なる存在に繋がる事になるという主張は イニシエーションが様々な条件を持っていて、無意識に作用する回路を構築するというのと似ている この場合、その監督者が示す事になる霊威というのがゴッドフォームとかに当たるのではと思う ただこの「上位存在」を特定のスピ集団のいわゆる背後霊団というものの内にのみ求めるようにも感じられるので 志願者は霊的レベルでそれらの団体に「所属」する事になるのだろう それが何を意味するのかはよくは知らない
ただ魔術円無しで試みた夢見的離脱の結果が上の方に書いた通りで たちまちの内に意識と形態が周囲に霧散して消失してしまったという事から見ると 上で言う上位存在が特定の条件下でなければ繋がる事の難しい存在というのも考えられないではない ただ、それってカバラ十字の祓いは一人でやってはいけない、って言ってるのと同じ意味ではないかとか しかしカバラ十字で認識するケテルは教義的にまとまっていて且つ直接意識するのは短時間であるのに対して スピリチュアルの上位存在というのは正直何かよく分からない上に精神統一というくらいだから長時間になるだろうし そういう意味で監督者を必要とするという主張かもしれない ただそういうニュアンスばかりでは無さそうなようにも思うし 何にせよスピ系団体が霊的帰属を推し進める作用を備えている事が多いのは確かだと思う だからまだそれがどういった完成型を取る事になるのか分からないけども 関わる人は上の判断からすると団体への霊的帰属を是とする「志願者」なので 煮られようが焼かれようが知った事ではないし外野がとやかく言う事ではないというのと 自分では好んで関わりたくも無いなという印象を持っている 引っ張り回されるのが目に見えてるから嫌なので、どういう気分になるかはもうよく知っている そういう意味で警戒してるし不信感も強い 「志願者」には望むところでもそうでない者には迷惑でしかない
まあ適当なのできっと恐らくこれを目にした人が気にするような事も何もないのだろう
ただ志願者と背後霊団による結社というのは確かに得体の知れない存在だと思う
それだと影の三首領が居てもおかしくない、のに「霊的真理はパンピーには教えれません」という事で
それあれじゃん。彼らの「霊的真理」より俺の
>>301-302 の方が遥かに優秀なんじゃん
と、思ってみたくもなる訳だ。組織論的にも霊媒主義的形態が活かせるし
「来世」または「守護霊」とかの目的すら不鮮明なのがスピの人らの「霊的真理」の体系だからな
「パンピーには教えれません」ってドヤ顔で。解脱か先祖供養か何が望みだっつー話で
「先祖供養」が目的っていうのはあからさまに霊媒主義の限定枠で、「志願者」の発想する事ではないように思う
さもなければ「先祖供養に人生懸けてる」凄い人達という事になる。自分が皆殺ししたので生涯懸けて償う、というのなら別だけど
人生の目的を先祖供養に捧げるのは忌憚なく言えば、常軌を逸した生き様だと思う
この点から見ても一度「霊媒主義」としてのスピリチュアルを捉え直す事は絶対に必要だと考える
「シヴヤ系って毎日乱交パーティーとかやってそうなイメージ」って言うと 隣の友達と肩寄せ気味に何こいつ?みたいな顔をする女の人は 意外と田舎のおばあちゃんが他所者を見て友達と顔をしかめる様子にとてもよく似ているというイメージ 「ヒルズ族って毎日乱交パーティーとかやってそうなイメージ」って言うと スーツの人が「またか」って感じで何か諦めたような脱力した感じでにやけそうなイメージ だけど、実際どうなんだろうね
ケテルについては ・全てに浸透し得る唯一の光である事、より正確には 生命の樹に表わされる要素の内で唯一、全ての小径に浸透し得る光であるという事 ・アインソフを満たし得る唯一の光である事 ・背後に上の次元を控えている事。いわゆるアツィルト、ブリアー、イエツィラー、アッシャー等 ・同位次元の全ての要素を傘下にしている事 という風に条件が設定されていて教義から存在を逆算する事が可能 カバラ十字では、少なくとも現在一般化した用法では先に巨大化して宇宙に浸透する身体をイメージする 過程で地上、惑星天、恒星天を足元に据えるので、結果として それら全てに先立つ光、原動天としてのケテルが表現される事になる 個人的にはもう一つ、上に挙げた条件の内の上位次元を背後に控えているという感覚を意識するようにしてる 光の先に別の広がりを覚えるけれどそれを見たりその先に立ち入ったりは出来ないという感じ 誤った対象に繋がる危険については、こんだけしとけば大丈夫だろう、という気はする
>個人的にはもう一つ、上に挙げた条件の内の上位次元を背後に控えているという感覚を意識するようにしてる >光の先に別の広がりを覚えるけれどそれを見たりその先に立ち入ったりは出来ないという感じ これ違うかもしれない
わごうさんの話は 「存在の耐えられない軽さ」とかの感想を素で覚えてしまえるほど軽かったのは 別に俺が文極経験者としてそっち寄りの姿勢を覚えたからという訳でもないと思う てめ、辺り構わず昭和エレジーとかやりたいだけじゃねーのかよ的な 現代詩手帳は文極見るより遥か以前に2ちゃんで専用スレが経っていて 自分は当時そわそわと自分もここらで何かこう、詩の雑誌の一つも買わん事には と思っていたのだけど何かこう文芸誌っぽさがあれだったので手帳の方は遠慮してるしおるという雑誌を買った でもあんまり読んでない。彫琢具合が桁違い、とか言うと後でまた何の得にもならないのに ステマ臭い褒め方したというので自暴自棄になるかもしれないので止めておくけど 弓取る者の詩、みたいなのが面白かった。多分あの雑誌はいわゆる強度とリーダビリティの信奉者たり得る性格のものだろうなと思う 個人誌とか研究雑誌とかに近い感触 もちろん床屋政談というかプロ野球を批評する素人的な目線で言っているので 知った口利くなと言われたらそれまでだけども
確かあれだ、AKB48のわたものの後の時間で わたものはスッチーの研修と本採用試験みたいな話だったと思う それは博物館惑星の回だったっけ どことなく緊張感漂う回だった。山寺さんが鶏の無き真似してみせた回だったか その前が確か動物園の呼び込みの話だったっけ わたものはたまにしか聞かないので音の風景は土曜日に聞く事が多い 見聞談みたいなのは実地取材の結果らしく重いのだけど リアクションがあれなので何を詠んでいるのかよく分からないというか 何を詠んでいるのかよく分からないというのがお姉ちゃんの「地球でした」宣言で掬われたというなら そういうのは「料理した」というのであって、詠んだという事にはならないし 大方は災害の悲惨ではなく「そんな中でも超余裕で生きている俺」を謳う事が求められていて多分そんな事が出来る社会的生物はこの世に存在しない という事からあの調子になったんだろうかと思う
飛ばせハイウェイ飛ばせ人生は何回聞いても良いのが不思議だ 幽霊の自転車の飯食うくだりも泣ける いや泣かないけども。今やってる見掛けの二重性も面白いなと思う あれだ。少女小説ってやつだ。良い展開だし笑える
詩人云々というかダーザイン氏が元気だろうかという程度の趣旨で 「詩人」については正直なところ、流通ベースに乗る意思の有無くらいにしか考えてない そんでそれはどうしても詩壇というのと繋がるのだろうし 逆に言うと流通ベースを考えなければ詩壇というものは存在しないので 今のところ、発信と伝播の過程にそういう流通ベースが存在しない2ちゃん世界に安住している身としては 特に「詩壇なるものが存在する世界観」に注意を払わないと「詩人」の話は出来ないので その意味でここは外野だし、紙の詩人は殊更取り沙汰する対象でもないという事になる だから紙の詩人が表現に真摯であるという事は十分にあり得るし それはそれで裾野が完了していて構わない世界という意味でもある そうしてそういう事とネット詩どうとかは何の関係も無いし ネット詩云々するのは紙を視野に収めた流通ベース上の詩人の発想なので まあそれはネットと紙の中で流通ベースを見据える「詩人」の中で展開される事柄なのだろうと推測しつつも そういうのよりダーザインの人元気かなーレベルの発想の方がこっちとしては本流になってくる
福島というとまずライジングインパクトが浮かぶ 山また山の風景。去年くらいからはサンボマスターの曲のイメージが圧倒的だったけれども 最近また思い出した。何か公園で寛いでると休憩中のタクシーの運ちゃんとかホームレスの人とかに 度々気遣われたりしていた時代に気に入っていた漫画だった。報われない努力家的な人が エピローグで成人してからは主人公と競るくらいになっていたりとか、色々と和む漫画だった
最近買った本は 奇門遁甲全書、アイヌ神謡集、rune primer、あともう一冊 東洋系の占術書によく出てくる「驚」や「虚驚」について少し考えた 一番古いのは多分周易の震卦だろうなと思うけど 他に騰蛇が驚を司るなどとされていて、むしろ関心を引くのは式占以降の象意説明での多用 ある種の普遍的要素といえる頻度で表れるので、その正体が気になった 西洋の方に目を向けると、これもその象意が気になる「角ある神」にも比定される事の多い 牧神パンがパニックを司るとされる事、また同様に捉えられる事のあるディオニュソスの巫女が示すといわれる狂気などが連想される 震卦は驚の後に則ありと説く。これは先と後の二重性を表すようでもあり 見掛け上の異変に驚く事なく然るべく難を逃れれば、後には正規の法則が展開されると説くように思える 比較すると、角ある神の方ではかえって狂気に身を任せるような伝承が説かれていたりする ここでの狂気は二重性から来る歪みの解消を行うものとして扱われているのではないかと思う 二重性は、人と獣の半ばするような角ある神や牧神の形態によってよく表現されている 騰蛇もまた、上がる蛇と書くように羽根のある蛇の姿をしていて、二重性を体現している 巳支によって「巳(すで)に茂り終えた」気候を表すと同時に 冬へ向かうサイクルへ反転する地点への移行を、飛び去る為の羽根によって示している そう考えると東西における「驚」の観念の普遍性とか親近性、両者の二重性との関わりが見えるような気がする 根は気候の推移、サイクルの転換という観念なんかにあるのだろうと思う
魔女宗のオークキングとホーリーキングは東洋でいう龍と虎の関係だろうなと思う 三女神についても考えたのだけど、古来天はドーム型をしていてその外郭を一周するのが獣帯とされていて また直径×円周率3.14が円周になる事から天の半球の凡そ三分の一 サイン二つ分の距離が地上から天までの距離とされていたらしい そこからホロスコープ上の春分点、牡羊座の起点と地上を示す円の中心点を結ぶ底辺を持つ上向きの正三角形を描くと 頂点は双子座の起点になる。牡羊座を示す点を日の昇る地点、双子座を示す点を日の向かう地点とすると それぞれが過去と未来を表し、処女女神、老婆女神の司る地点と見る事が出来る。円の中心点を母或いは妊婦型女神の点とする 同様に円周上の獅子座、天秤座、射手座、水瓶座の起点に頂点を置いて六つの三角形を描き 円周上の点を処女女神と老婆女神が交互に司る図像が表される事になる。これにさらに八大サバトに合わせて中央の冬至点と夏至点を加え、 この両者には特に母型女神を配する。春分点を処女女神、秋分点を老婆女神が司る事になる これが三女神の原型で、この図で見るなら三者が地球の座標を推移させる事で気候の変遷させるように見え 糸車を回す三女神の図像そのままの意味を読む事が出来る。理神的性格の超越神として考えられ、太母神と関連させるならその意思として見ると符合するように思う またこの図を月齢に適用するなら右を春分点、左を秋分点に代表させる事でそれぞれを処女女神、老婆女神の支配と見なし 右をケセドの月、左をゲブラーの月、最上部と最下部を満月と新月と捉え、ここから母型女神の示す産出・懐胎の象意と関連付ける事が出来る
全て処女女神は火、老婆女神は風、母型女神は蟹座で水、山羊座で地のサインに示されており それぞれを錬金術の硫黄、水銀、塩と関連するものと見る事も出来るのではないか。 また支配惑星も春分点から順に、火星、水星、月、太陽、金星、木星、土星、土星(海王星)という風に八点でばらけている 再び三角形に戻るなら、これを顕現の三角形と捉え、その中点に角ある神が顕れるものと考える事も出来る この点は半径の中点でもあり、太陽は七惑星の中心に位置するともされる事から 角ある神が太陽神とされている事とも一致する事になる三女神が太母神の意思を示してサイクルを外から支配する超越存在とすれば 角ある神はその力の拮抗する中心点にあって地上の勢力を直接に率いる存在とする事が出来る カバラ的には顕現の三角形は、「ケテルを頂点に戴く底辺が描く図形」として示されると思っているのだけど この天を頂きに据えた形と上述の、ホロスコープの中心点を地上と捉えて中心に据えた三角形を組み合わせる事で 六芒星が成立したのかもしれないと思う。天の原理と地の原理の調和としての図形 それか水のサインで描く三角形と地のサインで描く三角形として考えるなら、この場合の水を空と考える事も出来るのか 他には山羊、天秤、蟹、獅子と中心を示す頂点の五点を結ぶ五芒星を描くと それぞれの元素が現代魔術でいう五芒星の五点の元素と一致するので、なるほどと思ったりする
前に別に書いた長たらしい文章を書き直すのは面倒臭いので 読み直すととにかくひたすら読みにくい文章になってしまっていると思う >山羊、天秤、蟹、獅子と中心を示す頂点の五点を結ぶ五芒星 山羊、天秤、蟹、牡羊と中心を示す頂点の五点を結ぶ五芒星 だった。単に春秋分点と冬至点夏至点という風に書けば良かった 他にも色々間違いがあるかもしれない
>>317 の騰蛇についても生飲み込みなので間違ってそうな気がする
この場合は「これからさらに強烈に暑くなる」という意味に解した方が近そうだ
それか巳の月は確か少なくとも日本では梅雨入り前だから
大陸の気候が同様ならそういった意味とも考えられるけども
ギャグ漫画描いてみてる
普通に普通の素人が描いた漫画という感じになってる それは考えてみたら当たり前だけど 自分としては意識過剰から来る空回った表現を恐れているので 中々順調と思えたりする コマ割り作成はリズム感が楽しいと思う でもまだネーム5ページ目の段階で原稿化する目処は立たない
かなり前に考えたセフィロトの八卦対応が コクマーが乾、ビナーが坤、ケセドが震、ゲブラーが巽、ティファレトが離 ネツァクが兌、ホドが艮、イエソドが坎、ケテルとマルクトが重複で坎と坤というもので 後に777を買ったけれど違っていそうなので確認していない 777は照応を活用するのはまだ先になりそうだけれど 数秘概要とか各種含意がとても勉強になる 昔超初心者時代にトートの書を読んだ時にも思ったのだけど クロウリーの語の使い方は超理知的で定義が厳密緻密を極めていて 時計職人みたいなところがある イギリス人だからなのかは分からないけど 本格ミステリ系の感覚のような気がする。庭造りとか上手そうだなというか 五芒星のゲブラー配当は知られているけれども個人的にその青色は女王の色階のケセドの色として考えてる ビナーの黒色が夜の空でケセドのstary blueは日中の青空の色 五芒星の象意全体として考えるならケセドの四は奇跡の意味を持っていて 夜から昼へ、地上への天上の諸力の恩恵の顕現を意味する事から「奇跡(ケセド)の布告者(ゲブラー)」とでもいうような意味を持つ事になる ケセドの惑星対応の木星は地上に降ろされる作用を率いる意味合いを示すので長老的な、ソロモンの鍵でいうところの達人の位置付けを持っている
たまに脳が溶けるのではないかというほどぼーっとして眠くなる事があるのだけど 無意識の抵抗が強いみたいでいまいち良い気分に浸りきる事が出来ない これは学生の頃に鍛え上げた居眠り防衛機制の作用ではないかと思っている 困った事に眠気が深まれば深まるほど危機感が増すので 本来穏やかであるべき時間を穏やかに過ごす事が出来にくくなる ライフサイクル中の夢心地で居られるような機会に 神経をひりつかせるこの感覚は不要であるべきだ
ねむい
多少持ち直した
もう寝るか
陰陽道で鬼の行く先として四つの地が指定されている 昔五芒星をそういった地点との境界というかワープホールとして扱われているのではと考えた事がある 儀式についてのレクチャーとして「宇宙の果てを意識する事」とある事が多い だから振動する神名は座標指定としての意味を持っていて退去を受けた諸力は四方それぞれの神名に仕える事になる つまり小儀礼を行えば行うほど魔術師の力が育つという風に考えた これが正しいかどうかは未だに分からない 陰陽道と儀式魔術の相似について考えたのはもう一つ ネフェシュと八将神等の方位神について、色々考えていたような気がする 黄金の夜明け全書ではエドムの八王とかをネフェシュと関連付けていて ネフェシュは表層意識に対しての自律意識という風に解されていたと思う 木でいえばイエソドで意識の直接の作用を受けない荒野としての自律系、動物的意識の位相とかだったか 但し低次天才をルアクが受け取るならその作用をevil geneusとして発露するとあり 天一神、牛頭天王がこれに当たるのだろうかと
そんで金烏玉兎集では竜宮が牛頭天王のまず向かう先として表されていて それは上述した退去後に諸力の向かう先を示しているようにも思えるし 今昔等の陰陽道説話に追儺の際に鬼の乗り物として船を用意する事は割と有名 あとは序論の晴明説話についても白道仙人を月として晴明を日、道摩法師を閏、空亡として 暦のズレを修正する手続きについて説いていると考えられるのだけれども 同時に全書中の死者の書の扱いに照らしてみると白道仙人がホルス、イシス、ネフテュス、トートで 晴明がオシリス、道摩法師と梨花を日食期のセトとセト統治下での地上と考えるなら 西洋魔術でいうところの深淵での出来事を語るものとなり 例えば白道仙人を月と見るならこの時ギメルに配当される意味での月を示し 月が深淵を越えるという風な含意を見る事になる 考えてみれば日食によるイレギュラーな夜を地上が蒙る最中も月は日光を受けている訳で 夜=ネシャマー=地上に降ろされる諸力の用意される不可視領域とこの時月は接しているという事になる というより夜、月、日=ネシャマー、ギメル、ルアク(意識)がこの時一続きになっていて ギメルを介してネシャマーとルアクの連続を得ている時点で、この時地平線下で無く上空にダートが発生している事になる あとは密教の月輪観というのは梵字や仏の乗り物のような形を取るようなので そういった、深淵を越えるという働きを意味するのかなとか まあ色々考えた
同時にこの月をイエソド=全体、枠組みとして 日をティファレト=意識の光と考えると 止観とよく似た構造になるような気もする セトは異界、結霊の向こう側の神なので本来滅多な事で顕現しないとされている 上の方に三国思想とかについて書いたけれども そういった事物の顕現までの過程の領域を網羅する形で示される作用の総体か、それらを統べるものとして考える事が出来る その意味でもヒルコと非常によく似ているように思う 日食に関しては通常不吉とされるけれども 同時に、記紀神話では神々が総出で祭りをする機会としても描かれている 岩戸隠れと金烏玉兎集の説話を関連付けるなら 白道仙人はその際天照を呼び戻す神々の働きを表す事になる 引いてはこの事を神意の顕現として表現する事が可能だとしたら ネシャマーの顕現、ダートの発現として説明する事が出来る 晴明と道摩法師の占術競争で晴明が箱の中の柑子を鼠に変えるのは 深夜に子の刻を迎えて作用がサイクルの底部に接する事を表すと同時に この子をいわゆる根の国として、根の国に連絡する時間として考えていたのではないかとも思う それか、今思いついたけどもっと現実的に、暦のズレを整える際に日干支が子にある時に行ったという事か 夜と柑橘類と鼠についてはアラディアの中にも説かれていて 偶然としても何か読み解く事の出来る共通要素があるのではないかとも思ったけどどうだろう 前者の解釈なら割と綺麗に繋がりそうな気配がある
糞暑く真暗い夜のじめじめと茹だる気色に風が涼しい 花火無しかき氷無し白妙の熱砂に子供の草履が 夜更けてカレンダー見る七月と八月の朱色の日付の列
凡作だなーと思いつつ凡作狙いと弁明する事 こういうのは薄氷を踏み抜かなければ上々と言えなくもない気もしないではない 歌は元々は応酬や呼び掛けが多いように思う 敢て対象を省いたのが近代短歌、なのかどうかは分からないけども そうだとしたら俳句とかの影響かもしれない 多分和歌のうら若い男女が意思疎通に使ったりしていたという伝統と 一方で俳諧はおっさん方が句会で捻ったりするのを主にしていたという渋い流れから 結構な違いが生じそうな気もする
セリーヌによるとアフリカの日没は太陽の殺害そのものなのだそうだ この人は反ユダヤ主義だったんだよな 爆撃の中で漫談している雰囲気が強烈だけども 理解出来ている自信は無い 虚実の境が曖昧というか、むしろどっちでも良いというような地点 罪と罰のラスコーリニコフ的譫妄状態でトム・ウェイツみたいなダミ声の二メーター超のおっさんががなり散らしているというと 何が脚色で何が事実かは最早どうでも良くなるというか そういう話者自身の側のリアルが白熱するのを眺めるような譫妄リアリズムの世界 キャッチフレーズ「卑怯者の文学」というのもこの種のリアリズムに由来する属性かもしれない というので合っているのかはどうかは知らない 読んで大分経つので覚えていないというのもある
>>332 良い歌に思えてきた
俺は多分、自己満足出来れば良いのだろうな
そういう作歌態度、というか目的
temple of setに、個人的に懸念してた色々な事がそのものずばりで触れられてた
霊的帰属についてもそうだし、芸術とオカルトの両立可能性についての疑念に対しても
構造分析と解決策が提示されてる、というかそのまま引っ張って解釈出来るようになっている
あとは不眠の徳目
先入観の段階から超単純に歴史について考えると 短歌は言論とか運動と関係が深そうなイメージもある 俳句はもうちょっと脱俗的なイメージがあって、芭蕉の創始からなる成り立ちからの連想かもしれない 詩は運動とかするけど明後日向いてそうというか、直接にコミットする事の少なそうなイメージ 大向うを相手にする感じではなくて、単独で聴き手を取りに行くような感覚 文学運動っていうと大概は作家と評論家を主役にした流れがメインストリームになるイメージで 「文学運動」って聞いて乗り気になる順は詩>>>>>短歌>>>>>俳句で 実際にコミットするのは短歌>俳句>詩の順かな、というニュアンス 詩は脳内地獄、俳句は個と場、短歌は個と個と場と流れを相手にするのが得意というイメージ 短歌のカバー範囲が広いのは、習慣化されてからの歴史が長くて応用例の蓄積があるという事から来る 俳句はそういう短歌の流通性に対する非流通性みたいな要素があるのではという印象 詩は導入時点で内包していた文物の要素から主観的現実の「西洋」的な叙述というのを意図したのではというのと ただここでいう「詩」はもちろん漢詩ではないというのと 俳句には漢詩の影響があるのではというのがある 漢詩は事物の叙述による結構を可能にするっていう特徴があって 例えば江戸期の漢詩人が詩を説明するのに「詩文は散文の精髄」という風に 簡単に質の疎密で論じてるように、事物の叙述によって成立させる事の出来る形式を持っている
傾向としては俳句に親近性を覚えるのだけど
一方で十七字に作品性を現出させる技巧は自分にはやや足りてないと感じても居る
>>332 は和歌だけど
>>336 でいうところの俳句的技法を応用してる
これまで見た限りで魔力とでもいうような性質を備えた作品は和歌に多い
ただ、それが俳句に発揮されている場合の凄味はひとしおのものだったりする
言い切りに気配や気勢がかえって留められるというか
多分凝縮という意味ではなくて周りが白い分だけ色が凄くなるっていう作用かと思う
「魔力」はまぐれ的ではなくて大体は同一の俳人・歌人がコンスタントに発揮してる事が多いように思う
いや、オカルト的な意味ではなくて、印象として。オカルト的な意味も持たせられるのかもしれないけどそれは今は考えてない
萬法帰宗を買った
オカルティストの芸術利用は 創意と感受性の遊び場としての利用法が最適なんだろうなと思う 文始真経に「神秘を見てると心が疲れる」と書いてあるらしいのだけど そういうのをほぐすというか、肩慣らしの一種みたいな感じの
