野獣

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1soh
肉食獣の鋭利なその爪で
己が胸を掻きむしる
血が滴り落ちて溜まりをつくり
そが臭いが狂気を煽る

我が腹をも割き
そが内臓を引きずり出し
自身でそを喰らい
血を啜る

満月は紅く闇夜を照らす

ああ、誰が知る
我が狂気
我が幼く己が勝手で
あきれ果てたこの願い

月があまりに丸く
あまりに紅い
だからだと言い訳けるには
永き歳月が過ぎた

今夜もまた
我が爪で己が身を割くる
夢を見ゆ

夢想にて息絶えることなし
2soh:2006/08/15(火) 23:54:29 ID:ARYAxQhY
a loisir 〜ささやかな詩篇とともに〜 2005年5月20日〜
http://www.geocities.jp/soh66_04/index.html

弱層サイトですが、ひっそりやってます。
3万華鏡倉庫 ◆8zHol6NAOo :2006/08/17(木) 04:08:18 ID:9/HmdNkE
足跡の化石は歩幅の化石
4じじさん ◆bd46Tjcagc :2006/08/17(木) 04:12:10 ID:l5+mPlY9
「吾輩は猫になる」


 吾輩は 猫になる
 名前はまだニャイ
5万華鏡倉庫 ◆8zHol6NAOo :2006/08/17(木) 04:38:25 ID:9/HmdNkE
咆えているのは母か
母の母か
今は今夜なのか
昨夜か
響き渡る為に
方位を増やし
みずからの響きを追い越して
咆哮するの
彷徨するの
母から生まれた曾祖母みたいに
6万華鏡倉庫 ◆8zHol6NAOo :2006/08/17(木) 14:18:30 ID:lMobasMc
そろそろまた経過しようかな、と
時間が考えたときにはすでに
経過している
7万華鏡倉庫 ◆8zHol6NAOo :2006/08/17(木) 14:53:42 ID:lMobasMc
血飛沫が星々のようにみえる午後が
青らんだ瞼の午前に肌を重ねる
8万華鏡倉庫 ◆8zHol6NAOo :2006/08/17(木) 15:37:52 ID:lMobasMc
化石のように考えよ闇夜に
手の届く限りの時計を止めて
9名前はいらない:2006/08/17(木) 17:33:15 ID:W+h9q6MG
いつから万華鏡倉庫のスレになったんだ?
10太陽クイズ:2006/08/18(金) 10:37:29 ID:Z3VxH9iJ
夜道をめくり
途切れ途切れの記述を
沈む寝息に載せて
地の底の風紋に送る
11名前はいらない:2006/08/18(金) 19:22:47 ID:kEOCtGTM
www
12名前はいらない:2006/08/19(土) 02:21:04 ID:sEJQJ+0d
世界最大の文房具
13名前はいらない:2006/08/19(土) 02:27:10 ID:kAZJuruW
巨大鉛筆
14万華鏡倉庫 ◆8zHol6NAOo :2006/08/19(土) 04:29:34 ID:Hzptpnz2
>>9
sohさん再臨の前に落ちてしまいそうなので
15名前はいらない:2006/08/19(土) 13:56:32 ID:U6B/8B9/
まん毛って空気嫁ない連投バカだよね
16万華鏡倉庫 ◆8zHol6NAOo :2006/08/19(土) 16:43:48 ID:OogVpnxb
>>15
すみません
慣習性の極限を捜索しているので
17名前はいらない:2006/08/20(日) 14:09:29 ID:nDztIXMN
好きな人は野獣と化して
恋心をむさぼりくっていった気分です
WWWWWWWWWW
18  ◆UnderDv67M :2006/08/20(日) 16:16:08 ID:sGXv/+x8
  (^ิ౪^ิ)
_(__つ/ ̄ ̄ ̄/_
  \/    /
19名前はいらない:2006/08/21(月) 00:41:41 ID:0Nj01FW6
文鎮が角から足の甲に落ちるとすごく痛い
たとえ野獣でも痛い
20万華鏡倉庫 ◆8zHol6NAOo :2006/08/21(月) 03:51:24 ID:+Cdzl5ti
身をよじり雨が振り籠めており
庭石のつややかなおもてを
思いなし
思いなし
駆け下りてゆくぬくいまるいものの気配を紛らす
21名前はいらない:2006/08/21(月) 12:48:45 ID:GLKe7Kyq
うさぎみみの看守に説教されている野獣をフェロモンで激励
22万華鏡倉庫 ◆8zHol6NAOo :2006/08/22(火) 01:56:50 ID:gCsXh+lr
駅にのしかかる駅の腰使い
23万華鏡倉庫 ◆8zHol6NAOo :2006/08/24(木) 05:06:11 ID:2UYgkJL2
いつのまにか
閉店していた
喉の奥の
煙草屋から
おおきな犬が
駆け出してきて
下の前歯に
足をかけて吠える
24名前はいらない:2006/08/25(金) 01:12:31 ID:LTQW2Lqp
大盛野獣弁当
25夜間閲覧室:2006/08/27(日) 15:47:17 ID:TAM5PsG6
短い海
26名前はいらない:2006/08/28(月) 12:03:30 ID:qfs6K+cZ
見覚えのある薬指が集団で
27名前はいらない:2006/08/29(火) 10:37:05 ID:xOMrV8bt
くすりゆびとくゆうの
におい
というのが
あるよね
28微塵:2006/08/30(水) 12:33:48 ID:5FGr0r10
肉食の妖精が蚊に齧り付く
29万華鏡倉庫 ◆8zHol6NAOo :2006/08/31(木) 19:53:16 ID:/3rKBA66
のこぎり好きの野原を走りたくない裸足の秋風
30名前はいらない:2006/08/31(木) 21:09:09 ID:IoVlr8+s
まん毛うざすぎる
31名前はいらない:2006/08/31(木) 23:18:26 ID:q8RC91im

けぎらいをなのかかぞえてふねをこぐ     
  
32万華鏡倉庫 ◆8zHol6NAOo :2006/09/01(金) 09:19:42 ID:sT78ASPT
反射的に大量に書いて
速筋も遅筋も適度につくといいなと思う

落書きを
人目につくところにしてしまうのは
文字の本能は
視線を予感したときにリリースされるからだ
33名前はいらない:2006/09/01(金) 09:33:11 ID:f+bF5ZUg
>>32
人目につきたいなら自分でスレを立てればいい
落書き(まさに落書き)など見たくない
意味深な言葉を並べているだけの空っぽな落書き
34万華鏡倉庫 ◆8zHol6NAOo :2006/09/01(金) 09:38:44 ID:sT78ASPT
>>33
ならageないで
35名前はいらない:2006/09/01(金) 10:07:01 ID:cnHU6nDX
まん毛 ウザイよ まん毛
36万華鏡倉庫 ◆8zHol6NAOo :2006/09/01(金) 20:15:03 ID:VTxMM5Bl
地平線の贅肉を葦原が撫ぜる
37何時22分? ◆fmJRnC5rvE :2006/09/01(金) 21:40:08 ID:5MCgxAjr
塗られた川で
腕のある魚が遊ぶ
鉄の橋は顎の裏に花を飾り
あとずさってきた未来を
ぬるく迎える
くぐもった
魚たちの拍手が聴こえる
38名前はいらない:2006/09/02(土) 00:29:46 ID:Qy8CF76H

あなたがメルトモ?
知り合い?何?
あなたたち・・・
わけわかんないorz
39万華鏡倉庫 ◆8zHol6NAOo :2006/09/05(火) 21:20:28 ID:dMLmCzLu
螺旋の舳先
雨の島から運ばれ
滑らかな信仰が
輪郭をさずかる虹の跡地

海を鏡として覗く
惑いの汐を肩にかけた
風の城
その銃眼

星が行き交う凪いだ海面に
においがはぐれる水鳥の航跡
月光に答える
波紋の返信
40万華鏡倉庫 ◆8zHol6NAOo :2006/09/09(土) 00:07:01 ID:vQriq9ld
もうそろそろ降っていいかと
雨が尋ねる相手は誰
41万華鏡倉庫 ◆8zHol6NAOo :2006/09/21(木) 16:49:20 ID:vqR8fDfj
焼けるにおいだということはわかる
なにが
どこで
42奇し蜘蛛:2006/09/22(金) 03:06:58 ID:IWJsZnBC
あの脚を動かさずに駆けてゆく獣の鼻に
嗅ぎつけられた音
43名前はいらない:2006/10/19(木) 01:25:27 ID:A5OoBysQ
かけみず
44放牧用紙48 ◆5jmHQb3UhA :2006/10/19(木) 15:41:30 ID:imuZetDd
滴るものを生業とした姉が
「父、父」と咽く
45青メガネ ◆ZtF6f3ypqw :2006/11/30(木) 00:44:14 ID:OPiKKaa1
超人が疲れた都市に現れ一吠えすると、
超高層マンションの屋上が洪水となって
地下に住む我々知識人の耳に、眼に、口に、
ありとあらゆる狂気と異国情緒をそそぎこむ。

倦怠の交わいは理性の彼方に。往け、野獣よ
銀のエナメルを不分裂の表象に向かって巻きつけるのだ。
46 ◆gwnULb/9mw :2007/04/27(金) 14:38:26 ID:dX2O2svS
ボブ・サップ
ぎうにうの木魂=野獣
案山子の帽子=野獣
侘び寂び=野獣
誰も知らない言語(一行目含め)

=野獣
47Mana魔名:2007/07/31(火) 02:32:51 ID:pG+85tYh
荒野をひたすら駆けて行け 静かな夜に切り込みを入れて
猛獣たちが息を殺して獲物を狙い 風が行方を教えている
既に太陽は墜ち月が嗤う 灯りを求めて羽虫が今夜も集う
母なる大地に突っ伏して 悠久の流れを感じられたならば
狩りたいという欲求に身を委ね 牙に涎を滴らせ疾走しろ
見たことの無い景色に胸は高鳴り 風と戯れ飽きたならば
赤い砂が流れる丘で 今を抱き締め空へと落ちてみせよう
48名前はいらない:2007/08/21(火) 17:24:33 ID:HIlP4cxa
49名前はいらない:2007/08/24(金) 04:53:22 ID:JoGDnscz
age
50名前はいらない:2008/11/11(火) 23:50:40 ID:QT3mH8zr
万華鏡
51名前はいらない:2009/04/08(水) 23:07:33 ID:zKw8pqz7
【昏睡レイプ!野獣と化した先輩の由来】

水泳部の練習帰り、先輩の実家に遊びに来た後輩(りぼっさん似)。
屋上があるというので一緒に日焼けしようという話になる。
 ↓
紫外線瞬く曇り空の下で焼き始め、オイルを塗ってやる先輩。
なぜか股間に手をやって「固くなってんぜ」「そんなことないですよ」「溜まってんなぁおい」
という会話を経て、わざとらしく逞しく海パンからはみ出す亀頭。
 ↓
敏感なところに触れるたび脈打つチンポを見て何かを企む先輩のどアップ。
 ↓
攻守交代、今度は後輩が先輩にオイルを塗りたくる。
先輩は自ら股間をいじり、亀頭をわざとらしく海パンからはみ出させる
 ↓
喉が渇いたので飲み物を用意しに行く先輩。後輩のグラスにこっそり薬を入れる。
今日どれだけ焼けたか成果を品評しあう二人。
日焼け跡のついた後輩を評する「この辺(大腿のライン)がセクシーだね、エロい!」
 ↓
薬の効果で後輩が立ち上がれなくなったのを見て、先輩は
第1章の組事務所にそっくりな作りの自室に連れ込む。手を縛り上げ、舐め回す先輩。
後輩が抵抗すると、媚薬を染み込ませた布を口にくわえさせる。
 ↓
やがて気持ちよくなってきた後輩、とうとう自分から腰を沈めるまでになる。
5〜6回は体位を変えてハメまくり、先輩が射精したあとは攻守交代。そして後輩も勢いよく射精。
 ↓
二人は幸せなキスをして終了。
52名前はいらない:2009/09/14(月) 00:48:38 ID:5KTC1VZG
第一幕  レーニ、ウェルナー、ヨハンナ


(レーニは立ち、ウェルナーは肘掛け椅子に、ヨハンナは長椅子に腰掛けている。三人は口をきかない。
ちょっと間をおいて、大きなドイツ製の振り子時計が三時を告げる。ウェルナーがぱっと立ち上がる)


レーニ  (笑い出して)気を付けみたいだわ! (間)三十三にもなって! (苛立って)でも、お座りなさいよ。
ヨハンナ  なぜ? もう時間なの。
レーニ  時間ですって? これから待たされるのよ。それだけのことだわ。
      (ウェルナー、肩をすくめる。ウェルナーに)待ちましょう。そんなこと百も承知だわね。
ヨハンナ  どうしてこの人に分かるの?
レーニ  だって、これは慣例ですもの。家族会議の時には、いつも……
ヨハンナ  そんなにちょいちょいあるの?
レーニ  家族会議はこの家のお祭だったわ。
ヨハンナ  お祭はどこでもよくやるものだわ。それで?
レーニ  (話をつなげて)ウェルナーがいつも先に来て、老ヒンデンブルクは遅れるのよ。
ウェルナー  (ヨハンナに)こいつの言うことは、一言も信じてはいけないよ。親父はいつだって軍隊式にきちんと決まりを守るのだ。
レーニ  その通りよ。お父さんが事務室で懐中時計をのぞきながら葉巻を一本ふかす間、私たちはここで待っていたのよ。
      お父さんは、三時十分に、軍隊式に入って来る。一分も遅れず、一分も早すぎず、きっかり十分なのよ。
      社員会議の時は十二分、重役会議の司会なら八分。
ヨハンナ  なぜ、そんな面倒なことをするの?
レーニ  私たちに脅えるだけの時間をくれるためよ。
ヨハンナ  で、造船所では?
レーニ  社長ともなれば、顔を出すのは最後だわ。
ヨハンナ  (呆れて)何ですって? 誰がそんなことを言うの? (笑う)誰も、そんなこと信じなくてよ。
レーニ  老ヒンデンブルクは生涯の五十年間それを信じてきたの。
ヨハンナ  それはそうでしょうけど、今は……
53名前なし:2009/09/14(月) 00:50:56 ID:5KTC1VZG
レーニ  今は、もう何も信じていないわ。(間)といっても、十分は遅れそうよ。原則はなくなっても、習慣は残るものね。
      可哀想なお父さんが、ビスマルクの癖を身につけた頃には、ご当人はまだ生きていたわ。
      (ウェルナーに)あなた、私たちが待たされたことを覚えていない? 
      (ヨハンナに)この人ったらガタガタ震えて、罰を受けるのは誰かってよく聞いたものよ。
ウェルナー  レーニ、お前は震えなかったって言うのかい?
レーニ  (素っ気無く、笑って)私が? 私は恐くて死にそうだったけど、今にきっとこの報いが来ると思っていたわ。
ヨハンナ  (皮肉に)その報いは来たの?
レーニ  (微笑を浮かべながら極めて非情に)その最中よ。
      (ウェルナーの方を振り向いて)ウェルナー、罰を受けるのは誰なの? 私たち二人のうち、どっちなの? すっかり若返ってしまったわ。
      (急に荒っぽくなって)犠牲になる人間が、自分たちの死刑執行人を尊敬するなら、そんな犠牲者は大嫌いよ。
ヨハンナ  ウェルナーは犠牲者じゃないわ。
レーニ  この人を見てごらんなさいな。
ヨハンナ  (鏡を指して)ご自分をごらんになるといいわ。
レーニ  (驚いて)私?
ヨハンナ  あなたはそれほど立派な人間じゃないわ。それなのに、よく喋るのね。
レーニ  あなたの気晴らしのためよ、ずっと前から、お父さんは恐くなくなっているわ。
      それに、今度は、お父さんが私たちに何を言おうとしているか、分かっているもの。
ウェルナー  僕には全然見当がつかないよ。
レーニ  全然ですって? えせ信心家、偽善者。あなたは、自分の気に入らないことは、何でもないことにしちゃうんだわ。
      (ヨハンナに)ヨハンナ、老ヒンデンブルクは今にも死にそうなのよ。あなた、知らなかったの?
ヨハンナ  ええ。
ウェルナー  嘘だ。(震え始める)嘘だというのに。
レーニ  震えるのはよして。(急に荒っぽく)死ぬのよ、そう、死ぬんだわ。犬みたいに。
      あなたは予言を受けたわね。ヨハンナにすっかり話したのがその証拠よ。
ヨハンナ  レーニ、あなた勘違いよ。
レーニ  そんな馬鹿な。兄さんはあなたに秘密なんかないわ。
54名前なし:2009/09/14(月) 00:51:54 ID:5KTC1VZG
ヨハンナ  というと、秘密にしていることがあるんだわ。
レーニ  誰が教えたの?
ヨハンナ  あなたよ。
レーニ  (呆然として)私が?
ヨハンナ  三週間前、診察の後で、お医者の一人があなたに会いに青いサロンに行ったわ。
レーニ  ヒルベルトのこと。そうだったわね。それがどうしたの?
ヨハンナ  廊下で私があなたに会ったのよ。ヒルベルトが帰ったところだったわ。
レーニ  それから?
ヨハンナ  それだけ。(間)あなたの顔はとても正直よ、レーニ。
レーニ  気がつかなかったわ。ありがとう。私はうきうきしていたかしら?
ヨハンナ  脅えているみたいだったわ。
レーニ  (大声で)そんなはずないわ。(気を落ち着ける)
ヨハンナ  (穏やかに)鏡でご自分の口を見ていらっしゃいな。恐怖がまだ残っていてよ。
レーニ  (ぶっきらぼうに)鏡なんか知ったことじゃないわ。
ウェルナー  (椅子の腕木を叩いて)いい加減にしてくれ! 
         (怒って二人の女を見やる)親父が死ななければならないのが本当なら、黙っているくらいの礼儀は心得るものだ。
         (レーニに)親父はどうしたの? (レーニは答えない)どうなのかって聞いているんだ。
レーニ  知っているくせに。
ウェルナー  知るものか。
レーニ  あなたは、私よりも二十分前に知ったわ。
ヨハンナ  レーニ、あなたはどうしてまた……
レーニ  青のサロンに行く前に、ヒルベルトは薔薇色のサロンを通ったわ。ヒルベルトは兄さんに会って洗いざらい話したのよ。
ヨハンナ  (呆れて)ウェルナー! (彼は答えずに、椅子にめり込んでいる)私……私には分からないわ。
レーニ  ヨハンナ、あなたはまだゲルラッハ家の人間を知らないのよ。
ヨハンナ  (ウェルナーを指して)三年前にハンブルクでそのうちの一人と知り合いになって、すぐ好きになったわ。
       その人は自由で、正直で、明るかったわ。あなた方は、彼をひどく変えてしまったのね。
レーニ  あなたのゲルラッハは、ハンブルクで言葉を恐がっていたの?
ヨハンナ  そんなことはなかったわ。
レーニ  それじゃ、ここにいる彼が本物よ。
55名前なし:2009/09/14(月) 00:53:10 ID:5KTC1VZG
ヨハンナ  (ウェルナーの方を向いて、情けなさそうに)嘘をついたのね。
ウェルナー  (早口で強く)もう何も言うな。(レーニを指して)あのニヤニヤした顔を見てごらん、何か用意しているのさ。
ヨハンナ  誰のためなの?
ウェルナー  親父のためだ。僕たちは指名された犠牲者だ。彼らの第一の目的は、僕たちを裂くことなのだ。
         何を考えるのもいいが、僕を非難するのはやめなさい。彼らの策謀に手を貸すことになるからね。
ヨハンナ  (優しく)あなたを非難することは何もなくてよ。
ウェルナー  (片意地に、ぼんやりして)それなら結構、結構だ。
ヨハンナ  あの人たちは、私たちをどうしようというの?
ウェルナー  心配することはない。向こうで言うさ。

