1 :
軟弱な冷凍マグロの赤ん坊:
ここ詩板に、神が降臨されました。
太陽であり、星空であり、詩神でもあられる太陽神様です。
現在はID:sbA3wGaRやID:qHlQQMaYなどのお姿で御降臨されております。
如何せん未だ御名前を御教え戴いておらぬ為、
手前勝手では御座いますが便宜上「太陽神様」とお呼びさせて戴きます。
太陽神様は、詩とは何か、をご存知であられます。
同時に、何が詩ではないか、更には、正しい詩の読み方さえも熟知せられております。
太陽神様のそれ以外は全て間違いであり、我々には反論の余地はありません。
太陽神様は我々下々の愚民を「自分じゃなにもできない軟弱な冷凍マグロの赤ん坊」と形容なさいました。
明晰の光で軟弱者の恐れを取り除き、熱で冷凍された身や心を溶かし、昼夜の繰り返しは赤ん坊を成長させます。
太陽神様の宣言は、我々無知蒙昧な愚民をお導き下さるという御慈悲に満ち満ちた詩でありました。
こちらに御降臨下さるかは分かりません。
しかし、残していって下さった数々の永劫を照らす御言葉を、
盆暗で闇雲な我々の手で共に研究していこうではありませんか。
2 :
名前はいらない:2008/10/15(水) 05:32:04 ID:Jd8u7b92
放置推奨。
3 :
名前はいらない:2008/10/15(水) 08:58:17 ID:/Ncjdc1L
1、イメージ構築と 説明の違い
某所で、
>意味がわからんと言っていた軟弱者が何人かいましたが、
>意味を伝えるだけなら詩なんか必要なないじゃん。
>詩は作者と読者の共同作業であるべき。
>僕が1から10まで語ったら、読者はあと何をすればいいというんだい?
という発言を見かけました。
そう、これだけ読んだら実に正しいと膝を打ちます。
詩を読むときに、やたら説明くさい詩ぐらいあほくさいものはない。
嬉しい、美しい、悲しい、甘酸っぱい、そうした情感をストレートに書き上げずに
読者に自然に喚起させてくれる詩のほうがはるかに嬉しい。
が、しかし、ここで問題があります。
意味がわからん と言ったとき、読者がいったい何を意図していたか?
およそ詩を読むというとき読み手は1から10まで論理的な作品を期待しているわけではありません。
(それを期待するのであれば散文を読むわけです)
何を期待してるか?人それぞれではあるのですが、音楽を聴くときのような、
絵画に浸るときのような、現実世界と一線を画したイメージを期待している
のではないでしょうか。
つまり、読者は「説明が足りない」と怒っていたのではなく、「イメージが喚起できない」と怒っていた可能性が高いわけです。
4 :
名前はいらない:2008/10/15(水) 09:01:58 ID:/Ncjdc1L
2、過去の詩人の例
ーーーーーーーーーーーーーーーー
蛙の死 萩原朔太郎
蛙が殺された、
子供がまるくなって手をあげた、
みんないっしょに、
かわゆらしい
血だらけの手をあげた、
月が出た、
丘の上に人が立っている。
帽子の下に顔がある。
ーーーーーーーーーーーーーーー
一切の説明がないといえば、この詩もないです。ワケはわからない。
しかし読み手の中に凄みのあるイメージがわきあがります。
つまり、まあ、こういうことなわけです。
5 :
名前はいらない:2008/10/15(水) 09:04:18 ID:/Ncjdc1L
不協和音で作られた現代音楽に耽溺するときにように、
あるいは、雑多な色を混ぜ合わせたような現代絵画に耽溺するときのように、
それがたんなる落書きではなく、作品だと感じさせてしまうだけのエネルギーが
焦点を結んでいるときに、初めて鑑賞者の内部にイメージが喚起されます。
言い換えると、「詩のわかりやすさ」とは、イメージ喚起の容易さであり、「詩の質」は喚起されたイメージの質に通じると思ってもいいのではないかと考えます
6 :
名前はいらない:2008/10/15(水) 18:50:13 ID:Px0avwyT
要は頭が悪いってことですか?
7 :
名前はいらない:2008/10/16(木) 08:43:35 ID:1HRRj9zI
>6
頭が悪いんじゃなくて、捉え方の問題?
”作者と読者の共同作業”というのは確かにあたりなんだけれど、それって書き手にとっては
諸刃の剣であって、”作品の魅力”の多くを作者じゃなくて読者の仕事にしてしまう危険性がある。
極論、「読み手さえ上手に読んでくれれば、どんなしろものでもいい」、という話ではあまりにも作品を書くかいがない。
じゃあ、詩の魅力が発揮されるためには、どこからが読み手でどこまでが書き手の仕事か?っていう線はたしかにひけないけれど、
”書きたいものを書く”喜びのあとで、読者の視線で自分の作品に接してみることは意識してやってみる価値がある。
読み手の読み方は一人一人違うけれど、幸いにも読まれる機会があって、感想が得られるのなら、その一つ一つを
自分と異なる視線として糧にする ってのは 詩の魅力の幅を広げる近道なのじゃないかと思う。
できだけ書き手の責任範囲を広げるほうが書き手としては嬉しい。
「その感想は、変だ」って思ったら、「なんでそう読まれちゃうのか?」って一度は考えてもいい。
もちろん迎合する必要はなくて、「こんな風に読むやつもいるけど、この詩の魅力はここにあるんだ」
というのもありだし、むしろそういう拘りが一番大事だけれどね。
(「俺の詩はすごくいいんだ」っていうエネルギーが感じられて、あのレスは魅力的だった。)
8 :
名前はいらない:
敢えて言わせてもらおう、グラハム・エーカーでアルト!!!