完全性とかある種の法規に則った境地をオカルトで目指している場合 世界説明を行う要素と頻繁に関わっている事になるので固定化して、肩が凝るのではと思う それをほぐす意味で確保する遊び場、という合目的的な芸術 超システマチックなSF世界にレクリエーションの為のレクリエーションが登場するような感じ ただ、それを芸術と呼べるかどうかは知らないけども 割り切ってる分楽しいだろうとは思う temple of setの方で読み取ったのはもう少し違っていて 上のはそれ以前に考えていた事を今延長したもの
歌とか句を言うのに特に「魔力」という言葉を使ったけれども 何かそういうものを覚えて惹かれた、という事があって その時にまず受けた印象が魔力という事だった そういえばピアノ演奏とか聴いてそういう印象受けた事もある ただ、そういう魔的な印象のものばかりに惹かれるという訳でもないし 色々ある
>>271 エメラルドタブレットとかと照らして考えていくと
三者を主に第一質料との関係から、錬金術の三原素の作用として見ていけるかなと予想
ルシファーは光の及ぼす変容作用として硫黄
ベルゼビュートの分解性質を水銀と見てこれは四元素を発生させる作用
アスタロトも同様に
>>271 から引いて、貯留と抽出の機能、塩の働き
ルシファーは言うまでもなく後二者の元ネタから来る性質
創造神、造物主としてのベルゼビュートと
都市女神としてのアスタロトの性質にも通じる
三者がそれぞれに第一質量的なものを利用可能な形に変換させる力を表しているのかもしれない
逆さ五芒星については
>>319 の五芒星の考え方から推していくと
ホロスコープというのは北面して仰向いて天上を見上げる形で頭上に描かれるものなので
上下反転するという事は単に図形の上下をひっくり返すだけではなく
俯いて地面を見下ろして、天上の図形の似姿を地上に捉えるという事になる
これを天上の図形の映しとしての幻影、いわゆるマーヤー的な作用の流れと捉えるか
地上的勢力による天上の似姿、二元論的なネガ側勢力の秩序と取るかは分からないけれども
逆さ五芒星についてはそういったものとして見る事が出来る
どこか「悪魔の偽王国」のコンセプトと似てる
あとは単純に、図形を通して天を見るか地を見るかが違うというのと 見上げているか見下ろしているかというのも違う
嫌いな奴はいつも死ぬ程嫌いになるので顔を合わせないという方策を取る事にしている それで自分の不利益になるようなら自分の性質を嘆き呪いつつも如何とも出来ず歯噛みする 四六時中顔を合わせなければならない相手である場合にはそれこそ地獄の苦しみ
筒井康隆の詩嫌いは有名だけれど この作家の持つ、いわゆる非石原というかリベラル系のこまっしゃくれた知識人達でさえ 右に倣えする程の影響力についてはあまり取り沙汰される事はない 一例として高橋源一郎の短編に作家が女流詩人と再婚するお話というのがあって あいいった中に筒井の流れを汲まんとしつつの挙句としての「詩」と聞いて「ああ(あれね)」の目線が見て取れる 筒井自身についてはどこか、例えば日本にボードレールやらランボーやらが登場したらこの人は評価するのだろうと期待させる公平性というのがあって そういった点で詩人の側から取り立てて異議を覚えるような要素を見出せない一方で詩壇的視点から見てその重圧は否定出来ず さらに悪いのは上述したようにかの作家が持つ大影響力で、大体が高橋源一郎がそれに倣ってしまっているという時点で このまま行けば東浩紀もそうなるし安部和重もそうなるし平野啓一郎もそうなるだろう、っていう事だ という事は、詩壇は放っといても遠からず滅ぶ、或いはやんわりと封殺されるに至るという事になる まあ、こういうのが「陰謀論」的状況予想の展開になる 人の脳髄から生み出されたこの陰謀論なるものの妥当性や優秀さの如何なるものかは 例えば上記を基に今後を見れば証明される事になるだろう まあ外れたら外れたで俺の予想の不備に留まってしまうのかもしれないけど
高橋源一郎のお話は婚前はお芸術志向の花嫁をうっとりさせつつ同居初日に作家が牙をむき出しにするという 詩をめぐる鬱陶しささえなければ普通に背徳的で愉快なお話になってる まあどうでも良いが、詩をめぐって採用されたシンプルで卑俗な形式を説明するのは かの作家、文学者の持つ国内現代詩なるものへの見解を理解するのに便利が良いだろう 大層繊細なお話だ
陰謀ロマンそのものは東西古くから伝わるもので 太平記や鉄仮面など様々ある訳だけども 一方で陰謀論というのは「大きな流れは全部自分以外の、自分に反する勢力が作っている」 という信念があって、これ要は「世界の悪は全部あいつらが悪いんであって俺のせいじゃない俺は何も悪くない」という 最近の俺と非常によく似た思考形態の持ち主達が支えて来ているのだろうと思わせる理論に拠っている まあ実際そうだから、と考えるのはとても楽で、今では俺は他の可能性は考慮しない 前は逆だったのに
いわゆる「アセンション教」は終末とジ・ハードと二元論と自己弁護の肯定を行う霊知に満ちた正当な教えだよ 少し前に青い炎のようなものを見て、それが情念のようなもの 唖然とするほどヘタレていて情けない心情のようなものを保有しているのを感じた 同時にそれが俺自身の、霊体だか陽神だかである事も理解した まあ、課題が見えたというのは良い事でもあるのか
>>348 要約すると、荒々しい直截的体験としての「ブンガク」の顕揚と
その「ブンガク」は小説であり
そこに詩(及びお芸術)は含まないという作家の意思の表明という事になる
で、高橋源一郎が組織化した小説(=ブンガク)>>>>>詩(=お芸術≠ブンガク)の構造が
>>347 で後続すると予想したような人員にある程度の親和性を持っているのは割と確かだと思う
お芸術捕まえて「ブンガクすげぇぜぇ〜ワイルドだろぉ?」とか言ってる奴が
「詩wwwwwwwそれブンガクじゃないwwwwwwwwww」
とか言って国内詩の今後を決定づけようとしていた(している?)訳だよ
で、そういう御仁がニッポンのブンガクの大体中枢辺りらしいので
どーなるかなー、と
これ名前ある人が著名入れて言ったら多分死ぬんだろうな。死ぬというか普通に干される こえー世界ですよ。それに較べて匿名って良いよね平和だよね そういう意味でも陰謀論と近いなこれ 文学はー好きというほど読んでいないし嫌いというほど読んでいない 綿谷りさのファンでというか文庫本を二冊買ってしまうほどなので 高橋源一郎(以下TG)斎藤美奈子両氏による文庫解説は偉いなー立派だなー面白いと思ったものをそう言えるのはと思った TGは確か華倫変についても書いてたな。華倫変は仏教の人だったか 確かこの板で面白いと聞いて買ったんだった 光うさぎは読んでいて心地良く、取り立てて痛みを覚えたりはしなかった しかしそれは読み方として望ましいのかどうだか分からない カリクラは不気味だった。事件記者的
綿谷りさは登場人物に感情移入する事無しに自然に読める テキストとこちら側との間に均整の取れた距離を保つ事が出来るという事 厭世的なところもうるささを覚える事が少ないので読みやすい 仙道については伝統流派で煉丹の前段階で準備的に行うとも 最上乗ともされる還虚の行を継続してると言ってしまって良いのかどうか分からない。自己流だから ただ確かに透明化、気化されているように感じたりするのと 座禅とかと似て一瞬一瞬に焦点が合って主観的時間や身体時間を制覇するような感触があったりする あと余計な事を考えようとする心の働きが減ったような気がして自分としては好むところだ 上で言った陽神がどうなったかは分からないけどもう無いのかもしれない それかこのスレに書いた定義的なものの上での悪魔的なものをイメージしていたりしたのでそれだったのかもしれない まあ死霊術師なので時折現れる思念体的な好意に触れているだけで満足出来たりする
GD全書でビナー的作用を用いた隠身を読んだ事や 太虚についてかなり勘違いしていた(ビナー的なものと思っていた)事から 自身を透かして真っ黒な人型が感じられたりする事がある 有用でないのだとしたら残念だけれど質料的に捉えて他の形に転換する事も出来るかもしれない っていうのはもう普通人というか立証可能な見地に立った感覚での話じゃないな イメージの世界の話
六甲壇についてよく分からないのと 式神というのがやっぱりとても興味がある でも六甲六丁の神が本当に式とか識なのかどうか分からないというのはある あと六丁陰神については書中に姿形が説明されていないような気がする 西洋儀式魔術について時々時間を置いて 二重立方祭壇以外の代用祭壇を用いる可否について占うと 必ず二重立法祭壇を推してくるし代用祭壇は否定されるので 何か余程の意味があるのかもしれないと思ってる 祭壇については確かキリストが、パリサイ人に対して 「祭壇とその上に載せた品のどちらが神聖か 祭壇に決まってる」と言っていたりする 勿論祭壇は持っていないので大儀式も聖別等も行えないし魔術武器も持っていない よく言われる「安楽椅子のオカルティスト」というやつ
frater albertusのalchemist handbookはGD全書の推奨本だった 著者の設立になるparacelsus researchのサイトを見ると 同団体が未知というものを体系立った形で非常に尊重しているという事や 純粋オカルト探究のごく自然な形での実人生との連絡という事が 可能性として鮮やかな形で示されている 多分、従来的なオカルトアーツについての観点が構築を主な側面にしたモデル形態として捉えられるか または実用性を旨としてやはり構築モデルとしての側面を主要な関心事に当てているように感じられるせいか それとは別の、純粋探究的な側面に光を当てているように感じられるのが新鮮に思ったし驚きだった 多分、「達人」の捉え方に二通りあって GD系の教義によればソロモン魔術的な、導者としての達人で その先にあるのが三首領、霊知の保護者や体現者という事になって 構築的側面が優先するモデルになってくるのに対して 錬金術師の観念に基づく達人というのは教えを満了して自身の探究に入るような段階を指すのかもしれない クロウリーはGD的な過程を拡張した超越の過程としての、やっぱりモデルを提示していて 未知という事については大事にしていたように思うというか自分が 最初にオカルトにおける未知の捉え方という要素を見出したのはクロウリーについて考えていた時なのだけど その扱いは探究の要件というよりはサイクル上の必然というのに近くて 構築的に扱われるべきものと見ていたのではないかというような気がする
>ソロモン魔術的な、導者としての達人 ソロモン魔術的な、導者、諸力の統御者としての達人 ケイオスは楽しい世界っぽくて 自作儀式案を三つ四つ作ったりした その気になればレプティリアンを組み込んだ儀式とかも余裕で作れるし ケイオススピとかも余裕で作れると思う 儀式作製は現世利益的応用可能性と同時に正当な 純粋オカルト的成長訓練法としての使い方のどちらもが可能になるようなのが良いような気がする フィクションの登場人物の召喚・喚起・人造法は 当該人物のキャラクタの生成過程を占星術や錬金術等の伝統的象徴を使って辿って行って 儀式化したりすれば出来るんじゃないかと思ったりする 「この人物はこの車を好むからこの象徴で示されるこの動物、この象徴属性の力流に乗っていて この食物を好むからこの象徴属性の界から作用を摂取する」とか 「ここでこの人物のこの事件による影響がこういった作用を及ぼし人格をこのようにしたが これはヘブル文字で言うならばこれこれこれで総和を数秘で解けばこの象意を持ちこの数をこの人物の主要な働きの場と考える」とか そういう風に考えて儀式を組み立てていく事の出来る可能性とか 既存の対象を召喚とか人造とかするとネタ元やらと影響し合っておかしくなるというのを読んだ気がするけれど ↑みたいな形で構築していってもそうなるんだろうか カート・コバーン崇拝者みたいな人がロッカーの天国みたいなところのグランジの階層というようなところを カバラや緒の伝統にある天上図の上に割り出してチョーキング等の音色や声質等に感覚的に象徴を配当させ(雷だとか鉄と水と腐食と火、だとか)たり コード進行やリズム上の特徴に同様の配当を行ってそれを発する神格的な存在としてのカート・コバーンなるものに礼拝しつつ その音色の種を穀類配当によって混じたパンを拝受する聖餐儀式を作ってみたりとかするケイオスミュージシャンというのは それ程不思議な話でもないような気はするけど、そうするとややこしくなるのかどうなのか
甲尊三奇六儀については 木は火種になる動き、火は木に発する作用の地上への降下、土は素材、金は変化と生成、抵抗、水は溶媒の流れ 陽をいわゆる顕界的なものを主な対象にした作用とすると陰は幽界的なものを主な対象にしている 甲尊は原動天的な光源、乙奇は日の昇る様、丙奇は月の動く様、丁奇は星に対応する降雨、戊は黄砂や銅鑼の音で己は霧や蜃気楼 庚は天上では黒雲で地上では兵乱、辛は白雲かまたは鳥で陰の勢力による変化か生成、壬は雷雨降雪で地上を覆う流れ、癸は天蓋で、星や天上を覆う流れ 地上を顕れたところ、大きな変化を顕れたところへの作用を主にする変化、陽干の主に作用するところとして 天上を隠れたところ、小さな変化を隠れたところへの作用を主にする変化、陰干の主に作用するところとして見ていける まだ未整理で不確かな部分が多いけれども奇門遁甲の十干はこんな風だろうと思う。九星はまだ難しいし八門はまだ見てない
丙奇については月は日光を受けて光るという事と
一か月を使って季節を生じる、地上に変化を生じるというような事がある
日光を受けるのが丙で星光を受けるのが丁と考えると
それぞれが通常は水に近い象意を持ちながら火行の干で表される事も理解される
戊の銅鑼は質料の媒介作用を発揚させるような働きの表れと見る事が出来るかもしれない
銅鑼が鳴ると群衆が動くという風に。それか雷声なのか、だとしたら何を表すんだろう
当たり前だけれどもこの十干象意は八字とは違う。五行大義的な定義とも違うみたいだけど、沿わせて解釈する事は十分可能な気もする
遁甲に見られる他の要素の九星と八門については、九星は紫微斗数と同様、各地点に内在する働きとして見る事が出来る
他に、十二支配当別の各星象意を見ていてセフィロト的な、作用の生じる次元としての解釈が出来そうに思えた
タロットでいう各スートを十二支としてその数を九星と見るような感覚になる
九星は九宮、八門は八卦に関連するものとして説明されているけれども
八卦については方位か時刻、どちらにても本来動くような種類のものではないので
この事から考えると編纂時点で遁甲の各象徴は、本来それが観測される地点に実際に生じる流れからの独立というか
定義の抽出による普遍化、象徴化の過程を経過してるという事になる
だから十干にしても天候上の表れを示していても、実際にその内容が表れるという事ではなくて
その内容自体が働きを示す一つの象徴という事になる
十干を顕れ、九星を内在作用、八門を作用の場の象徴化された定義とすると分かりやすい
距離と時間については洛書に対応していたり、
>>318 に書いたような天の円周や日月星辰の周天に関連してくるのだろうと思う
文学運動と詩歌の関係について補足すると 俳句は脱俗志向を持つと同時にそもそもの成り立ちが文学運動なので コミット率もそう低くないというか、姿勢としての素地がありそうなように思う 詩は文学運動というより明治政府による西洋知の導入の一環というかその流れに乗じた舶来物の移入、っていう 別の何かの流れに入れ子的に付随したようなというか、文学とそんなに関係ない国策貨物船の船底に紛れ込んでいた品 みたいな雰囲気なのではあるまいかと思ってる。正しいかどうかは分からない で、まあ小説が本道だろうなと思う
霊能者に以前真面目過ぎるのでどうにかしましょうと言われたけれど 真面目に来られると対応に困るというのと不真面目な方が色々得をするというのと二面を説かれて 俺は「それで得をするなんて何でこの人に分かるのだろう。それに多少不真面目な方が 対応しやすくて便利が良いというのはそちらの都合ではないか。何て不真面目な人なんだ」と思ったけれど 実際、不真面目だから得をするというケースは滅多になくて大抵は蟻とキリギリス的に不真面目さへのペナルティを受ける事になるという事と その意味では自分は既に十分不真面目だしより一層不真面目になりたい気持ちは人一倍あるつもりだけど 多分この人の言う不真面目さはそういう意味ではないのだろうなきつそうで辛そうなイメージしか浮かばないな嫌だなと思った あと気が弱いので後々困った事になると言われたけれどこれについては解決策の提示は為されず どう考えても自分の都合を優先していたので不真面目な人だな来たくない来たくないと思っていたけどやっぱり来るのではなかった これで金を取るのかと思わざるを得なかったのだけど当たり外れを言うなら完璧に当たっていると思った ただそれを聞き入れて結果を出すにはこちら側に途方も無い苦労が伴うしその上示されたビジョンはそれ程明るくもないときてる というかそこに連れてったうちの父親が他人に自分の子供の説教をさせるのを趣味にしているような人なので 誼があるからその意を汲んでいる観が強くて本当もうどうしようもねえなと思った
あと弟がカスなので死んで欲しいというのを日々抑え込んだり渦巻かせたりという過程を繰り返している 気が弱くなかったら刺してるかボッコボコにやっつけているのではなかろうかと考えると苦しいながらもそういう種類の行動に出ないで済んでいるのはましなのではと思う まあ一回殴りましたけど 最近ようやく少しずつどうでも良くなってきたものの 一挙一動が一々挑発的で癇に障るので、ここ数年は毎日がスルー検定みたいになってる そういう時は本当死んで欲しいという以外に表現が見当たらないような気分になる 関係ないけどこれが始まる直前に外で似たような環境に置かれていたので 家でまで耳障りな声と音に脅かされるようになると、こいつは何だ、夢の中で彼らの仕事を引き継ぎでもしたのかという うんざりするほど低級な空想でしか結べないほど胸糞悪い流れを生じた
解脱の道は遠いし幸福は多分もっと遠い ていうか解脱せずに幸福に至るという事は流れを踏まえて常識的に考えるなら 現況下ではあり得ないし 馬鹿馬鹿しくて現実生活に真摯に付き合うなんて無駄な事をする気はしない これが霊能者のいう不真面目さを用意したのなら代償として末弟は殺意と憎しみの的以外の何物でもない世にも癇に障る大愚物に化した事になる そういうのが計らいなんだろう。スピリチュアルはそういう世界だと思う
「今の心性では遅かれ早かれこういった事態に必ず直面する事になる」というような状況を スピリチュアルは用意して霊的成長を促してくれる。表れた障害によってもちろん誰も得しない サイクルの不備への冷徹で公正な指摘と過酷な直面による克服の促し 預言のメカニズムと同様のもの
人災を天災の内に数えてその克服乃至は回避に当たって合理的である事 冷徹で人間性を廃した判断の対象としての人ならざる災いに、この場合の末弟は数えられる事になる ドンファンによれば征服の対象、仙道では忘却の対象であり棄却さるべき感官認識の対境でもあり、仏家においては極楽浄土の外なる地獄でしかない 他者を自然の内に数える事はこういう場合に有用になる。要は、人間を相手にするのではなく 統御不能な自然を相手にしているのだという事
さてラジオ聴こう
神去なあなあ日常は面白かった 主人公は好感の持てるキャラなのだけれどもいわゆる典型的好漢というタイプではなくて 自己供犠によって環境に同期する事で関心とか感情移入を呼び込むキャラというか 山火事で活躍する事で環境に同期してそれまであんまり口利いてくれなかった老人があいさつしてくれるようになったりとか リスナー的には自爆的に告白して振られたりそこからの過程が自己供犠に当たるけれども それまでの時点で好感は用意されていたりする 他には浮気性の同僚の気の良い天才振りとかが同期可能性になっていて 一筋縄で行かない事が無理なく自然な好感に繋がるというのはそう易しい事ではないはずで 余程山が好きで山についてよく知っているとかなのかと思わされたというのと 山の様子自体が、原作の人が取材を重ねたりした上に脚本の人とか役者さんが実地に合宿したんじゃないかというくらいだった あと普通に巧いんだろうなと思った
テクスチャ的な様式に力量なり関心を傾注してある場合には 作った人がそれをどう扱っているかというのが結構大事になる、と思ってる 同じように見えてその姿勢がまるで違うといたら 血の色が赤か緑か紫かというくらいに違ってくるし いわゆる「芸術」で精髄という観念を扱わない、扱おうとしないという事は その事自体が一つのスタンスと見なされる事になるくらいに特異なものになってくる だからその意味で小林秀雄の方が澁澤龍彦より遥かに芸術家で美の紹介者で審美家だと思ってる 澁澤龍彦の仕事は職人的な血抜きと標本作りだろうと思うので いわゆる「美」とは別種の観念で説明される方が分かりやすいだろうと思う 後人への貢献は自由に血というか自身の好奇と欲望を通わせる事の出来る標本を多数拵えたという点になるのではないか でも澁澤に美を学んだとかいう話は聞くけど 血抜き職人としての澁澤の技巧を学んだとかいう話はあんまり聞かない 例えばレトロなキラキラした玩具を偏愛していてこれにノスタルジーや夢を覚えるという作家が居た場合 ここに作家の執拗なノスタルジーとか夢とかを単に好奇の視線で眺めて片付けながらそのテクスチャーを紹介するというのが澁澤で 美は好奇で片が付いてしまう。そういう奇妙な、除霊された呪物のような対象が澁澤の紹介を得て目にする「美」ではないかと思う けれど、そんなには読んでない。晩年自身が「職人」を自称していたりするのは文筆の意味での職人として解されている事が多いだろうし実際その側面はあるのだろうけれども 上に挙げた意味での芸術家ならざる血抜き職人としての意味を密かに含んでいるのではと思う 文筆職人としての美意識は確かにあったろうと思うけど、同様のものは著作の持つそれ以外の要素に対しては及んでいない
ある条件と制約の下でその人間が一体どのようにすれば満足するか という事を主題にするというのがオーソドックスな純文学の説明だろうと思う 略せば人生の目的という事になる 仙道小説は多分一番自由を覚えさせる事の多い形式だったんじゃないかと思う もしかしたら、国内で言えば唯一無二というくらいだったのでは 日本の絵画で宗教的なものというと仏画が浮かぶ 寂滅とそこまでの過程で直面する事になる荘厳とか そういう事を感じさせる ノーシスは多分寂滅の別名なのだろうと土曜日くらいに思った 他界が現れて境涯に沿った荘厳を現出しながら焦点に意識が寂滅を得る しかし上の方に書いたような事もあるし難しい 禅定や三昧が一つでないのと同じなのかもしれないし どれか間違っているのかもしれない
>>362 の
>まあ一回殴りましたけど
っていうのは真似しちゃいけないやり方かもしれない
言い訳すると「もしかしたらこいつは殴られたくてこんななのかもしれない他に俺にとって都合の良い要素がこれ程見えないのはおかしい」
という若干ノイローゼ気味の予測があった
当時は「ああ殴りたい殴りたいムカつくあいつやあいつやあいつを跪かせて本気のトゥキックを顔面にぶち込んだ上で靴を舐めさせてやりたいでも実際そうなったら顔面蒼白レベルで本気で引くんだろうな俺はしかし困ったこの鬱積はどうすれば良い」
というような事ばかり考えていた気がする
言い訳すると普通の精神状態ではないのだけれどかといって入院とかもしたくないしというまともな頭を失くした状態での事だったので
実際結果も芳しくなかったし(反撃された・決定打無し・以後も長く尾を引いている)
まあ、真似しない方が良いんじゃないか、と思う
基本的に耽美系には自分が美と強者の側に居る様を簡単に思い描く事が出来て
その立場の時には暴力的な行使を喜びどころかそれを使命とさえ感じている人々のものという偏見があって
これを解決しないと自分的には互換性を見出せないのかもしれないな、と思ってる
>>372 みたいなヘタレの感性とは相容れないものを覚える
耽美の人だったらもっとましな形というか、いつでも常に自分が自分に誇れる形にするんだろうなとか
まあ、あんまり読んでないから何とも言えないけども
紫微斗数命盤は見てると星の一つ一つが神聖文字みたいに思えてくる ただ、全書と現在普及の型では火鈴星の出し方が違うのが謎だったりする