(沈黙)

ヨハンナ  どうなの?
レーニ  誰が?
ヨハンナ  お父さんよ。
レーニ  喉頭癌なのよ。
ヨハンナ  命取りなの?
レーニ  大抵はね。(間)手間取るかもしれないわ。(優しく)あなた、お父さんが好きだったわね?
ヨハンナ  今でもそうよ。
レーニ  お父さんは、どんな女の人にももてたわ。(間)なんという最後なの。あれほど愛されたあの口が……
      (ヨハンナに分からないことに気付く)あなたはきっと知らないわね。だけど喉頭癌にはこういうとても具合の悪いことが……
ヨハンナ  (了解して)お黙りなさいな。
レーニ  ブラヴォー、これであなたも一人前のゲルラッハ家の人間よ。
56名前なし:2009/09/14(月) 00:54:18 ID:5KTC1VZG
(彼女は聖書を取りに行く。分厚く重い十六世紀のもので、それをやっと小さな円テーブルの上に運ぶ)


ヨハンナ  それは何?
レーニ  聖書よ。家族会議がある時は、テーブルに置くことになっているの。
      (ヨハンナ、驚いてレーニを見る。レーニは少し苛立って)ええ、そうなの、誓いを立てる時のためにね。
ヨハンナ  誓うことなんかないわ。
レーニ  分かるものですか?
ヨハンナ  (気を落ち着けるために笑って)あなた方は神も悪魔も信じていないわ。
レーニ  その通りよ。だけど私たちは教会にお参りして、聖書に誓うわ。
      あなたに言ったでしょ、この一家は生きる理由はなくしたけれど、その立派な習慣は守ってきたって。
      (時計を見る)三時十分、ウェルナー! さあ、立ってもいいわ。
57名前なし:2009/09/14(月) 01:18:01 ID:5KTC1VZG
第二景  同じ人物、父親


(その時、窓付きのドアから父親が入って来る。ウェルナーは、ドアが開く音を聞いて回れ右をする。
ヨハンナは立ち上がることをためらうが、結局は、しぶしぶ立ち上がる。
しかし、父親は元気のよい足取りで部屋を横切り、ヨハンナの両肩に手を置いて、彼女をまた座らせる)


父親  さあ、さあ、そのままで。
     (ヨハンナは再び腰を下ろす。彼は屈みこんで、彼女の手に接吻してから、かなり唐突に身を起こし、ウェルナーとレーニを見る)
     要するに、お前たちがわしから聞きたいことは何もないのだな? 結構。問題の本筋に入ろう。儀式ばらずにやろうじゃないか? 
     (短い沈黙)ところで、わしは助からないのだ。
     (ウェルナーが彼の腕を取る。父親はほとんど乱暴に腕を振り解く)儀式ばらずに、と言ったではないか。
     (傷つけられたウェルナーは顔を背け、また腰を下ろす。間。彼は三人を見る。少ししゃがれた声で)
     お前たちは、わしが死ぬものと思っている。その通りだ。
     (三人から目を離さず、自分で納得するためでもあるかのように)わしはじきに死ぬのだ。死ぬのだ。分かりきったことだ。
     (落ち着いて、ほとんど快活に)みんな、いいかね。自然はわしに対して、卑劣きわまる策を弄しているのだ。
     わしには、わしだけの値打ちしかありはしないが、この身体は、決して誰にも迷惑をかけなかった。
     六ヵ月後には、わしは死骸の厄介な所だけになって、いい点は一つもなくなっているだろう。
     (ウェルナーの動きに対して、笑って)お座り、わしは折り目正しく死んでいくよ。
レーニ  (乗り出して、丁重に)あなたが……
父親  わしが幾つかの細胞の無法な振る舞いを許しておくと思うか、海に鋼鉄を浮かべるこのわしが? 
     (短い沈黙)わしの仕事を整理するには、六ヶ月もかかりはしない。
ウェルナー  で、その六ヶ月が過ぎた後には?
父親  後に? 何があればいいと言うのだ。何もありはせんよ。
レーニ  何もないの?
父親  自然が修正されるのが最後で、産業の一部門の死がやってくる。
58名前なし:2009/09/14(月) 01:23:54 ID:5KTC1VZG
ウェルナー  (咽喉を詰まらせて)誰が修正するんです?
父親  お前だ、お前にその力があればな。
     (ウェルナー、飛び上がる。父親は笑う)さあ、わしが全部引き受けるよ。お前たちは葬式の心配だけすればよろしい。
     (沈黙)それでたくさんだ。(長い沈黙。ヨハンナに、愛想よく)もう少し辛抱しておくれ。
     (レーニとウェルナーに、口調を変えて)お前たちは順番に誓いなさい。
ヨハンナ  (不安になって)何て大げさなの。しかも、あなたは儀式ばったことを望まないと言っていらしたわ。
       何か誓わなければならないことがありまして?
父親  (好人物らしく)ほんのちょっとしたことだ。どちらにしろ、結婚してこの家に入った者は誓わなくてもよい。
     (皮肉とも真面目ともとれない厳粛さで息子の方を振り向き)ウェルナー、立ちなさい。なあ、お前は弁護士だったな。
     フランツが死んだ時、わしはお前の助けを求めた。お前は思い切りよく裁判所を離れてくれた。
     これは当然褒美を貰っていいことだ。お前はこの家の主人になり、会社の社長になれ。
     (ヨハンナに)ごらんの通り、何も心配することはないのだよ。わしはこの子を造船界の王者に仕立てるのさ。
     (ヨハンナは黙っている)賛成じゃないのかね?
ヨハンナ  私がお返事する筋合いではありませんわ。
父親  ウェルナー! (じりじりして)お前は断るのか?
ウェルナー  (暗く、困ったように)あなたの望み通りにしますよ。
父親  当たり前だ。(ウェルナーを見る)だが、実行するのは嫌なのだな?
ウェルナー  ええ。
父親  造船では一番大きな会社だぞ。こちらはお前にやるというのに、それが迷惑とくる。なぜだ?
ウェルナー  僕は……自分にそれだけの値打ちがないと思うんですよ。
父親  なるほど、そうかもしれんな。だが、わしにはそれをどうすることもできないのだ。お前は、わしのたった一人の男の相続人だぞ。
ウェルナー  フランツには、必要な資格が全部ありました。
父親  唯一つを除けばな。というのは、あれは死んでしまったからさ。
ウェルナー  考えてくださいよ。僕が立派な弁護士だったことをね、そして悪い社長になる決心は、そう簡単にはつかない。
59名前なし:2009/09/14(月) 01:25:11 ID:5KTC1VZG
父親  おそらく、お前はそれほど悪くないぞ。
ウェルナー  僕は人の目を見ると、命令できなくなるのです。
父親  なぜだ?
ウェルナー  相手が僕と対等に感じられるのです。
父親  目の上を見るのだ。(額に触れて)例えばここ。ここには骨しかないのだ。
ウェルナー  お父さんくらいの自信がなければ駄目でしょう。
父親  お前にはその自信がないのか?
ウェルナー  その自信をどこから引き出したらよいのですか? フランツは完全無欠に、お父さんのイメージ通りに作られたのですよ。
         僕があなたから、受身の服従しか教わらなかったとしたら、それは僕の手落ちでしょうか?
父親  同じことさ。
ウェルナー  何ですって? 何が同じことなのです?
父親  服従と命令だ。どちらにしろ、お前は自分が受けた命令を伝えるのだ。
ウェルナー  あなたが命令を受けているのですか?
父親  わしが命令されなくなったのは、つい最近のことだ。
ウェルナー  誰があなたに命令したのです?
父親  知らんね。おそらく、わしだろう。(微笑んで)やり方を教えよう。命令しようと思うなら、自分を他人扱いすることだ。
ウェルナー  僕は自分を誰とも思えないのです。
父親  わしが死ぬまで待つのだ。一週間もすれば、お前は自分をわしだと思うようになるさ。
ウェルナー  決定する。決定すること。全責任を負うこと。たった一人で。十万の人間の名で。しかも、あなたは生きることができたのだ。
父親  わしがもう何も決定しなくなってから、随分になる。わしは手紙の類に署名しているのだ。来年は、お前が署名するのさ。
ウェルナー  他に、何もしていないのですか?
父親  かれこれ十年前からな。
ウェルナー  なぜあなたが必要なのでしょう? 誰でも用は足りるでしょうに。
父親  誰でもいいのだ。
ウェルナー  たとえば、この僕でも?
父親  たとえばな。
60名前なし:2009/09/14(月) 01:27:09 ID:5KTC1VZG
ウェルナー  と、言っても、歯車がたくさんありますからね。全てが完全とはいきません。もし、その一つが軋み始めたら……
父親  調整役なら、ゲルバーがいる。あの注目すべき人間さ。それに、あの男は二十五年前からうちの会社にいるのだ。
ウェルナー  要するに、僕は幸運児だな。彼が命令するんですね。
父親  ゲルバーがか? 馬鹿な! あれはお前の雇い人だ。こちらの命令を伝達させるために、お前はあれに給料を支払うのだ。
ウェルナー  (間)ああ、お父さん。あなたは生涯に一度も僕を信用しませんでしたね。
         あなたはね、僕がたった一人の男の相続人だから、僕を会社の一番上に放り出しはするけど、まず初めに、僕を花瓶に変える算段をしたのですよ。
父親  (寂しく笑って)花瓶だと。では、わしは? わしは何だ? マストのてっぺんに引っかかっている帽子だ。
     (寂しそうに、優しく、まさしく老いぼれた様子で)ヨーロッパ最大の会社……それは完全な組織だ。そうだろう、完全な一つの組織……
ウェルナー  結構です。暇がたくさんあったら、僕の弁護記録を読み返しますよ。それから旅行するんです。
父親  いかん。
ウェルナー  (驚いて)それはぎりぎりいっぱいに遠慮したことなのですよ。
父親  (押し付けるように、素っ気無く)問題外だ。
     (ウェルナーとレーニを見る)今度は、わしの言うことを聞きなさい。遺産は不分割のままにしておく。
     相手が誰であろうと、お前たちの分け前を売ったり、譲ったりすることは、固く禁止する。
     この家は売ったり貸したりしてはならんぞ。お前たちは死ぬまでここで暮らすのだ。誓いなさい。(レーニに)はじめるのだ。
レーニ  (微笑んで)正直に言うわ。もう一度断っておくけど、私は誓いに縛られないことよ。
父親  (同じように頬をほころばせて)さあ、さあ、レーニ、わしはお前を信用しているよ。兄貴に手本を見せておやり。
レーニ  (聖書に近付き、手を差し伸べる)私は……(吹き出しそうになるのをこらえている)
      ええと、それから、駄目だわ、お父さん、ごめんなさい。でも、おかしくってしょうがないの。(ヨハンナにこっそりと)いつもこうなのよ。
61名前なし:2009/09/14(月) 01:28:21 ID:5KTC1VZG
父親  (人よく)笑うがいい。わしがお前に要求しているのは誓うことだけだ。
レーニ  (微笑んで)私は聖書にかけて、あなたの最後の意志に従うことを誓います。
      (父親は笑いながら見ている。ウェルナーに)家長、あなたの番だわ。

(ウェルナーはぼんやりしている)

父親  おい、ウェルナー?

(ウェルナーは急に顔を上げ、困ったような顔つきで父親を見る)

レーニ  (真剣に)ねえ、私たちを楽にしてよ。誓いなさいよ。そうすれば全部済むんだから。

(ウェルナーは聖書の方を向く)

ヨハンナ  (丁寧な落ち着いた声で)ちょっと待って。
       (父親は脅かすために、驚いたふりでヨハンナをじろりと見る。彼女はびくともしないで睨み返す)
       レーニの誓いは茶番劇でしたわ。みんな笑っていました。それなのに、ウェルナーの番になると、もう誰も笑いません。なぜですの?
レーニ  あなたの旦那様は何でも真面目にとるからよ。
ヨハンナ  お笑ぐさがまた一つ増えたわけね。(間)レーニ、あなたはこの人を狙っていたんだわ。
父親  (威厳を示して)ヨハンナ……
ヨハンナ  お父様、あなたも同じで、この人を狙っていらしたのです。
レーニ  それなら、あなたも私をうかがっていたことになるわ。
ヨハンナ  お父様、ざっくばらんにお話したいと思います。
父親  (面白がって)あなたとわしかね?
ヨハンナ  あなたと私です。
       (父親、微笑む。ヨハンナはやっとのことで聖書を持ち上げ、もっと離れた家具の上に移す)
       まず話をすること。それから、誓いたい人が誓うのです。
レーニ  ウェルナー、奥さんに弁護されっぱなしなの?
ウェルナー  僕は攻撃されているのかい?
62名前なし:2009/09/14(月) 02:24:50 ID:5KTC1VZG
ヨハンナ  (父親に)あなたが、私の生活をなぜ左右なさるのか、それを知りたいと思いますわ。
父親  (ウェルナーを指して)わしはこれの生活を握っている。これの生活はわしのものだからな。だが、わしはあなたの生活は手が出せない。
ヨハンナ  (微笑んで)私たちの生活は別々だと思っていらっしゃいますの? 
       とにかく、あなたは結婚したことがおありなのですよ。この人たちのお母様を愛していらっしゃいまして?
父親  適当にな。
ヨハンナ  (微笑んで)分かりますわ。お母様はそのために亡くなったのです。
       お父様、私たちは必要以上に愛し合っています。私たちに関わりのあることは、全て二人で決めてきました。
       (間)この人が強いられて誓うなら、そしてその誓いを守るためにこの家に閉じこもるなら、この人は私なしで、
       私に逆らって決めたことになります。あなたは、私たちを永遠に引き裂いておしまいになるのですよ。
父親  (微笑んで)この家がお気に召さんのだな?
ヨハンナ  少しもね。

(沈黙)

父親  何が不満なのだね?
ヨハンナ  私は、才能の他は何もないハンブルクの弁護士と結婚しました。
       それから三年、造船業者の妻になって、この要塞の孤独の中にいる自分を発見したのです。
父親  それほど惨めな運命かね?
ヨハンナ  私にはそうですわ。独立していればこそ、私はウェルナーを愛しました。でも、ご承知の通り、この人は独立をなくしましたわ。
父親  誰が独立を奪ったのだ?
ヨハンナ  あなたです。
父親  一年半前に、あなたたちは、ここに来て一緒に住むことを一緒に決めたのだ。
ヨハンナ  あなたが要求なさったのです。
父親  それが悪かったとしても、あなたは共犯者だよ。
ヨハンナ  私は、この人に、あなたと私のどちらかを選べとは言いたくありませんでした。
父親  あなたが間違ったのだ。
レーニ  (愛想よく)この人が選んだのは、あなただったのよ。
63名前なし:2009/09/14(月) 02:26:12 ID:5KTC1VZG
ヨハンナ  二つに一つの賭けですわ。この人が選ぶことを嫌がるには、初めから決まっている賭けだけれど。
父親  なぜだ?
ヨハンナ  この人はあなたを愛していますもの。(父親はむっつりして肩をすくめる)希望のない愛ってどんなものかご存知かしら?

(父親の表情が変わる。レーニがそれに気付く)

レーニ  (元気よく)で、ヨハンナ、あなたはそれを知っているの?
ヨハンナ  (冷たく)知らないわ。(間)ウェルナーが知っているわよ。

(ウェルナーが立ち上がった。彼は窓付きのドアの方に歩く)

父親  (ウェルナーに)どこに行くのだ。
ウェルナー  僕は引き取ります。その方が気楽でしょう。
ヨハンナ  ウェルナー! 私は二人のために戦っているのよ。
ウェルナー  僕らのために? (きわめて簡潔に)ゲルラッハ家では、女は黙っているものだ。

(出て行こうとする)

父親  (穏やかだが威圧的に)ウェルナー! (ウェルナーはぴたりと停止する)元の場所に戻りなさい。

(ウェルナーは、ゆっくり自分の席に戻り、一同に背を向け、会話の仲間入りを拒否するしるしに両手で頭を抱えて座る)

ウェルナー  ヨハンナと話してください。
父親  よろしい。ところで、どうだね?
ヨハンナ  (ウェルナーに不安の視線を向けて)この話は、改めてすることにしましょう。私、とても疲れていますの。
父親  それは駄目だ。あなたは始めたのだ。だからけりをつけなければいけない。
     (間。途方に暮れたヨハンナは、口を噤んでいるウェルナーを見る)
     わしが死んだ後、あなたはここに住むことに反対だと思わなければならないのか?
ヨハンナ  (ほとんど懇願するように)ウェルナー! 
       (ウェルナーは沈黙。急に態度を変えて)そうですわ、お父様、私が言いたいことはそれですの。
64名前なし:2009/09/14(月) 02:27:29 ID:5KTC1VZG
父親  どこに寝泊りするのかね?
ヨハンナ  昔の部屋に。
父親  あなた方はハンブルクに戻るのか?
ヨハンナ  また、あそこに帰りますわ。
レーニ  ウェルナーが望めばね。
ヨハンナ  望むわよ。
父親  それで、会社の方は? あれが社長になることを承知なさるか?
ヨハンナ  ええ。それであなたが喜んでくださって、ウェルナーに、ロボットたちを動かす趣味があるならば?
父親  (考え込んでいたかのように)ハンブルクに住むのか……
ヨハンナ  (希望を抱いて)他に何もお願いしませんわ。たった一つ、これだけは譲っていただけないかしら?
父親  (愛想よく、しかし断定的に)譲らない。
     (間)わしの息子は、わしがやっていたように、わしの親父や爺さんがやっていたように、
     ここで生き、ここで死ぬために、この家に住むのだ。
ヨハンナ  なぜですの?
父親  どうして住めないというのかね?
ヨハンナ  この建物には住人が必要ですの?
父親  そうだ。
ヨハンナ  (短く乱暴に)それなら家なんか潰れてしまえばいいわ。

(レーニが吹き出す)

レーニ  (品よく)私に火をつけてくれと仰るの? 子供の頃、火をつけるのはいつも私の夢だったわ。
父親  (周囲を見、乗り出して)可哀想な屋敷だ。これほど憎まれなければならないのだろうか……ウェルナーを怖気づかせるのかな?
ヨハンナ  ウェルナーと私をね。この家は何て醜悪なのでしょう。
レーニ  分かっているわよ。
ヨハンナ  私たちは四人ね。年の暮れには三人になるわ。その三人に、ごたごたした三十二の部屋が必要かしら? ウェルナーが造船所に行っている時なんか、私恐いわ。
父親  それがわしらと別れる理由か? そんなのは真面目な理由ではない。
ヨハンナ  ええ。
父親  他に理由があるな?
ヨハンナ  ええ。
父親  それを聞かせてもらおう。
65名前なし:2009/09/14(月) 02:28:47 ID:5KTC1VZG
ウェルナー  (大声で)ヨハンナ、言ってはいけない……
ヨハンナ  それなら、自分でお話なさいな。
ウェルナー  話してなんの役に立つのだ? 僕が親父の言いなりになることは承知しきっているくせに。
ヨハンナ  なぜなの?
ウェルナー  だって親父だもの。ああ、もうお終いにしよう。(立ち上がる)
ヨハンナ  (彼の目の前に立ちはだかって)駄目よ、ウェルナー、駄目よ。
父親  これの言う通りだ。切り上げにしよう。一家とは屋敷のことなのだ。
     あなたは家の人間になったのだから、わしはあなたにこの屋敷に住んでくれと頼むのだ。
ヨハンナ  (笑って)一家は安泰です。だから、あなたが私たちを犠牲にするのは一家のためではありませんわ。
父親  それでは一体誰のためだ?
ウェルナー  ヨハンナ!
ヨハンナ  あなたのご長男のためです。

(長い沈黙)

レーニ  (落ち着いて)フランツは四年近く前にアルゼンチンで死んだのよ。
      (ヨハンナは、レーニをせせら笑う)私たちは、五十六年に死亡証明書を受け取ったわ。
      アルトナの市役所にいらっしゃいな。見せてもらえるから。
ヨハンナ  死んだ? そうあってほしいけれど、その人がやっている生活をなんと言ったらいいのかしら? 
       死んだか生きているかは知らないけれど、確かなのは、その人がここに住んでいるということよ。
レーニ  嘘だわ。
ヨハンナ  (二階のドアに向かって仕草)あそこ。あのドアの向こうにいるのです。
レーニ  何て馬鹿なことを。誰がそんなことを言ったの?

