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名前はいらない:
人間は現在において科学と創造に頼りきっている。それは承知の通りである。
ではなぜこの期に及んで人類は自問自答で立ち止まっているのだろう?
それはおそらく根本的な心理の欠落であろう。人間は果てしなく自分の活躍と
優越を追いかけるものだ。 それにより個人間あるいは企業間でも争いは続き
勝った者に治安の行方が預けられている。今はそんな世の中である。
ここに根底的な矛盾があるのはお分かりだろうか? それはかの極東国際軍事裁判
のごとくに勝者が敗者を裁いているようなことなのである。それはほぼ一部の者の
主観であると考えていいだろう。
現在は客観性に欠けた社会が創られているのではあるまいか?
主観性が環境問題や民族紛争をも導いたのではあるまいか?
個人間でも同じことが言える。 生きる意味、自分の価値などは主観で決められる
べきことであるが、それは客観に抑制されている。
例えば生きる意味を犯罪に見出す者には刑罰という客観的視点における存在によって
弾圧されるのである。 つまり、客観は人類の創造する最高の値なのである。
だが、それを過信しすぎる者も近年増えてきている。
自らは、他人にとって客観であることで他人を抑圧する人間である。
これは明らかな間違いであって、個々の人間の価値観は主観によって決まるべきだ。
主観とは客観を超えられぬ自由のことである。
よって客観に従わぬ者は人間から距離を置かれることとなる。人間相互の循環とは
まさにこのことではないだろうか。
主観・客観は乱用してはならないのであって、そこには必ず法がある。
ただ、人類がその法を拒めばやがてその範囲も変わっていく。
今はただ法のもとにおいて生き、人間としての価値をお互いに損なわぬよう、
人類の関係と結びつきを強めて行くことが重要な課題だろう。
人間の感情も主観であるからこそ、それを抑制する客観という力があるのであって
現代の政治にも通ずる価値観がそこに点在する。
ただ、主観と客観の区別が付かないものに対しては厳しい社会であるべきだ。