対象を美であると認めるとしても耽る側は美ではないよな という穿った見方も可能なので 大して美しくないのではという疑いも耽美派には懸けられていたりする 美←→醜の二極化された中を運動する過程というのは 多分途中でゲロ吐く類のものになってくるんじゃなかろうかという気がする 中井秀夫はメフィストフェレスとの同化というか自我なり魂なりが吸収されるまでという感じだろうと思うし 倉橋由美子は運動する者こそ強者というような相対弱者というか潜在的弱者の倫理を言い聞かせつつ 運動に終始するような感じで暗に運動家の舞台に動員を掛ける事によって 非運動家の駆逐を促そうとするような作風だろうなと思ってるけど どちらも一冊たりとも読んでない。倉橋由美子は面白いらしいとは聞くし 書評をぱら見した限り面白そうではあったけども
書評って本人が書いた他の作家の書評、の方の意味 とりあえず理知的な文章だと思ったけど内容覚えてない マンディアルグとかは逆で、多分上に挙げたタイプの二極化構造は採用していないと思う そうではなくて目線と対象という二項とその距離の均整を重視する事で 両者の役割が明確化され、その事が読者の側に虚構性を強く意識させる のだけどその虚構性によって逆に、作品世界が 浸りきるに値するようなものになる、っていう静的な形式になってるのだろうと思う 有名どころでは、山尾悠子も正直よく分からなかったけど距離が静的って意味でマンディアルグの方に近い気がする 影響が言われてるっぽいゴーメンガーストとかは読んでない
目線と対象の距離と虚構性について雑に説明すると 読んでいて「こうも均一の距離を保って目線と対象が一定であり得るのは虚構らしい」となって さらにその一定した距離というのは演劇とかで言えば劇場建築とか舞台装置の設計に掛かってくるような 普通に造型構築の領域にあるものなので、鑑賞を支える一大要素という事になってくるという理屈になる マンディアルグは極端に人見知りだったとからしいので 目線と対象との距離については繊細な鑑賞の要件を多く求めたという事なのかもしれない 山尾悠子というか読んだのはラピスラズリという話だったけれども 確か版画が関係してたなとか映像以上にまずテイストというか質感が前に出てきて それが他の感官の層を喚起するという順序で表現が構成されているように思ったけど 鑑賞というのを受容者の第一に取る姿勢として浮かばせるところは共通してるのか ただ子供が絵本を読むのに近い読み進め方を想定してあるのかもしれないとか思った 子供の「それでそれで?」とか「次は?」とかのスタンスで、いわゆる鑑賞とは微妙に異なるし ただ「表現」を云々するだけで主軸を把握出来る訳ではないんだろうなと思わせる 挿絵込みで話の筋、展開に数える時の話の筋、展開というような事が主軸になってるところがあるような気がした SFっぽい章が面白かったというか妙に解放感というか新鮮さを覚えた
オカルティストと芸術についての懸念を造化元鑰から喩えを取って説明すると 夏月火炎土燥の際の焚木灰と化すという現象 木は火と内容を同じものにしてまたそれ以上伸びる事が無い為に固定され 過程や原基は別にせよ結果として土と同然になるという考え方がある オカルト世界を完成系として捉えるならばそれをなぞるだけに終始し且つ満足する事になるのではないかという見方 もちろんそんなレベルで終わらないので大概神秘家の著述はそういった過程に終始しないだけのユーモアを含ませている これは五行で言えば水に当たるのだと思う。これによって火を制するもこの功は既済であって木も水もそこから先 完成系としてのオカルト世界から逸脱した方面へ伸びる事はしない ここで水行と仮定した要素のより芸術方面にシフトした用法が 上の方に触れた創意や感性の純粋な遊び場としての芸術利用という事になる これは結構見受けられる用例で、明確に作品の形ばかりでなく 例えば現代のオカルティストにオタクカルチャーに触れている節のある筋が多く見られるのは 比較的童心というか制約の少ない姿勢で玩味する事の容易な文化として 意図してかせずか意識を休ませ遊ばせる態の利便を捉えて選ぶのではと思われる
造化元鑰では春夏に水は金に水源を得てより遠くへ流れるというのが説かれていて 本式に芸術である場合にはそういった事柄が求められる事になるのだろうと思うのだけれど そこに懸念が絡んでくる事になる。オカルティスト的に、芸術自体に対して源流を求める事を可と捉えるか非と捉えるかという問題 造化元鑰は八字の内の五行を五常に寄せて説いていて、金は義に当たる 果たしてオカルティズムならざるものに自身の能動的因子の源流にして義としてのものを認めるという事を オカルティストが是とするか否かという事 結論を言うなら上の方でparacelsus researchについて挙げた未知の探究という事と それに非常によく似た形でtemple of setに、各個人の独自性という事が体系的な考察の対象として大きく取り上げられている事で 完成系としてのオカルティズムという事とまた別種の対世界アプローチの可能性が オカルティズム自体に含まれているような予感というか手応えというかを覚えたのでした それで解決した。芸術表現の宗教理念に基づく確定的画一規定はプラトン哲学の評判の悪い部分、とか聞いた事あるので それと似たような問題だろうと思う。プラトンは読んでない
既成の功については上では悪く取っているように見えるけれども全然そういう事はなくて
むしろ均整とか対称とか落着を同時に得るような意味合いに解してる
ただこの場合に主眼になるのはオカルトであって芸術とか表現とかはあくまで客体に留まるのではというような意味
上で言う「芸術家」って比率というか目的が芸術寄りのイメージで捉えてるので
真なるものを芸術サイドに置いているような表現という意味で書いてる
そのレベルでの表現が可能になるかどうかの手引きというのが
>>379 の後半の意味
fateシリーズは英雄の神霊が制約の多い従者として化生して人間に協力するっていうのは 西洋系の発想ではなくて封神縁起とか水滸伝とか八犬伝とかの伝奇物の流れだろうなと思う そういう超常を常とする存在が人間に関わったり協力したりする発想は 西洋フィクションの流れではむしろ神秘の東洋っていう系統になってくると思う ヴァテックのスルタンのハレムだとかオカルト的には錬金術のインドだとか より近くは中国のカンフーマスターから日本のニンジャサムライ等々に至るまで 東洋というのは西洋人から見れば夜明け前の太陽が照らしつつ通過する土地というのに当たるので 上に挙げたような種類の「東洋」についてはそういった見方が働いているのではないかと思う 占星術的に見て感受性を刺激し得る太陽の周航という事の重要性から それは神秘的だし超常を常とする人々の住まう世界という観念を帯びた伝統を生じる 中国で言えば蓬莱はやっぱり東海の果てにあったように思う まあそんな訳でfateシリーズに対応する西洋系のフィクションを考えるなら 謎めいた東洋の白髪の老人が七人くらい現れて七人の超常能力者をニコニコ笑って死地に赴かしめつつも 自身もそれぞれと雌雄を決せねばならない宿命を負っている事から超絶功夫でキルビル的死闘を展開し 気が付いたら主人公以外誰も残っていなかった、とかそんな話になるのではないかと思ったけど 書いてみてそのまんまだな、と思った
あ、でも魔法使いとかの話もあるな。アーサー王物語のマリーンとかがそういうのなのか 書いてすぐであれだけど別に神秘の東洋がfateシリーズと対を為す訳ではないかもしれない でもfateシリーズ自体の発想は東洋寄りだと思う 超常存在が人間世界を舞台にするのに人間並みに命数尽きたりするのであれば 多分西洋フィクションではバトルロイヤル的なものより善と悪、ライトサイドとダークサイド みたいなのの方が多そうに思う。それか単一個体か単一集団による冒険とか 封神演技や水滸伝や八犬伝はしっちゃかめっちゃか度合いが楽しくも諸行無常だなぁ、で終わるような感じだと思う 八犬伝は違うのかもしれない。割と仲間同士で明後日見てる態の猥雑さは無さそうだ
>>382 は色々間違っているかもしれない
考えてみれば西洋には時間軸上で人間より先行している高度に知的な生物という風に
天使、妖精、精霊、宇宙人を説明する考え方があるので
その意味で
>>381 は結構当たっているかもしれない
だからウルヴァリンは前世でニンジャの教えを受けていたりするし
ミヤギさん天使説、妖精説、宇宙人説なんてのも容易に考え得るような枠組みがあったりする訳だ
少し前のジャンプの読み切りのゴブリンって言われるミュータントが活躍する話には
特撮魂を覚えた。特撮は善悪の相克と割り切れなさを描くのに優れていて
>>382 を書いたのはそんな風な事を考えていたからだったのだけど
今の特撮は全員集合系がトレンドらしいのでまた少し違うのかもしれない
特撮の怪人、敵役は概して社会に存在する歪みや亀裂の具象化、というのが多くて
その分だけ敵役が非人間的になるのでバトル漫画としてメジャーになりにくい一因であるように思う
ジャンプは北斗、聖矢、ドラゴンボールの肉弾路線が主流で
ギミックが一大要素になる特撮系は比較的マイナーな部類のような気がする
知っている限りで近いのは「みえる人」が特撮的な性質がかなり強いのだけど
これは特撮そのものというよりは先人として特撮的なものを仰いでいる少年漫画という趣がある
他にはシャーマンキングがエヴァンゲリオンやジョジョ等を扱いつつギミックによるバトルとして特撮性を示していた
どちらもいわゆる「マイナー人気」の漫画だと思う
少年漫画における特撮精神というのは実は四大誌では少なくて
その派生誌とかマイナー誌の方に行くほど割合が増すように思う
その意味で特撮こそは少年漫画のマイナー性を支える一大要素といえる
覚悟のススメとか惑星のさみだれとかが好例
惑星のさみだれ面白かったな
話作りとしての特撮系の共通点は
・主人公は天涯孤独
・でも拠点がある
他にも色々思いついた気がするけどとりあえず今はこの二つが二大条件として浮かぶ
上に挙げた特撮に近い作品は大体この条件を満たしていると思う
で、ゴブリンの話に特撮魂を感知して考えを巡らせていたらすぐに
「タカマガハラ」が特撮系だという事が浮かんだ。それも、特撮系の中でもさらにマイナーな「怪奇系特撮」だという事
この作品では主人公は厳密には天涯孤独ではないけれど親が居ない
という事で少年漫画に特撮系の静かな顕揚の気配が予感されるけれども当たるだろうかどうだろう
萌えが漫画のマイナージャンルとか甘過ぎでヲタ的に見て普通に小僧レベルだと思う 特撮こそマイナー地盤を支える真の一大要素に違いない 上では割と時間が経ち過ぎているので表現しきれていないけれども タカマガハラが怪奇系特撮だという事に気付いたというか気付かされた時はそれは興奮したし ゴブリンナイトの特撮魂には震えるものを覚えたんだった 少女漫画は分からない。あんまり読んだ事がないので少女漫画のマイナー世界は分からない ただヘルタースケルターで帯にあった作者解説が一人ぼっちな女の子を描きたかったというもので 一人ぼっちの女の子として表現されているのは人生リセットで周囲とずれまくっているというキャラクターなので 大体、環境が変わる事で人が変わるというのは大なり小なりあるような気がするけれど それが決定的に表れるのが女性の場合であってしかもそれは周囲とのずれ、断絶として生じるというのは分かる気がするし それがギャル系だったっていう事は多分そういったキャラクターのモデルになるようなタイプはギャル系に多いという事なんだろうな 人種的にどうこうというかその表れが大きいのがというか という事は今日の人形のように大人しい女の子が明日のギャル系というのが 割と考えられなくもない流れという事になるのだけど何故かといえば そういった断絶の可能性というのを大体これまでの非常に乏しい異性観察の経験からは いわゆる人形のように大人しい女の子に覚える事が多かったような気がするからだ
ゲイの系統のウィッカではメンフィスの山羊はドラァグクイーンになるんではと思う 上の方に挙げた二重性の調整者としての角ある神の要素がここでは内向性、感受性を対外的な表現に反転させる神性として考えられる ただ色々だろうから当たってるかどうかは分からない 腐女子というのは大方のところ、自分の「されたい願望」を縷々綴っているんだろうと読むのがまず読み方の一つ目で この場合、自身の肉体を離れた形で主体が望みを遂げて終了する訳だけれども これを肉体を介して男性性との融解、和解を果たしているという風に捉え そこに彼女らの男性性克服の為の潜在的な手管が示されているとして読むのが第二の読み方で もし仮にこれを読むのがいわゆる恋愛弱者というよりむしろ社会弱者に属する男性である場合 彼は幼少期からのそれまでの自分史の中で女性性による男性性克服の為の潜在的手管なんていうものは うんざりする程見せられているというかこれによって虐げられているとさえ思っている事が多く この場合、当の腐女子である女性が恋愛弱者であろうが社会弱者であろうが全く関係なく 彼は自分がまたもや女性性によって搾取されていると直感し、結果として腐女子を憎悪するという図式が成立する訳だけれども それは置いておいて女性の潜在的な手管というものが表現されているものとしてその手掛かりを腐女子の著作に求める、というのが考えられる 女性の潜在的な手管とかそういった事は「satanic witch」に、主に女性向けに事細かに書かれているらしいのだけど もちろん到底読む気がしない
竜騎士08の作品は土俗的な環境と個を立てようとする主人公の関係という構図で 上の方に挙げたラノベの人の中では多分かなり、いわゆる「純文学」に近い傾向の作家なんじゃないかと思う でもエンタメ要素あってのものなんだろう。そういうのが不思議だし多分新しいだろうと思う なので以前挙げたギグ的要素としての部分とエンタメ要素の部分を備えてるというのが 「今話題のラノベ」になるのではという気がする ただ大昔に「スレイヤーズ」を読んだ時の感覚は 読んでない時をケとして読んでる時をハレとするという感じなので やっぱり基本はエンタメなんだろうとも思う 漫画だと「幽遊白書」とか惑星のさみだれがラノベのこのハレとケの感じに似てる 具体的に言えば両者とも、人と会う時間というのをある種特別な時間として演出している事が多い だからそういう場合に、作中に描かれているのは祭りの状景で、単に人と会うというのとは大分異なる 読者にとっては読んでる最中が何かしらお祭り状態なんだろう というかそういう、読んでいる最中に普段を離れてお祭り状態になる というのを強く意識して作られた作品がこの場合でいうところのラノベ的なもの、という事になる
いわゆる葉隠れ的武士道というのは武士というかむしろ乙女というのは分かる気がするし 新渡戸稲造がジャンヌ・ダルクを信奉したというのも無理なく分かるように思う 山中鹿之助が我に七難八苦を云々のたまう姿にジャンヌ・ダルクを見ようとするのは理解しやすいけれど 御家再興、復活に執念を燃やす半分狂人としてジャンヌ亡き後のジル・ド・レに喩えるのはあんまり無い 武家ってジャンヌ・ダルクよりはジル・ド・レの方に近そうに思うのだけれど フィクションでも武家自身の側による武士道の説明からも圧倒的に見受けられるのはジャンヌ側のイメージだ 赤穂浪士がもてはやされたのは火事と喧嘩が華だった江戸の都で もう太平で戦なんか起らないという時世に武家が一藩挙げて他藩の藩邸に討ち入ったというので大喜び しかも死んだ主君の仇打ちで、大晦日の晩というのが芝居がかっているというのでいよいよ皆喜んだ というのが多分内訳の大部分だろうと思う 武士道は無きゃ無いで芝居にはなるという風情 新撰組については燃えよ剣とか読むと「お前は屑だ」とか言われてるような気がして胸糞悪くなるというか 「お前こそ屑だろ」と言い返したい気持ちが何とも嫌なので どうせいわゆる「半端者」を読むのであればどちらかというと清河八郎の方が面白いなと思う 時と場を百パー間違えてる革命家、というと西尾維新とかに出てきそうなフレーズだけど 何かもののあはれを誘うような誘わないような気がする 多分新撰組が好きな人はその不器用な生き様が云々と言うだろうし 清河八郎とかは姑息な奸物っていう感覚だろう。まあ俺も本当のとこ言うとどうでも良い
>>386 に挙げた腐女子「女性性による男性性克服の為の潜在的な手管」という事について
これを荒ぶる自然の神性が持つ男性性として解釈すると、その馴致、同期化を自身の女性性によって行うというのが古代の巫女の能力なり権能として考えられる
それが人に向けられるなら魔女とされただろうし自然の男性性との融和、人の住める位相に近付ける為に発揮されていた時代に母権社会というものが考えられる
この場合には巫女なり女性は過酷な自然を克服する力と術を備えた存在として尊ばれたという事になる
ではキリスト教ではというと、聖母マリアが身籠ったのはヤハウェの子であるからヤハウェの巫女として考えられる
母権社会は西洋では学術的に証明されていないらしいのだけれども日本では卑弥呼等の記録によってそういった社会の存在が確認されてる
ここから
>>388 に書いたような乙女チックな武士像が派生する
恐らくは以上のような力を持った巫女的なものを尊ぶ気風なり心象が反映して
そういった風な「武士道」、「武士の鑑」なるものを
ジル・ド・レ的でなくジャンヌ・ダルク的なものとして捉えようとする見方を生じたのではなかろうか
高貴、崇高なものを敬慕し、心酔する それが失われてからは発狂してろくでもない執念の塊になる というのがジル・ド・レ的 こう書くと案外こっちも武士道っぽい気がしなくもない ただまあ、倣う気も崇拝する気もまるで起きない しかしジャンヌ・ダルクにしても倣う気持ちを起こすような人物でもないような気もするけれども それは俺が武士道ではないからかもしれない 死霊に聞くと、俺は農業向きの人間らしい。分かる気がする 五輪書とか面白いのは、構えは「刀を斬りよいように持つ」事、らしい 他に「観の目つよく、見の目よわく」は打突部位を観る目は肉食獣的に集中して 他の相手の持つ武器とか全体の情報については草食獣的な全体目線で、という風に取れるし そもそもこれは禅で教える「座りよいように座る」という事と 止は全体、観は一点として作用するというような考えから来ているようにも思える あと農道、工道、商道等の他道をよく知るべしとかいう事やその解説とかも面白い 実利主義とか言われるけれども哲学と、典拠を探せば得られそうな基礎的背景というのが有るように思う
四柱推命でもやや不順な稼牆格というか稼牆格が崩れたような雰囲気なので どれが天職って言うと農業とかになるんだろう
ジャンプnextは雰囲気がアワーズとかマイナー誌的な感じで驚いた ああいう雑誌作りって興行師的な面もあるんだろうな ぬらりひょんの孫が気になるところで三カ月待ちとかなので 三か月かけてちょっとずつ読もうとか考えてる magicoは異様に寂しそうな雰囲気で これは前回までは無かった調子だなと思った
上の方でセト神と比較する形でヒルコを幽界、異界の主神として書いたけれども 伝統的に大国主が幽界の主宰として考えられている まず大国主は大黒天とも同一とされているけれどもこれは名前の読みとかとりあえず偉いという事とかばかりではなくて スサノオは根の国の主宰として黄泉津大神イザナミとどの程度か習合したと考えられるけれども そのスサノオの後嗣としての大国主という立場から上の二者と重なる形での作用を備えている事が言えると思う それから大国主は結霊を地に結実させる神だからその意味で結霊の向こう側、幽界を総括するような存在として考えられたのだろうと思う 要は結果(顕界)の神で、だから見えざる過程(幽界)を主宰しているという事になる イザナミが夜空、スサノオが天体の運航支配者、オオクニヌシがその観測者または作用の地上への結実を司る神として見る事が出来る また古代には雲は天体に準ずるもの、星の素材、幼生のようなものかあるいは天の作用が地に結ばれる時の第一質量とか修理固成の素材として考えられている節があって それで上の方でムーンマトリックスを説明するのに宗像三女神を挙げたのだけれども 出雲には八重雲という八色の雲があるらしく、幽界を総括する結果の神の八色の雲というと これはそのまま日本版ケイオスという事になるかもしれない
この大国主の惣領が事代主で、大国主は国譲りの是非をこの事代主に聞くよう天津神に言っているのだけれども 尋ねに行くと事代主は岸辺に居て天津神の姿を認めると即座に隠れる 国譲りを迫るとすぐに承諾して身を退いたとされている 事代主はヒルコと同じく恵比寿神として見なされるのだけれども もし以前に触れたようにヒルコが異界、地平線下にある際の太陽を表しているとするなら 常に異界に在る事になるから、天神が現れる際に自身はそこから姿を隠すというのは理に適っているように思う 太陽神が預言と関係するのは(1)地裏の事を知っているから(2)より上空の全ての作用を受け取って中和した後に地上に発しているから というのが考えられるけれども、この場合は(1)の方になるだろう。アマテラスなら(2)になると思う もう一人の子息の建御名方は、一度抗って天神方と力比べをするも退散するとされる これは造化元鑰を見ると夜明けや春分を迎えた後もまだ冬気や寒冷の水気は留まっていて 水行の墓庫になる辰支に至って落着するとされている もう一つ別の解釈をするなら、法の書にあるsplendrous serpent、太陽の軌道を描く蛇として考える事も出来そうに思う こっちの解釈に援用出来る要素としては、御神渡りがある これはむしろ冬から春の過程だったと思う
イマジンブレーカーは素で怖い
たまにテレビとかで自分と似ている人を発見すると物凄くがっかりする
宗教は囲い込み、結束と構成員の保護を起源として考える事も出来るのだけれど そもそも終戦による大日本帝国教全壊という決定的な展開があり そこから焼け跡の中に棄教、背教を余儀なくされる展開というのが生じる 次にいわゆる全共闘世代というのが出て反宗教、主に戦中軍国教育的な信仰に対する主義としての独立を目指す運動が生じる これが現在時点で日本でいうところの反宗教の最大起源ではと思う 次にバブル世代とかリベラル型の理念というか主義を基にそこからの展開を獲得しようとする運動が生じる リベラルでありながら穏当な集団行動を第一と捉える考え方 ここにニューエイジとかがうまくかみあったのだろうけれど 日本国内的にはそれは実は戦前戦中のイデオロギーから脱する運動の一段階として機能している で、オウムもここに入るのだけれど、このリベラルかつ集団主義を穏当なものと捉える思潮 というものを汲んだ形での「宗教」の結実と見なされていた当初はそういう意味で快挙と見なされたのだろう この時点でオウムを評価する知識人が複数居たという事にはそういった側面がある インテリ層の信者が多く居たというのも、一般に言われる超能力云々ばかりではなくて、同様の事が言えると思う その後ああいう事になった訳だけれども、この点で少し辛い事を言ってみるなら 件の知識人等の人々は騙されたというよりは敗北したというか 自身の時代潮流に沿った結実を得ようとして得られなかったのだと言えるかもしれない
村上春樹とか大江健三郎がオウムに特に関心を払った(払っている)のも 事件の悲惨さとか強烈さという事ももちろんあるだろうけれど 一つにはこういう流れを汲む面があるのでは、と思う まあそういうのが現在一般の宗教嫌いの主流を成す根拠というか必然性みたいな所だと思う 「宗教」の指すものの根底には未だに軍国教育とかそういうのがあるという可能性で これはここ十年くらいのそういうものに帰りたそうな思潮というものを見ると 割合当たってそうなようにも思う。で、もしそうなったらその時に彼らの負けが本当に確定するって事になる オウム関連の宗教嫌い、というのはそういうところがあると思う オウムが宗教、と言うけれどもそうではなくてオウムが彼らに可能な宗教だったという話で 多分、何を建てようとどうしようと大なり小なりオウム的にならざるを得ない社会背景に依拠した時代という事になるんだろう あと、この世代のリベラル集団主義が後に極端な集団偏重主義と反動的な個性偏重主義とその他諸々に展開されているように思う
>>389-390 に書いたいわゆる「武士道」と別に武辺者というキャラクターもあるけれども
ギャグの無い男塾というイメージで主役になれそうな印象はあんまり無い
柴田錬三郎の短編に割とあるけど強面でしかもえげつないというか、多少誇張とか強調を含むだろうけど
ハート様最強物語的な無惨な余韻を残す作品世界になっている
他には雨月物語に出てくる修羅道の殺生関白秀次とかの感じが、泣く子も黙る存在感というのがあったりする
戦国時代に武辺者というと、柴田勝家とか太田道灌とかがそれに当たるのかもしれない