(間。ウェルナーが静かに立ち上がる。話が兄のことになると、たちまち眼が開き、彼は自信を取り戻す)

ウェルナー  誰だと思う? 僕だよ。
レーニ  寝物語に?
ヨハンナ  それがどうして悪いの?
レーニ  ふっ、そうだわね。
66名前なし:2009/09/14(月) 02:30:50 ID:5KTC1VZG
ウェルナー  ヨハンナは僕の妻だ。僕が知っていることを知る権利があるのだ。
レーニ  愛の権利なの? つまらない人たちね。あたしなら、愛する男に身体も心も与えるけれど、必要ならば一生嘘をつき通すわ。
ウェルナー  (荒っぽく)知ったかぶりのこの女が何を言うか聞いてやれ。誰に嘘を吐くんだ? オウムにか?
父親  (横柄に)三人とも黙りなさい。(レーニの髪を撫でる)骨は硬いが髪は柔らかいな。
     (彼女は急に身を振りほどく。父親は手を伸ばしたまま)
     フランツは十三年前から二階に住んでいる。あれは部屋を出ず、あれの世話をするレーニの他は、誰も会っていないのだ。
ウェルナー  それから、あなたを別にしてね。
父親  わしは別だと? 誰がそう言った? レーニか? で、お前はそれを信じたのか? 
     傷つけあう段になると、お前たち兄妹はよく通じ合うのだな。(間)あれには十三年この方会っていないのだ。
ウェルナー  (呆然として)でも、なぜです?
父親  (きわめて自然に)あれがわしに会いたがらないからさ。
ウェルナー  (分からなくなって)なるほど。(間)なるほどね。

(自分の席に戻る)

父親  (ヨハンナに)あなたにお礼を言うよ。いいかな。我が家には、真実に対する偏見は少しもないのだ。
     だができることなら、そのつど、真実が赤の他人から言われるように仕組んでいるのだ。
     (間)要するにフランツは、二階で暮らしている。一人ぼっちで病気なのだ。それで何が変わるのかね?
67名前なし:2009/09/14(月) 23:49:27 ID:5BixUaBu
ヨハンナ  ほとんど何もかもね。(間)お父様、お喜びなさいな。
       お嫁に来て親類になった女が、よその女が、あなたに代わって真実をお話します。
       私が知っているのはこういうことです。四十六年にスキャンダルが持ち上がりました。
       夫はまだフランスで捕虜になっていましたから、そのスキャンダルが何だったのか分かりません。
       捜索事件があったようですわ。フランツが姿を消して、あなたはアルゼンチンにいると言いましたが、実は、フランツはここに隠れています。
       五十六年にゲルバーは南アメリカに大急ぎの旅行をして、死亡証明書を取ってきました。
       それから暫くすると、あなたはウェルナーに職業を捨ててくるようにと命令して、
       未来の後継者の資格で、ここに住まわせました。間違っています?
父親  いや、先を続けなさい。
ヨハンナ  もう何も言うことはありませんわ。フランツがどんな男か、何をしたか、どうなったか、私は知りません。
       唯一つだけ、私が間違いないと思っているのは、こういうことです。
       私たちがもしここに残ったら、それは奴隷としてフランツに仕えるためだということ。
レーニ  (乱暴に)そんなのは嘘よ。兄は私だけで満足なのよ。
ヨハンナ  とてもそうとは思えないわ。
レーニ  フランツは私にしか会いたがらないのよ。
ヨハンナ  それはそうかもしれないわ。だけど、お父様が遠くから見守っていらっしゃるし、いずれフランツを守らなければならないのは私たちなのよ。
       守るのでないとすれば、看視するのね。おそらく私たちは、牢屋番兼奴隷になるのだわ。
レーニ  (むっとして)私が兄の牢番だっていうの?
ヨハンナ  そんなこと知らないわ。あなた方が、あなた方父娘が、彼を閉じ込めたとしたら?

(沈黙。レーニはポケットから鍵を取り出す)
68名前なし:2009/09/14(月) 23:51:12 ID:5BixUaBu
レーニ  階段を上ってノックなさいな。もし開けてくれなければ、ここに鍵があるわ。
ヨハンナ  (鍵を受け取って)ありがとう。(ウェルナーを見る)ウェルナー! どうしたらいいの?
ウェルナー  君がしたいようにすればいい。どっちにしたって、子供だましだってことが分かるさ……

(ヨハンナはためらってから、ゆっくり階段を上る。ドアをノックする。一度、二度。
神経質な怒りが彼女をとらえる。滅茶苦茶にドアを叩く。階下の部屋の方に向き直り、降りようとする)

レーニ  (冷静に)鍵があるでしょ。
      (間、ヨハンナがためらう。彼女は恐れている。ウェルナーは不安になり苛々する。
      ヨハンナは落ち着きを取り戻し、鍵穴に鍵を差し込む。鍵は回るが、ドアを開けようとする彼女の試みは空しい)
      どうしたの?
ヨハンナ  内側に閂があるのよ。差してあるに違いないわ。

(彼女は降り始める)

レーニ  誰が差したの? 私?
ヨハンナ  きっと別の入り口があるはずだわ。
レーニ  そんなものがないことは知っているはずよ。この建物は、切り離されているのよ。
      もし誰かが閂を差したとすれば、フランツ以外の人ではありえないわ。
      (ヨハンナが階段の下まで来る)どう? あたしたちが、あの哀れな男を閉じ込めているっていうの?
ヨハンナ  人間を閉じ込める方法はいろいろあるわ。一番いいのは、自分で閉じこもるように工作してやることよ。
レーニ  どうやって?
ヨハンナ  騙すのよ。

(彼女はどぎまぎするレーニを見つめる)
69名前なし:2009/09/14(月) 23:52:36 ID:5BixUaBu
父親  (ウェルナーに、勢い込んで)お前はこういう事件の弁護をしたことがあるか?
ウェルナー  どんな事件です?
父親  幽閉だ。
ウェルナー  (咽喉を詰まらせて)一度あります。
父親  よし。仮に、ここで家宅捜索が行われたとする。検察庁は事件を取り上げるだろうな?
ウェルナー  (父親の罠に引っかかって)どうして家宅捜索なんてやるんです? 十三年間、家宅捜索は一度もありませんでしたよ。
父親  わしもそう思っていたよ。

(沈黙)

レーニ  (ヨハンナに)それに、あなたが前に言ったけれど、私は車を飛ばしすぎるのね? 
      今に立木にぶつかって死ぬかもしれないわ。そうしたら、フランツはどうなるでしょう?
ヨハンナ  正気なら、召使を呼ぶわよ。
レーニ  正気よ。だけど、召使は呼ばないでしょう。
      (間)みんな、臭い匂いで兄が死んだことを知ることになるわ。
      (間)ドアをこじ開けて、床板の上の、貝殻の真ん中に、あの人を見つけるのだわ。
ヨハンナ  どんな貝殻なの?
レーニ  兄は牡蠣が好きなのよ。
父親  (ヨハンナに、親しみを込めて)この娘の言うことを聞きなさい。
     もし、あれが死んだら、世紀のスキャンダルだ。(ヨハンナ、沈黙)世紀のスキャンダルだよ、ヨハンナ……
ヨハンナ  (冷酷に)あなたに何の関わりがありますの? あなたは土の中にいるでしょう。
父親  (微笑んで)わしか? そうだ。あなたは、そうではない。その四六年の事件に戻ろう。
     時効はあるのか? 返事をしてくれ。これはお前の商売だ。
ウェルナー  僕は、違反がどういう性質のものか知らないので。
父親  うまくいって、殴打傷害、まずくいけば殺人未遂だ。
ウェルナー  (咽喉を詰まらせて)時効はありません。
父親  そうすると、我々がどうなるか分かったな。殺人共謀、書類偽造とその書類の使用、そして監禁の罪だ。
ウェルナー  書類偽造? どんな書類です?
父親  (笑って)死亡証明書さ。あれはかなり高くついたよ。(間)弁護士君、お前の意見はどうだ? 重罪裁判所行きか?

(ウェルナー、沈黙)
70名前なし:2009/09/14(月) 23:54:33 ID:5BixUaBu
ヨハンナ  ウェルナー、ぺてんが仕組まれているのよ。みんながあなたよりも好きな気違いの召使になるか、
       それとも被告席に座るか、私たちが選ぶ番だわ。あなたはどちらを選ぶの? 
       私は決まっているわ。重罪裁判所よ。有期刑の方が無期懲役よりましだわ。(間)どう?

(ウェルナーは黙っている。彼女は落胆の身振りを示す)

父親  (熱っぽく)いいか、お前たち。わしはたまげたよ。脅迫だ。罠だ。そんなのはみんな空事だ。みんな無理押しさ。
     ウェルナー、お前には、兄貴に対する僅かな同情しかも頼まない。レーニだけではどうにもならないこともある。
     その他は、お前たちは、空気のように自由だ。そうすれば、万事うまく片がつく。フランツはそう長生きすまい。
     わしはそれが心配なのだ。ある晩、お前たちは、あれを庭に埋めるだろう。
     あれと一緒に本物のフォン・ゲルラッハの最後の一人がいなくなるのだ……
     (ウェルナーの身振り)つまり、最後の怪物がな。お前たち二人は、健全で正常だ。
     お前たちは正常な子供を持ち、その子供たちは好きな所に住むだろう。
     ヨハンナ、ウェルナーの息子たちのために残りなさい。息子たちが会社を継いでゆくだろう。この会社は、信じられないほどの勢力だ。
     だから、あなたには、息子たちから、その勢力を取り上げる権利はないのだ。
ウェルナー  (飛び上がって、目は険しく輝いて)何ですって? (みなが彼を見る)確か、ウェルナーの息子たちのために、と言いましたね? 
         (驚いた父親は、肯定の合図をする。ウェルナーは勝ち誇って)ヨハンナ、とうとう出たよ、出来損ないの陰謀がね。
         お父さん、ウェルナーとその息子たちは、あなたには関係がありません。関係なんかないんです。
         (ヨハンナが彼に近づく。間)僕の長男を見られるほど長生きなさっても、その子はあなたを嫌うでしょう。
         その子は僕の肉の肉だし、僕は生まれたその日に、僕の肉の中にあるあなたを嫌ったからです。
         (ヨハンナに)気の毒な親父だ。全くごちゃごちゃだよ。フランツの息子たちなら、この親父を崇拝しただろうがな。
71名前なし:2009/09/14(月) 23:57:13 ID:5BixUaBu
ヨハンナ  (傲然と)やめてちょうだい。あなたは、自分のお喋りに酔っているのよ。あなたがもし自分を惨めに思ったら、私たちの負けなのよ。
ウェルナー  とんでもない。僕は自由になるのだ。どうしろというんだ? この二人を追い出せとでも言うのか?
ヨハンナ  そうよ。
ウェルナー  (笑って)結構な話だ。
ヨハンナ  あの人たちに、嫌、と言っておやりなさい。大声を出さずに、笑わないで、ただあっさり、嫌、と。

(ウェルナーは父親とレーニの方を振り向く。二人は黙って見詰めている)

ウェルナー  二人が睨んでいるぞ。
ヨハンナ  どうしたの? (ウェルナーは肩をすくめ、また腰を下ろそうとする。酷くけだるそうに)ウェルナー!

(ウェルナーは、もうヨハンナを見ていない。長い沈黙)

父親  (目立たない程度に、意気揚々と)どうだね? 嫁さん。
ヨハンナ  この人は誓いませんでしたわ。
父親  きっと誓うさ。弱者は強者に使えるのだ。これは掟だ。
ヨハンナ  (傷つけられて)あなたのお考えでは、強いのは誰ですの? 
       乳飲み子より無力な二階にいる半気違い、それとも、あなたに捨てられて、自力で切り抜けてきた私の夫ですか?
父親  ウェルナーは弱く、フランツは強い。これは誰にもどうしようもないことだ。
ヨハンナ  強い人たちは、この世の中で何をするのです?
父親  概して何もしないね。
ヨハンナ  分かりますわ。
父親  強者というのは、生まれつき死と仲良く暮らしている人たちだ。彼らは他人の運命を握っているのだ。
ヨハンナ  フランツもそうなんですの?
父親  そうだとも。
72名前なし:2009/09/15(火) 00:29:05 ID:1VOshAg2
ヨハンナ  十三年もたって、フランツの何がお分かりなのかしら?
父親  わしらはここに四人いるが、フランツはそんなことは頭にも置かないで、四人の運命と化しているのだ。
ヨハンナ  それでは、あの人は何を考えていますの?
レーニ  (皮肉に、ぶっきらぼうに、しかし真面目に)蟹たちのことよ。
ヨハンナ  一日中?
レーニ  面白くて夢中になっているわ。
ヨハンナ  まあ、古風な考えね、そんなの。あなたのお道具みたいに年齢をとっているわ。ねえ。あなたはそんなものを信じませんわね。
父親  (微笑んで)あと六ヶ月の命だ。何を信じるにも短すぎるよ。(間)ウェルナーは信じているがね。
ウェルナー  お父さん、それは間違いだ。それはあなたの考えで、あなたが僕に吹き込んだものです。
         しかし、あなたはそれを人生の途中でなくしてしまったのだから、僕がそれから自由になったって迷惑にはなりませんよ。
         僕は他の人たちと同じ人間です。強くもなく、弱くもなく、ありきたりの人間です。僕は一生懸命生きようと思う。
         それに、フランツにまだ見分けがつくかどうか分からないけれど、間違いなく普通の人間だと思いますね。
         (フランツの写真をヨハンナに見せる)何か僕よりましな所があるか? (夢中になって)美男子でさえありゃしない。
レーニ  (皮肉に)そうよ、とても美男子どころではないわ。
ウェルナー  (依然として夢中だが、早くも弱気になり)もし、僕が兄貴に仕えるために生まれたとして、どうだろう? 
         反抗する奴隷だって世の中にはいるのだ。兄貴は僕の運命にはならないだろうよ。
レーニ  奥さんが運命になった方がいいのね?
ヨハンナ  あなた、私を強い人間の仲間に入れるの?
レーニ  そうよ。
ヨハンナ  何て不思議な考えでしょう。それは、なぜ?
73名前なし:2009/09/15(火) 00:30:18 ID:1VOshAg2
レーニ  あなたは女優だったわね? スターだったんじゃない?
ヨハンナ  まあね。それから、私は女優の仕事をしくじったわ。それで?
レーニ  それでって? あなたはウェルナーと結婚したのよ。あれ以来、あなたは何もしないで、死ぬことを考えているのよ。
ヨハンナ  ウェルナーに恥をかかせようというなら、それは無駄だわ。この人が私と会った時、私は芝居も映画も永久にやめたの。
       私は、もう無我夢中だったわ。この人は私を救ったことを自慢してもいいのよ。
レーニ  兄は絶対に自慢してはいないわ。
ヨハンナ  (ウェルナーに)あなたが話す番よ。

(沈黙、ウェルナーは答えない)

レーニ  あなたは随分兄のことを困らせるのね。この可哀想な人を。
      (間)ヨハンナ、あなたは、ご自分の失敗がなくても、この人を選んだかしら? お葬式と同じ結婚だってあるわよ。

(ヨハンナ、答えようとする。父親がさえぎる)

父親  レーニ! (彼女の頭を撫でる。彼女、怒って身を振りほどく)
     お前のは言いすぎだよ。手前勝手な言い方をさせてもらえれば、わしが死ぬというので、おまえは気が立っているのだ。
レーニ  (元気よく)その通りだわ、お父さん。お父さんが死んだら、フランツの世話が面倒になってよ。
父親  (笑い出して、ヨハンナに)レーニを悪く思わないでくれ。
     この娘はわしらが、あなたとフランツとわしとが、同類だと言いたいのだ。
     (間)ヨハンナ、わしはあなたが気に入ったよ。時々、あなたがわしのために泣いてくれているような気がした。
     全くあなただけなのだ。(ヨハンナに微笑みかける)
74名前なし:2009/09/15(火) 00:31:48 ID:1VOshAg2
ヨハンナ  (いきなり)あなたに、生きている人間の思いやりがあって、
       幸い私があなたのお気に召したなら、どうして私の目の前で、夫を侮辱することがおできになるでしょう? 
       (父親は答えず首を振る)あなたは死のこちら側にいらっしゃるの?
父親  こちら側も、向こう側も、もう区別がない。六ヶ月だ。わしはもう先のない老人だ。
     (空を見詰め)会社は休みなく大きくなり、個人投資では足りなくなって、国が介入しなければならなくなる。
     フランツも、十年も、二十年も、あのまま二階にいるだろう。苦しむことだろうよ……
レーニ  (きっぱりと)あの人は苦しんでいないわ。
父親  (耳をかさずに)今となっては、わしの死は、わしがもぬけの殻になっても、なお続いていくわしの生命なのだ。
     (沈黙。彼は腰を下ろし椅子に埋まり、目を据えて)あれも白髪になるだろう……囚人みたいにぶよぶよ太って……
レーニ  (乱暴に)黙りなさい!
父親  (耳をかさずに)やりきれたものではない。

(苦しんでいる様子)