武辺者が主役を張れたのは坂上田村麻呂とか源為朝とか頼光四天王とか
そういう時代ではないかと思う。こうして見ると国家がスポンサーとして武家を成り立たせていた時代に限られるというか
武家の台頭が始まった平家物語では既に木曽義仲は困りものとして扱われている
楠正成は武辺者かもしれないけれども武士道が入り込んでいる
バサラが言われるのは楠正成の時代頃かららしいけれども
他に傾奇者とか兵法者とか色々ありつつ、総じて武家のジャンルは世の中に何をもたらしたかとかではなくて
何を使って威力を揮ったか、揮おうとしたかという事で判定されているような気がする
新撰組はある種、この手の「武辺者」のリバイバルになるのだろうけれども
やっぱり沖田宗次とか土方歳造とかになってくるので
扱いもそうなのかは疑問なところだと思う
功罪なんかどの世代にもあるしその一時代で全体としての運動が総括されて 終了するって事はあんまり無いんじゃないかと思う
日本版アーサー王物語っていうと何になってくるんだろう 聖杯伝説のような失われた宝を求めるという要素は埋蔵金伝説くらいしか浮かばないのだけれど 祖型的英雄譚って意味ではヤマトタケルとかがまず浮かぶ 円卓の騎士の要素を求めるなら義経とか真田幸村になるだろうし 義経の生存渡海説にはヤマトタケルの昇天と響き合うものがあるし そこに生前の活動から相応の来世が定まるっていう輪廻説が絡んでいるようにも思う 日本を逃れてモンゴルの大平原で馬賊になるというのは彼岸というか来世的だ 静御前と弟橘姫の立ち位置というか展開も似ているといえば似ている 頼光四天王は配下の存在感が強いという点で頭領としての側面が強くなる 聖杯伝説はやっぱりロストテクノロジーとかの話になってくるんだろう うつぼ舟とかニギハヤヒの円盤とかヒヒイロカネとか でもそういうものを後代の研究者とかではなく英雄や為政者が追い求めるという話は 日本にはあんまり無いような気がする。竹取物語では不老不死の薬を燃やしてしまうくらいだし いわゆる秘宝は求めずに手に入ってしまう話の方が多い 草薙の剣が海中に没したという話はあるけどそれを探す話は無い 俵藤太や小野篁や、神秘的な行跡が伝えられる人物というのは結構居るけども
竹取物語はどうでも良いけども アーサー王物語はよくは知らないので 受け取り方も分からないというのがある そこから様々の説話なり伝承が派生するというものだとしたら 牛頭天王縁起とかの方がむしろ近いのか 牛頭天王は一応人間として生まれたという設定だった気がするけれども 姿形からして人間ではないような気もする
ネクロノミコンは正式に使えるやつがあるらしい 洋書だけどアマゾンで千円くらいで買える 内容はシュメールとかの古代オカルトを骨組みにした本格派で マルドゥークとかイナンナの眷属をクトゥルー神群や崇拝者に凝らしてあるのだそうな 「ネクロマンシーにはまずはこの本」という風に言われる事もあるほどオカルトの信任を得ている著作らしく まあこれはsummoning spiritsとかネット情報の受け売りで自分では読んでない ラヴクラフト自体にフリークが多くて彼は本当に太古のオカルト知識を備えていたという主張もあるらしく ネクロノミコンやクトゥルー体系によるオカルト儀式っていうのは他にも複数ありそうだと思う ラヴェイのsatanic ritualにもクトゥルー系儀式が収録されているとか 日本で言うなら遠野物語とか水木しげる妖怪世界から儀式を組むようなものか 遠野物語は少なくとも伝承事実はノンフィクションなので 迫力の怪異存在を祭る意味では浮世絵とかの妖怪を題材にするのが近いのか ああいう存在の強烈さはビジュアルイメージで捉えられている事が多いと思う どうでも良いけれど寝ていたらクトゥルー的な存在を見た事がある タコ的なのとかイカ的なのとかを一度に見たのだけど そういうあからさまにUMA的形状の存在を見た場合によくやるのが 同質化とかをイメージする事で、この場合にもそうやって旧支配者化したりした 敵対的な印象を受けた場合にはその対象と全く同じものを全く同じ力でぶつける事をイメージしたりする この時のクトゥルー的存在にはそういう印象は無かった あと遠野でいえばナマハゲっぽい存在を見た事がある 何というか神的な威厳があった。氏神とかに近い雰囲気
「そはとこしえの死者にはあらねど」をマントラに 深海を強く想起してそこからいつか巨石文明の大神殿が浮かび上がる様を思い描く 中は闇だが神殿自体にマントラが照応し、神殿はマントラによって浮上する 残りの文句を忘れたけれどももう一節だけとかだったら浮上を終えたらそれを唱える 残りの句は神殿内部の異神の咆哮に照応し、唱えるごとに闇の中から大気が震え、まばゆい光が海上に走る もう数節あるのであれば段階的に、それぞれの詩節に対応する過程を設ける 即興だけど俺が思いつくのはこんなくらいか 閉じ込めたものから力を得る、閉じ込めたものを浄化する またはある種の先祖返り的な作用、文明化以前の世界のイメージの持つ機能を受け取る、とか 考え付くのは色々ある
もう秋だ mp3で「september〜」って歌が聞こえてきて気が付いた
「ポエマー」 謳う事は持たないながら 日々観察し呑み込む事は 飲酒の際には忘れきり 眠りこけるのは定まり切った睡眠欲を満たす為なら 変化はただの繰り返しかと 自分に無いものを外に 自分の属さない際を外に得ようと 窓を見風を浴びて夜灯に臨み 暦の上の季節の流れが 気候の上での秋の空になり 人工を経ずに届く風が季節感となり 繰り返しに変化を与え 束の間の詩人を構成し 月を上げて 紅葉になって散り終えるまで 静止して 時候の風を喫する事を 束の間の詩人に許そうとする
「壷中天」 夜鳴く鳥が 耳快く 虫の音は 已まず涼しく 鳴り渡る 静々と 身守るごとく 夜灯が光を十字に発し 極大の星を幻視させ 浮かべる夜空は足元の 地平を空と見紛わせ 海と見紛わせ 視界を夢と見紛わそうと 瞬きかける 辛うじて逃れ出た秋の夜長に茫然と 夢を思い描く事に傾注するのが 詩の用途の一例となり より強くより暮らしを忘れて思い描き その夢のどこかに暮らしを得て夢に暮らす 肉眼で目にする星空と秋の空に至り 夢と夢中に暮らす実体は 鬼火と共に夜を渡り 夢を住処として夢に暮らす 夢は暮らしを追い求め 暮らしは夢に安住し 灯火は皆夢を照らす
勾陣=ニギハヤヒ説というのを思いついたけど 説明が面倒なように思う 古事記と梁塵秘抄と垂加翁神説というのを買ってみた 古事記が偽書っていうのは、序文を見る限りは考えにくいと思う というのはまあ、奏上する体裁と釣り合った緊張感が堂に入っているからで っていうと主観的根拠ではあるようだけれどもその緊張感の内実についていうと 易経を読むとまずこの序文で記者が何をしようとしていたのかが分かるし その目論見と操作が偽書では不相応な種類と程度のものを含んでいるように思われるというのと 書き方が上梓するに際していわゆるやんごとなき身分の人に宛てる事をごく自然なものとしている立場の人物のもののように思われるという事がある 同じ偽書でも単に記録編纂を目的としたものでは記録編纂自体が主眼になるのだけれど この序文の場合には記者は和漢の学識を傾けつつそれをお上に奉る事に主眼を置いて書かれているように思う 天武天皇は陰陽道家という事で有名なので、誤伝が増えたので編纂を命じたという意味は 易学とか五行学説等に合せた形で神話体系を編成し直させるという意味合いも含んでいたのかもしれない 繋辞伝とよく似ていて、「近くは身に取る」の体を踏襲しているのだけれど 本家の思想と併せて自国独自の古来の習俗を譬えの中に並立させようとしている形跡が見られるのが面白い どこがどうというのはまだ何ともいえないけども
あんまり詳しくないけど六室が金牛宮で星が二つ入って合なので 西洋占星術でも農業向いてそうな雰囲気なんだよな ただ土地も何も無い
六室ってそれとも職業自体とは関係なくて 就業態度とかの方が関係してくんのかな だとすると性格に大きく関係するのがいて座と双子座っぽいので 牡牛座の地道さは気分屋と飽き性に左右されずに効能を得られるものだろうか どうもちぐはぐな構造に思える
勾陣についてまず本国での扱いを確定要素と状況証拠と空想的根拠からいうと 確定要素としては北極星としての勾陣というのがある この場合に勾は北斗になって、勾を陣べるという意義が出てくる 同時に北辰は全天を陣べているとも取れるし 勾陣天皇大帝は万物万霊を統べるという風に説かれているらしい 次に状況証拠として、十二天将としての勾陣は好戦性とか鈍重さとかを表すようなのだけれども これは先住民か自身の現文明以前の原初的文化段階での性質を象徴している可能性がある 最後に空想的根拠を説くと、勾陣は土将で四神相応の中心に据えられるので 勾を陣べるという名称を地上に置いて捉えてみると 勾を籬とか区画という風に考えて、人の集まる、人を集める中心地点としての意が考えられる 以上の三つを総合すると現文明以前の文化圏で信仰を集めた神格として考える事が出来る いわゆる埋没神という事になる これを日本に移入した際に、勾陣は京都の守護神として考えられる事になるのだけれど 天孫降臨以前に大和の一円を統べていたのがニギハヤヒとされているので まあこれが勾陣=ニギハヤヒ説になる 他に、勾玉は火を象ったものと考えているのだけれども これが正しければ移入当時の人はそこから勾陣について 火炎土器文化のあった縄文時代の主宰神を連想していたかもしれないし 穴居人が屋外に火を焚いて集まる様を浮かべる事も出来る ニギハヤヒは日の出に先立って賑わう早日、と考えるなら 文明の黎明かまたは天孫降臨以前に既に興隆していた文化を表す神名とも取れる ここから帝が天皇を名乗ったという事について考えると 星々を陣べる天皇大帝の名称を祭祀者として見る事になるけれども 星々というのが記紀神話中でどのような神々を指しているかというのを見てみると あらゆる神祇を祭るとされる天曹地府祭を天皇が執り行ったという意味も見えるし そう考えるなら後世の国学者がいうような天皇家の祖神を祭るのが神道 という考え方にはどうも齟齬が生じてくるように思う
ニギハヤヒというより物部には他に日本版イルミナティ説が考えられる この場合はニギハヤヒは祖神というより崇拝対象として 系統上の祖はナガスネヒコに配当される事になる ナガスネヒコは天孫に弓引く事によって恐らく史上初の純粋な被政略暗殺者になるのだけれど 子孫の物部族は聖徳太子の頃の渡来後間もない仏教家にえげつない弾圧を加えたことでも有名で 史上稀にみる朝敵と仏敵を輩出した系統という事になる 弘法大師がイザナミを脱衣婆の事と説いたりしている辺り ここで残った禍根というのは相当なものがあったんではないだろうか イルミナティの要件として太古の秘義の伝承を自称する事 社会の上層に入り込んでいる事、貴人の種である事、暗躍している事、虚実不詳の噂によって語られる事があるとして 物部なら申し分ない。後世仏敵として説かれる事の多い存在として天狗があるけれども 太平記等の天狗評定はイルミナティに相応しいもので しかもここには皇家や延暦寺の高僧を出自にする大天狗が複数登場するので これはまさに王家や高位聖職者にイルミナティが潜んでいるという説と重なる さらにそれが後の国学、廃仏、国家神道の流れに帰着したと考えると中々の陰謀ロマンが展開される この流れに物部の系譜を主軸に据えるのは荒唐無稽なようだけれども 中世神話にアマテラスが元の国主だった第六天魔王との取引を反故にした事で日本は仏国土になったというのがあって この説話を日本での仏教家の最初の受難といえる先に挙げた物部の事跡と比較すると ちょっと信憑性が出てくる上に、まずこの説話で物部の名を出す事なくイザナギを第六天魔王としている事 またこの説話でアマテラスの行為は是とされながらも以来偽証する神として扱われるようになったという事から 自身の正体を明かさせない隠然たる実力を持っている上に皇祖神に対して真を突き付ける恐るべき存在という風にも考える事が出来たりする ただまあ、こういった仮定を全面的に肯定した上で真面目に色々考えると 闇の血脈としての上記のような性質と同時に 汚れ役を買って出ている側面というのがどうしても出てくるような気がするので 今の生活の肯定的な側面を物部的な存在が担っていたりする事が分かってきたりするのかもしれないとか そういう事を考える
まあそんな事は無いか そういえば昔水没ピアノっていう小説を読んだのだけど 共感出来るというか感情移入出来るというかそういう意味でいえば 現代的な小説では入り込める割合が圧倒的に高かった作品だった 全然入り込みたい世界では無いんだけども 自分がそういう事になったりしたりする事は無いにしても可能性を延長したら普通に考えられるかもしれない世界というか 半分は他人事なんだけれども何処か他人事では無いような流れというか 大体小説読んで感情移入する事はあってもそういう具合に意識とか行動パターン的な事で入り込む事はほとんどないし 特にラノベや若者主人公のフィクションは自分と別種の生き物が動く世界として割り切らないとやり切れないと思っているので かなり珍しい読書体験だった
指がなー。でも多分あれも妄想なんだろうな 妄想で始まり妄想で終わる 妄想にしても妄想のパターンっていうのがあって 殊に恋愛要素を含むフィクションの場合にはそういう個人的妄想パターンっていうのが強く働くと思うので 妄想で始まって妄想で終わる妄想パターンっていうのが近しいのと あのオチは三百六十五日考えても確認になるというか 何を確認しているかというと何も無いことを確認しているのだろうけども そのくらい共通していれば入り込むには十分な訳だった 俺はあの語り手と違って一介の妄想小僧に過ぎないので 「来なかった。見なかった。負けた」という感じだろうな 行動パターンがその程度でも妄想パターンが合致すれば入り込めるというのは小説の不可思議力かもしれない そんで妄想パターンが合致する小説っていうのは大して無い 別に自虐的なら良いという訳でもないし何も手に入らなければ良いなんていう風に思っている訳でもない でも何かが手に入りそうなイメージを抱かせる小説というのも大して無いし その意味で基本的に身を削って読書体験の中に波風を立たせ起伏を生みださせているだけで 全体としての自分というのは空虚そのものであるのかもしれない 映画館で映画を見るのは仕事上がりの死に損なったような生き長らえたような気分の上での鑑賞が最上で 映画自体の出来不出来は正直なところ関係あるのかないのかいまいち分からない ただ音と映像とで目耳脳を洗いつつ座り心地の良いシートで骨身を休める要素が大きい 出てくる頃には「あと三日生きられればもうどうでも良い」というのに近い満ち足りた気分になっている 芋粥の五位みたいな心境だろうな でも欲が出てくるとこういう感覚も消えるのかもしれないし そう考えると人間は中々タフだ
一作でも分かるような話だけれども多分他の作品も読んだ方が良いんだろうな 他の作品を読まずに読んだので探偵が死神にしか見えなかった ラノベ=キャラクター小説という意味で言われるラノベは キャラクターは劣情と欲望の受け皿というのを主機能にしているという事だと思うので その意味ではラノベと一般文系っていう対置の仕方はずれるのではないかという気がする 何か別にそういった技術に特化した先行モデルがあっても良さそうに思うのだけれど これというのは浮かばない。フランス書院とかかとも思うけどしっくり来ない それならむしろフィギュア職人とかそういうものの方が近そうに思うけれども ラノベとフィギュア職人を対置する構図に発展性があるのかどうかというのはある そういえば戦国武将でいうと豊臣秀吉はドスの利いた老侠客のイメージだな。親分肌だろう
ラノベとかで闘うヒロインが時代劇口調だったり漫画チックな男口調だったりするのは あれはいわゆる普通の女の子と自分の間にどうあっても平坦な関係性の確立を想像出来ない悲惨な 上の方で腐女子とかにさえ経験的に承知している搾取者としての女の影を見るタイプの読者が安心して読めるようにと 可愛い女の子の造形と彼らでも安心して耳を傾ける事の出来る存在によるアプローチとしての男口調を 苦肉の策として錬金術的に掛け合わせた人造生物という事が出来る としたらAURAのヒロインは可愛い女の子の造形と五〜七歳程度の知能を錬金術的に掛け合わせる事によって創出された この型のキャラクターの新機軸として考える事が出来る訳だけれども 知能を考えずに単にフツーとビョーキの対立軸から考えるとしたら 自殺直前日記の山田花子があれのリアル版っていう事になるんだよな 前から思ってるのは、古谷実とかもそうだけど ああいうフツーとビョーキの対立軸を経験していて且つ普通を力説している人とかは ガロ系とかはどう考えてるんだろうなっていうのがある。あと夜想とか危ない一号とか何かそういうの 俺は普通=リア充への道とは思っていないので、普通=リア充への道っていう思考が見える事があって たまにイラッとくる お前が目指してんのは普通じゃなくてリア充だろと。リア充じゃなきゃ普通じゃないみたいな事ばっか書いてんなよと 別に普通になりたい訳じゃなくてリア充になりたいだけじゃねーのかよと じゃあそう書けよ普通にかこつけて意味不明な思想並べやがってと 大体普通普通言ってる奴ほど普通じゃないので割り切れないものが残る。普通っていうのは中庸であってリア充とか勝ち負けとかは直接関係ないし リア充作りたいなら最初からリア充のすすめみたいなの書けば良いのにと思う
多分とにかく自分よりリア充度の高い集団に何とか関わっていくというのがリア充道の基礎にして王道になるんじゃないかなと思うけど それがフツーだとしたら面倒いし結構きつい目見る事になると思うので やる気とガッツが無いと難しそうなイメージがあるな スペックあればそこまできつくもないのか。まあ俺は多分相当きつい
そういうのは自分を一端整理してないとこだわりなく目指す事が難しいようなのだけど
目指す段階で整理可能なほど自分が整っているという事はあんまり無さそうに思うので
バースト寸前でごまかしごまかし、っていう成長経路を辿る事になるのかなと思う
リセットが利くタイプと泥臭くもタフなタイプがありそうに思うけれども
どちらだろうと表面的な見え方とか表現の仕方がそうなるというくらいの違いしかなさそうな気もする
しかしリア充道はどれだけ自分が享楽的かつ精力的であり続けられるかという事だろうと思うので
精神的なメンテナンスが必要になるんだろう
俺なんか友達も何も存在しない状態で既に
>>414 に触れたような映画鑑賞法が必要になったくらいなので
リア充道で求められる体力気力は恐らく桁違いのものであるはずだけど
そういう類の定期メンテナンスを必要としないリア充というのは
やっぱり体力がものをいうって事になるのか
サタニスムの儀式理念は大体そういうところにあるらしい 社会生活での甚大なストレスのリリースという事 ケイオスの理論もそういうところがある 禅とか正座もそういう要素からメジャーになってるところがある
喚起魔術がしてみたいんだけども 祭壇も道具もないので当分は難しい 死霊情報では喚起魔術に向いてるらしいとの事だった 易では死霊術に向いているという事だったし いわゆる黒魔術系を伸ばしていくのが気質に適うって事なのか 護符魔術も覚えとくと良いのだそうな こんな事をいうと何か霊能者みたいだけれども 俺は霊能者ではないし 霊能者は死霊術師などと自称しないだろうと思う 霊能者には霊の区別がつくけど 俺はよく分からない
どんな護符が良いのかと尋ねると 龍が身体を巻いて守っているような映像を見せてくれた 立体だったので図案でないのは分かったけれども 護符の図案自体は不明のままだった 護身用みたいなのが良いんだろうという事は分かった
女神が御幣を振って波を操ったりしていた 元気かと聞いたらあんまりと言っていた 実際元気が無さそうだったので どうしたものかと思った 天狗が訪ねてきた事もあった やっぱり威儀があって、三人連れだった あと時々沢山の行列が訪れる事もある じっと見ているだけでも結構疲れた 十二神将みたいな恰好の二人連れを見たのが最初頃で 大体は小さい形で現れる事が多い 死霊術とか魔術を始めてからだと思う
遊びに来たついでに皿仕上げwwwwwwwwwwwwwwwwww
自分は恐い人には基本、近寄らないようにしているので 西尾維新を読んでいて水没ピアノ的に自己同一視する事はとても出来ないのだけど 何であのキャラクター達がおっかない人達、哀川潤とか戦場ヶ原ひたぎとかとの関わりを積極的に深めるか っていうのは読んでいてよく分かるしそれが想像できてしまうという感想を持ってる そういう風に踏み抜いた世界と読んでいるこちらの側とを地続きにしてしまうという事だけれど 考えてみればアンチミステリっていうのはミステリをナンセンスと捉えてそこに「現実」を突き付ける作法という事みたいだし もしかしたらミステリていう論理系の整備作法を用いる事でそれだけ巧緻な起爆装置を拵える事が可能になるというのがアンチミステリなのかもしれないけれども ミステリに詳しくないのでしっかりとは分からない セカイ系という事についても読み手が拠って立つ意識と現実を近づけるという事でいうなら 異なるものと自分が地続きである事を示唆する形式と取る事が出来る 要はイマジンブレーカーなのだけどそれを端的な現実の直視ではなくて幻想から出発する事でそれを遂げている事になる そうやってメタフィクション的なものとの近似値をフィクションによって提示していく 単に「現実」というのではなくて多層的な方法論に則ってイマジンブレーカーが手法を希薄化させて それによってメタ的なものとの近似値が追究されていくという風になっていると思う オカルトでいえばセトの寺院のblack frameの希薄化と似た流れで、構成要素のあらゆる側面は希薄化が可能だという考え方になる キャラクターをイマジナリーコンパニオン、想像上の友達とすれば それがゆっくりと現実に近づいていくという感じ タイラー・ダーデンが幻想と現実の両方を語るような流れ 端的な現実を突き付けるという仕方がイマジンブレーカーの右ストレートだとすれば 上記の仕方はイマジンブレーカーが悪魔の実の能力者的に自分の能力を発達させるような感じ イマジンブレーカーは幻想殺しだけれども行動はむしろ他者への想像を促す事を目的にしている事が多そうに思うので 実は単純な現実の突き付けではなさそうなように思う
countdown USAを見ていたら番組中の保険のCMで女優さんが物凄く怒っているように見えて 何で怒っているんだろうと一瞬思ってたら女優さんが 「おめー、先週も今週も清盛見てねーべ? 剣客商売も見なかったべ?」 て言っているように思えて、ふと気が付いたら女優さんは普通に笑顔に戻ったように思えた そういうささやかな妄想、というか幻覚に近い妄想もある 何かもう大紅蓮を身にまとっているかの如くに見えたので驚いた
今日の死霊との対話、一部 ―何か知っておくべき事は 「お山が駄目になった」 ―「駄目になった」とは 「小さくなった」 場所を聞いて地元の山を特定。古い天狗信仰のあった山で勝軍地蔵が祀られてる ―どうしてそうなったのか教えてくれないか 「天狗が沢山来た」 ―それは日本の? 「外国の」 ―中国とか? 「違う」 ―西洋の? 「そう」 ―西洋に天狗が居るのか 「一杯居るよ」 ―原因とか聞いても良いか 「知らなくて良い。すぐ直るよ」
地元といいつつ距離的にはかなりあるので そう何度も登った事は無いけども神秘的な雰囲気があった
神道を勉強するのに必要な事は MANNAZ逆位置、「侭ならない事」 スサノオの命が猛威を揮う様を台風とすると 髭を剃り爪を剥がれて追放されるというのは台風が去る事になる そうして力を削がれた後に風は根の堅州国に降りて八重垣の中心にクシナダ姫を帯びて子供をもうけるのだけど この子供は土壌を思わせる名前を持っている クシナダ姫の父親のテナヅチは須賀之八耳神とされたというから八重垣に入る風の祭祀者と取れる 人界の外で途方も無い暴風雨をもたらしていた風が人の域に近付くにつれて和らげられるという事で 鍵としてテナヅチによる祭祀という事を考えるなら 本来人の手でどうにも出来ない自然という事が主要な関心事であり扱われる対象であるという事になる で、このルーンで解釈するならそういうのが神道って事になるかなと 魔術を学ぶのに必要な事は OTHEL逆位置、自己肥大 これは有名だけれどもGDの講義文書でニオファイト位階では 質料を持たない座標点を瞑想するという教程があったとされる 仮にこの座標点が質料を生じた場合、そこから伸びる枝葉も同質のものを受肉する事になる 座標点を魔術師自体、枝葉を構築される事になる図式やその様々の魔術的な関わりと捉えるなら 質料は外界との交渉の際の抵抗になり、それが増大する程軋轢が生じるという事になる 暗土晦明という事になる。OTHELの逆位置は結果としての現実的な挫折が暗示される 多分そういう事なんだろうと思う
侭ならない自然とか自我肥大とかについてよく理解する事が 必要になるって事かも もてない人間としてバレンタインデーというのは 基本的に期待も無いので関心を抱くようなイベントではないし 嫉妬羨望する程にこのイベントを謳歌する人々に対して近しい距離を感じた事も無いのだけども それでも内心では、自分は今北村弁護士が困った時みたいな顔をしているのではなかろうかと感じながら過ごしている これはどういう事かというと要は自分が主にならない時間 自分でないものが主になっている持続的時間というものを想定、許容する事が出来ないという事から来ているので これは自我肥大の一例になるんだろうと思う
つってもこの立ち位置ではさすがに足元が覚束なくなりそうに思えるので ここから自我肥大の戒めを自身に課す、というのは頂けないように思う そこでどうするか、というと自身の外に味方を想定する事になるのだけれど この「味方」は時間軸上で隔てられていて現在時制には存在しない存在になる これが魔術的アプローチかなと思う 神道的に捉えるなら、周囲の時間を風として、それが自身に近くなるにつれて そういった熾烈な自然、外なる時間の荒御魂を和御魂に転じる事を祈念するという事になるかもしれない 喩えが悪過ぎるというのはあるかもしれない 何かもっと崇高深遠な語で語るべきだろうか
神道についてはろくろく知らないので恐らく間違っているだろうな
外なる自然は荒ぶる神の領域で、人の領域に近付くほどその働きが和らげられ人の生存に適うものをもたらすとしたら 祈りに当たって求められる事の一つに、祈る者が人である事の証明という事が考えられる この、人である事の証明によって祈りの働きが核とするものが見出される訳だ そうしてその証明を何処に求めるかというと、感謝というのが一番合理的なもののように思われる 恐らく崇高深遠な古代神話世界で発される祈りと現在俗世の両者で発される祈りの間に共通一定の要素として考える事の出来る数少ないものがこの「感謝」で 祈りを表す多項式の不定数Xの解として一番理に適うのではないかという事だ 「感謝」は現に自身が生存しているという事に掛かるので その事によって自身の生存要件を潜在的に求め、祈りの内に保有する事になる こうして自然が祈りによって同期化されるに当たって、その核として自身の生存要件が確保されるという事になる アブラメリンの魔術にいう悪魔の使役の為に聖守護天使の加護が必要になるという事は キリストが神性によって悪霊を支配したというところから派生したもののように思うのだけれども この「感謝」を深く見ていくとこれと似たようなものとして捉える事が出来るように思う
ここでいう「人」は
・ある条件下にある事によってのみ生存が可能になる事
という風な要件を満たしている存在として考える事が出来る
>>432 >崇高深遠な古代神話世界で発される祈りと現在俗世の両者で発される祈りの間に×
→崇高深遠な古代神話世界で発される祈りと現在俗世で発される祈りの両者の間に○
434 :
けけけ :2012/11/09(金) 12:59:48.51 ID:essgzjgz
にしむらゆか 2011年 自らが出産した我が子を虐待し、現在育児放棄している こいつはあじへいOODAI店でアルバイトをしている。 こんな育児放棄をしているクズは早急に処分しろ こいつは三重県のあじへいOODAI店にいる。
知る限りで現代詩について云々されるところを見て考えてみると 詩は裾野を確保出来ないとかそういうのがあるらしくその観点で見るならば 詩におけるトレンドを地に降ろすという事が過程的なものにもせよ現在の詩の課題であり役割とされるような気がする 詩に不朽なるものという要素を考えるなら不朽のものとされる詩の内にそれを見るのが早そうに思える イーリアスホメロスウパニシャッド等 どうせ要素を網羅する事は叶わないとするならば一例として その時勢におけるトレンドを謳うジャーナリズムとして詩を考える事が出来る 戦後現代詩を考えるなら知る限り詩に謳われるのはまず喪失感と充溢の対称的な二要素であり 詩は散文の精髄であり散文のトレンドが世のトレンドあるならば詩のトレンドは世のトレンドの精髄であるという事を意味する 従って他に多くの先行する文学的潮流をも詩は汲み取っているのだろうけれども 詳しくないので本当は三行上の事柄などさえ具体的に言う事は出来ない ともかくも古くから世にあった詩の審判者は、トレンドを地に降ろし得たか否かだったのだろう 詩の作り方は色々あるけれども手っ取り早くは自分の好きなフィクションの醍醐味とされる部分だけを抜き出して それと同じ感覚を与える文章を書く、という風にすればそれで詩になるんではと前から思っているけど試した事はない 自分ではこれまではとにかく何でもかんでも削ぎ落として意味を為さないようにしてしかも形になるようにというつもりで書いてきたように思う 通常なら火とか水とか風と見なす要素を全部粗雑な地に過ぎないものとして捨てて 且つそこに残るものは自分で作れるものの中で最上のものに違いないというある種の信念からそうしたし それが自分には割とあっていたように思う そういう風にして方法論、詩学というのは上の方に準えるならその人の自身の内にあるあらゆるトレンドの精髄としてある訳で それを可能にするのが詩というジャンルの長所だと思う
詩を書く人には上のと逆に通常では気づかない事を詩にするという人とか 通常では言葉にならない事を詩にするという人も居るのだろうと思う そういう場合には詩作の際に広がりが意識されたり宇宙的な感覚を得たりする訳だ 俺の場合には凝縮とか結晶化とかの印象を持たせる詩が好ましいものだと考えていた トレンドという事については自分の感覚で四大でいえば風という事になる 一方で自分の詩作意識について考える時に念頭にあったのは粗雑な地と精錬された地という事で 大体が上の意味でのトレンドとしての風はこちらの地を削るもの という風に見なしていたように思うしだからそういう辺りに個人差が出やすそうな気がする それに粗雑な地とかはエメラルドタブレットからのイメージ拝借で 他の部分も頭にある時点では大部分をオカルト用語を交えて考えていた
今は自分にしては長めの詩を書いてみたりしているので 上に挙げたようなやり方とは違った形が出てきてたりもするけれども 一方でそれまでのやり方の延長になっていると思う部分もあって そういうのは「詩作」にこういう長文を混ぜるような感じで意識してる それまでのは意味を削るという事からいうとおよそ言論いえる要素は一切排除する気でいたし だからコミュニケーションではないし従ってジャーナリズムではないし それは一応言葉を使ってはいるけれどもオブジェか何かであるという 超高踏的な芸術至上主義的なものを意識していたのだったけれども 普通の意味で高踏的な表現を可能にする語彙と経験と精神と含蓄を持たないという事から それとはまた別種のものを志しても居たというか結果的に別物が出来ていたように思う 語彙は絵の具であるから絵の具がカラーに反映する事柄は大きいのであって 真に高踏的な表現は自分のとは別物であるところの香気や品位や性向を持っていて それを知っていて似て非なる表現を何年だかの期間意志していたというのは それで作れるものがあると考えていたところからくる 互換性の無い表現に練度なり強度が生じるとすれば それは紛う事無く「俺の作った詩」であって 純度の高い自己満足をもたらす事になる
マイスター・エックハルトが曰く神は自らの内に自らを生み出し その喜びはあまりに大きくその為神は全ての力を使い果たす程である、と 詩作で得られる自己満足は言う事ない程のものになるしなり得る 錬金術は良い形式だ。詩を説明するのに、というか詩作の際に置かれる意識の操作が専心するべき理想態を言い表すのに都合良いし 詩作の際に踏まえるのに有益に思う
トレンドを地に降ろすという考え方を説明する概念として描いていたのは大物主の命で この神はちょうど老子的小国寡民の代を表すスクナヒコナの命が常世国へ去った後 オオクニヌシが治世に悩んでいるところ東の山に現れて自分を祭れば世は治まると説いたとされる これはそれまでの規範で追いつかないほど国が育って手が回らないと考えていた際に 日の光で一望される全土を治めるという事とそれに基づく区分法を定めよという事 後世的に解釈するなら日の出の方位のオオモノヌシを新たに祭る事によって一度物事の質的評価を丸投げにして 大小高下はただ見えるものを見えるままに捉えるべしという勧めを表している 丁度スクナヒコナを内的規範、詩でいうなら質の構造、完成度として喩えるところの 外的関係、場や世と詩との関係性というものを表すものとしてここではオオモノヌシの概念が相当する そういった辺りからトレンドの接地という事が考えられた 質をおざなりにしろという意味ではなくて普及や受容に際してはもう一つの要素が発明され得るという事になる トレンドという事とか、喪失と充溢というのはタケミナカタの神が連想される 一年というか一つのサイクルが終わればそれは喪失になり 同時にそれが充溢を促している これはそのままトレンドというものの性格でもあるように思うけれども 考えてみたらこの神は季節の転換を表すのだから当然かもしれない そうして詩は一過性で良いもののようにも思える。過程的なものの精髄であるから過程的で良い事になる
>一度物事の質的評価を丸投げにして これはそういった価値判断が消滅するのではないし質的評価が機能しなくなるというのでもなくて そこにもう一つ遠近法や外的関係性から初めて捉えられる様々の要素が付け加えられる事になるという事 評価軸というより「詩」を捉えるに当たって別種の要素が生じ得るという事 >丁度スクナヒコナを内的規範、詩でいうなら質の構造、完成度として喩えるところの →丁度スクナヒコナを内的規範、詩でいうなら質の構造、完成度として喩えるところに対して
詩のトレンドを地に降ろすとかの作業は俺には到底出来ないというのはそれ程詩を読んでいないからだ 自分に出来る事をするしかないしそれは自分の目に触れる範囲でのトレンドにしか無い でもそのいわゆる精髄を得るにはそれなりに詩的な操作を働かせる事になる 例えばそれについて詩の外にある人に通じる言葉で説明出来ていたら それもある意味では一つの「トレンドの接地」になる というのは詩作という行為の魅力なり手順なり何なりを空から地に降ろした事になるからだ それは確定的ではなくて過程的なものだし常に話者の中では詩を巡る過程で時宜に沿う「トレンド」といえなくもないし 読み手の側でその説明を、詩作という事の説明の一例として一時的に参照する事になるからだ
上の仮定を踏まえると小説とか散文が書ければ詩も書けるという事になるんではと思う 大体昔の小説とか評論とかで話者に感嘆を与えた作家を称して「この詩人は」という言い方をしていたりする そういうところから得た仮定でもあったりする 小説と詩はとりあえず文の構成単位が違うというのが大きな違いなんではないかと思ってる 例えば小説では登場人物に名前が付くのが普通だけれども詩では名前が付かなくても普通の事で 小説では人名は固有名詞だけれども詩で強いて名前が付く場合には人名自体にその人物の経歴なり人物が仮託されたりする 小説で「山田太郎は〜」以下の最低十行以下に相当する情報密度を 詩では「山田太郎は歩いていた」という一文の「山田太郎は」という文節のみで表現する事になる 人名を挙げるという事が詩ではその人物にパーソナリティとか経歴が存する事までを作品内部に暗示する事になるという事で 小説の場合にはそれは描かれなければ小説にはならないんだろうと思う 登場人物に名前が無い小説が無い訳ではないと思うけれども とりあえずそういう風に考える事が出来る 多分、上記したように詩が文節を最小構成単位にしているとしたら小説は説話を最小構成単位にしているんではと思ってる 詩の「山田太郎は」に対して小説では「山田太郎はこうこうこれこれの人物でこういう事をして生活している」までで一つの単位を発生させるのではないかという事で 要は、自分は今現在自己流で詩を書いているけれども もし小説を書きたくなったら別に「小説の書き方」というのを知らなきゃならなくなるという事だ
>>439 のスクナヒコナとオオモノヌシについては
単にスクナヒコナを詩の内、オオモノヌシを詩の外という風に書いた方が分かり易かったし間違いが少ないかもしれない
satanic bibleを読み終えた エノク語召句については読み直したいところ
ヤハウェの神の他に無い特徴の一つとしては豊穣神であると同時に言の葉の神でもあるというのがある そこに雷のように形無く走る性質などを併せて考えると丁度ツタ草のような姿が想像される このように、左道的アプローチにより一なる神の地上的勢力の上での姿形を思い描く事が出来る でも実は神のこの姿はそれより以前、新約の神殿の内陣が裂ける場面を読んでいて咄嗟に浮かんだものだったりする それを新約成就の場面として読んだのでどちらかというとそのイメージによっているかもしれない 新約というのは救いの適用される範囲が大きく変わる事で それは度々触れられる取税人や罪人等々の記述とかから分かる
アッラーの神は慈愛を旨とするのではないかと思っているのだけれども勉強していないので分からない だからフォルムを取るならそういうものの顕現としての形態が考えられるけれども 何も知らない段階での事なので何ともいえない
スピリチュアルについては説かれるところの太霊、グレートスピリッツは 大昔のアメリカインディアンの霊が英国で説いたところのものであるらしいのだけれども 恐らくそれを信じる人のほとんどが「古い思想」とはせず「新しい思想」とする・したであろう事が特徴的だ それは俺が孔子とか老子とかの「古い思想」を見るように「古い思想」とはせずに「新しい思想」としているはずで 上の方で説いた地球の裏側についての考え方からすると一応先行する未来から来たという印象を与えるものだけれども それに加えてしかし太霊なるものは有史以前の存在として考えられているという事 これはどういう事かというと、キリスト教圏において、「未来」に「始源」が接木された、というような事になる こういう風にいわゆる霊的指導者、が外から迎えられた例としてはダビデ王が有名で 北欧では終末後にバルドルとヘズルの兄弟がヘルの館から迎えられたりするらしい でも日本ではそういう風な感覚はあんまり捉えにくいようにも思う
クリスマスは冬至の直後の満月くらいの行事だったと思うけど 冬至と言えば一年で日が一番高くなり夜中は一番深いところまで下るというという事で 子午線の真北を表す一日で言えば深夜の0時を表す事になるのだけれどもこれを「太陽が穴に入る」というような言い方をするので その直後の満月となると満月は産出を表すのでその恩恵というかを祝う事になるだろう「太陽が穴に入る」という事の最初の産出というか恩恵を祝う事になるのだろうと思うので その意味で夜中に運動に励まれる方々は正しく定義通りの行為に勤しむという形になるので気兼ねなくやれば良いのではないでしょうか というような事を「言え」と言われているような気がここ二、三日していて気のせいかもしれないけれども何となく書いておく 子供にプレゼントとかするのも普通に、同様の意味ですんなり理解出来る定義だと思う 太陽が穴に入る事による恩恵を祝う日、だからだな ただクリスマスの起源が本当に満月だったかどうかまでは覚えていない
いや、自分には関係ないし私家版クリスマステロルの構想を練るのに費やしても構わなかったりする 何ならいっそ今年のクリスマスは一人で宇宙に行ってみても良いかもしれないなと思うのだけれども 日が日だからトナカイとかで混んでいるかもしれない
数度投稿経験のある身としては小説の新人賞には 選考基準云々よりも自分の駄作を余さずシュレッダーに掛けてくれている事を期待してたりする その方が遥かに賞選考に対する信頼度というか投稿に際して出版社に信を置くのに個人的に重要だし ジャッジ自体は申し分ないものだったというのが落選を知った際の一投稿経験者としての感想だった 何せ、如何にして屑を食わせるかというのが俺の創作上の至上命題だったから というと言い訳めいてくるけどそういう作品へのレスポンスとして適正なものだった でも当時の俺の考え方の強固さを思うと、そういう姿勢で投稿する志望者って少なからず居るんではないかって気もする ただでさえ作家志望者って頭でっかちな割合が多そうだからな
落胆はあるよ。超ある そこはただ意図云々とかではなくて全的に技術や話や他の様々全てへの駄目出しとして落選の事実を受け取るからで そこも含めて申し分ない選考として受け取る訳だし 逆に言えば、もしそういうのがクリア出来れば俺は望み通りに世の人に屑を食わせる事も可能だった事になる でもそうなったら多分姿勢自体が別の目的にシフトしているのではないかと思う
今は特に思いつかないけど 当時にしても何か思いついた訳でもないので 執念があれば今でも何か書けるのかもしれない
まあやる気無いけども
タケミナカタの提げている千引の大岩はそれまでの世の責務や負荷の一切を表していて レヴィアタンの鱗のようなものになる レヴィアタンというのは地上最強の生物なのでそれを簡単に投げ飛ばしたタケミカズチはどれ程かというと 時間が逆流しない事、逆戻りさせない力を表していて組んだ手が氷や剣になるという事もそういう事の表れなのだろうと思う そうしてタケミナカタが諏訪に鎮まるところは前に書いた水行の墓庫としても見る事が出来るけれども 同時に名を建てる方という読みの意味で神名を解釈するとそれまでの功績から名を建てるという事の構図なり流れを説いている事にもなる 事代主の命についてはセト神と類似の形で解釈したけれども国譲りの際に大国主は 事代主を神々の長に立てれば、事代主は神々の御尾先になって神々は皆従うだろうと言っていて この神々の御尾先というのは要は黙示録とかの「アルファなりオメガなり」とかの意味で 神々の初めから終わりまでと言っている事になるので、上の方で触れた考え方は割と当たっているというかかなりセト的な神だという事が分かる この事から役小角と一言主の逸話が理解出来るものになる 日本版イルミナティについて書いた時に触れたように天狗というのは元々仏敵として表される 仏と天狗の違いは、成道はつまり業の寂滅を意味していてだから仏教では人が死ぬ事=業の終了 →人は死ぬと仏になる、というのに近い解釈が出来たりするのだけれど これに対して天狗というのは自分の業を誇っていてそれを滅する事を考えないような存在という事になる 役行者はこの天狗の世界に仏教を広めた最初のパイオニアとして考えられるのだけれど 山の神と仏教者ではその時点で食い違う事が多々あったのではと考えられる
例えば説話中の験力一つ考えても、事代主はアルファでありオメガであるから瞬間移動というような事は 「始まりと終わりの間」で行う事になるはずだけれども仏教的に考えるならその種の超越というのは 業が滅された事を感得されるような、「始まりと終わり」の外から働き掛ける事になるはずで これを一言主≒事代主が行うという事は、つまり作業の度に自身の業の終わりを経験するという事 毎度毎度、終末とかラグナロクとか国譲りに匹敵する事象を経験しなければならない事になる 本来超絶長い時間ごとに僅かに顕現して神なる領域の意を凝縮した一言を残して去るような神が ごく短い期間に毎度毎度それを行う事になり、これによって疲弊する。この神の疲弊というのは要はその宰領する期間なり領域全体の疲弊を意味する 役行者が行ったのはパラダイムシフトなのだけれどもそれは性急なものだったので 結果として神は疲弊し、行者は受け入れられずに島流しに遭う、という結果を迎える事になる 役行者の性急さは蔵王権現の縁起にもよく表わされている 初めに釈迦如来を感得したというのは未だ正法を広める段階にあったという事だけれども それに対して行者は末法の世を見ていたのでこれを辞している 次には千手観音、その次には弥勒菩薩が顕れて最後に合体して蔵王権現になったという事だけれども これは正法から伸びる手が未来仏に結ばれると見て修行者ならではの仏と捉えたりとか色々考えられるけれども 端的に三者を正法、像法、末法の三世と見るなら 「神々の御尾先」としての事代主≒一言主と符合する事が分かる つまり、蔵王権現というのが一言主だったといえる事になる
というマガジンミステリーリサーチ的な発見が沢山があるので 神道を勉強する場合には他の神話体系や行体系を勉強すると役立つ事が多いように思う 国学者も神道を学ぶには漢学を学ばないといけないと言っているくらいで 何というか、そういうものなのだろうと思う 国譲りの際にアメノオハバリの神に依頼するのに名前を忘れたけど鹿の神でないといけないと言って鹿の神を使者にするのだけど 鹿というのは卜占に用いられるのでその関係を説くものとも見られるけれどもでは何故鹿が卜占に用いられるかというと この「鹿の神でないと辿りつけない」という説からはとりあえず義経のひよどり越えが連想されるのだけれども 馬で渡れない険所を鹿が渡れるという事で、想像すると馬が直線を駆けるのに対して鹿は山道をジグザグに駆け上がる様が浮かぶ ちょうど雷が落ちる軌道を逆に辿るような軌道で、鹿は角も雷に形が似ている そうしてアメノオハバリの神が国譲りの為に使わしたのが子息のタケミカズチの神で雷の神だった訳で アアメノオハバリの神は時間を表すしタケミカズチの神はそれを地上に伝える役割を表していて その軌道を遡るようにして鹿の神はアメノオハバリの岩戸の前までたどり着くという事になるんだろう 偶然だけれども西洋魔術の位階の階梯は生命の樹をマルクトから順に、sunder boltの径を遡る形で上位に向かう事になっている 偶然と言いつつもsunder boltあるいはflaming swordの径は明確に教義を持っているはずで 丁度、北斗七星を破軍から順に遡るごとに上帝の高みに近付いていくように 地上的なあり方から天上的な希薄化の方へ向かう階梯として扱われている事になるんだろう 雷は国譲りの説話では時節の転換、天機の発動の顕れとして表されていて これは易の震為雷の卦にも通じるもののように思う
これを神意の発動の際と見てそのままその軌道を遡るというのが位階モデルの理念なのかもしれない ただ雷は季節の変わり目を象徴する事から、産出の径としても表される事が出来る この場合には上記のような予断を許さない瞬間的な雷としての形よりも もう少し違った、猶予を帯びた色彩を帯びてくるようにも思う というか上のような意味で雷が意識された生命の樹、というのは見た事が無いので それで上記の符号を偶然として捉える感覚が強くなるんだろう もしかしたら生産、産出の象徴としての色彩が強い雷はウィッカの角ある神とかの考え方に濃いのかもしれないけれども よく知らないので分からない
大国主は読めば読むほどキアの神格化に思えてくるので やっぱりケイオス的な解釈がしやすい この場合にはむしろ、古事記からケイオスなりキアを解釈するというか学ぶ事が出来そうな感触がある
459 :
Mana魔名 :2012/11/18(日) 15:21:13.42 ID:SsyZlAzb
長旅に追われて早十年 気分転換もままならない 食費だけはしっかり持って、人生バラバラ色々? あなたに嫌われてしまってshock hearts broken. そんな時は一杯ごはんを食べて寝てしまえばいい あからさまに馬鹿にされても、存分に笑い飛ばせ 虚無僧のように世を捨てるにはまだ早過ぎる年頃 儚いユメでも抱えて歩け、それが未来の進み方だ
Mall Streetのshock hearts broken tautology tautology 頭の中を渦巻いて hungering eyes, ears, nose, teeth, tongue are burned are the mines! calamitous surround は夕闇色の穏やかさ 誰か魔が差し火薬庫に火を 詩人は名ばかりの夢に走り書きの著名を添えた 「Presents of Mana魔名'z sensory lines」 "of" downnnnnnnnnnner verrrrrrrrrrrrrrrrr!!!!!