ウェルナー  (ゆっくり)僕らがここに残ったら、もっと気楽になれますか?
ヨハンナ  (口早に)用心してよ!
ウェルナー  何にだ? これは僕の親父だぜ。僕は親父に苦しんでほしくないのだ。
ヨハンナ  他の人のために苦しんでいるのよ。
ウェルナー  仕方ないさ。

(彼は聖書を取りに行き、前にレーニがそれを置いたテーブルの前に持って来る)
75名前なし:2009/09/15(火) 00:33:13 ID:1VOshAg2
ヨハンナ  (態度を変えず)お父様はあなたにお芝居をやっているのよ。
ウェルナー  (意地悪く、含みの多い口調で)で、君はどうなんだ? 僕を相手に芝居をしていないと言うのか? 
         (父親に)返事をしてくださいよ……もっと気楽になれますか?
父親  分からんね。
ウェルナー  (父親に)今に分かりますよ。

(間。父親もレーニも身動き一つしない。彼らは形勢をうかがい、待っている)

ヨハンナ  質問があるのよ。たった一つだけ。そうしたら、あなたは自分のいいようにすればいいわ。

(ウェルナーは、陰気で不満そうな表情で彼女を見る)

父親  ウェルナー、少し待て。(ウェルナーは同意ともとればとれるような呟きを残して聖書から離れる)どんな質問だね?
ヨハンナ  フランツはなぜ閉じこもったんですの?
父親  その質問はいろいろな問題を一緒くたにしてしまうよ。
ヨハンナ  何が起こったのか、お話してください。
父親  (軽い皮肉)さて、と、戦争があったわけだ。
ヨハンナ  ええ、誰にとっても同じことですわ。他の人たちは隠れていますの?
父親  隠れている連中には、あなたも会えないよ。
ヨハンナ  それでは、あの人は戦ったのですね?
父親  最後までな。
ヨハンナ  どちらの戦線で?
父親  ロシアだ。
ヨハンナ  いつ帰って来たんですの?
父親  四六年の秋だった。
ヨハンナ  遅いんですのね。なぜですの?
父親  あれの連隊が全滅したのだ。フランツは、ポーランドと占領下のドイツを横切って、潜行しながら、歩いて帰ったのだよ。
     ある日、ベルが鳴った。(遠いかき消されたようなベルの音)それはあれだった。
76名前なし:2009/09/15(火) 00:35:40 ID:1VOshAg2
(フランツが舞台の奥の父親の背後に現れる。その部分は薄暗がり。彼は背広を着て、外見は若く、二十三、四歳。
ヨハンナ、ウェルナー、レーニは、このフラッシュバックとその次の場で、記憶の中から呼び戻されたこの人物を見ない。
ただこの人物を呼び戻した人々---最初の二つの回想の場では父親、三番目の場ではレーニと父親---が、
フランツに話さなければならない時に、彼の方を振り向く。回想場面を演じる人物の台詞と演技とは、
興奮した時でも、現在と過去とを区別する一種の後退、時間的な<隔離>を含まなければならない。
今のところ、誰もフランツを見ない。父親にさえも見えないのだ。
フランツは栓を抜いたシャンパーニュの瓶を右手に持っている。この瓶はやがて彼が飲む時になって、初めて認識される。
彼の側の、渦方の足がついた小テーブル上のシャンパーニュ用グラスは、小さな飾り物の陰に隠れている。
フランツは、いよいよ飲まなければならない時に、そのグラスを取り上げる)


ヨハンナ  彼はすぐに閉じこもったんですの?
父親  家に閉じこもったのは帰ってすぐ、部屋にはそれから一年後だ。
ヨハンナ  その一年間、あなたは毎日お会いになりまして?
父親  ほとんどな。
ヨハンナ  フランツは何をしていました?
父親  酒を飲んでいたよ。
ヨハンナ  そして、何と言っていましたの?
フランツ  (機械的な声で)おはよう。おやすみ。はい。いいえ。
ヨハンナ  それだけ?
父親  それだけだ。ただ一日は例外だった。まるで言葉の洪水さ。わしには何も分からなかったな。
     (苦笑)わしは書斎でラジオを聞いていた。
77名前なし:2009/09/15(火) 01:01:39 ID:1VOshAg2
(ラジオの雑音。コール・サインの反復。これら全ての音はぼやけている)

スピーカーの声  ニュースをお伝えいたします。ニュールンベルクでは、連合国裁判所が、ゲーリング元帥に判決を下しました……

(フランツがラジオのスイッチを切りに行く。彼は移動しなければならない時も薄暗がりの中にいる)

父親  (飛び上がって振り向く)何をする? (フランツは生気のない目で父親を見る)わしは判決を知りたいのだ。
フランツ  (舞台の一方の端からもう一方の端に向かって、陰気な声)息の根が止まるまで首を絞り上げるのです。
父親  お前に何が分かる? (フランツの沈黙、父親はヨハンナの方を向いて)あなたは、あの頃新聞を読まなかったかな?
ヨハンナ  ほとんど読んでいませんわ。私は十二歳でしたから。
父親  新聞は、一つ残らず連合軍の手に握られていた。
     「我々はドイツ人だ、だから罪がある、我々には罪がある、なぜなら我々はドイツ人だから」
     毎日、どのページもこんな調子だった。何という執念だろう。
     (フランツに)八千万の罪人とは、何と馬鹿げた話だ。罪人は、せいぜい酷くて三十人余りだ。
     その三十何人かを絞首刑にして、我々には権利回復を認めてもらいたいものだ。そうすれば悪夢も終わりになるさ。
     (高圧的に)もう一度ラジオを聞かせてくれ。
     (フランツは動かずに飲む。ぶっきらぼうに)飲みすぎるぞ。
     (フランツが非常に険しい目つきで睨むので、父親はあわてて黙る。沈黙、続いて父親は夢中になって知りたがり、言葉を続ける)
     一国民を絶望に追い込んで、何の得があるだろう? わしが、世界の侮りに値する何をしたというのだ? 
     だが、わしの意見ならもう知らないものはない。お前は、フランツ、最後まで戦ったお前はどうなのだ? 
     (フランツは下品に笑う)お前はナチか?
フランツ  滅相もない。
父親  それなら選びなさい。責任者どもを処罰させるか、彼らの過ちをドイツ全体に押しかぶせるか。
78名前なし:2009/09/15(火) 01:03:51 ID:1VOshAg2
フランツ  (身動き一つせずに、粗野で味気ない笑いを爆発させて)はっはっはっ。(間)同じことですよ。
父親  お前は気でも狂ったのか?
フランツ  国民を破滅させる方法が二つあります。一からげにして断罪するか、
       それとも、国民が一身を託した指導者たちを否認するように強制するかのどちらかです。酷いのは後の方だ。
父親  わしは誰も否認はしない。それにナチどもはわしの指導者ではない。わしは彼らに目をつぶったのだ。
フランツ  お父さんはナチを支持しましたよ。
父親  わしがどうすればよかったというのだ?
フランツ  別に。
父親  ゲーリングといえばな、わしはあいつの犠牲なのだ。造船所に行ってみるがいい。
     十二回の爆撃で、立っている工場は一つもない。これがゲーリング流の保護の仕方だ。
フランツ  (いきなり)僕はゲーリングだ。もし、連合国が彼を絞首刑にするなら、首を締められるのは僕だ。
父親  ゲーリングはお前を嫌っていたんだぞ。
フランツ  僕は服従しましたよ。
父親  そう。軍隊のお前の指揮官たちにな。
フランツ  彼らは誰に服従していたのです? (笑って)ヒトラーです。
       僕らは彼を憎み、他の連中は愛していましたが、どこに違いがあるのです? 
       お父さんは軍艦を、僕は死骸を彼に提供しました。僕らが彼を敬愛していたとしても、あれ以上何をしたでしょう?
父親  それでは、みんなが有罪なのか?
79名前なし:2009/09/15(火) 01:05:25 ID:1VOshAg2
フランツ  いえ、違うんですよ。誰も罪人ではないのです。戦勝国の裁判を承服するおべっか使いどもの他は。
      全く堂々たる戦勝国だ。彼らのことならよく分かっている。一九一八年には、変わり栄えのしない偽善の美徳を旗印にした、同じ連中だった。
      あれから、彼らは、我々をどうしただろう? 彼ら自身をどうしただろう? 黙って。
      歴史を背負うのは戦争に勝った者の役割です。彼らは歴史を担って、僕らにヒトラーをくれました。
      審判者だって? 彼らは一度も、略奪や、虐殺や、強姦をしなかっただろうか? 
      広島、長崎上空に原爆を投下したのは、ゲーリングだっただろうか? 
      僕らを裁くのは彼らだとしても、誰が彼らを裁くのだ? 
      彼らは、こっそり準備している犯罪を、ドイツ国民の組織的な絶滅を正当化するために、僕らの罪をとやかく言うのです。
      (グラスを壁に叩きつけて割る)敵の前では、すべての人間が無罪なのです。
      全ての人が、あなた方も、僕も、ゲーリングも、他の人たちも。
父親  (叫ぶ)フランツ! (照明が弱まり、フランツの周囲で消える。彼は姿を消す)フランツ! 
     (短い沈黙。ゆっくりとヨハンナの方に向き直り、優しく笑う)わしにはあれの言うことが何も分からなかった。で、あなたには?
ヨハンナ  何も分かりませんでしたわ。それから?
父親  それでお終いだ。
ヨハンナ  だけど選ばなければなりませんでしたわ。全ての人間が無罪か、有罪か?
父親  あれは選ばなかったのだ。
ヨハンナ  (一瞬夢想に耽る。続いて)それでは無意味です。
父親  おそらく意味はあるよ……わしには分からない。
レーニ  (勢いよく)そう回りくどく考えない方がいいわよ、ヨハンナ。
      兄は歩兵隊に従軍していたから、ゲーリングだとか航空隊だとかのことは、それほど気にならなかったのよ。
      兄にとっては、有罪な人間と、無罪な人間があったのよ。だけど、それは同じことではなかったわ。
      (話そうとする父親に向かって)私は知っているわ。毎日会っているのですもの。
      罪のない人たちは二十歳で兵隊だったの。罪があるのは五十歳で、兵隊の親だった人たちよ。
80名前なし:2009/09/15(火) 01:07:00 ID:1VOshAg2
ヨハンナ  分かったわ。
父親  (くつろいだ人の好さは失ってしまった。彼がフランツのことを語る時、声が熱っぽくなる)
     あなたには何も分かってないよ。これは嘘を吐いているのだ。
レーニ  お父さん、フランツがお父さんを嫌っていることはご存知なはずよ。
父親  (強く、ヨハンナに)フランツは誰よりもわしを愛したのだ。
レーニ  戦争の前にはね。
父親  前でも後でも。
レーニ  それならば、なぜ「私を愛した」と仰ったの?
父親  (詰まって)なあ、レーニ……我々は過去の話をしていたのだ。
レーニ  訂正はご免だわ。お父さんは遂に本音を吐いたのよ。(間)兄は十八歳で志願したわ。
      お父さんがわけを話してくれれば、この家の歴史がもっとよく分かってよ。
父親  レーニ、自分でそのわけを言いなさい。その愉しみをお前から取り上げはしないよ。
ウェルナー  (冷静になろうとつとめて)レーニ、言っておくがね。
         一言でも、お父さんの名誉に相応しくないことを喋ったら、僕はすぐにこの部屋を出て行くぜ。
レーニ  あたしを信じるのがそんなに恐いの?
ウェルナー  僕のいる前でお父さんを中傷することは許せないのだ。
父親  (ウェルナーに)ウェルナー、落ち着け。これからわしが話すからな。
     戦争が始まった頃から、政府はうちの会社に発注していた。艦隊を作ったのは我々なのだ。
     四一年の春に、政府は、うちで使っていない、いくつかの地所を、
     買い上げたいという意向を示した。丘のうしろの草原だ。お前は知っているな。
レーニ  政府というのはヒムラーのことだわ。彼は強制収容所用の敷地を探していたのよ。

(重苦しい沈黙)
81名前なし:2009/09/15(火) 01:08:38 ID:1VOshAg2
ヨハンナ  あなたはそれをご存知でしたの?
父親  (平然と)ああ。
ヨハンナ  それで承諾なさったのですね?
父親  (同じ調子で)そうだ。(間)フランツは工事を発見した。わしは、あれが鉄条網の辺りをうろついているという報告を受けたのだ。
ヨハンナ  それから?
父親  何もないさ。沈黙だ。その沈黙を破ったのは、あれだった。一九四一年のある日のことだ。
     (フランツの方を振り向き、ウェルナーとヨハンナを相手に会話を続けながら、フランツを注意深く見詰める)
     わしには、じきに、あれがへまをやったことが分かったが、それで事態がいっそう悪化することはなかった。
     ゲッベルスとデーニッツ提督とは、ハンブルクにいて、新しい施設の見学をするはずだった。
フランツ  (若く、穏やかで、愛情はあるが不安な声で)お父さん、僕はお父さんと話をしたいんだ。
父親  (フランツを見つめて)お前はあそこに行ったのか?
フランツ  行きました。(恐怖の色を浮かべ、急に)お父さん、彼らはもう人間ではありません。
父親  看守どもか?
フランツ  抑留されている連中です。僕は自分に愛想がつきました。しかし、僕をぞっとさせるのは彼らなのです。
       あそこにあるものは、彼らの垢と、蛆虫と傷跡です。(間)彼らは、始終脅えている様子でしたよ。
父親  そういう風にさせられたのだ。
フランツ  僕は、ああはされませんよ。
父親  されないか?
フランツ  僕は打撃に耐えます。
父親  彼らは耐えていないと、誰が説明してくれるのかね?
フランツ  彼らの目です。
父親  お前がもし彼らの身になったら、お前だって同じような目つきになるだろう。
フランツ  なりませんよ。(物凄い自信を持って)なりませんとも。

(父親は注意深く彼を見つめる)
82名前なし:2009/09/15(火) 01:35:33 ID:1VOshAg2
父親  わしをごらん。(フランツの顎を持ち上げ、食い入るように彼の目を見る)その目つきはどこから来るのだ?
フランツ  何が?
父親  閉じ込められることへの恐怖だ。
フランツ  恐くなんかありませんよ。
父親  閉じ込められたいのか?
フランツ  僕が……とんでもない。
父親  分かったよ。(間)あの地所は売るべきではなかったと言うのだな?
フランツ  売ったとしても、それ以外にやりようがなかったからですね。
父親  わしはできたのだ。
フランツ  (唖然として)断われたんですか?
父親  その通りさ。(フランツの荒っぽい動き)で、どうしたというのだ。お前はもうわしを信用しないのか?
フランツ  (自制して、信じ切ったように)お父さんは、きっと説明してくれますね。
父親  何か説明の要ることがあるか? ヒムラーは、処理しなければならない捕虜を抱えていた。
     もし、わしが断わったら、彼は別の地所を買っただろう。
フランツ  他の人間からね。
父親  そうだとも。ちょっと西に寄ろうが、東に寄ろうが、同じ捕虜が、
     同じような収容所幹部の下で苦しむことだろうし、わしは政府の内部に敵を作っただろう。
フランツ  (執拗に)あなたはこの問題に関係するべきではありませんでした。
父親  それは一体、なぜだ?
フランツ  あなたは、あなただからです。
父親  青臭い清教徒め、手を清めるという偽善的な喜びをお前に与えてやるためにもな。
フランツ  お父さん、あなたは恐ろしい人間だ。あなたは他人の苦しみを十分に苦しまないのです。
父親  他人の苦しみをなくす手段が手に入ったら、わしは他人の苦しみを苦しむだろう。
フランツ  その手段は決して手に入りません。
父親  それならば、わしは他人の苦しみなど、苦しまないまでのことだ。そんなことは暇つぶしだ。お前は苦しむのか? さあ! 
     (間)フランツ、お前は隣人を愛していないのだ。愛していたら、お前はあの抑留者たちを軽蔑することなどできないだろう。
83名前なし:2009/09/15(火) 01:37:38 ID:1VOshAg2
フランツ  (傷つけられて)僕は抑留者を軽蔑してはいません。
父親  軽蔑しているさ。彼らは不潔でびくびくしているからな。(立ち上がってヨハンナの方に歩く)あれは、まだ人間の尊厳を信じていたのだ。
ヨハンナ  あの人が間違っていましたの?
父親  そのことかね? それについては、わしには何も分からない。
     せいぜいあなたに言えることは、ゲルラッハ家の人間はルターの犠牲だということだ。
     あの預言者は、わしらを逆上せ上がった気違いにしやがった。
     (ゆっくりと元の位置に戻り、ヨハンナにフランツを指し示す)
     フランツは自分自身を相手に議論しながら、丘の上を歩き回っていた。
     もし、あれの良心がうんと言ったら、あなたは、あれの意見を改めさせずに、
     あれを切り刻んでいただろう。わしもあの年頃には、あれにそっくりだった。
ヨハンナ  (皮肉に)あなたに良心がおありでしたの?
父親  ああ。遠慮から、わしは良心をなくしたのだ。良心などは王侯の贅沢だ。フランツは、自分にその贅沢を許すことができた。
     何もしない時には、全てに責任があると思い込むものさ。わしは仕事をしていたのだ。
     (フランツに)お前は、わしに何を言わせたいのだ? ヒトラーとヒムラーは有罪だ、とか? 
     さあ、言ってやるよ。(笑って)絶対に個人的なもので、全く役に立たない意見だぞ。
フランツ  それでは、僕らは無力なのですね?
父親  そうだ、もし我々が無力を選べばな。神の法廷で、人間を断罪することに手間取っているならば、
     お前は彼らのために、何もすることができない。(間)三月から、労働者は八万になった。発展だ、拡張だ。
     わしの造船所は一晩のうちに伸びていく。わしが持っている力は、一番素晴らしい。
フランツ  その通りです。あなたはナチに奉仕しているのですよ。
父親  彼らがわしに奉仕してくれるからさ。あの連中は玉座に登った賤民なのだ。だが、彼らは、市場を見つけてくれるために戦争をしている。
     だから、たかが地所の問題で、彼らとまずくなるようなことはしたくない。
フランツ  (強情に)あの問題には関係してはならなかったのです。
84名前なし:2009/09/15(火) 01:38:49 ID:1VOshAg2
父親  王子様だ、可愛い王子様だよ、お前は。世界をその肩に担おうというのだな。
     世界は重く、お前はそれを知らない。放っておけ。会社のことに一生懸命になれ。
     今日はわしの会社だが、明日はお前のものだ。わしの体、わしの血、わしの権威、わしの勢力、それはお前の未来なのだ。
     二十年後には、お前はありとあらゆる海に船を浮かべる主人になる、そして誰がヒトラーのことなど覚えているだろう? 
     (間)お前は抽象的な人間だよ。
フランツ  お父さんが思うほどではありませんよ。
父親  やれ、やれ。(彼を注意深く見つめる)お前、何をしたのだ? 悪いことか?
フランツ  (反り返って)違います。
父親  よいことか? (長い沈黙)じれったいな。(間)それで? 大変なことか?
フランツ  ええ。
父親  王子様、ご心配には及びません。わしがその片をつけさせていただきます。
フランツ  今度は駄目です。
父親  今度でも別の時でも、同じだ。(間)どうしたね? (間)こっちから聞いてほしいのか? 
     (考え込む)ナチに関係があるんだな? よし。収容所? よし。(ひらめいて)ポーランド人だな。
     (立ち上がってそわそわと歩く。ヨハンナに)それはポーランドのユダヤ教牧師だった。
     前の晩に脱走した男で、収容所司令からわしらに通告があった人物だ。(フランツに)どこにいるのだ?
フランツ  僕の部屋です。