鳥は見えない繋がりの比喩として優秀なように思えるのだけれども 多分、飛んでいるところを常態と見なされる事が多くて地に足を付けた状態を本来と取る事が難しい為 無意識的に、飛んで来て飛び去っていく先の空自体を体として捉えてしまうようなところがある事から来るのだろうと思う それとは別に鳥の象意というのは自分の中では依然として魂の純粋な形態としてあるのだけれど 聖バレンタインやソロモン王が鳥の言葉を解したというのは天象としての鳥で そこにはやっぱり見えない繋がりを鳥に見る感性が働いていると思う あと自分は縦書き詩は下手だなという事と英語はとても下手だなという事が良く分かった
ナナメですナナメ
仏教で故人が即成仏の理論は
>>454 のような流れの後
止揚?というか留められた業の体を以ってその故人を包む種子の殻のようなものとする
浄土教的にはこれは蓮として表され、九品の序に従ってその花の開き方が変わる
それでも倶舎論とかのダルマの理論では因果はその人の成仏ではなくて「来世」を導く者になり得るのだけども
そこは弥陀への信仰というもう一つのファクターが介入してくる
信仰がこの種子を既に蓮に変えていて蓮は阿弥陀如来の仏国土である極楽浄土の花という事になるから
つまり阿弥陀の願力を自身の業の内に帯びているという事になる
それによって故人は極楽浄土へ渡る事が可能になってくる訳だ
ある種の転生魔術ともいえる
神祇の本地仏というのは単純に、その神祇が修行を果たした際の姿として解せられる
業によらずに法楽を得る事が可能になったような境地だろうし
もっというなら理念としての自身を完成し、完遂し、以後、励むというよりただ与えるだけで存在が叶うような存在になったような神という事で
神話自体の内にある概念では明確に自身の功業を果たし終えて
神去られた神とか隠れられた神として記されているような神がそれに近いのだろうと思う
463 :
名前はいらない :2012/11/19(月) 08:19:51.87 ID:spOQ9d+T
結婚詐欺師ヨネヤマヤスユキ(26歳くらい) 東北方面で活動中。
最近はあんまり本を買わずに酒を買っている
一度ギャグ漫画とかでよく登場する瓢箪持った赤ら顔の仙人風爺さんみたいな酔い方をしてみたいものだと思う
毎日飲んでいると素面と酩酊の境が曖昧になってきて一日が良い心地だ
女子力って聞くと何故か高橋留美子作品が浮かぶ
468 :
名前はいらない :2012/11/21(水) 16:03:44.20 ID:w73qEMje
今、ペルーのオカリナを買ってみたよ ナスカの地上絵が描いてある lineas de nazca 2曲ほど即興で吹いたら結構いい音色 みんな振り返ってるぜえ コンドルは飛んでいくとか吹いたらいいかも サンポ―ニャも売ってるけど、吹き方がわからん 打楽器にマラカスの亜種みたいなものとか 5年ほど前君が被ってたアンデスの帽子もあるね 君も手当たり次第に楽器買ったんだろうなあ オカリナもっと練習してみようっと
469 :
名前はいらない :2012/11/21(水) 21:13:08.51 ID:KfPCqDfE
↑ あ、なんか下手糞のくせに書き方が偉そうだったかな あなた様とはもちろん天と地ほどこだわりや愛が違うのにオカリナとかの話してしまった 今日はデモの電子ピアノとかも下手だが弾いたので楽器のこと言いたくなってしまったのです 口のきき方が、拙かったなあと反省しております
音楽家同士の交流って恰好良いな でももしかしたら人違いをされておられるのかも
ラジオ聴こう
472 :
名前はいらない :2012/11/21(水) 23:27:03.46 ID:KfPCqDfE
勝手に来てすみません、でもMana魔名氏とかも書いているので19氏以外の人も来ていいのかと思いました。 ペルーにいく余裕は今ないけど、南米のものを売っている店に行き少し雰囲気味わいました。 南米行ったことないので、いつか行きたいなあ!あと自分は音楽家では勿論なくて、下手の横好きです。
一瞬、乗ろうかとも思ったのですが もしかしてリアル知人の方と勘違いされてるのではという疑いを拭い切れませんでした 南米といえば昔ボンゴが欲しくて、安価なものがネット購入出来るのでチェックしてあとは買うだけ というまでにしていたのですが、未だに買えてないです youtubeとかで達人の絶技を見ると「無理だ」と思うのですが 叩いて音が出る、っていうのがどうしようもなく魅力で あれ程で無くともあの楽器があれば、リズムが刻める、というのと「楽器!」ていう 何か当時あった執着心から、よくある「クラリネットに憧れる少年」の気持ちが分かったような気分になった事があります
474 :
名前はいらない :2012/11/23(金) 07:43:08.44 ID:g9ry7yQg
19氏に話しかけていた訳ではなくて独り言でした 混乱を招きましたことおわびします 異国情緒あふれる珍しいものが沢山売っていたのでつい言いたくなりました ボンゴは売ってなかったのですが、打楽器は小さい太鼓や蛙のかたちの木魚がありました なんか民族的なものは、不思議な味があるなと思います それこそスピリットが宿っているみたいな感じ
ああ、やっぱりそうだったのか こちらこそ横レス失礼しました
いわゆる光というか何か印象的な事柄を描くという事が出来ないという 五里霧中の状態での詩作というのをずっとやって来た中で 精神的な体験という意味であっても体験談であるという意味では 大体、自分の丹精込めて作るものは小学生の感想文にも劣るのではという 見方というか意識にずっと付きまとわれる 辛くもその域を脱した形を得ても傾向として雑なものになってくるのは 迷いというかその辺の忸怩たるものや「これ」というものを指示しない代替的な言葉に頼ろうとする散漫さが表現に表れて来るのか 最近、脈絡なく突発的に死ぬのではないかというような体感に襲われる事があり この時は自分がひたすら重く感じられ、身体的な変調ではなくて何かしらオカルト的な現象である事は間違いないのだけれど 偏に言ってとにかく死というものがとても恐ろしく感じられる経験で またいわゆる「愛」が皆無の世界に自分が向かっているように思われ 死というものをそういう世界に入る事として解さなければならなくなるような経験だった そういった事は自分の上記の詩作の傾向と共通する要素を持っているように思えるし いわゆる重い魂は下に沈み清い魂は浮かぶという事 そういったスピリチュアル系の、というか元々三原質で全てを量るヴェーダ哲学とかにあるらしい考え方と合致する こういった事からクリフォトというのは光とそれを受け取る領域から段々それの無い方へ 物それ自体の方へ位相が移る経路を説くものと考えているのだけれど 例えば車を車と見るのは人間だけれどそれが部品の集合になり、鉄の塊になり ついには哲とかプラスチックとかでさえ無いただの「物」になるその過程 何かしらの被造物が壊れて動かなくなるまでを図式化したのがクリフォトではなかろうかと思う 時々起る恐ろしい感覚はそれを示しているようにも思えるし 抵抗の強さ、光の側でなく物の側に依拠する自身の意識という点からは自分の業というやつを意識する機会として解せるかもしれない 仙道的には多分、こうしたところで何か煉功を満たしているような人が 胎息を発揮するなり真気を発動させる事になるのだろう そういう、何かそう悪くないオカルト的段階を示しているように思われる ただ、修行とかが十分でないのでこうなんだろう
まあでも特に書くような事も無かったし欲しても無かったし 書くような事を欲しないというのは良い事だくらいに思ってたようにも思うので 五里霧中とか言いつつそこにこそ安住してたようなところはあったようにも思う 可能な限りでの満足
さっき反吐を催すような嫌な夢を見た もっと真面目に明るく誠実に正しく生きろとかそういう事なのか どう考えても悪夢の頻度と質がごく真っ当な睡眠の範疇を超えてる 俺はよっぽど嫌な事ばっかり考えてるのか 夢の中くらい良い夢寄越せと言いたいが
また眠くなってきた しかし二度寝が嫌になる
読者の反応が筆者を驚かす事はごく自然なものという事になると その意味で、解釈の幅を狭めかねない自作解説は勿体ない行為という事になるけれど その自作解説そのものかまたは作品自体が余りにトリッキーなものだったりする場合 意図してまともでない場合などにはその限りではないのかもしれない
とりあえず昼過ぎまで寝ていたけれども何も夢を見なかったのでよかった
ラジオ聴こう
個我を失う場合に他者を許容するフィールドを経て少しずつ広がりの中に自我が溶けるのに対し 自分しか存在しないという事が強く意識される経路を経て段階的に進む個我の消失というのは 真逆なのだという事がかなり分かった。後者は僅かに理解出来たけれども前者は話に聞いた事しかない
何というか重い暗闇という感じだ
まあそんな事より、今週のグリーの終わり方で何故かX-Fileを思い出した あの色々操作とかした話の最後で結局未解決事例に片づけられる時の余韻というかそういう感じ そういえば海外ドラマはグリーの他にはフルハウスとアレフと名前忘れたけどトレーラーハウス住まいの友達が居る中学生くらいの主人公の話とサブリナとX-FILE二、三話くらいしか見た事が無かった 24も脱獄するやつも見てない なのでX-fileを思い出したのかもしれない エリア51に謎の宇宙人調査班とかUFO建造施設があるとかの話が超ホットだった時期だった 俺は子供だったのでとても興味深かったしX-FILEはとても面白そうだと思っていたはずなのに 何故か二、三回しか見ていない 和ものだとケイゾクの超能力者の買いがそんな感じの終わり方だったのを覚えてる あれは結構かっこええなと思ったけれどもあれもドラマ放送時はとても面白いと思っていたはずなのに何故か二、三話しか見ていなくて十年くらいしてから借りて見た 何かそういう事がある
興味あったり面白いと思っても何故か見ないという事が不思議に多かった気がする それを軸に90'風サイキック現代劇の構想を膨らませたりする力は俺には無いので 知ったら時々そういうものに接する程度で満足するしかないのだけれど そういう風に好物であるはずなのにほとんど見ないジャンルだったりするので 多分知っても落ち着いて接する事は無いんだろうなと思う
他にそういうジャンルに該当するのは以前も触れた怪奇系特撮型のフィクション 夕方以降に霊感少女が活躍したりするB級映画や カクゴのススメとかサザンアイズとか寄生獣みたいな現代都市に平気で異形の存在が出現して同じく異形だったりして設定上どこか陰のある特殊能力とかを持った主人公が戦ったり潜伏したり何か色々するやつ
太極拳の本を借りてきて読んでいる。太極拳秘術という本 後天八卦は十二支に示されるような廻らせる力の循環を表していて 先天八卦は以前十干について触れたように天から下る産出の次序を示していると考えていて 太極拳は後天八卦を基に立てているとしてあったりするところを見て そういうところを思い出しつつ後天と先天が会するところもあるのだろうかとか色々飛躍して考える事が出来たりする 先天は人の生の前後にあるのだとしたら子に当たるところで先天の気に接触出来るとも考えられるけれども あらゆるところで異なる仕方で介在するのではと考えると例えば地支なら六合が本来の意味での六合と対応関係を持っていてその位相を示すのではとか あるいは遁甲にある八門というのが直接に、そういう先天の気を受ける地点の位相ごとの種別を説いた概念なのではとか仮説としては色々思いつく ここでは相手や外的な様々の力をうまく廻らせるというような事が後天の語から考えられる 神秘学的な知見が深くてその観点で読んでいて面白く、例えばユング的元型に触れる方法としての太極拳という事が書いてあったりする ダンスとかを見ていると人に可能なあらゆる動きはそういう身体表現の動作として既に出尽くしている観があるけれども そういう無数の動作という事を前提すると、これを地とか混沌とかに準える事が出来る それを踏まえて、行われる套路に示される規定動作はそこに初めて象られるものとして太極と捉える事も出来るし そうすると一つの動作が内に無数の変化を孕んだものとしての認識が成り立つ事になる 煉丹でいうところの鉛=精=水=玄天を背景に負った形で動作が演じられるという事であるから それを統べるような感覚を持たせるというか何というか 図を見ているとそういう事もあるのだろうかと思えてくる 行功と用架というのがそういった対応関係を持っているようでもある
起勢や予備勢や十字手というような具体的技法がもしかしたら 太極や無極に当たるものを示していたりするのかもしれない 素人なのでその辺りはまだよく分からないけれども もっと詳しくなったり実際に習得したら分かるのかもしれない
そういえば半端無くまずいラーメンを食う夢を見た事があった 夢なのに味があるってどういう事だ、という話で、しかも未だに覚えてるくらい鮮烈なまずさだった どうせなら滅茶苦茶旨い超高級料理みたいなのを食べてみたいのだけれども 他に夢で物を食べて味がした事は無かったと思う 夢で味を覚えるという事自体が希少な上にそれが未知の味っていうのは凄い事だと思うけど それが半端無く不味かったっていうどうしようもない夢だった ていうか食い物の味とは思われなかった 洗ってない靴下を煮詰めたらこんな味がするかと思えるような凄まじさ
世代論ぽいものを以前書いたけども今三十前後の世代について言うならば 一言で言えばスポイルされた子役のような世代で 以前書いたようにやはり上の世代なり世情からは反体制というか反抗者的であるような要素を受け継ぐ事を望まれていたのだけれども 実際それはある程度成功したと見なされていて漫画のGTOとか見るとそういった要請と成果の双方が非常に分かり易い形で確認出来る これは団塊による反宗教的潮流とかがバブル世代とかによってさらにリベラルな形態に脱した流れの延長で ここでは世情は我が子達に自分にもあった反抗的因子の引き継ぎを求める事で 御霊や祟り神というような神=お上という形で精神的にお上と習合していた宗教的権威を 我が子達の側、自分達の側に引き取る事を志している。であるからここでいう子供の世代は簒奪者の役割を果たしたと言える つまりお上なる旧来の主権者の側から国民主権という方向への政体以降の一プロセスであり 世情などを見るに既にその過程はかなり以前に完成して、とうに次の段階に移ってしまっているものと思われる そういった形で主権簒奪の過程として見るならこの段階は一応の成功を見たように思われるのだけれども ただ要請に応じて早熟な簒奪者の役割を演じたのは良いけれど それを引き受けるのに相応のスペックを欠いていたという事もあったりする その意味でスポイルされた子役という形容がかなり相応しく思われる ゆとり、スイーツ(笑)、リア充、なんていうのがこの世代のイデオロギーが発明した語彙群で そういったところがこの世代の性質をよく表しているように思う 自分が属する世代になる
ノーシスに入るのは中々難しいものがあるけれども時間を掛ければ風景が爽快なものになる過程を得られるような気がする 全体の寂滅、調和を得るという点では賢者の石みたいな理念であるようにも思える ブランクが変容までの時間にかなり素直に影響してくるような気がする
GD系簡易儀式とかは続けていると素人なりに手応えを覚えたりもするのだけれども そもそも「儀式」というものについての姿勢なり捉え方が俺はどこか不確かなのではないかと思い始めた 神秘学の要素の一つとして改まって「儀式」というものの捉え方を学ぶのには 加持祈祷とかが代表的に思えるのはやっぱり火があるからだろうな どうも他の様々な要素を究明するように「儀式」という行為自体を考える場合に 拝火教的な物を考えるのが自分的にはしっくりきそうに思えるのだけど GDの儀式は火を拝むというのも聞かないように思うので むしろ教会のミサとかを考えた方が良いのか
結構以前からsinister tarotに惹かれるのだけれども order of nine anglesというところはナチ的オカルティズムの雄であるようなので 靖国神社とかの成立理念を見ないと学習は難しいんだろう 邪悪な教義を持つもののように言われているけれども以前見た実践者ブログとかの写真がどれも超健康的で血色がよくその種の疾しさを見出せなかった事が驚きだった 自己供犠を人を自然に捧げる事で人の種を自然に摂取させ自然を人の側に近付ける手法とするなら 逆に自然の種を人が摂取し、人を自然の側に近付けるという方法も考えられるのだけれど それは多分理論の段階でのテロリズム、容認されざる存在なり事象の投入によって社会の側に対して変容を促すというような考え方とも通じていたりするのかもしれない もちろんそんなもの勉強した事はないので憶測だけれどもトロツキーとかそういうのにありそうな考え方ではあるように思う ここでは「自然」を人の限界というか生存可能域や許容域を超えた負荷とか要領という風に考える 簡単に言えば、「四十日の日照り」を摂取して飲まず食わずを克服した人間に近付くとか、そういう風な事になると思う 自分の中で右と左を一対で表す考え方は幾つかあってこれもその一つになるけれども まあ実際にこういう理屈が現存するかどうかは知らないので憶測でしかないけども 「オーメン」とか「14歳」の緑色の赤ちゃんとかはそういう風なもののような気がする
負荷とか要領× 負荷とか容量○ スターゲームも面白そうなので何とか覚えてみたいように思う しかし時間が掛かるかもしれない でも多分覚えたらかなり嬉しい
sinister tarotは絵が良いというところでは 俺はそもそもオカルトとか知らない高校生の時点で イルミナティの目みたいのをモチーフにした絵を描いたりしてたので そういうsinisterなtarotというのが好ましく感じられたりするのだろうと思う 何か傘持った人が目っぽい太陽からびゅーっと吹く風にふっ飛ばされているという絵だった 耳と口と鼻も一つずつ描いていてなかなか気に入っていたのだけど消滅してしまった 他にはhermetic tarotに興味がある 戦国妖狐を久し振りに読んで面白かったけれども 心に波乗り板云々と書かれていたのでケイオスっぽいなと思ってそれっぽい事をしてみたんだった というか幼稚園くらいの頃に見る「楽しい夢」の図があんな感じだったというのを読む一、二日前に思い出していたところだったので 何か面白い読み味になった
BLADE面白いというか 自分は下書き三ページそこらで投げ出してしまう超初心者なので こういう言い方はアレなのだけど、レベルたけぇ、という感想 まだ途中までしか読んでないけどもどれも面白く読んでる 隠遁者と小さい子供の図式はやっぱりよつばととかで定着したのだろうかとか 女子スポーツの作品はキャラ萌え的要請をごく自然に満たしてしまう分だけ かえってストレートに競技本来の在り様とか魅力を伝えているように思えて新鮮に感じる 他にも世界観というか独自性というかの内的強度みたいなものがクオリティに繋がる比重を得ているように思えたりしたのが特徴的で 外的な要素、見せ方の部分がそういう内的部分を反映させやすいように作られているような印象 割とすんなりと作品に深く入り込みやすい雰囲気が作られているというか出来ているというか そういう感覚。月刊誌っていうところもあるのかもしれない
普段ジャンプしか読まないからか
儀式は確かキャロルによれば 「テンションを高めて目的に向かわせる為のもの」という事だったように思う 儀式自体を描いたフィクションというと平妖伝が有名だけども読んだ事が無い
触発されて儀式案らしきものを三つ四つ書いたりしたのだけれども完成はしてない 吸血鬼、人狼、怪人、死神となじみ深いキャラクターをモチーフに色々頑張ったけど何しろ初心者なもので苦労した 他にも色々アイディアとして思いついたものはあるのだけども形にはしてない スケアクロウをモチーフに悪夢を刈って夜の森=無意識的エネルギーの養分にするとかの悪夢抹消の儀式とか 青髭をモチーフに無意識の地下室で子供を使って黄金を精製するという儀式は無意識や忘れられた領域から有益なものを引き出すとか若返りを得るとかの儀式として考えていたのだけれど 焦点がなかなかつかめなくて頓挫したんだった この二つとかは儀式に使う道具立てとかがうまく思いつかなくて悩んだような気もするけれど 青髭の儀式とかはぬいぐるみを使うというのを考えていたし スケアクロウの方についてはバンシーとかと絡めて標札とペンキ、鉢植えを使うとか 今考えたら多少思いつきそうな気もする この時点では単にスペルとしての現実的効力を発揮し得るという事とオカルト的行法なり理解を深めるという事の 両面を満たす事を念頭に考えていたように思う
無意識の地下室で子供を使って× 無意識の地下室で子供の死体を使って○ 今思うと悪夢をましなものに還元するのは無理なのかどうなのかとか 形にするにはもう少し色々考えなければならない事が多いように思う 全体的に、装いとしては黒魔術的なカラーを与えつつ サブカル的に分かり易いものにして理解を深めるという事を意図していたので 考えていて自分なりに理解が深まった事も割とあるので儀式の自作というのはお勧めかもしれない もちろんオカルト知識を備えているという事が前提なのだろうけれどもそれを要約、アレンジするというのは得るもののある行為のような気がする
>>500 スケアクロウではなくてスリーピーホロウだった
何か宿曜を覚えたら良いとうちの死霊が言っていた 実際に亡くなった人間の霊らしい存在は楽しそうだったり落ち着いていたりする様子で見る事しかない
バフォメットはスケープゴートと巫女の二つの表象を備えていて スケープゴートは日本的には祟り神とか御霊とか 社会的な負の勢力を集めて放擲する働きを表していて 巫女は上の方で書いたように神なるものを鎮める働きを表している なのでバフォメットは負の性質の事柄を集めてこれを満たす事によって鎮める働きを持つものとして考えられるけれども satanic bibleにあるindulgenceの語は、バフォメットのこの性質に符合する またバフォメットは右手にケセド、左手にゲブラーの月を持つとされているけれども これは右手は昼間のキリスト教的会堂を背景にして、左手は夜の非キリスト教的ペイガンの地平を背景にするものとして考えられる これを上の性質と合わせるなら、夜宴ではキリスト教的徳目に適わない、ペイガン的とされる性質を満たして鎮める事によって 昼間のキリスト教的な、社会的徳目に適った生活を送る事を可能にする、というような展開が想像される事になる 流刑の神々という本ではちょうどサバトでバフォメットが演じるような役割をディオニュソス神が務めていて しかもこの神は昼間は教区の司教として生きていたと書かれていたりする これは本当に、キリスト教の聖職者がその土地のサバトで主宰的位置を演じるという事もかなりあったのではないかという気もする
そうするとその共同体での昼の倫理と夜の倫理が一つの軸に束ねられる事になるからで バフォメットのケセドの月を持つ背景がより鮮やかなものになりそうな気がする ともかくもバフォメットが示すindulgenceは「これで明日からまた生きられる」という種類のものとして考えられる スケープゴートと巫女は本来それぞれで鎮めの働きを要求されていた存在なので その両方を合わせたようなバフォメットというのは偶像の中の偶像というかアイドルの中のアイドルというかそういう存在として考えられる 伝統的にはスケープゴートより多産の山羊として自然の産出力を表すものと考えられていたりもするのかもしれないけれど その場合には鎮められるのは荒魂的なものという事になるのだけれども 多少なくとも二つの背景の一方としてペイガン的背景が考えられるのがバフォメットなので 山羊の頭をスケープゴートとする場合のバフォメットはこちらの意味での荒魂的な事柄とも結びついているように思う そうすると非キリスト教的性質、というのが自然崇拝的性質として回収されるような操作が図像や概念の中に含まれている事になる ラヴェイが初手からバフォメットの洞察から開始して教義を構成したのか 親しんでいたバフォメットの概念なり歴史資料なりがあってその抽出がいわゆる霊感的な形で得られたのかどちらかは分からないけれども ともかくSatanic Bibleに書かれている事のかなりの部分はこのバフォメットの体系を描き出しているように思える