(間)
85名前なし:2009/09/15(火) 01:40:26 ID:1VOshAg2
父親  お前はその男をどこで見つけた?
フランツ  庭です。彼は隠れてさえもいませんでした。夢中で脱走しはしたものの、今では、心配しています。ナチが彼を捕まえたら?
父親  分かっている。(間)誰も彼を見ていなければ、この事件は片付いたようなものだ。
     トラックに乗せて、ハンブルクの方へ逃がしてやろう。(フランツは緊張したまま)見られたのか? よし。誰だ?
フランツ  フリッツです。
父親  (ヨハンナに、会話の調子で)そいつは、うちの運転手で、正真正銘のナチだったのだ。
フランツ  フリッツは、今朝、アルトナの修理工場へ行くといって、車で出かけました。
       まだ帰っていません。(すっかり得意になって)僕はそれほど抽象的でしょうか?
父親  (笑顔を見せて)ますます酷いぞ。(声を変えて)なぜ、あの男をお前の部屋に入れたのだ。
     わしの罪の償いをするつもりでか? (沈黙)答えなさい。わしのためにやったのだよ。
フランツ  僕らのためです。あなたは僕なのです。
父親  うん。(間)もし、フリッツの奴がお前を密告したら……
フランツ  (相手の言葉を引き継いで)奴らがやって来るでしょう。知っていますよ。
父親  レーニの部屋に入って、閂を差すのだ。命令だ。わしが万事うまくやってやる。(フランツは、信じられないような様子で父を見る)何だ?
フランツ  捕虜は?
父親  わしは、万事と言ったではないか。捕虜はうちの屋根の下にいるのだ。さあ、行け。

(フランツ、姿を消す。父親はまた腰を下ろす)

ヨハンナ  ナチの連中はやって来ましたの?
父親  それから四十五分後に。

(奥に一人のナチ親衛隊員が現れる。その背後に黙ってじっと動かない二人の男)
86名前なし:2009/09/15(火) 01:42:37 ID:1VOshAg2
親衛隊員  ハイル・ヒトラー!
父親  (静まり返った中で)ハイル。あんた方は何者です。また、何のご用かな?
親衛隊員  ご子息が脱走した抑留者と同じ部屋にいて、その脱走者を昨日からかくまっていることを発見したのです。
父親  息子の部屋に? (ヨハンナに)感心な奴だ。あれはレーニの部屋に閉じこもろうとはしなかったよ。
     あらゆる危険を一身に背負ったのだ。で、それから?
親衛隊員  お分かりになりましたか?
父親  よく分かりました。息子は一つの重大な不始末をしでかしたのです。
親衛隊員  (呆然と、憤慨して)一つの何ですって? (間)こちらがお話しする時は起立して下さい。

(電話のベルが鳴る)

父親  (立ち上がらずに)立ちませんよ。

(受話器をはずし、相手が誰かさえも聞かずに、親衛隊員に差し出す。隊員が受話器をもぎ取る)

親衛隊員  (電話口で)もし、もし。え! (踵をカチッと合わせる)はい、はい、はい、そのようにいたします。
        (電話を聞き、唖然として父親を見る)かしこまりました。そういたします。

(また音を立てて踵を合わせ、受話器をかける)
87名前なし:2009/09/15(火) 02:15:38 ID:1VOshAg2
父親  (冷静に、笑顔を見せず)微罪だな。
親衛隊員  その通りであります。
父親  もし、息子の髪の毛一本でも触っていたら……
親衛隊員  向こうから我々に飛び掛ってきました。
父親  (驚いて、不安げに)息子が? (隊員、頷く)あんた方はあれを殴ったのか?
親衛隊員  いいえ、誓いますよ、取り鎮めたので……
父親  (考え込んで)あれがあんた方に飛び掛ったって? あれらしくないことだ。あんた方が挑発したに違いない。何をしたのだ? 
     (隊員、沈黙)捕虜をやったな! (立ち上がる)あれの目の前で? わしの息子の目の前でだな? 
     (怒ったふりをして、凄い剣幕で)あんたは命令逸脱をやったようだ。名前は?
親衛隊員  (哀れっぽく)ヘルマン・アルドリッヒ。
父親  ヘルマン・アルドリッヒ。わしは誓って言う。あんたは一九四一年六月二十三日を生涯忘れまいぞ。行きたまえ。

(親衛隊員姿を消す)
88名前なし:2009/09/15(火) 02:16:45 ID:1VOshAg2
ヨハンナ  その隊員は日付を思い出しまして?
父親  (微笑んで)おそらく。だが、彼の生命はあまり長くなかった。
ヨハンナ  で、フランツは?
父親  即時釈放だ。従軍するという条件付きでな。その冬、あれはロシア戦線で中尉だった。(間)どうしたのかね?
ヨハンナ  私、こんな話、好きじゃありませんわ。
父親  これが楽しい話だとは言わんよ。(間)四一年のことだもの。
ヨハンナ  (素っ気無く)それで?
父親  あれは生き延びなければならなかったのだ。
ヨハンナ  ポーランド人は生き延びませんでした。
父親  (素知らぬ顔)うん。それはわしの手落ちではない。
ヨハンナ  私、それが腑に落ちないのです。
ウェルナー  ヨハンナ!
ヨハンナ  あなたには四十五分の時間がありました。息子さんを救うために、どんなことをなさいましたの?
父親  あなたはよくご存知だ。
ヨハンナ  ゲッベルスがハンブルクにいたのです。あなたはゲッベルスに電話をかけました。
父親  そうだ。
ヨハンナ  あなたはゲッベルスに、一人の抑留者が脱走したことを伝え、息子さんには寛大な態度で臨むように頼みました。
父親  わしは捕虜の生命を助けてくれとも頼んだのだ。
ヨハンナ  当たり前のことですわ。(間)あなたがゲッベルスに電話なさった時……
父親  どうしたね?
ヨハンナ  あなたは運転手がフランツを密告したかどうか、ご存知ありませんでした。
父親  馬鹿な。あいつは、いつもこちらの様子をうかがっていた。
ヨハンナ  ええ。でも、何もなかったかもしれないし、全然別の動機で自動車に乗ったのかもしれませんわ。
父親  そうかもしれない。
ヨハンナ  もちろん、あなたは何もお聞きになりませんでしたね。
父親  誰に?
ヨハンナ  そのフリッツに。(父親、肩をすくめる)今、フリッツはどこにいるんですの?
父親  イタリアにいる、木の十字架の下にな。
89名前なし:2009/09/15(火) 02:19:10 ID:1VOshAg2
ヨハンナ  (間)分かりましたわ。さて、この話、私にはどうもはっきりしませんの。
       捕虜を売り渡したのがフリッツでないとすると、あなたに違いありません。
ウェルナー  (乱暴に)馬鹿を言うな……
父親  ウェルナー! そうがみがみ言うものではないよ。(ウェルナーは口を噤む)あなたの言う通りだ。
     (間)受話器をはずした時、わしは二人のうちのどちらかだと思った。

(間)

ヨハンナ  ユダヤ人を生かすか殺すかの分かれ目でしたのね。(間)それで、少しも睡眠の邪魔にはなりませんの?
父親  (平気で)決してならんね。
ウェルナー  (父親に)僕は無条件にあなたを肯定しますよ。あらゆる生命には、それぞれの価値があります。
         しかし選ばなければならないとすれば、まず息子だと思います。
ヨハンナ  (穏やかに)ウェルナー、あなたの考え方なんて問題じゃないわ。
       問題は、フランツにどういう考え方ができたかよ。あの人はどう考えたの、レーニ?
レーニ  (微笑んで)でも、あなたはゲルラッハ家の人間をよくご存知だわ。
ヨハンナ  あの人は黙っていたの?
レーニ  口をきかずに出て行って、一度も便りを寄越さなかったわ。

(間)

ヨハンナ  (父親に)あなたは仰ったのです。わしが万事うまくやるよ、とね。
       そして、あの人は、あなたを信用しました。それまでと同じように。
父親  わしは約束を守った。捕虜は処罰されないという確約をとりつけていたのだ。
     奴らが、息子の目の前で、捕虜を殺すことなどと考えられただろうか?
90名前なし:2009/09/15(火) 02:20:22 ID:1VOshAg2
ヨハンナ  お父様、四一年のことだったのですよ。四一年には、全てを想像することが用心深いことでした。
       (写真の側に行って眺める。間。ずっと肖像を見たままで)この人は清教徒の少年でした。
       自分の血であなたが売った地所の償いをしようと思う、ルターの犠牲者だったのです。
       (父親の方を振り向き)あなたは全てを抹殺したのですわ。
       お金持ちの男の子には、遊びはたった一つしか残されていませんでした。
       確かに死の危険がつきまとっています。だけど、相手の人間にとっては……彼は悟りました。
       自分が全然物の数に入らなかったので、全てを許されてきたことを。
父親  (はっと思いついてヨハンナを指しながら)この女こそ、あれの嫁にほしかった女だ。

(ウェルナーとレーニが、急に父親と向かい合う)

ウェルナー  (激っして)何ですって?
レーニ  お父さんって、趣味が悪いのね。
父親  (二人に)この女は初めから分かってくれた。(ヨハンナに)
     そうだね? わしは二年の懲役で折り合うべきだった。何とまずいことをしたものだろう。なんでも無罪よりはましだったのだ。

(間。父親は夢想する。ヨハンナは相変わらず肖像を眺めている。ウェルナーは立ち上がり、彼女の肩に手をかけて、自分の方を向かせる)

ヨハンナ  (冷たく)どうしたの?
ウェルナー  フランツに同情するな。あいつは失敗してもそのままで引っ込むような男じゃない。
ヨハンナ  それで?
ウェルナー  (肖像を指して)ごらんよ。十二も勲章をつけている。
ヨハンナ  十二失敗が増えたわけね。この人は死を追い掛け回したけれど、運がなかったのよ。死の方が、足が早かったんだわ。
       (父親に)早く切り上げましょう。この人は戦争をして、四六年に帰って来ました。
       それから一年後にスキャンダルが起こったのです。それは、一体、何でしたの?
父親  レーニのはねっ返りだよ。
レーニ  (つつましく)お父さんは人がよすぎるわ。私は機会を作ってあげたのよ。それだけだわ。
91名前なし:2009/09/15(火) 02:51:53 ID:1VOshAg2
父親  うちにアメリカ軍の将校たちを泊めていたのだ。レーニが彼らを燃え立たせた。
     そして、向こうがすっかり燃え立ってくると、彼らを汚れたユダヤ人扱いして「私はナチなのよ」と、耳元でささやくのだ。
レーニ  彼らの胸の火を消すためにね。面白いでしょう。どう?
ヨハンナ  とても面白いわ。その火は消えたの?
父親  そういうこともあった。そうでない時には、炎が爆発してしまったよ。何でも悪くとる男がいてな。
レーニ  アメリカ人は、同時に両方でないとすれば、ユダヤ人か反ユダヤなのよ。その男はユダヤ人じゃなかったわ。それが怒っちゃったのよ。
ヨハンナ  それで?
レーニ  その男ったらね。私を無理矢理やろうとしたの。フランツが助けに来て、二人は床に転がり、
      アメリカ人が上になったわ。私は瓶をつかんで、見事に一発食らわしてやったの。
ヨハンナ  で、男は死んだの?
父親  (落ち着き払って)まさか。その男の頭蓋骨が瓶を割ったのだ。(間)入院六週間だ。もちろん、フランツが全責任を負った。
ヨハンナ  瓶で殴ったことも?
父親  全部だ。(奥に二人のアメリカ人将校が現れる。父親は彼らの方を向く)粗相だよ。わしに言わしてくれ。いや、大変な粗相だ。
     (間)わしの名前でホプキンス将軍に礼を言ってくれたまえ。息子はヴィザがおりしだい、ドイツを離れると伝えてください。
ヨハンナ  アルゼンチンに向かって?
父親  (彼女の方に向き直る。その間にアメリカ人二人が消える)それが条件だったのだ。
ヨハンナ  分かりましたわ。
父親  (すっかり気が楽になって)アメリカ人は本当によかった。
ヨハンナ  四一年のゲッベルスみたいに?
父親  よかった、もっとずっとよかった。ワシントンは、うちの会社の再興を企てて、わしらに商船隊再建を任せる計画をしていた。
ヨハンナ  可哀想なフランツ。
92名前なし:2009/09/15(火) 02:53:08 ID:1VOshAg2
父親  わしに何ができたろう。大きな儲けが賭けられていたのだ。それは、たかが一人の大尉の頭蓋骨より重かったのだ。
     よしんば、わしが仲に入らなくても、占領軍はスキャンダルを揉み消しただろう。
ヨハンナ  いかにもありそうなことですわ。(間)フランツは出発を断りましたの?
父親  すぐにではない。(間)わしはヴィザを手に入れていた。あれは、ある土曜日に我々と別れるはずだった。
     金曜日の朝、レーニが、あれはもう二度と降りてこないと言いに来た。
     (間)最初、あれが死んだと思った。それから、わしは娘の目を見た。娘が勝ったのだ。
ヨハンナ  何に?
父親  娘は決してそれを言わなかった。
レーニ  (微笑んで)ねえ、あなた、私たちは、家では負けるが勝ちで争っているのよ。
ヨハンナ  それで?
父親  わしらは十三年間暮らしてきた。
ヨハンナ  (肖像の方を向いて)十三年。
ウェルナー  いや、立派な腕だ。僕は全部を見物人の立場で拝見していたのです。可哀想な女を、何とうまく操ったんでしょうね。
         最初、彼女は、耳をかすのもやっとだったが、最後には、臭いとも思わなくなっていた。さあ肖像が出来上がった。
         (笑って)「あなたは、あれにほしかった女性です」お父さん、ブラヴォー、正に天才だ。
ヨハンナ  止めなさいな。負けてしまうわよ。
ウェルナー  僕たちは負けたのだ。何が残っているんだい? 
        (彼女の肘の上をつかみ、自分の方に引き寄せて見つめる)君の眼はどこに行ったのだ?君は石像の目を、白い目をしている。
        (急に彼女を押しやって)あんなくだらないおべんちゃらで、君は騙されてしまった。がっかりさせるよ、君は。

(間、一同が彼を見る)
93名前なし:2009/09/15(火) 02:54:27 ID:1VOshAg2
ヨハンナ  いよいよ来たわ。
ウェルナー  何?
ヨハンナ  あなた、死刑だわ。
ウェルナー  何の死刑だ?
ヨハンナ  あなたの死刑よ。(間)この人たちが、私たちを負かしたのよ。
       この二人は、私にフランツの話をする時、遠回しな言葉であなたを刺すように、仕組んでいたのよ。
ウェルナー  二人が誘惑したのは、きっと僕なのだ。
ヨハンナ  この人たちは誰も誘惑しなかったわ。あなたに、私が誘惑されているのだと、思わせたかったのよ。
ウェルナー  なぜなんだろう。
ヨハンナ  何一つ、あなたの妻でさえも、あなたのものではないことを思い知らせるためよ。
       (父親はそっと手をこする。間。急に)私をここから引き抜いてちょうだい。
       (短い沈黙)お願いです。
       (ウェルナー笑う。彼女は酷薄に、冷静になる)これが最後のお願いよ、出発しましょう。これが最後よ。聞いているの?
ウェルナー  聞いているさ。もう僕に質問することはないのかい?
ヨハンナ  ないわ。
ウェルナー  じゃ、いいね? 僕はしたいことをする。(ヨハンナの合図、彼女はぐったりとしている)よし。
         (聖書に手をかざして)僕は父の最後の意志に従うことを誓います。
父親  お前、残るのか?
ウェルナー  (聖書の上に手を置いたまま)あなたが要求しているからです。この家は、僕がそこで生き、そこで死ぬための僕の家です。

(頭をたれる)

父親  (立ち上がって彼の方へ行く。感情的にウェルナーを持ち上げて)ありがとう。

(彼に微笑みかける。ウェルナーは一瞬顔をしかめるが、結局つつましい感謝の意を示して、父親に微笑み返す)
94名前なし:2009/09/15(火) 02:55:45 ID:1VOshAg2
ヨハンナ  (三人を見ながら)これが家族会議というものなのね。(間)ウェルナー、私は出発するわ。
       あなたと一緒でも一人でも。どっちか選びなさいな。
ウェルナー  (彼女を見ずに)一人だ。
ヨハンナ  そう。(短い沈黙)あとで私のことをくよくよ考えないでね。
レーニ  あなたを惜しいと思うのは私たちなのよ。とくにお父さんはね。いつ発つの?
ヨハンナ  まだ分からないわ。勝負に負けたことがはっきりしたら、その時に発つわ。
レーニ  あなた、まだはっきりしていないの?
ヨハンナ  (微笑んで)そうなの。まだはっきりしないのよ。
レーニ  (読めたと思って)警察がやってくれば、私たち三人は、不法監禁の容疑で捕まるでしょう。
      でも、その上に、私は殺人の容疑をかけられるわ。
ヨハンナ  (動じないで)私、警察に告げ口をするような顔をしていて? (父親に)失礼させてください。
父親  お休み。

(彼女、一礼して去る。ウェルナーが笑い出す)

ウェルナー  (笑って)ところで……ところで、と……
         (急に言葉を切って父親に近寄り、おずおずと腕に触れ、不安な表情をこめて彼を見つめる)満足ですか?
父親  (ぞっとして)触るな! (間)会議はお終いだ。女房の所へ行け!