というか黒山羊と巫女の合わせ技とかいうと Marilyn Mansonだな 今気付いた という事はやっぱりそうなのか
朱の盆というのは原型は多分鬼王温羅だろうな そういった具合に日本の妖怪は何らかの史実や神話に元を持っている事が多そうなように思う それで日本の妖怪をモチーフに儀式を創作するのは結構骨が折れそうなようにも思う 実在する伝統なり祭祀なり習俗なり存在にバッティングする可能性があるからだ 上の儀式であえてメジャー妖怪を多く題材に取ったのはそれが実在する何らかの伝統や祭祀とバッティングする可能性が少なそうな 概ねフィクション出自と言っても良くて且つ既にイメージが独り歩きしている、オープンソース化してしまっているからというのがある 創作儀式は全く制限を受けずに生活を前進させようとする際に痛切に感じられる欠陥や必要が生じる場合にこれを埋めるという事を目的にする事になるはずで だから幾つか実作してみると自分が真にオカルト分野で求めているというか必要としている、向いている傾向を理解するのにかなり役立つような気がする 丁度、魔術日記が果たす役割と同じような事柄を発見出来ると思う あとはそういったオカルト作用を媒介する枠組みとしてどういったものが適当かというような事を考える用にも立つ気がする
そうだ、五芒星の象意について以前書いたけど 上の理屈からすると夜は十二宮の上下が引っ繰り返るので 逆五芒星はそういう意味としても考えられる
手 手の目の瞼の生命線の 切れ掛かる際に立つ臨終の枕辺で 迷わないよう訓戒を得て 水底に竿を撞き小舟を進め 遥かな黒い月の水面の影 と見紛う瞳の上を波紋を立てて 舳先を前へ。前へ前へ前へ 辺りは白く、霞む事を許さない 瞼は隔て 視界はどこにも届かない 狭い楕円の中
手の目ってのは妖怪で 手に目がある
幻想的光景が展開されると見るやそこに現実が混在したり現実に回帰するのは割と絶望的な感覚を与える 現実にせよ広い地平を備えているはずだけれども目が幻しか見ていなくてその幻をそっくり目から抜く事で全く何も残らないような印象を与える事が出来る そうして全く何も残っていないところで幻を追っていた目線だけが残るので行き場を無くすような違和感を生じる 昼間の映画館を出て日の光を目にした時と似ているかもしれないけれども実は違うというか映画館の外は現実だけどこの場合は幻−(マイナス)幻でしかない 現実には幻想が混入し得るけど幻−幻では頭は消えた幻を目は−幻を把捉する
・貝 明日は朝から日が昇る
調子が良い時は幾つも書けるけど昨日と今日は一作で力尽きる日らしい
テンションは一度に一作分しか貯えないらしく無理をしても満足を得ない 深い満足が次を用意する ルパイヤートも多分そんな風にして書かれただろう 特に欲しい本だけどもまだ買っていない
wikiとかで少し読むと定家とかと少し似ているように思う 珠玉のタイプのイメージを提示する作風だという点が似ている ルパイヤートは加えて、占星術的な思想とか様々の事が詩に昇華されていそうに思える あんまりというか全く短歌は詳しいとは言えないのだけども ちなみに以前魔力を覚える事があると言ったタイプの歌の筆頭は和泉式部で 現代歌人の歌とかでも時々そういう歌を見る事があるというか そういう歌を詠む歌人はまぐれ的でなくコンスタントにそういう力を発揮する
>>511 のこれは色々考えたけど面倒になった
とりあえず−幻というのは遮蔽物というのが近いのかもしれない
うまく使えば気づかない程の微妙な違和感によって不思議な感覚を与えたり出来そうだ
神秘主義的に意義を絡めて補足するなら 遮蔽される事によって幻想を追っていた目が対象を失い その刹那に幻想を追っていた目の動き、意識の運動そのものだけが示される これによって上の方で挙げたキャロルの言うような儀式の要件が部分的に満たされる事になる 意識の運動なんていうのはテンションそのものだからだ 客観的対象を失う事で刹那的に主体側のリアリティが体感されるという過程 ただこれを創作について考えるなら むしろ詠み手の側に自覚されない程度に遮蔽物を組み入れて 並行する叙述によって示されるテクスト自体の持つイメージの喚起力をブーストするというような そういう活用法が考えられる とりあえずこれを思いついたけれども他にも応用例は考えられるのかもしれない
部分的にというか考えが正しければ全的に満たすのかもしれない 幻想的地平で迎える日蝕による観測者自身のそれ自体としての意識の運動の自得 熟練であれば頷くか首を振るか即座に判断出来るのかもしれないけれども 初心者的には未だ夢を見ている比率が大きい為に厳密な判断が付かない ともあれスクライイングは黒地の視界を利用するようでもあり 考えたら何か面白い事が分かりそうなようにも思う
遮蔽物によって対象を失う事により、自身のそれ自体としての意識の運動を自得する事。ここで遮蔽されるのは幻想を含んだ日 常的現実であり、五常に言う仁は青空の抽象化、様々の要件を内に保って毀れる事の無いような状態を指す。この要件という事を 日常的現実の内包する幻想とするならこれを対象として発揮される意識の運動がこの遮蔽によって自身の目に開示される。出雲国 造り神話において大国主の命の配偶者は須勢理姫命だが、須の勢の理、つまりは寄せては返す波の理を司る神として解される。大 国主はキアであり観測者であり、寄せては返す波の理、つまり日常的現実と結び付き日常的意識として普段は働いている事になる。 この事は形而上理論的にはただキアの在り処をいうものと出来るが、実践的に捉えるなら異なる意義を持つ事になる。ここにいう 波が遮蔽物を表していると考える。遮蔽物とは、日常的意識を対象から、幻想を内に含んだ日常的現実から遮断する事柄、出来事、 境界の、その遮蔽的な性格を指す。そう考えるならこの説話はキアの所在ばかりでなく、キアの顕現の方法をも説くものとして理 解される事になる。
こうして生じる意識の運動の顕現形、可視形をフェティッシュ等の概念の基でありさらに真の自己、キアと地続きの性質のもの、 と考えるならケイオスはこの運動こそをその実践的な第一動因として自身の側に見出す事に最大の特徴があり、対宗教での独自的 立ち位置もこの根本原則に起因する。伝統的、宗教に親和性を持つ様々の体系、例えばヘルメス学によるならば、この第一動因そ のものの内訳を見出してそこにある至高性の存在を見出す事で宗教的枠組みを為していくなどが考えられるが、この点でケイオス はシャーマニズムの一支流であると言え、この第一動因それ自体を一つの存在と見なす事により、脱魂的なり憑依的なり、何にせ よ実践の枠組みを構成する事になる。さらにこれは思想というよりは実践的方法論であり、つまり方法論が思想面を含む理論系を 主導するプラグマティックな体系であるという事でもあり、その意味でそういった「内訳」の追究を任としないという事もあり得 るが、強いて言うなら観測者、或いはキアを大国主命として考える事が出来るとするなら、その大国主命はスサノオの命の裔とし て表わされている。高天原放逐以後、出雲平定の説話に示されるスサノオの命の働きは、偏に言って開墾とトライアンドエラーの 繰り返しであると言え、その意味でのスサノオの命の働きをケイオス的な枠組みの現在形を形作る祖型として考える事が出来るだ ろう。インフラの無い荒れ地の開墾を行う原初的意識の元型の一つ、働きの荒魂的な発揮であり、トライアンドエラーの集積とい う事になる。
量子論、進化論は樹上系統樹的な展開形態によって同様のものと解される。実は遺伝理論も同様の展開図を持つが、こういった 事柄の人文科学的な概念としての意味での祖形は実は、北欧神話の他界を渡って根を張る世界樹の説話や、千のナーガと一のカル ラの説話など、神話世界に既に展開されている。ナーガは水神であり、水流は干上がって蒸発するなら空中に上昇する事になる。 しかし全てが干上がる事は無いのだろう。いわゆる太初の海などはそういったものとして考えられる。また特に北欧神話では主神 の種族を必然的な唯一の種と説いていない事、これに並ぶ他の種族を説話が備えているという点に大きな特徴がある。一元的神話 構造に対してこういった多元的神話世界では存在の必然性が幾らか少ない形で捉えられる事になるが、逆に偶然性というものの扱 いに対しては、これを偶然性としたまま、その上で必然と捉えるような、やや迂回的な仕方による強固な、独特な枠組みを構成す る事になる。遺伝理論では系統樹上の祖型を頂点に据える事になるが、進化論には突然変異種、新種の同時発生が超新星爆発に喩 えられる。
ヤマタノオロチは水の怪物でありティアマトのような大河の具象として考えられるが、草薙の剣はこの怪物の体内から得たとい う事を踏まえて考えるなら、草を薙ぐ強風、或いは暴風雨の具象と考えられ、また怪物においては激しい波風を起こすものとして のイメージが描き出される。スサノオの命の佩剣はこの剣に当たって欠けたとされるが、この佩剣が気に掛かる。天尾羽張とする 説があったようにも思うが確認出来ない。仮にそうなら天尾羽張は名称からすれば雲、カグヅチ殺傷説話からするなら空に色彩を 張り巡らせる、つまり時間の推移、国譲り神話では建御雷の命の父である事から雷雲、またはその内に、丁度花の種が綿毛に包め られたように含まれている産出や新たなサイクルの種となるようなものを司る神、或いは天に雲を渡す軌道やサイクルを示す神な ど様々に仮定出来るが、いずれにせよこれが欠けるという事からするなら草薙剣は産出、創造なりサイクルの完全性なり推移なり を変異させてしまうようなものとして抽象化されるような働きを表している事になる。大国主命をキアなり観測者と捉え、スサノ オの命をその祖形としての原初的意識なりトライアンドエラーの集積と捉えるならば、この草薙剣はオロチを激しく波打たせるよ うな強風なり暴風雨を導くような働きを表しているという事もいえる。偶然性、或いはこの場合には進化論的特異点、ビッグバン をもたらすものとしても考えられるか。 上記からは本質的な反宗教的姿勢なり方法論が見出されるが、では現実に直面する宗教的な事柄に関して混沌魔術はどのような 形で折り合いをつけるのか、という点でもやはり国造り神話、国譲り神話を見るのが良さそうに思う。国造り神話、平時において はそれは日常的意識に終始するのであり、宗教的と非宗教的とを問わず、自身の信条、乃至は信念を凌駕する事柄や働きに遭遇す るにおいては国譲り、地盤の大規模な改変を行う事になるのだろう。
ケイオスは第一動因を自身の側に設定するシャーマニックな方法論であるという点で、その動因について分析的な内訳や様態を 捉えた形での種別を行うよりはその方向性によって分類を行う方が効果的であるような側面を備えている。カオスターの八つのベ クトルにはそういった象意が汲まれるべきであるのかもしれない。その意味で、どこか太極拳の理論にも似通っている。各種ベク トルの志向する方向自体が一つの元型的な概念を呼び起こすという事になるのだろう。また、ケイオスがシャーマニズムであると してその際に用いられるものが現代人の魂であるという点でも特色となり、この事が多様な理論の様々な側面に密接に関係してき ているようにも思われる。例えば内訳的な、或いは様態的な動因の種別といった事柄に関しては別に異なる体系を学ぶ事によって 理解を深める事がここでは可能になっている。また、故にそれを全体として、一個のシャーマニックな「動因」として扱う為には 原初的意識への回帰を示唆するような理論が構築されていく事になる。 思うに俺がこれまでケイオスについての理解を停滞させていたのは、最初にこの体系を混沌、文字通りのごった煮の混沌として 受け取り、そこに多大な魅力を覚えていたにもかかわらず後にはそこに様々の体系の整頓の美学とも言えるようなものがどうやら 存しているらしい事を知った為にこの混沌への魅力なり関心という第一要因から派生する様々の展開を捨象してきた事に由来する のかもしれない。こういった過程の上では自得されるそれ自体としての意識の運動というものについて、総体として例えばグレー トスピリッツなどのような観念に類似する全体としての自身の一部分であるという風に考えるに至るが、それはどちらかというな ら清浄を要件とする事柄で、目の届かない暗闇の内で進行していく混淆、というような混沌の語から連想される展開とはまた違っ た趣を備えている事になる。混沌は内部に果ての無い混淆を展開するものとも考えられ、真なる調和を求めた終わりの無い活動の 総体としての側面をも考え得る観念である為だ。
実践的にはノーシスに至る訓練のみを行ってきたが、事前にそれによって得られる事柄を占うとSIGELのルーンが表れた。雷の形 状、「爆発的力」の象意を持っている。視線を留め、四肢を鎮め、同様に鎮めるという方向を以って思考を止め、呼吸を止めて、 或いは抑制していくと鎮められた各器官はヒステリックな痙攣を起そうとし、それが無くとも視線の先、前方に焦点を得るという 事が生じる。端的に言って以上四つの操作の同時適用によって得られる焦点は「自分自身」の焦点であり、単に視線の焦点とか表 層的意識の焦点とかに留まらない、より全的な意味を伴ってくる。さらに、仮に視線が上手く定まらない場合などに全体を満遍な く目に映すようにしてその視野全体の中心点に意識を固定するなら、これは同時に視野全体の現実の焦点としても展開される。意 識領域がさらに拡大している場合にはこの焦点はさらなるものになるだろう。ここに意識領域全体の調停、或いは寂滅が生まれる。 マーヤーなり質料であるところの意識領域内にある外界の全体はここに焦点を中心として意識領域全体が有するなりの内的熱量を 用いてこの寂滅を荘厳する。そうして時間を経るなら寂滅なり調停を得た現実は事前と較べて遥かにクリアなものになっている。 これがノーシス訓練で体験される一例だが、異なる展開もあり得るのかもしれないと考える。始めたばかり頃には感受性が研ぎ澄 まされて現実が澄んだ情感を伴っていくように感じられたりもしたが、或いはこれも同一の体験の別種の深度での展開だったのか もしれない。この現実に対する調停を行う触媒作用は丁度、賢者の石にも似たものであると考える。 魔術的意識として考えた場合のノーシスなるものは意識の変容であり、魔術的位相への移行としても考えられる。この場合には この操作は焦点と自身との間の距離によって考えられる。距離によって考えられ、意識領域全体の焦点に集中が為される事によっ て、意識は魔術的位相へと遡行する。
面倒なのでメモをそのままコピペしたけども 正しいかどうかは分からない 他の神話に詳しかったらそちらの枠組みを用いて似たような事柄が展開出来るのかもしれないし 実際にケイオトやカオイストがこのように考えているかどうかは分からない 従って参考になるかどうかは不明であります
一般に、組織図を見て金の出入りの目立って激しい部署を見るなら新たな展開を孕んでいる事があったりすると何かドラマとかでよく言われてそうな気がする 樹上系統樹的な特異点はそういったものとしても考えられるのかも知れない
あとは
>>248 に書いた三原質を使ってノーシス意識を説くような捉え方も捨て難いように思う
でもあれだな。そもそも関係あるらしいグノーシスというものについてよく知らない
まああんまりこういうことばっかり書いていると完全にあっちの世界に旅立ったものと思われてしまうのでこれから暫くはオカルト抜きで詩を書こう ただ一つ言うと上の全部に関して性魔術については一切触れてないしそもそも知らないので そういう方面からのアプローチを試みたいのであればそういう方面に明るい人とか本に当たるのが良いと思う あとthe order of nine anglesも面白いと思う
今までの乏しい経験からフィクションで「魔術的意識」と類似か同等のものを表現した例というのを考えると 最初に浮かぶのはまずダントツで推理中の金田一耕助で、次にモルグ街の殺人のデュパンと街に繰り出すところとかで 要は全くの未知に対して「望んで」向かっているというのが要件になるのかもしれないと思う 考えてみれば魔術的意識というのは未知に「参入」するものであるから「自ら望んで」っていう要素は大きいのかもしれない そういうものが無ければ迷い込んだとかの形として表現されるのか、っていうのはそれ程本を読んでいないので分からない 大体は巻き込まれ型が主流だからホラー、オカルト系の小説表現が魔術的意識として展開される事は実は意外と少なそうにも思う ミステリとかの方が多そうな気がする
例外と言うか似た感じのはオカルト板に時々ある一部の「強制参加」系だと 向こう側の存在によってキャラクターを無理やり参入させてしまうので そういうのは近いのかもしれない というかあれらは書いてる人達が嬉々としてキャラクターを強制参入させる気満々で書いてるっぽいので 何か文面がイニシエーターっぽい感じになるのかもしれない
>>530 はちょっと論点がずれるのか
まあフィクションもオカルトも本当言うと大して知らないので異論があっても不思議はない
クトゥルーはあんまり読んでない クトゥルーに影響を受けたとされている漫画は大概凄まじく面白かったりするんだけど クトゥルー神話自体は触れてみて醍醐味に触れる事が出来ずに終わってしまったというような印象が強くて 漫画にするっていう大衆化っぽい過程を経ずに原典から直接面白さを享受できている人というのに対して かなり長い間劣等感というかルサンチマンというかそういうものを意識したような覚えがある
モルグ街の凄さの一つは初手から殺人に対する探偵の関心を「不謹慎な興味」として扱っている事で
これはミステリがジャンル化されるに伴って形を変えて行く
さかしまとかタクシードライバーとかに通じる主題としての容量を持って
ミステリ的関心の不謹慎さ自体が扱われている稀な例がこの最初のミステリなのだろうと思う
だからフランスで受けたんだったか
そういう種類の「芸術的な」主題であり得た形態は
多分藪の中にアクセルを踏み込むようにして得られたもので
詩的な種類の事柄に分類される。「散文的な」筋立てより「詩的な」エッセンスに近い
>>486 で触れたような漠然としたアイディアなんかについても
散文的な主題として展開する事は難しくても詩には出来そうな事柄に思える
目の前を貨車が過り
品々を積載していく
星が瞬き
車窓から道化がこちらを見やる
僕らの前に夜空が濃く墨を流して
僕はこれを忘却する
こんな具合にポエティックに書ける
散文で初めから終わりまでをこういう「エッセンス」を一つの単位にしてフィクションを構成するのは難しい
断言は出来ないけど何かしら散文的な事情とか説話を積み重ねて偶発的にそういう効果を生じるようなやり方をするんじゃないかと一応今は思ってる
何か偉そうというか変な言い方だけど文学極道はレベル高いなと思う
テスト
テスト
先月ルバイヤートを買った
まだ読んでないけども楽しみだ ゼットンを作った人は天才だと思っているのだけれども 予備知識的なものを拾う中では 多分そういうタイプの人達が作っているのがクトゥルー神話なのだろうと思った 実際にクトゥルー神話を読んだのはかなり以前で当時は偏頭痛のピークだったので 本を読む場合、一ページを読むのに十回読みなおさないと内容を理解出来ないという状態だった ただでさえそういう状況なのに、本にはただ「大変な事が起こった」とだけ書かれていた それだけが何十ページもずっと書かれていた 「大変な事が起こった」とだけ繰り返し書かれたページを十回読み直し次へ進み という事を何十ページか重ねたところでとうとう根気が尽きてしまったので wikiとか読者サイトにあるような面白邪神群のところまで辿りつく事が出来なかったのだった
>>532 のクトゥルーに影響を受けているらしい漫画ってので念頭にあるのは
諸星大二郎とか、サザンアイズとかベルセルクとかになる
諸星大二郎は二十冊くらい集めた
ルバイヤート面白いので何度も読むだろうと思う
輪廻について現実的に考えると そもそも前世なり過去生というのをその人を構成する要素の前身と考えるなら 例えば山のものを食っていれば前世は山のものであり海のものを食っていれば海のものという事になる 食物に宿る神というと確か宇賀之御命之神がそうではなかったかと思う こう考えるなら、前世というのは後天的に変わるものであるという事になるけれど 考えてみればオージービーフを食っている人の身体は元はオージービーフから出来ているのだから前世はオーストラリア人であるというのはごく自然な帰結という事になる ただここでオーストラリア「人」というのは一応、基本的に人は人にしか転生しないという証明不能領域にある説を踏まえている 過去生を送った土地が食物の生産地で定まるとして、ではその種族なり生き方はという事になると 今度はその、身体を構成している要素に対して種族なり出自を証明する何が浸透しているかという事になると仮定してみる ところで結論から言うと俺としては今のところ、転生はその人の個ではなく生命が為すものとして考えられていたというのが合理的かなと考えている ハイネの「精霊物語」は今読むと面白い部分とそうでない部分が半々くらいなのだけど 中にある挿話で森の中で三人の美女と婚約した三人の職人が三羽の鳥の話を聞くという説話が出てくる
一羽目「怠け者の天国で焼いたガチョウが口の前まで飛んで来て愚か者は『でか過ぎて口に入らない』と苦情を言った」 二羽目「曾曾祖母は死んで曾祖母は死んで祖母は死んで母は死んだけどもし曾曾祖母は死ななければ今も生きているだろう」 三羽目「一人の女と話すと一度騙され二人では二度三人では三度騙される」 職人は二羽目まで褒めて三羽目に怒ったけれど森の館へ戻ると婚約者が皆老婆になっていて街へ逃げ帰った 鳥の話題は上から順に、地上人に対する永遠の生、生命の継がれ方つまり『輪廻』、いわゆるマーヤー、運命、時間についてというのが自分なりに納得出来る解釈になる こういう具合に、死生観としては種族的に、或いは家系的に継がれるものという見方が存したのではないかと考える 「生命」というのはそもそも曲者で、恐らく概念としてある場合には使命や役目というような要素を持っていたのではないかと思う より以前、大昔には単に「生きる事」が生命であったので他の生物と人間は生命観においてさして差別する必要が無く ある程度の性質や行状や個性によって動物にも人間にも、稀には神にも生まれ変わるし逆も然りという風に見なされた その内に文明が発達して人間社会以外の場における「生命」と人間の「生命」が皆無では無いにせよ没交渉と見なし得る度合いが強くなり 「輪廻」観が人間社会の内に閉鎖的なものとして捉えられていくようになっていく さらに、今のようにラディカルな前世、来世が考えられる以前には上の二羽目の例で見られたように 生命は単に「系譜によって継がれるもの」として考えられる形が主流だったのではないかとも思われる
新約聖書では輪廻では無く永遠の生命が説かれる そうして霊魂の不滅という事と並んで生命を失う事を恐れよという事が説かれている 一般にはこれは「霊魂の不滅」のみがクローズアップされて 「生命」については等閑視されているような印象を受ける 理由を考えるなら上に挙げたように「生命」は曲者で 例えばクロウリーが「聖守護天使の知識」と呼んだところのものだし 孔子が四十にして惑わずとか五十にして天命を知るとか言ったところの概念なので 普通に難しいので「霊魂の不滅」の方にスポットが当たっていったのではないかと思われる こういう種類の生命を天命なり主命と捉える発想は東洋的には辿る事が容易なのだけれども 西洋的にもクロウリーが聖守護天使について説くところを見るとそういう観念が存している事が分かる そうしてここでは霊魂と生命はそれぞれ別個のものとして設定されている事が考えられるのだけれども キリスト教的には、というか新約的には以上のような非常に高度な意味での自身の「生命」と 自身の霊魂が共にあるような状態を目指したのではなかろうかと思われる それがキリスト教による永遠の生の要件なのだろうと考える 要は、キリスト教においては「霊魂」と「生命」が別にあるという事が重要って事になる 例えば幼子を抱えて「このような者こそ天国においては大いなり」というのも まだ展開していない伸び代のある生命であるから、と考えるなら 「天国」が霊魂で無く、「生命」を基準として説かれているという解釈が可能になる そうしてそういう意味での生命を保った「霊魂」が永遠の生命を得る、という事になる