(ウェルナーは一種の絶望の色を見せ、一瞬父親を見ると、回れ右をして去る)
95名前なし:2009/09/16(水) 00:03:25 ID:QtQn4XLV
第三景  父親、レーニ


レーニ  とにかく酷すぎたと思わない?
父親  ウェルナーにか? 必要ならば、わしは優しくなるさ。だが、何かを与えてくれるのは冷たさだ。
レーニ  どこまでも追い詰めてはいけないわ。
父親  馬鹿馬鹿しい。
レーニ  兄さんの奥には、いろいろ計画があるのよ。
父親  芝居もどきの脅かしだ。恨みが女優を復活させ、その女優が退場の場をやりたがったのさ。
レーニ  そうかもしれないわね……(間)じゃ、お父さん、今晩また。
      (父親が去るのを待つ。彼は動かない)お父さんに出ていただかなければならないのよ。
      もうフランツの時間だから。(強情に)今晩またね。
父親  (微笑んで)わしは行くよ。行くとも。(間。一瞬の弱気を見せ)あれは、わしの身に何が起こるか知っているかね?
レーニ  (驚いて)誰が? えっ、フランツ、知らないわ。
父親  やれやれ。(苦しい皮肉を交えて)お前があれの面倒を見ているんだろう?
レーニ  お兄さんの? あなたは汽車に飛び込むつもりかもしれませんもの……
      (何食わぬ顔)すっかり言ってしまえばね、私、あの人にその話をするのを忘れたのよ。
父親  げんまんだよ。
レーニ  (ハンカチーフを出して、玉を一つ結ぶ)ええ、げんまん。
父親  忘れないな。
レーニ  忘れないわ。だけどいい機会がなければね。
父親  機会があったら、わしに会えるかどうか、聞くようにしてくれ。
レーニ  (面倒臭そうに)まだ言ってるの。(冷たく、しかし怒らずに)お父さんには会わないわ。
      十三年前から分かっていることを、なんだって毎日繰り返させるの?
父親  (乱暴に)わしが何を知っているかね? 何を知っているというのだ? お前は息を吸うみたいに平気で嘘を吐く。
     お前が、わしの手紙や頼みごとをあれに伝えているかどうかも分からない。
     だから、時々、わしが十年前に死んでいると、あれに納得させたのではないかと思うのだ。
レーニ  (肩をすくめて)何を探ろうとしていらっしゃるの?
父親  真実、またはお前の嘘の筋を探しているのだ。
96名前なし:2009/09/16(水) 00:05:22 ID:QtQn4XLV
レーニ  (二階を指して)真実は二階にあるわ。登りなさいな。
      そうすれば、真実があそこで見つかるわ。登りなさいよ。登りなさいってば。
父親  (怒りは治まったが、恐れている様子)お前、どうかしているぞ。
レーニ  あの人に聞いてごらんなさい。何が真実か、はっきりするわ。
父親  (同じ調子)わしは知ってもいないのだ……
レーニ  合図のこと。(笑って)まあ、そんなはずないわよ。知っていたんだわ。
      お父さんが私の様子をうかがっている所を百回もつかんでいるのよ。
      私にはあなたの足音が聞こえたし、あなたの影を見て、何も言わなかったけど、吹き出しそうになるのを我慢していたんだわ。
      (父親は抗弁しようとする)私、間違っていたかしら? それではね、私のこの口から教えてあげてよ。
父親  (こもった声で、心ならずも)いらんよ。
レーニ  四つ、それから五つ、その後三つずつ二回ノックしなさいな。何があなたを引き止めているの?
父親  誰に会えるのだろう? (間。押し殺した声で)あれに追い立てられたら、わしには我慢できないよ。
レーニ  お父さんは、腕にフランツが飛び込むところを、私に邪魔されると思い込んだ方がいいのね。
父親  (辛そうに)レーニ、謝らなければならないよ。わしはよくへそ曲がりになるのだ。
     (彼女の頭を撫でる。彼女は苛立つ)お前の髪は柔らかいな。
     (考え込んでいるように、もっと頼りなく撫でる)お前はあれに影響を与えているんだな?
レーニ  (傲然と)もちろんよ。
父親  上手に始めて、じわじわとやってくれまいか……特に大事なことを、
     わしの最初の訪問はまた最後の訪問だということを、うんと強く言ってくれ。
     わしは一時間しかいないよ。もし、どうしてもあれが疲れるというなら、もっと短くていいのだ。
     とりわけ、わしは別に焦っていないことを、しっかり言ってくれ。(微笑んで)つまり、焦りすぎてはいないとな。
レーニ  たった一度のめぐり会い。
父親  たった一度だ。
レーニ  たった一度会うだけで、あなたは死んでいくのよ。会って何になるの?
父親  ただ会えばいいのだ。(彼女は横柄に笑う)そして別れの挨拶をするのだ。
97名前なし:2009/09/16(水) 00:07:08 ID:QtQn4XLV
レーニ  挨拶なしで行ってしまったとして、それで何が変わるでしょう?
父親  わしのか? 全てだ。もしあれに会えれば、わしは勘定をしめて、決済するよ。
レーニ  それほど手数をかけなければならないでしょうか? 決済なんて、ひとりでにできるわ。
父親  そう思うかね? (短い沈黙)わしが自分で線を引かなければならないのだ。
     (ほとんど臆病な笑いを浮かべて)要するに、わしはこの人生を生きたのだ。わしはそれが無になるのを、手をこまねいて見ていたくはない。
     (間。ほとんど気弱に)お前、あれに話してくれるか?
レーニ  (荒々しく)なぜ、私がそんなことをするの? 番を初めて十三年になるけれど、
      あと半年頑張ればいいという時に、私が警戒を緩めるでしょうか?
父親  お前はわしを警戒しているのか?
レーニ  あの人の破滅を望んでいる全ての人間をね。
父親  わしはフランツの破滅を望んでいるだろうか?
レーニ  ええ。
父親  (語気荒く)お前はどうかしたのか? 
     (彼は気を鎮める。説得したいという熱烈な願望を込めて、ほとんど懇願するように)
     聞いておくれ。あれに何が似つかわしいかということについては、わしらの意見は違うかもしれない。
     だが、わしはたった一度だけ会ってくれと言っているのだ。たとえしたくても、あれを傷つける暇など、どこに見つけられよう? 
     (彼女は醜く笑う)約束するよ……
レーニ  約束してなんてお願いしたかしら。賄賂はご免だわ。
父親  それでは釈明しよう。
レーニ  フォン・ゲルラッハ家の人間は、釈明なんかしないわ。
父親  お前、わしに愛情を持っているつもりかね?
レーニ  (同じ口調で同じ笑顔)少しは持っている、でしょう?
父親  (皮肉な、蔑むようなしかめ面)そうかね。
レーニ  私たち二人のうちで、相手が必要なのは誰?
父親  (優しく)レーニ、二人のうちで相手を恐がらせているのは誰かな?
レーニ  お父さんは恐くないわ。(笑って)変な脅し文句ね。
      (不信を顔に表して父親を見る)何が私を不死身にしているかご存知? 私は幸福なのよ。
父親  お前が? お前に幸福の何が分かるかね?
98名前なし:2009/09/16(水) 00:08:21 ID:QtQn4XLV
レーニ  で、あなたは、幸福の何をご存知なの?
父親  わしにはお前が分かるよ。もし、あれがお前にそういう目つきをさせるようにしたとすれば、こいつは一番手の込んだ責め苦だ。
レーニ  (取り乱し気味に)そうよ。一番手が込んでいる、一番手が込んでいるの。私はくるくる回っているの。
      もし止まったら、お終いだわ。これが幸福というものだわ。滅茶苦茶な幸福よ。
      (得意になって、意地悪く)私はフランツに会っているのよ。ほしいものはみんな私の手の中にあるわ。
      (父親、優しく笑う。レーニはぴたりと喋るのをやめ、じっと父親を見る)
      いいえ、あなたは決して脅したりしないわ。あなたは切り札を持っているらしいわね。いいわ。お見せなさいな。
父親  (好人物になって)今すぐにか?
レーニ  (きっとなって)今すぐによ。こちらが思いがけない時に出そうと、予備にとっておいてはいけないわ。
父親  (ずっと同じ調子)もし、見せたくなければ……
レーニ  無理にでも見せてもらうわ。
父親  どうやって?
レーニ  人情抜きで頑張るのよ。(やっとのことで聖書を拾い上げ、テーブルに載せる)誓って言うけれど、フランツはお父さんに会ってくれないわ。
      (手を広げて)お父さんがあの人に会えずに死ぬことを、この聖書にかけて誓ってよ。(間)この通り。(間)切り札を見せなさいな。
父親  (穏やかに)おや! お前は、笑い転げなかったな。
     (髪を撫でてやる)お前の髪を撫でていると、外側は絹張りだが、中身は煮えたぎっている地球を連想するよ。
     (静かに手をこする。毒気のない優しい微笑を浮かべて)じゃ、お先に。


(父親退場)
99名前なし:2009/09/16(水) 00:34:00 ID:QtQn4XLV
第四景  レーニ一人、続いてヨハンナ、その後から父親


(レーニは父親が出て行った舞台奥左手のドアをじっと凝視している。やがて我に返り、右手のフランス式窓の方へ行き、それを開ける。
外側についている鎧戸を閉めてからガラスをはめた内側の窓を閉める。部屋は薄明かりに沈んでいる。
彼女は二階に通じる階段をゆっくり登り、フランツの部屋をノックする。四つ、五つ、三つずつ二度。
二度続く三つのノックをする時に、右手のドア---舞台奥---が開かれ、音もなくヨハンナが現れる。
彼女は辺りをうかがう。閂を抜き、鉄の棒をはずす音が聞える。フランツの部屋を照らす電光を撒き散らしながら、二階のドアが開かれる。
しかし、彼は姿を見せない。レーニは中に入ってドアを閉める。閂を差し、鉄棒をはめる音。
ヨハンナは部屋の中に入り、小テーブルに近付き、記憶を呼び起こすために、二回続けて三つ叩く。
明らかに、彼女は五つと四つのノックを聞かなかったのだ。また、叩き始める。
その瞬間に、シャンデリアのあらゆる電球に灯がともり、彼女は出かかった叫び声を抑えて飛び上がる。
左手に父親が現れ、スイッチをひねったところである。ヨハンナは手と前腕で目を蔽う)
100名前なし:2009/09/16(水) 00:35:45 ID:QtQn4XLV
父親  誰だ? (彼女、手を下ろす)ヨハンナ! (彼女の方に進み)すまなかった。
     (部屋の中央にいて)警察の訊問では、容疑者に投光器の光を当てることになっている。
     あなたの目に、ありったけの光を当てたわしを、どう思うかね?
ヨハンナ  あなたは明かりを消すに違いないと思いますわ。
父親  (動かず)それから?
ヨハンナ  それから、あなたは警察の人間ではありませんが、警察みたいに私を訊問するつもりなんでしょう。
       (父親、微笑んで、困ったふりをして腰を下ろす。勢いよく)普段、あなたは決してこの部屋にお入りになりませんわ。
       私の様子をうかがっていなかったとしたら、ここで何をしていたんですの?
父親  でも、あなただって、ここには決して入らないよ。
     (彼は二つの薔薇色の電気スタンドの明かりをつけて、シャンデリアの電灯を消しに行く)
     これで、半現実の、薔薇色の光になった。気分はよくなったかね?
ヨハンナ  いいえ。ひきとらせてくださいな。
父親  わしの返事を聞いたら、ひきとらせてあげるよ。
ヨハンナ  私は何もお聞きしませんでしたわ。
父親  わしがここで何をしていたかと聞いたよ。だから、自慢にはならないが、それをどうしてもあなたに聞かせたいのだ。
     (短い沈黙)何年も前から、ほとんど毎日、レーニに不意をつかれる心配がないと安心できる時は、わしはこの椅子に座って待っているのだ。
ヨハンナ  (心ならずも興味を惹かれて)何を?
父親  フランツが部屋の中を歩き回り、この耳にあれの足音が聞こえるのをな。
     (間)二つの靴底が床に当たる音。これが、息子のものでわしに残された全てなのだ。
     (間)夜半にわしは起き上がる。みなが眠っている。わしにはフランツが目を覚ましていることが分かる。
     それも一緒にいる一つの方法さ。で、ヨハンナ、あなたは何をうかがっていた?
ヨハンナ  私は誰もうかがっていませんでしたわ。
101名前なし:2009/09/16(水) 00:37:08 ID:QtQn4XLV
父親  それでは、これは偶然だ、最大の偶然だ。しかも一番幸運な偶然だ。わしは、二人きりで話がしたいと思っていたのだ。
     (ヨハンナは苛々する。勢いよく)いや、いや、秘密などない、秘密などないよ。
     レーニ以外の人間にはな。約束するよ。全部ウェルナーに話していいのだ。
ヨハンナ  そうすると、一番簡単なのはあの人を呼ぶことですわ。
父親  二分だけ時間をおくれ。二分たてば、わしが自分であれを呼びに行く。あなたがそれでもなお言い張るならばな。

(最後の言葉にぎくっとなったヨハンナは、発言をやめ、父親をまともに見る)

ヨハンナ  結構ですわ。何をお望みなんですの?
父親  ゲルラッハの若夫婦の嫁さんと話すことさ。
ヨハンナ  ゲルラッハの若夫婦は粉みじんですわ。
父親  今何と言った?
ヨハンナ  何も変わったことは申しませんわ。若夫婦の仲をぶち壊したのはあなたですもの。
父親  (恐縮して)やれやれ、それはわしが不手際なためだ。
     (気をつかって)だが、わしは、あなたにはその綻びを繕う術があると受け取ったつもりだった。
     (彼女は急いで左手の舞台の奥へ行く)何をするのだね?
ヨハンナ  (シャンデリアの全ての電灯を灯して)訊問が始まるのですわ。
       (シャンデリアの下に戻って)私はどこに陣取るべきなのでしょうか? ここですか? 結構ですわ。
       さて、欠けるところのない真実と、完全な嘘との冷たい光に照らして、
       告白すべきものは何もないというそれだけの理由で、私は告白しないことを宣言します。
       私は孤独です、勢力もありません。そして、自分の無力を十分に自覚しています。
       私はじきに発ちます。ハンブルクでウェルナーを待ちますわ。あの人が帰ってこないとしても……

(がっかりした身振り)
102名前なし:2009/09/16(水) 00:38:34 ID:QtQn4XLV
父親  (重々しく)可哀想なヨハンナ、わしらはあなたを苦しめてばかりいたようだ。
     (声を変えて、急に打ち解けて陽気になり)しかし、何よりもまず美人になることだよ。
ヨハンナ  何と仰いましたの?
父親  (微笑んで)美人になることだ、と言ったのさ。
ヨハンナ  (侮辱に近いものを感じて、乱暴に)美人ですって!
父親  わけないことだ。
ヨハンナ  (同じ口調で)美人! お別れの日に、一番いい思い出をあなたに残して行きますわ。
父親  いや、あなたがフランツの部屋に行く日にだ。
     (ヨハンナはまだ唖然としている)二分たった。亭主を呼ばなければならないだろうか? 
     (彼女は否定の合図をする)よし、これはわしら二人の秘密だ。
ヨハンナ  ウェルナーは一部始終を知ることになるでしょう。
父親  いつだ?
ヨハンナ  二、三日後で。結構です。私はあなたのフランツに、あの一家の暴君に会いますわ。
       手先の聖人たちに訴えるよりは、神に直接話しかけた方がましですものね。
父親  (間)あなたが運を試そうというのは嬉しいよ。

(手をこすり始め、やがてポケットに突っ込む)

ヨハンナ  すみませんが、今のお言葉は信じられませんの。
父親  一体どういうわけで?
ヨハンナ  だって、私たちの利害は対立しているのですもの。私はフランツが正常な生活を取り戻してくれればと思いますわ。
父親  わしの願いも同じさ。
ヨハンナ  あなたが? あの人が、もし世間に顔を出せば、憲兵に捕まって、家名が汚れますわよ。
父親  (にっこりして)あなたには、わしの権力が想像できまいと思うな。
     息子は、ただ降りて来さえすればよろしいのだ。万事、わしが即座に片付けてやるよ。
ヨハンナ  また部屋にかけ上がって、永遠に閉じこもるのが一番いい方法です。

(沈黙。父親はうなだれて絨毯を見ている)
103名前なし:2009/09/16(水) 01:06:09 ID:QtQn4XLV
父親  (こもった声で)あれがあなたにドアを開けてくれる見込みは十分の一、
     あなたの言うことを聞くのは百分の一、返事をくれる見込みは千分の一だ。
     もし、あなたがこの千分の一の機会をものにしたら……
ヨハンナ  どうなんですの?
父親  あれに、わしが死にそうだと伝えることは承諾してもらえるか?
ヨハンナ  レーニはまだ?
父親  まだなのさ。

(彼は頭を上げた。ヨハンナは彼を見つめる)

ヨハンナ  そうだったのですね? (ずっと父親を見つめたままで)嘘はお吐きになりませんね? 
       (間)千分の一の機会。(震えるが、すぐ平静になる)あなたを迎える気があるかどうかも、聞いてみる必要があるでしょうか?
父親  (勢いよく、脅えて)いや、いや。知らせだけだ。老人が死にかかっている、と、それだけで、あとはいらない。説明は抜きだ。約束したよ。
ヨハンナ  (微笑んで)聖書にかけて誓いましたわ。
父親  ありがとう。
     (彼女は依然として父親を見つめている。彼女に行動の説明をするかのように、しかも自分だけに話しているようなこもった声で)
     わしはあれを助けてやりたいのだ。今日は何もしようとはなさるな。レーニが降りて来るのは遅かろう。あれはきっと疲れているよ。
ヨハンナ  明日は?
父親  いいな。昼過ぎに早く。
ヨハンナ  あなたに用がある時は、どこでお目にかかれますかしら?
父親  わしには会えないよ。(間)わしはライプチヒに出かけるのだ。(間)あなたがもし失敗しても……(身振り)二、三日で戻って来る。
     あなたが勝つか負けるかしたところにな。
ヨハンナ  (進退きわまって)私を一人で放っていらっしゃいますの? (平静になる)一人ではどうしていけないのかしら? 
       (間)では、お元気で、行ってらっしゃい。でも、私にはどうぞもう何も聞かないで。
父親  待ちなさい。(申し訳の微笑を浮かべて、しかし重々しく)
     あなたをじりじりさせたくはないが、くどいけれど、美人にならなければいけないよ。
ヨハンナ  まだそんなことを。
104名前なし:2009/09/16(水) 01:08:00 ID:QtQn4XLV
父親  フランツは、もう十三年も誰にも会っていないのだ。一人の人間にも。
ヨハンナ  (肩をすくめて)レーニの他にはね。
父親  レーニは、あれは人間ではない。だからわしは、息子があの娘に会っているのかしらと思うのだ。
     (間)あれがドアを開ける。すると何が起こるだろう? もし脅えたら? 永久に孤独の中に沈んで行ったら?
ヨハンナ  私がごてごてと顔に塗りたくっても、何が変わるでしょう?
父親  (優しく)あれは美しいものが好きだったのだよ。
ヨハンナ  あの実業家の息子さんは、美しいものがどうしなければならないというのです。
父親  明日話すだろう。
ヨハンナ  話すことなんて何もありませんわ。(間)私は美人ではありません。それは、はっきりしていますわね?
父親  あなたが美人でなかったら、誰が美人になるのだ?
ヨハンナ  誰も。変装した醜い女しかいないのですわ。私、もう変装はやめましたの。
父親  ウェルナーのためでもか?
ヨハンナ  ええ。ウェルナーのためでさえも。お気をつけになってね。
       (間)言葉の意味がお分かりになります? 私は……美人にさせられていたのですよ。一つには映画で。
       (間)申し訳ありませんけど、これは首だけのマネキンですの。触られると、頭が落ちるんですのよ。
父親  申し訳ないのはこちらの方だ。
ヨハンナ  いいにしましょう。あなたは、お分かりになりませんでしたわね。いや、多分ご存知だったのですね。どうでもいいことですわ。
       (間)私は綺麗だったと思います……男たちがやって来て、私を美人だと言い、私はそれを信じました。
       この世界で自分がやっていることを、私は知っていたでしょうか? 自分の生活を正当化しなければなりませんわ。
       困ったのは、彼ら男たちが勘違いしていたことです。(急に)船は? 正当化しますの?
父親  いや。しないね。
ヨハンナ  私はうすうす知っていましたわ。(間)フランツは、私をありのままに見るでしょう。
       この服やこの顔と一緒に。普通の男には、ありきたりの女が、いつでも結構いいものですわ。
105名前なし:2009/09/16(水) 01:08:55 ID:QtQn4XLV
(沈黙。彼らの頭上で、フランツが歩き始める。ゆっくりと間隔がばらばらだったり、
早くて律動的だったり、その場で足踏みをしたり、歩調は不規則。
まるで、「あれがフランツですの?」と問いかけるように、彼女は不安な面持ちで父親を見る)


父親  (その視線に答えて)そうだよ。
ヨハンナ  だから、一晩中じっとお待ちになっていらっしゃるのですね……
父親  (蒼ざめて、顔を歪め)そうだ。
ヨハンナ  私、勝負を投げますわ。
父親  あれは狂っていると思うかね?
ヨハンナ  放っておけないほど酷い気違いですわ。
父親  あれは気違い沙汰とは違うよ。
ヨハンナ  (肩をすくめて)あれは何ですの?
父親  不幸だ。
ヨハンナ  気違いより不幸な人があるでしょうか?
父親  あれだ。
ヨハンナ  (ぶつけるように)フランツの所には参りませんわ。
父親  行きなさい。明日、午後早くに。(間)あなたにも、わしにも、他に機会はないのだ。
ヨハンナ  (階段の方を向いてゆっくり)この階段を登って、あのドアをノックするのね……
       (間。足音がやんでいる)いいわ、美人になりましょう。身を守るために。

(父親は手をこすりながら、彼女に微笑みかける)


---幕---
106名前なし:2009/09/16(水) 23:53:32 ID:ABKBsA/u
第二幕


(フランツの部屋。左手の補強部分に階段の踊り場に面している一つのドア。ドアに閂と鉄の棒。
舞台奥の寝台の両側に二つのドア。一つは浴室に、一つは洗面所に通じている。
寝台は大きいが、マットレスも敷布もない。スプリングの上に一枚の毛布がたたんである。
右手の壁沿いにテーブルが一つ。椅子は一脚だけ。右手に壊れた家具や骨董類の異様な山積み。
このガラクタの山は、部屋の家具調度の残骸。奥の壁面(右側、寝台の上)に大きなヒトラーの肖像。
同じく右手に棚。棚には録音テープのリール。手書きで「邪魔するべからず」「恐れてはいけない」と書いた厚紙の板が壁にはってある。
テーブルの上には、牡蠣、シャンパーニュの瓶二、三本、グラス、定規など。腰板と天上にカビの生えた部分が点々)


第一景  フランツ、レーニ


(フランツはぼろぼろの軍服を着ている。ところどころ布の裂け目から肌がのぞく。
テーブルに着き、レーニに背を向け、客席に対して三分の構え。
卓上には二、三本のシャンパーニュの瓶と牡蠣。テーブルの下に録音機が隠してある。
レーニは客席の方を向き、白い前掛け姿で掃いている。フランツが喋る間、顔からあらゆる表情をなくしたレーニは、
立派な主婦然として、熱を入れすぎるでもなく、急ぐでもなく、静かに働いている。
だが、時折、フランツをちらりと見る。彼女がフランツの挙動をうかがい、演説の終了を待っていることが感じられる)
107名前なし:2009/09/16(水) 23:54:58 ID:ABKBsA/u
フランツ  天井の覆面の住人たちに告げる。天井の覆面の住人たちよ。君たちは欺かれているのだ。
       二十億の偽りの証人。同時に二十億の偽りの証言だ。人間の訴えを聞きたまえ。
       「我々は、自分の行為に裏切られた。言葉と愚劣な人生とに、してやられたのだ」
       十本足の諸君、私は証言する。彼らは口にすることを考えず、望んだことを実行していなかったのだ。
       我々は無罪を主張する。だが、たとえそれが署名つきのものであっても、自白に基いて罪を宣告するのは避けたまえ。
       昔はよく言われたものだ。「被告がやっと自白した。だから彼は無罪なのだ」と。親愛な諸君。
       私の世紀は古着の市だった。つまり人類の清算が、ボスどもの間で決められたのだ。
       まず手始めに、ドイツが骨までやられた。(グラスを満たす)真実を述べたのはたった一人、
       長い年月を重ねて、正統派の俗人である世紀の実地証人、打ち砕かれたティタヌス、つまり私がいるだけだ。
       人間は死んだ。そして私はその証人なのだ。重なる世紀よ、私は現世紀の味を語ろう。
       そうすれば、諸君は被告を無罪にするだろう。事実などはどうでもいいのだ。
       それは偽りの証人どもに任せる。彼らに誘因と主要な動機を分担させよう。現世紀にはあの味があった。
       我々の口の中はそれでいっぱいだった。(飲む)そして、我々はその味を落とすために酒をあふったのだ。
       (夢見るように)あれはおかしな味だった。何? 
       (一種の恐怖を感じて、突然椅子から立つ)それについては、またあとで述べる。
レーニ  (演説が終わったものと思って)フランツ、あなたに話があるのよ。
フランツ  (大声で)蟹の家では静かにしろ。
レーニ  (自然な声で)聞いてちょうだい。大事なことなのよ。
フランツ  (蟹に向かって)甲殻類が選定されたって? ブラヴォー! 裸よさらばだ。
       だが、なぜそんな目を後生大事に持っているのだ。それは世にも醜悪な人間の目だぞ。え? なぜだ? 
       (待つふり。録音機のストップのキーの音。フランツが飛び上がる。別のかさかさした嗄れ声で早口に)それは何だ?
108名前なし:2009/09/16(水) 23:56:53 ID:ABKBsA/u
(レーニの方を向き、不信を交えた厳しい態度で彼女を見つめる)

レーニ  (平気で)録音テープのリールよ。
      (身体を屈めて録音機に手をかけ、テーブルの上に乗せる)終わったけれど……
      (一つのボタンを押す、リールが反対方向に回転して、フランツの声が逆に聞こえる)さあ、私の話を聞いて。
      (フランツは椅子に身体を落とし、胸の辺りで片方の手を痙攣させる。
      彼女は口に出かかったことを言うのをやめる。彼の方を振り向き、彼が苦しそうに痙攣するのを見たからだ。無感動に)
      どうしたの?
フランツ  どうなったと思う?
レーニ  心臓なの?
フランツ  (苦しそうに)心臓は猛烈に打っているよ。
レーニ  演説家さん、何がほしいの? 新しいテープ?
フランツ  (急に落ち着いて)それだけは止めてくれ。
       (椅子から立って笑い出す)レーニ、僕はくたくただ。死ぬほどくたびれているんだ。それをはずしてくれ。
       (レーニはリールをはずそうとする)待て、僕は自分の声を聞いてみたい。
レーニ  最初から?
フランツ  どこからでもいいんだ。
       (レーニは録音機のスイッチを入れる。フランツの声が聞こえる。
       「真実の声を述べたのは、ただ一人……」
       一瞬、フランツは耳を傾け、顔をひきつらせる。再生される声をさえぎって)
       こんなことを言うつもりはなかった。だが誰が喋っているのだ? 真実なんかひとかけらもありはしない。
       (まだ耳を傾けている)この声にはもう我慢できない。声が死んでいるよ。
       えい、止めてくれ。止めろったら。お前は僕を気違いにしてしまう……
       (レーニは、格別急がず、録音機の回転を止め、テープを巻き戻す。リールに番号を書き入れ、
       棚の上の他のリールのそばに並べに行く。フランツは彼女を見守る。がっかりした様子)
       よし、全部やり直しだ。
レーニ  またなの。
フランツ  いや、先に進むのだ。いつか言葉が自然に湧いてきて、僕の言いたいことを言うさ。
       さて、と、休息だ。(間)そんなものがあると思うか?
109名前なし:2009/09/16(水) 23:57:59 ID:ABKBsA/u
レーニ  何が?
フランツ  休息さ。
レーニ  ないわ。
フランツ  思っていた通りだ。

(短い沈黙)

レーニ  私の話、聞いてくれる?
フランツ  うん。
レーニ  恐いのよ。
フランツ  (飛び上がって)恐いって? (心配そうにレーニを見つめる)確かに恐いと言ったな?
レーニ  ええ。
フランツ  (乱暴に)それなら、出て行け。

(テーブルの上の定規を取り、その先で厚紙板の一つを叩く。「恐れてはいけない」)

レーニ  いいわ。もう恐くないわ。(間)お願い。聞いてちょうだいよ。
フランツ  僕は聞かされてばかりいるんだ。お前のおかげで頭ががんがんするよ。(間)一体何事だ?
レーニ  何が準備されているか、正確には分からないけど……
フランツ  何が準備されているのかい? どこで? ワシントンで? モスクワで?
レーニ  あなたの足の下でよ。
フランツ  一階でか? (急にひらめいて)親父が死にそうなんだな。
レーニ  誰がお父さんのことなんか言って? お父さんはみんなのお葬式をしてくださるわ。
フランツ  結構な話だ。
レーニ  結構ですって?
フランツ  結構でも、仕方がなくっても、どちらでもいいのだ。ところで、問題は何だ?
レーニ  あなたが危ないのよ。
フランツ  (確信を持って)うん。僕が死んだあとだな、もし未来の世紀が僕の行方を失ったら、
       裂け目が僕を飲み込んでしまうよ。だが、レーニ、誰が人間を救うのだ?
レーニ  誰か気のある人がね。フランツ、昨日から、あなたの命が危ないのよ。
フランツ  (無頓着に)それなら、僕を守ってくれよ。お前の仕事だからな。
レーニ  いいわ。私に手伝ってくれるならね。
110名前なし:2009/09/16(水) 23:59:11 ID:ABKBsA/u
フランツ  そんな暇はない。(不機嫌に)僕が歴史の本を書いているというのに、お前ときたらくだらない話を持ち込んできては、邪魔をしているのだ。
レーニ  あなたが殺されても、それはくだらない話なの?
フランツ  そうだ。
レーニ  殺されるのが早すぎても?
フランツ  (眉を寄せて)早すぎるって? (間)誰が僕を殺そうというのだ?
レーニ  占領軍よ。
フランツ  分かったよ。(間)僕の声を潰して、でっち上げの記録で、三十世紀をたぶらかすつもりなのだ。(間)ここに誰か奴らの手先がいるのか?
レーニ  そうらしいわ。
フランツ  誰だ?
レーニ  まだ分からないわ。ウェルナーの奥さんらしいけど。
フランツ  せむし女か?
レーニ  ええ、そうよ。あの女ったら、そこらじゅう穿鑿しているの。
フランツ  猫いらずを飲ませてやれ。
レーニ  あの女は警戒しているわ。
フランツ  面倒臭いな。(不安げに)僕は十年かかるんだよ。
レーニ  私なら十分でいいわ。
フランツ  うるさい奴だな。

(奥の壁の所に行き、棚の録音テープにそっと指を触れる)

レーニ  これを盗まれたら?
フランツ  (ぱっとうしろに向き直って)何をさ?
レーニ  録音テープよ。
フランツ  お前、どうかしているよ。
レーニ  (ぶっきらぼうに)私がいない時に---いや、あたしを消してからあの人たちがやってきたら?
フランツ  何だって? 僕は開けないよ。(ふざけ半分に)奴らがお前を消したがっているのかい? お前もね?
レーニ  そうなのよ。私がいなかったらどうするの? (フランツは答えない)あなたは飢え死にするわ。
111名前なし:2009/09/17(木) 01:32:28 ID:nXajxIKZ
フランツ  飢える暇なんかあるものか。僕が死ぬ。それだけのことさ。僕は喋るのだ。死、それは僕の肉体の管轄だ。
       僕は死に気付きさえもしない。僕は喋り続けるのだ。(沈黙)お前が臨終の場にいなくてすむのが拾いものだ。
       奴らはドアをこじ開けて何を発見するだろう? 暗殺されたドイツの死体だ。僕は悔恨のような匂いがするだろう。
レーニ  あの人たちは、絶対にこじ開けたりしないわ。あの人たちはノックするの。あなたはまだ生きていて、ドアを開けるわ。
フランツ  (面白がってぽかんと口を開け)僕がね?
レーニ  あなたがよ。(間)あの人たちは合図を知っているわ。
フランツ  知ることなんか出来るものか。
レーニ  私をスパイし始めた時から、いいこと、あの人たちは合図に目星をつけているのよ。ねえ、お父さんはきっと知っていてよ。
フランツ  え? (沈黙)親父も一枚加わっているのか?
レーニ  分かるもんですか? (間)あなたはドアを開けてやるわ。
フランツ  それから?
レーニ  あの人たちは、テープを盗むわ。

(フランツはテーブルの引き出しを開け、軍用のピストルを取り出し、笑顔でレーニに見せる)

フランツ  で、これは?
レーニ  あの人たちは無理矢理テープを盗ったりはしないことよ。進呈することをあなたに納得させるわ。
      (フランツ、爆笑する)フランツ、お願いよ、合図を変えましょう。
      (フランツは、笑いを止め、陰険な怖気づいたような態度でレーニを見る)どうするの?
フランツ  変えないよ。(彼は行き当たりばったりに拒否の理由を案出する)全ては緊密な関係を持っている。
       歴史は一つの神聖な言葉だ。だから、お前が、もし句読点の一つでも変えたら、何も残らなくなるのだ。
レーニ  いいわ。歴史はそっとしておきましょう。録音テープはあの人たちに進呈しなさい。おまけに録音機もつけてね。

(フランツは録音テープの方へ行き、積み上げたリールを恐そうに眺める)
112名前なし:2009/09/17(木) 01:34:20 ID:nXajxIKZ
フランツ  (最初はどちらともつかず分裂の態で)テープを……テープを……
       (間。考え込んだ挙句、左腕をぱっと伸ばして、テープのリールを床に払い落とす)こうしてやるのだ。
       (まるでレーニに重要な秘密を打ち明けるように、一種の興奮状態で喋るが、実は刹那的に文句を考え出している)
       これは警戒手段に過ぎない。三十世紀がガラス板を発見しなかった場合のためだ。
レーニ  ガラス板って? これは、始めてね。あなたは一度もその話をしなかったわ。
フランツ  僕は全部を喋りはしないんだよ。(彼は第一景の父親のように、うれしそうに揉み手をする)
       一枚の黒い板ガラスを想像してごらん。エーテルよりももっと薄い超高感度のやつだ。
       息を吐けばそこに記録される。どんなかすかな息でもな。
       時代の始まりから、この指のぽきぽきいう音まで、歴史の全てがそのガラスに刻み込まれるのだ。(指をぽきぽき鳴らす)
レーニ  それはどこにあるの?
フランツ  ガラス板かい? どこにでもあるさ。ここにもあるよ。それは太陽光線の裏側なのだ。
       未来はそのガラス板を震動させる機械を発明する。そうすると全てが復活するのだ。どうだい? 
       (急に幻覚にとらわれる)我々のあらゆる行為が復活する。
       (乱暴で疲れたような調子に戻り)映画にそっくりだ。輪になった蟹たちは燃え上がるローマの市街や踊るネロ皇帝を眺める。
       (ヒトラーの写真に向かって)ちび親父、お前も見てもらえるぞ。お前は踊ったかな? お前も踊ったのだ。
       (録音テープを蹴散らす)火事だ! 火事だ! こんな物がなくたって、どうだというのだ? こんな物は持って行ってくれ。
       (不意に)四四年の十二月六日午後八時半に、お前は何をしていた? 
       (レーニ、肩をすくめる)お前には、もう分からないのか? 蟹たちはそれを知っているのだ。
       レーニ、彼らはお前の生活を展開してみせた。僕は恐るべき事実を発見したよ。僕らの家は監視されているのだ。
レーニ  私たちの家が?
113名前なし:2009/09/17(木) 01:35:49 ID:nXajxIKZ
フランツ  (客席に向かって)お前、僕、あの全ての死者たち、つまり人間がね。
       (笑う)しゃんとしていろ。お前は見られているのだぞ。
       (陰気に、自分自身に向かって)誰も孤独ではない。
       (レーニの干からびた笑い)レーニ、早く笑っておしまい。三十世紀には泥棒のように忍び寄ってくる。
       ハンドルが回り、夜が震動して、お前は彼らのど真ん中で飛び散るのだ。
レーニ  生きたままで?
フランツ  千年前から死んでいるのさ。
レーニ  (無関心に)馬鹿馬鹿しい。
フランツ  死んで復活したガラス瓶は、全てを、我々の考えまでも再現するだろう。え、何だって? 
       (間。真面目なのかふざけているのか分からないが、不安の面持で)もう既にそこまで来ていたら?
レーニ  どこによ?
フランツ  三十世紀にさ。この喜劇は始めて上演されるのだと、自身を持って言えるかい? 
       僕らは生きているのだろうか、それとも復元されたのだろうか? 
       (笑う)しゃんとしていろ。もし蟹が見ていたら、きっとみっともない奴らだと思うぞ。
レーニ  蟹のことで何が分かるの?
フランツ  蟹は蟹しか愛さない。当然すぎることだ。
レーニ  蟹が人間だったら?
フランツ  三十世紀にか? 人間が残っていたら博物館に保存しておくさ……彼らが人間の神経系統をとっておかないと思うか?
レーニ  で、それが蟹になるの?
フランツ  (非常にぶっきらぼうに)そうだ。(間)彼らは別の肉体を、つまり別の思想を持つだろう。
       どんな思想だ、え、どんな思想なんだ……お前には、僕の仕事の重要さと、格別の難しさが測れるかい? 
       面識のない裁判官たちを向こうに回して、僕はお前たちを弁護している。これではまるで盲人の仕事だ。
       お前が、この部屋で、被告に向かってある言葉を吐くとする。その言葉は世紀から世紀へと奔流のように落下して行く。
       それは天井ではどんな意味になるだろう? 彼らに黒だということを分からせるために、
       僕が白と言うことがあるのを知っているか? (いきなり、椅子に崩れる)ええ、忌々しい。
レーニ  まだ何かあって?
114名前なし:2009/09/17(木) 01:37:20 ID:nXajxIKZ
フランツ  ガラス板だ。
レーニ  え?
フランツ  もう、全てが筒抜けだ。終始警戒しなければならない。あのガラス板をどうしても発見しておかなければならなかったのだ。
       (乱暴に)説明し、正当化することだ。一刻もぐずぐずしてはいられない。
       男たちよ、女たちよ、追い詰められた死刑執行人どもよ、度し難い犠牲者たちよ、僕は君たちの殉教者なのだ。
レーニ  彼らに全てがお見通しなら、どうしてあなたの説明が要るの?
フランツ  (笑って)はっはっは。ところが、レーニ、彼らは蟹で、何も分からないのだ。
       (ハンカチーフで顔を拭き、それを見て、恨めしそうに卓上に投げる)塩臭い水だ。
レーニ  何だと思っていたの?
フランツ  (肩をすくめて)血の汗だ。僕は血の汗を手に入れたことがある。
       (また立ち上がる。勢いよく、明るさを装って)レーニ、僕の命令に従え。
       お前を中継に使うことにする。声のテストだ。強い声で、上手に発音するんだぞ。
       (非常に強く)民主主義十字軍は、我が家の壁の再建を許してくれない、と、裁判官たちに証言するんだ。
       (レーニは口を閉ざす)さあ、僕の言うことを聞けば、お前の話を聞こう。
レーニ  (天井に向かって)私は全てが崩壊するということを証言します。
フランツ  もっと強く。
レーニ  全ては崩壊します。
フランツ  ミュンヘンには何が残っているのか?
レーニ  一対の煉瓦です。
フランツ  ハンブルクは?
レーニ  無人地帯(ノーマンズランド)です。
フランツ  最後のドイツ人たちはどこにいる?
レーニ  穴倉の中です。
フランツ  (天井に向かって)さて、諸君、今の話は分かったかな? 
       十三年後だというのに、街路には草がかぶさり、機械はひるがおの下に埋もれている。
       (聞くようなふりをして)天罰だって? でたらめもいい加減にしたまえ。
       ヨーロッパでは他の追随を許さないというのが、主義であり、方針なのだ。会社では何が残っているのか?
レーニ  二つの造船台です。
115名前なし:2009/09/17(木) 01:38:29 ID:nXajxIKZ
フランツ  二つだって。戦争前には百はあったのにな。
       (手をこする。レーニに向かって自然な声で)今日はこれで十分。声は弱いが、大きくすれば何とかなるだろう。
       (間)さあ、お話し。どうした? (間)士気の面で、僕を攻撃しようというのか?
レーニ  そうよ。
フランツ  まずい策略だな。士気は鋼鉄の如しだ。
レーニ  可哀想なフランツ。その男はあなたを思うようにするわよ。
フランツ  誰が?
レーニ  占領軍の使者よ。
フランツ  はっはっは。
レーニ  男がドアをノックする。あなたが開ける。そして何と言うと思って?
フランツ  何とでも言え、だ。
レーニ  こうなのよ。お前は証人だと言っているが、被告なのだ、って。(短い沈黙)あなた、何と答えるの?
フランツ  出て行け。お前は買収されているんだ。僕の勇気を挫こうとしているのはお前だぞ。
レーニ  フランツ、何と答えるの? 何と答えるのよ? あなたがこの未来の法廷に平服して、
      相手にあらゆる権利を認めるようになってから、十二年になるわ。あなたを罰する権利を与えてなぜいけないの?
フランツ  (叫ぶ)僕は被告側の証人だからだ。
レーニ  誰があなたを選んだの?
フランツ  歴史だ。
レーニ  あらゆる男が歴史に指名されたと思い込んでいたら、歴史の方で呼んだのは隣の人間だったということがあったわね。
フランツ  僕には、そういうことはないさ。君たちはみんな無罪になるだろう。お前までもな。
       これは僕の復讐だ。僕は歴史をぎゅうという目にあわせてやるのだ。
       (おぼつかなく、言葉を止める)しーっ! 彼らが聞き耳を立てている。お前がせき立ててばかりいるものだから、終いにはぼうっとなってしまうよ。
       (天井に向かって)諸君、失敬。言葉が私の思想を裏切ったのだ。
レーニ  (乱暴に、また皮肉に)へえ、これが鋼鉄の意志を持った男ですって。(蔑むように)申し訳ばかりして、暇をつぶしているのよ。
116名前なし:2009/09/17(木) 23:24:17 ID:ungliYUu
フランツ  その目で確かめてほしいな。今夜は、蟹たちが歯軋りをするぞ。
レーニ  歯軋りするの? 蟹が?
フランツ  あの蟹はするんだよ。それは何ともいえない不愉快なものだ。(天井に向かって)諸君、訂正を書きとめておいてくれたまえ……
レーニ  (けたたましく)もうたくさん、たくさんよ。蟹を追い払ってよ。
フランツ  どうかしたのか?
レーニ  後生だから蟹の裁判を断ってちょうだい。これがあなたの玉にきずよ。
      君たちは僕たちの審判者じゃないといっておやりなさい。そうすればもう怖いものなんかなくなるわ。この世界にも、別の世界にも。
フランツ  (乱暴に)出て行け。