じゃあその生命って何なのか、っていう事になるとこれはそうそう分からないけれど 大昔には単に「生きる事」以外のものでは無かったような何事かの文明の発達に伴って発達した何事か、として見る事が出来るであろう事は分かる
>>544 はまた違うのか
眠いのであんまり展開出来ないけれども
一応は次代に何かしらを繋ぐとか何らかの展開を齎すとかいう事が
>>542 辺りからは「生命」として考えられる
しかしこう単純化した形でのみ捉えるのも難しい面もあるのかもしれない
エヴァンゲリオンは十年以上経ってからやっと見る事が出来たのだけど 強いて言えば八十年代懐メロ調の雰囲気にごく普通の好感を覚えたというのと 綾波レイが意外とそれ程フォーカスされていないのに驚いたというのが際立った感想だった 純粋にエンタメ的な要件に従って造られたキャラ以上でも以下でもないというか 寧ろ加地さんだのリツ子博士だの葛城一尉だののおっさんおばさんの方が熱量を込めて描かれていたようにさえ思った エヴァンゲリオンは子供の為に作られたものでは無いのだろうという事はその「旧版」をやってた頃から漠然と予感していて そのせいかどうか知らないけれど当時から「ぜってー見ねえ」と思っていて 思いながら見ないなりの自分の中での「エヴァンゲリオン像」というのを時々作って反芻したりなんかして 「多分『綾波レイ』というのはブルセラ要員なんだろうな」というような事を考えた頃に もういい加減そういうのに飽き果ててどうでも良くなっている事に気がついて、その少し後に見た 結論から言うと見ないながらに構築したエヴァンゲリオン像はちょっと近いところもあって 綾波レイはブルセラ要員だったというかシンジ君にしてもコアのところでは所謂ところのおっさんの「インナーチャイルド」であって子供では無いし 子供向けでは無かった。この反感は主には丁度上の世代の人が「デイドリームビリーバーすげえ」とか言ってるときに覚えるのと似たような感覚で それはまあ俺は関係ないしどうでも良いな、という直感的な認識から来ていて そういうどうでも良さがどうでも良くなったのでエヴァンゲリオンを普通に見て普通に楽しんだという流れになったんだと思う 時代性とかは端から考えなかったしどうでも良かった
以前書いた世代論風を引きずって付け加えるならバブル期は種族に応じた住み分けの利いた時代だったと言える 俺の学生の頃はその名残として「団体Aが常識とする要件aをざらに満たさない団体Bが常識とする要件bを団体Aは頻繁になおざりにする」 というのがごく普通の当たり前のありふれた光景になっていてどれが正しいのか分からなあと思ってるという状況が多くあった そういったセクト化みたいなのが可能になったのはその頃自分達が展開、進出する事の出来る地平があったから、かそれが信じられていたからだと思うのだけれど この活躍の「地平」というのが巨大ロボ活劇の絶対要件の一つになる。二つ目はロボを見上げる「群衆」 そうしてこの二つはロボが都市部で戦う事によっていつか同一視されていくようになる その後、ガンダムが特殊なのは恐らくアジるシャアやらアムロの名調子によって観客自体をこの「群衆」として扱ったからで それによって画期的という事になったのではなかろうかと思うけれど俺はVガンダムの幾らかとGガンダムの幾らかしか見た事は無い そうしてこの観客を群衆、或いは地平として扱うという事がエヴァンゲリオンでも例の銀幕に大写しの観客という形で用いられた訳だし よく知らないけどパトレイバーは都市部と凡人一般人を絡めたりマクロスはパイロットのおねーさんが歌を歌ったりする事でこの群衆と地平の図式をそれぞれなりに展開させたという事になるんだろう エポックメイキングというよりは個人的にはエヴァンゲリオンより鋼のラインバレル推しで ラインバレルは初手からそういった「地平」が存在しないところから始まる しょうがないからいきなり宇宙へ行ったり、遠い未来だったり過去、登場人物の回想だったりと ロボが活躍するような地平を探す事で展開していくというのが、どちらかというと地味だけど個人的には評価出来るというか好感が持てるように思う
×エポックメイキングというよりは個人的にはエヴァンゲリオンより鋼のラインバレル推しで ○エポックメイキングというのであれば個人的にはエヴァンゲリオンより鋼のラインバレル推しで バブル期は穏当な集団行動というのが可能だったし尊ばれた時代でもあるはずで そういう風潮みたいなのはここ数年にも当てはまってるような気がして個人的には良い傾向だなと思ってる ただバブル期的なそれが地平の確約からであるのに対し 現在的なそれは分立してたそういった幻想の破綻によってそれらの土地が地続きっぽくなった事 それまで忌避されてきた事がそうでもない事のように認識され始めて来た事によるようにも思う ラインバレルは自分的には非常に誠実なロボット漫画 エヴァの頃はくるりとか聞くと「こいつらが言う『みんな』っていうのは毎日勉強したりお仕事頑張ってる『みんな』であって 俺とかは初手から相手にすらされてねえんだよな」というのが非常によく分かるし椎名林檎とかもそういう風に受け取れた頃だったように思う 「ロックは世界を救う」的な商売はえげつないものに思えるし奴らの言う「音楽性」って意味不明だし少なくとも俺には恩恵も感動もくれないものなんだろうなというような事をよく考えていた その頃の「反感」なので結構強かったのだけれども 相応して、当時はワールドイズマインという漫画が面白かった
バフォメットについてはまだ色々な要素があると思うので考え中 逆五芒星もまだ謎があるけれども関連する形でまた考えたりしてる
逆五芒星については謎が多く、初めは天の五芒星をそのまま柱状に下へ引き延ばす事で下を向いた時に反映される形であり眩惑 する地の勢力を表すものであると考え、次には夜の星として、正五芒星を対応宮ごと夜に相応しく丸ごと百八十度回転させ、深更 を表すものとも考えた。歴史的な根が判明すれば確たるところも見出せるのかもしれないが、生憎不詳である為にもう少し考える として、次にはChurch of Satanのバフォメットの印章と、上記のバフォメット考察、さらに上記に触れなかったバフォメットの他 の徴を考察する事で仮説を重ねる事にする。 上記において示された御霊乃至は荒魂を和魂に転じるようなバフォメットの性質は、腹部に示されるカドゥッケウスの杖により、 変容の業として表されていると考える事が出来る。そうしてここで頭部の山羊頭は、或いは冬至点、深更を意味する磨羯宮の山羊 をも表し得るものかもしれない。これは日が継がれる日付変更の時点であり、冬至点でもある。これによって変容は日付変更や日 の勢いの更新と軌を一にする事になる。こうして変容をテーマとして見るならば、逆五芒星は地の勢力である四大より霊が生じる、 或いは蒸留される形を表しているものとも見え、地上における変容を図示するものとも考えられる。正五芒星を霊を頂点とした四 大の生成、創造の次序乃至は秩序を説くものと捉えるならば、逆五芒星はそれに応じた、四大からの霊の生成、変容の次序を説い たものという事になる。バフォメットの印章によれば逆五芒星周囲には最下部頂点から左回りにレヴィアタンの五文字がヘブライ 語で置かれる。これを一つのサイクルを描いたものと考えるなら、左回りはホロスコープ上の春夏秋冬の四区間を巡る順序に一致 しており、またこれをサイクルとして見るならレヴィアタンの性質自体にも一致する。
次にヘブライ語表記についていうなら、最 下部ラメドは牛を表すが、アレフの荷牛或いは農牛に対してこれは古代の犠牲獣、供犠の牛を表す。獣であり、ヘルメス主義的に 解するなら作用の容器、つまり実験に用いられる溶媒としての質料という事も言える。ヴァウは釘、この場合には一続き、一列ね の連続として解される。ヨドは手、指し示すものであり方向を指す。この二字が右手にある。左上部にはタウ、十字、交わり、交 錯であり、次のヌンは魚、恐らくはカバラにおいて、不可逆性という事を表すものと解釈している。この二字は左手に置かれる。 供犠或いは質料、連続する事、方向、交錯、不可逆性、また質料、としてこのサイクルを解するなら、この文字成分から導き出さ れる見方によっても一貫した性質を捉え得るようにも考えられる。このように、変容を軸として象意を分析する事も出来るように 思う。尤も、バフォメットの図像にはまだ謎が多く、他に黒翼などの要素があり、これは夜空を意味するものとも考えられるが、 飛翔、飛び去る事を考えるなら変容が伴う「祓い」の要素を示すものとも考えられるし、またヘルメス学的に変容における飛翔、 水銀の気化と取るなら進化なり、祭祀においての飛躍とも解せられ、これもまた確定の難しい要素であるように思われる。 河図でいうなら天一から天五までの生数から正五芒星、地六から地十までの成数から逆五芒星の働きに相似するものを考える事 が出来るようにも思う。六、七、八、九は易においては爻の数、つまりは四象の数であり、四方、四時、四季の数になる。地上的 サイクル、循環に関連する。
ヴァウの位置、ルシファーは星天、夜天より蒼天、地上に光を齎す。美学や理念が該当するか。 ヨドの位置、サタンは中天の日輪を示して目指す場所を志向させる。限界打破への熱意をも象徴させる。 タウの位置、レヴィアタンは水平線、或いは地平線と黄道が切り結ぶ地点において、円環の最硬の強度によって限界を閉ざす。 ヌンの位置、ベリアルは終極において天地、創造主の鏡像としての星図、結実としての世界の全図、或いは人のダイモンを表す。 ラメドの位置は祭壇になる。ラメドは限界に対する抵抗、転じて器を暗示し、錬金術的な意味での質料、変容の器でもある。 潜水艇に譬えるのが分かり易い。ルシファーは生命線だ。レヴィアタンは完全に防護する。ベリアルは海図やナビのようであり、 サタンは羅針盤のように意識を針路へ向かわせる。この球体は黒色にイメージされる。祭壇は操作を齎す。丁度操舵室のようだ。 ベリアルの方位へ向かうなら限界を海図の向こう側へ見て、恐ろしさや不安を抱くかもしれず、サタンはこの自らの限界に対し、 憤りをもって殆ど狂熱的な不支持の表明を与える。己自身の限界を知らされた場合に人が持つ最初の段階であり、このような過程 には個人差があるのかもしれないが、少なくとも俺自身はこういった事柄の考察に際してそのような展開を覚えた。そこから、習 熟が進む事によってさらなる自身のダイモンを獲得し、成長する事になるのだろう。バフォメットはこの変容を象徴している。
また、ここに見られる球体の外なる強大で圧倒的な「限界」は、或いはセトの寺院におけるセトの領域であるのかもしれない。円 環が閉ざす黒色の球体がその内に変容を約束されたものであるならば、この潜水艇、黒色の球体こそがxeperであるのかもしれない。 習熟するなら恐らく円環内部に見られるのは潜水艇の内部における「心地良さ」である。一人夜を過ごす際のそう悪くない感覚、 というのに似た感覚が予見される。SF等のメディアにおいて、そういった感覚を扱う創作は少なくない。 ってまあ中二的飛躍なんかもさして気にせず考えて行くと、考えれば考えるほど色々出てくる 他に例えばルシファーはグノーシス的な光、智慧とかを象徴していたり色々見るべき事はまだ幾らでもあるので 今後もまだ考える事が沢山ある。上のは一か月以上の前のメモからのコピペ
「陰陽道は陰陽五行の体系なんか使わないし易学も使わない」ってのを見たんだけど じゃあ陰陽も五行も一切使わずに陰陽師さんの占いなんか出来んの?とかそれって何なの?とか つーか、そもそも土御門家の晴明桔梗紋ってあれ何なの?五行じゃないの?飾り?マジで? って具合にあっちこっち意味不明過ぎるのに超自信たっぷりなのでげんなりして急速に興味を失ったりしたんだけど 地道に細々調べてる。多分然るべき内実はあるんだろうけど それもしかしたら「今の占いとは違いますよ」で通るんじゃないか 「五行」大義やら白虎通やらまで陰陽道から締め出して残るものって逆に何なのか分からない それに「祓い」っていうのは元々神道とか仏教じゃなくて陰陽道のものなんじゃないか 神道は単にそれを採用しただけで元は陰陽道の追儺儀礼が原型だろうと思う それに「祓い」の解釈も何処かおかしくて、何か霊的なものを攻撃したり除去したりって方向に解釈してるみたいだけど 「祓い」自体がそもそも「神主さんが神前に柏手を打ったら場が『清められた』」という性質のもので 追儺にしても霊的な何かしらに対して鎮まる場を指定して退去を願うとか 指定が無ければその敷地なり近辺一帯からその外への締め出し以上のものではないはず 節分の豆まきなんかが「追儺」の系統でそういう「祓い」の一種だと思うんだけど 多分言われている「祓い」として念頭に置かれているのは「調伏」とかで仏教用語だし 仏教の方法論にしたって回向、供養、引導を渡す事による済度祈願が主ではないのかと そう考えるとやっぱり「祓い」は陰陽道由来の神道用語と方法論って事になるんではないかな 神道なんて超古代アニミスムから延々伝わる「言挙げされざる」祭祀系統とされてるのに 「祓い」が仏教用語で無ければ一体何がそこに「祓い」の概念を齎したのか分からなくなる 祓いと対で言われる禊は三貴子誕生神話にあるし基本的に「穢れ」の概念が生じた時点で 葬礼とかそういう「祓い」の方法論も発達してきてるはずだとは思うけど だったら尚更、その発達に従って渡来系の外来文化のそれに関心が集まったはず で、「それ」は陰陽道では無いのか、っていうのが分からない
・式神について 魅力ある仮説を述べるのが本旨だが、既存の説について述べておくと、まず式神は六壬式占に用いられる象徴としての十二天将 を使役するもの、または同様の象徴類である三十六禽を使役するものとする説がある。十二天将は厳密な星座配当の有無は不明だ が、西洋占星術で言うサンサインやハウスの概念と少なくとも似通った性質のものであり、天文、時刻と季節に関連する。三十六 禽はこれに対して地支に配属され、純粋に時刻に関するものとされている。ここでは式神は象徴系と対応し、いずれも式盤によっ て具体的表象を象るものとなる。 説話において、その表現は様々だ。まず切り紙の人形に息を吹き込み標的に向かって投げる事で呪詛を加えるというものがある。 次には目に見えない鬼神の従者として表現され、また「家の者が姿を恐れるので」橋の下に封じられたという式神譚もある。これ らはいずれも同一の陰陽師、安倍晴明の式神譚だ。一見別々の事柄を言っているようだが、同一の事象の異なる様態を描いている という可能性もある。さらに、呪詛対象の上に鳥が飛来し、これをやはり晴明が卜占により「式神である」と判じる説話もある。 少なくとも現れにおいて、式神の様相は一定しない。
「式神」そのものを説明した説にも様々のものがある。密教僧の行ずるところの「護法童子」と同様のものであるとする説もあ り、「式神」を「識神」であり、人の精神の異なる様態であるとする説、道教に言う「六甲六丁の神」の事であるとする説、また、 土御門家の説には「異国出身の間者の事ではないか」ともされ、この説は既述した陰陽道の近代化、合理化、制度整備の運動の側 面という点から見ると非常に示唆に富んでいて面白い。「異国」出身の異形異相の風体が潜伏諜報に持つ適性を考えに入れるなら 尚更その含意は深まる。ここからは、体系外、制度外の領域に対する関心と「異国出身の間者」の齎すような情報が職業上の要請 として仮定されてくる。これらはそのまま占術に向かう姿勢としても解釈され得るものだ。或いは一般には「式神等というものは 存在しない」かまたは「陰陽師がそれを用いたという証拠は無い」というのが現在では半ば通説のようにもなっているようだが、 その場合にも所謂霊的存在の実在や非実在というところに議論が及ぶ事は少ないが、この説はそれらの実在そのものに疑義を挟む という理想的目標点を延長上に仮定しているものらしく思われる。 いざなぎ流において式神は「敷神」として表記されている。いざなぎ流は陰陽道の側というよりはいざなぎ流自身の側から陰陽 道では無いとされていたように思われるが、それは陰陽道の系譜、傘下、法嗣の下にあるのではないという意味であって、他の様 々の民俗的信仰系同様の影響関係を陰陽道が全く持たなかったという意味では恐らくないだろう。 その「敷の神」に関する祭文からは、古事記に記載される阿遅志貴高日子根の命が彷彿される。この表記においては神名は「始 め、或いは第一声(阿)を待ってから(遅)高きを(貴)志す、或いは記す(志)子の方に根ざす高日の神、或いは「志貴」を「 敷」と置き換え土壌を均し、耕す神、或いは始めの一声を待ってその「高き」の意志によって地平の均質化を為す神と読む事が出 来る。雷神であり、ここに解するように始めを待って高きを記す事により、地を耕して均す。初出において「志貴」は「鋤」の字 で記述され、大国主の命の御子神達の第一に名を挙げられている。
いざなぎ流「けみだし敷」の法文において、何万という国や社の数が挙げられ、様々の地平として「敷」の字が登場する。ここ から見る事の出来る「敷」の意義は、無数の地平、フィールドであり、これを例えば陰陽道に説かれる「式」の側に敷衍するなら、 各十二支、十二天将や三十六禽の地平を指すものとなる。季節、時刻、方位のいずれか、或いは方位毎に配当された季節と時刻の それぞれの地平という事になるだろう。またこの法文には「打敷大神様」が登場する。「敷」は様々の層、或いは地平として解せ るもののようであり、つまり「敷」の神は多種多様の階層なり地平に属するかこれを司る存在として見なす事が出来るとすれば、 「打敷大神様」とはそのままそれら階層なり地平を「打ち敷く」存在という事になるだろう。またそれは「敷を打つ」という意に も解せる。 阿遅志貴高日子根の命は出雲国譲りの神話の序章とも言える件に登場する。天から降るのは四柱の神、まず天菩比の命だが、恐 らくは地を温める陽気を表している。次に天若日子、これは大気が温まる事を司っている。この二柱の神々はいずれも出雲に帰順 する。つまり、国譲りという転換点を前にして作用する前兆ともなる天=時間の側からの二つの作用はその際に土壌を温め、また 大気を温めるが、いずれも地の側の作用に属するものと見なされ得る為、到来する「国譲り」を告示するには至らないという事に なる。いざなぎ流「さわら敷」法文の一説はこの「死せる大気の神」天若日子を思わせる。
天若日子が説話において死ぬと、阿遅志貴高日子根の命はその妻の兄として葬儀に出席する。ところが天若日子の家族はこの神
が死んだ神と瓜二つであるので蘇ったものと錯覚する。阿遅志貴高日子根の命はこれを受けて「死人と見紛うとは何事だ」と言っ
て祭壇を「蹴倒して」、飛び去って行く。古代、妻の事を「妹」と称するが、それはともかくこの説話は恐らく生まれ変わりを暗
示している。マクロな事象の面からするなら温められた古い大気(天若日子)が刷新の時(国譲り)を目前にして死に、地平の刷
新を意味する神、阿遅志貴高日子根の命が新たにその殻を破って飛び出すという主旨が解せるが、この事を神秘学的に解釈するな
ら霊的存在の生まれ変わりであり、その存在自体の刷新を表している。
阿遅鋤高日子根の命は陰陽道二大宗家の一方である賀茂家の氏神社である高鴨神社の祭神としても知られている。偶然でなけれ
ばそこにも「式神」伝承についての関わりを見出す事が出来るだろう。
>>554 とか多分色々間違ってるんだろうとは思うけど
様々の「穢れ」の指定を行ったのは神道なのか仏教なのか陰陽道なのか
って考えると陰陽道がその目録に近いものを備えては居たんじゃないかなと思う
ああでもまだそれ程興味無いんだけども
指定って言っても教義化っていうより枠組みの整理、総体的網羅っていうのに近い面で見て行くと面白いんじゃないかなと思う あと上の「敷」の解釈からさらにこれを「式」に直すと丁度西洋の惑星霊みたいな感じにも解釈出来るね 上はかなり長いメモの一部を引いただけなので説明が足らない箇所とかあるけども これで投稿打ち止めなので説明出来ない 特に式神についての土御門家の解釈がどうして非常な示唆を含むのか、という辺り いざなぎ流については斎藤英喜という学者さんの本が面白い まだ途中だけど最初の辺りの考察から早くも、西洋の「物見の塔の開式」とか考える時に滅茶苦茶参考になるんじゃないかとか思った あと神格に対して本当に礼を尽すんだな、とかがとてもよく分かる 祭文にせよ所収の写真にしてもそういう佇まいが凄い 人によって異論はあるだろうけどいざなぎ流と陰陽道を対照すると見えてくる他の幾つかについては結構重要なものを覚える 簡単に言うと陰陽道ってのが様々の体系的な概念を包括、整備するっていう枠組みの学問、方法論っていう側面があると個人的に思うので いざなぎ流のような習合的祭祀体系との間に共通要素を対照するのは研究手法として普通に重要な視点であり得るという事を考えている
長々書いてるけどまあいつもの独創なので 根拠も無いし、あんまり真に受ける事も無いかもしれないと一応注意しておきたい 特に古事記解釈とかの辺り
561 :
名前はいらない :2014/02/08(土) 06:52:45.61 ID:1c18Dxrf
長文乙
562 :
名前はいらない :2014/05/04(日) 11:59:46.09 ID:RltGOMBK
563 :
名前はいらない :2014/05/04(日) 12:00:29.29 ID:RltGOMBK
564 :
名前はいらない :2014/05/04(日) 12:00:51.00 ID:RltGOMBK
旅費はありまぁす
565 :
名前はいらない :2014/05/04(日) 12:03:40.27 ID:RltGOMBK
詩っていいよね
566 :
名前はいらない :2014/05/04(日) 12:04:19.50 ID:RltGOMBK
ふぉー
567 :
名前はいらない :2014/06/05(木) 19:41:24.10 ID:iOFdRmkz
ただでも行ける 時間旅行 太陽系自身の運動 地球の公転と自転 数分ねっころがって 居るだけの大旅行
568 :
名前はいらない :2014/06/05(木) 19:44:58.89 ID:iOFdRmkz
宇宙の膨張 銀河系の運動 銀河の回転運動 忘れてました
569 :
名前はいらない :2014/06/21(土) 01:56:20.26 ID:KRk1gYwM
宇宙が無限に広いなら いま私が占拠している一畳の空間も これから宣言する空間もそんなに差はないのだろう 私は今 ここに 寝っ転がったまま 地球を中心とする半径800億光年の空間領有を宣言する 私に続き空間領有を宣言するひとは 800億光年の外側でおねがいします
570 :
名前はいらない :
2014/08/13(水) 16:01:30.68 ID:Xq7tIc4r ★2ch勢いランキングサイトリスト★ ☆ +ニュース板 ・ 2NN ・ 2chTimes ☆ +ニュース板新着 ・ 2NN新着 ・ Headline BBY ・ Unker ☆ +ニュース板他 ・ Desktop2ch ・ 記者別一覧 ☆ 全板 ・ 全板縦断勢いランキング ・ スレッドランキング総合ランキング ☆ 実況板 ・ 2勢 ・ READ2CH ・ i-ikioi ※ 要サイト名検索