(二つの貝殻を握って、こすり合わせる)

レーニ  私はまだお片づけを終わっていないわ。
フランツ  よかろう。僕は三十世紀に上るよ。
       (椅子から立ち上がり、レーニに背を向けたまま、「邪魔するべからず」と書いた厚紙板を裏返す。
       裏には「明日午後まで不在」とある。再び腰をかけ、また貝殻をこすり始める)
       僕を見ているな。首筋が焼けるようだ。僕を見てはいけない。ここにいるなら仕事をしろ。
       (レーニ、動かない)眼を伏せてくれ。
レーニ  私に話をしてくれれば眼を伏せてあげるわ。
フランツ  お前は、僕を狂人にしてしまう。狂人に、狂人に。
レーニ  (明るさのない含み笑い)とてもなりたがっていたくせに。
フランツ  僕を見たいのか? 見るがいいさ。
       (立ち上がる。鵞鳥ステップ)一、二。一、二。
ヨハンナ  やめて。
フランツ  一、二。一、二。
レーニ  お願いだからやめてよ。
フランツ  どうした、べっぴんさん。兵隊が怖いのかい?
レーニ  あなたを軽蔑するのは恐ろしいことだわ。

(前掛けの紐を解き、寝台の上に投げ、出て行こうとする。フランツはぴたりと停止する)
117名前なし:2009/09/17(木) 23:25:14 ID:ungliYUu
フランツ  レーニ! (彼女は出口にいる。ちょっと途方に暮れた優しさを見せ)僕を独りぼっちにしないでくれ。
レーニ  (振り返る。熱っぽく)いてほしいというの?
フランツ  (同じ口調)レーニ、僕にはお前が必要なのだ。
レーニ  (驚いたような顔をしてフランツの所に戻る)あなた!

(彼女はフランツのそばにいる。おずおずと片手をあげ、フランツの顔を愛撫する)

フランツ  (ちょっとされるがままになってから、後ろに飛び下がって)離れて、少し離れて。特に興奮しないようにな。
レーニ  (薄笑い)清教徒ね。
フランツ  清教徒だって? (間)そう思うかい? 
       (レーニに近寄り、両肩と首を愛撫する。彼女は、どぎまぎして、されるがままになっている)清教徒は愛撫することが出来ないのさ。
       (彼はレーニの腕を愛撫する。レーニは震えて目を閉じる)僕は知っているのだ。
       (彼女はずるずると彼に身を寄せる。急に彼が身を引く)さあ、行くんだ。汚らわしい奴だ。
レーニ  (一歩後退。冷たい落ち着きをもって)そうとは決まっていないわ。
フランツ  いつだってそうだ。いつだってそうだよ。初めての時からそうだった。
レーニ  ひざまずきなさい。彼らに許してもらうのに、何をぐずぐずしているの?
フランツ  何を許してもらうのだ? 何もありはしなかったぞ。
レーニ  では、昨日は?
フランツ  何もなかった。何もなかったというのに。
レーニ  近親相姦を別にすれば、何もね。
フランツ  お前はいつでも大げさだ。
レーニ  あなたは、私の兄さんじゃないの?
フランツ  兄貴さ、兄貴だとも。
レーニ  あなた、私と一緒に寝なかったというの?
フランツ  ちょっとばかりね。
レーニ  たった一度しか一緒に寝なかったとして……あなたはそんなに言葉を恐がっているの?
118名前なし:2009/09/17(木) 23:26:38 ID:ungliYUu
フランツ  (肩をすくめて)言葉! (間)この売女の全ての苦悩に相応しい言葉を見つけなければならないとすればな。
       (笑う)僕があれをするというつもりなんだろう? お前がそこにいる。僕はお前を抱く。
       この地球上で、毎晩十億回も行われているように、人類が人類と寝るのさ。
       (天井に向かって)しかし、僕は、はっきり言いたい。ゲルラッハ家の長男フランツは、妹のレーニに一度も欲情を感じなかった、と。
レーニ  卑怯者! (天井に向かって)天井の覆面の住人たちよ。世紀の証人はにせの証人です。
      私こと、近親相姦の妹レーニは、フランツを恋ゆえに愛し、また彼が兄であればこそ恋しているのです。
      あなた方に、どんなに僅かでも家族の意識が戻っていたら、私たちをすげなく罰することでしょう。でも、私は、そんなこと平気よ。
      (フランツに)迷っている可哀想なあなた、天井の住人たちにはこういう風に話すものだわ。
      (蟹たちに)彼は愛しもしないで、私を欲しがっています。恥ずかしくて死にそうなんです。
      彼は暗闇の中で、私と一緒に寝るのです……そこで? 勝つのは私ですわ。
      私はこの人をものにしようと思いましたが、その望みを遂げたのです。
フランツ  (蟹たちに)妹は狂っている。(蟹たちに目くばせする)我々だけになった時に、そのわけを聞かせよう。
レーニ  そんなことをしてはいけないわ。私は死ぬのよ。既に死んでいるわ。私を弁護するのはお断りよ。
      私には審判者は一人しかいないの。それはこの私だわ。そして私は自分に無罪を言い渡すわ。被告側の証人さん、自分を相手に証言しなさい。
      「私は自分が望んだことをやった。だから私は自分がやったことを望む」と言い切れるようなら、あなたは不死身になるわ。
フランツ  (急に顔面蒼白となり、冷たく憎しみのこもった脅迫的な態度。酷薄な懐疑的な声で)レーニ、僕は何をしたというのだ?
レーニ  自分で自分を護らなかったら、死刑にされるわよ。
フランツ  レーニ、僕は何をしたんだ?
レーニ  (不安げに、譲って)ねえ、そのことはもう言ったでしょ。
119名前なし:2009/09/17(木) 23:27:31 ID:ungliYUu
フランツ  近親相姦のことか? いや、レーニ、お前が言おうとしたのは、そのことじゃない。(間)僕は何をしたんだ。

(長い沈黙。二人は睨み合う。レーニが先に目をそらす)

レーニ  いいわ。私の負け。今の話は忘れなさい。あなたが手伝ってくれなくても、守ってあげるわ。私は慣れっこですもの。
フランツ  出て行くんだ。(間)そっちがいうことをきかないなら、こっちは沈黙ストライキだ。いいか、僕は二月も頑張れるんだぞ。
レーニ  知っていてよ。(間)私には出来ないわ。(戸口まで行き、鉄棒をはずし、閂を抜く)今夜、晩御飯を持ってくるわね。
フランツ  無駄だよ。開けてやらないからな。
レーニ  それはあなたの仕事。私の仕事は食事を運ぶこと。
      (彼は答えない。退場しながら蟹たちに)あの人が開けてくれなかったら、お休みなさい。

(背後のドアを閉める)
120名前なし:2009/09/21(月) 01:18:10 ID:+YygIJwJ
第二景  フランツ一人


(後ろを振り返り、一瞬待ってから、鉄棒をおろし、閂を差しに行く。その間、彼の顔はずっと引きつっている。
人目を逃れていられると思う途端、気が緩む。彼は安心したような、ほとんど好人物然とした様子。
しかし、この瞬間から、彼の狂気は頂点に達したようだ。
彼はこの場面が終わるまで、蟹たちに話しかける。それは、目に見えない人物との対話である)


フランツ  怪しげな証人だ。僕の面前で、僕の指示に従い意見を述べるべきだ。
       (間。安心し、くたびれておとなしすぎる様子)何? 厄介な女? その点についてはそうだ。かなり厄介な女だ。だが、何という情熱だ。
       (あくびをする)あいつの主な役目は、私を眠らせないでおくことだ。
       (あくびをする)二十世紀が、真夜中になってから、もう二十年にもなる。
       夜半に目を開けているのは、あまり具合のいいものではない。いや、いや、ただの居眠りだ。一人でいると眠気にやられる。
       (眠気が激しくなる)レーニを帰すべきじゃなかったな。
       (よろめく。急に身体を起こし、テーブルまで、軍隊式歩調で歩く。貝殻をいくつかとって、怒鳴りながらヒトラーの肖像に投げつける)
       ジーク、ハイル。ジーク、ハイル、ジーク。
       (踵を鳴らして不動の姿勢をとる)総統、僕は一兵卒だ。もし眠りでもしたら、大変なことだ。部署放棄だからな。
       僕は断じて目を覚ましているよ。みんな、探照灯をよこしてくれ。できるだけ明るく、顔を、目の奥を照らせ。そうすれば眼が覚める。
       (彼は待つ)ろくでなしめ。(椅子の方に行く。力のない妥協的な声で)さて、ちょっと座るとするか……
       (腰をおろす。頭を軽く振り、目をぱちぱちさせる)バラだ。おお何て優しいのだろう。
       (あまり急に立ち上がるので椅子を倒す)バラ? もし花束を受け取ったら、謝肉祭の馬鹿騒ぎになるだろう。
       (蟹たちに)破廉恥な謝肉祭だ。僕のためにやるんだな。こちらには分かりすぎているぞ。
       君たちは僕を穴に追い込もうというのだ。それは大した誘惑だよ。
121名前なし:2009/09/21(月) 01:19:01 ID:+YygIJwJ
       (ナイト・テーブルの所に行き、管から錠剤を取り出して飲む)
       これはたまらん。おい諸君、僕の新しいコール・サインを書きとめてくれ。
       De Profundis Clamaviだ。D.P.C.みんなよく聞け、歯を鳴らせ、鳴らせ。君たちが聞いてくれなければ、僕は眠ることにする。
       (グラスにシャンパーニュを注いで飲む。残った半分を着ている軍服の上にかけ、脇腹にそって腕をたらす。グラスが指の先にぶら下がっている)
       この間にも、世紀は突っ走る……奴らは頭に綿を詰めやがったな。霧だ、真っ白だ。
       (目を瞬く)畑のはずれまでたなびいている……これが奴らを守っているのだ。奴らが這い出した。今夜は血が流れるぞ。


(遠くで銃声、ざわめき。疾駆する馬蹄の音。彼は眠りに落ちる。
ヘルマン曹長が手洗い場のドアを開けてフランツの方に進む。
フランツは客席に向かって目を閉じたまま。敬礼、不動の姿勢)
122名前なし:2009/09/21(月) 01:20:03 ID:+YygIJwJ
第三景  フランツ、ヘルマン曹長


フランツ  (目を開かずに、粘つくような声で)パルチザンか?
曹長  約二十名であります。
フランツ  死者は?
曹長  ありません。負傷者二名であります。
フランツ  味方に?
曹長  敵の方であります。その二人は納屋に放り込みました。
フランツ  俺の命令は承知だな。行け。

(曹長は思い切れないような、腹を立てたような格好でフランツを見る)

曹長  はい、中尉殿。

(敬礼、回れ右。手洗い場のドアから外に出て、ドアを閉める。沈黙。フランツの首が、がっくりする。恐ろしい呻き声を上げて目を覚ます)
123名前なし:2009/09/21(月) 01:21:14 ID:+YygIJwJ
第四景  フランツ一人


(彼は飛び上がって目を覚まし、途方に暮れた様子で客席を見る)


フランツ  いけない。ハインリッヒ。ハインリッヒ。いけないと言ったではないか。
       (やっと起き上がって、テーブルの上の定規をとって左手の指を叩く。何かを覚え込むように)確かにそうだとも。
       (定規で打つ)全ての責任は俺が負う。あの女は何と言っていたっけな。
       (自分のためにレーニの言葉を繰り返して)俺は自分のやりたいことをやり、俺がやることを望むのだ。
       (追い詰められて)三〇五九年五月二十日の審問、フランツ・フォン、ゲルラッハ中尉。
       俺の世紀をゴミ箱に捨てないでくれ。俺の言うことを聞きもしないで捨ててはいけない。
       裁判官諸君、悪は、悪はただ一つの原料だった。悪は我々の精製所で加工されたのだ。
       善は完成品だった。結論はこうだ。善が悪化したのだ。悪が好転したとは思わないでくれ。
       (柔和な笑いを見せ、首をかしげる)何? (叫ぶ)居眠りだって? まさか。垂れ流しなのさ。奴らは俺の脳を狙っているのだ。
       気をつけたまえ、審判官諸君、もし俺が垂れ流しになったら、二十世紀はアップアップだ。
       各時代の羊の群には、疥癬病みの子羊が一匹足りないのだ。
       蟹たちよ、もし二十世紀の精神が錯乱したら、四十世紀は何というだろう? 
       (間)助けはないのだな? 全くないのだな? 君たちの意思が行われるように。
       (舞台の前縁に戻り、座りに行く)ああ、決して妹の奴を帰してはならなかったのだ。
       (ドアをノックする音、その音を聞いて身を起こす。約束の合図である。歓喜の叫び)レーニ! 
       (ドアに駆け寄り、鉄棒をはずし、閂を引き抜く。しっかりした決然たる仕草。すっかり目を覚ましている。ドアを開けて)急いで入るんだ。

(彼女を通すために一歩後に下がる)
124名前なし:2009/09/21(月) 01:56:34 ID:+YygIJwJ
第五景  フランツ、ヨハンナ


(ヨハンナが敷居に姿を現わす。長いローブを着て、化粧をし、とても美しい。フランツ、一歩後退)


フランツ  (しゃがれた叫び声)へえ! (後退)これはどうしたことだ? 
       (彼女、答えようとする。フランツ、それを押し留める)何も言わないで! 
       (後ろに下がって座る。椅子に跨ってしげしげとヨハンナを見つめる。彼は魅入られたようだ。承諾の合図をして、含み声で言う)うむ。
       (短い沈黙)この女は入って来る……(彼女は彼がそういう間に入って来る)……だが俺は結局一人ぼっちだろう。
       (蟹たちに)諸君、ありがとう。どうしても、君たちの助けが必要だったのだ。
       (一種の恍惚状態で)この女は口をきくまい。それは誰もいないのと同じさ。この女を眺めてやろう。
ヨハンナ  (最初彼女もまた魅入られていたようだが、我に返る。恐怖を抑えるために笑顔で語る)でも、私はあなたにお話しなければなりませんの。
フランツ  (彼女から目を離さずに、ゆっくり後退して、彼女から遠のく)いけない! 
       (テーブルを叩く)俺はこの女が何もかも台無しにすることを知っていた。
       (間)今は誰かがいる、僕の部屋に。消えなさい。(彼女は動かない)君を乞食女みたいに追い出させてやるぞ。
ヨハンナ  誰に?
フランツ  (叫ぶ)レーニ! (間)小さいが明快な頭で、君は隙を見つけた。僕は一人なのだ。(くるりと後ろを向く)君は何者だ?
ヨハンナ  ウェルナーの妻です。
フランツ  ウェルナーの女房? (立ち上がって彼女を見る)ウェルナーの女房だって? 
       (唖然として、彼女を注視する)誰が君をよこしたのだ?
ヨハンナ  誰も。
フランツ  どうして合図を知っているんだい?
ヨハンナ  レーニから教わって。
フランツ  (素っ気無い笑い)レーニから? 多分そんなことだろう。
ヨハンナ  レーニはノックしました。わたしはあの人が……知らないうちにそっとのぞいて、数を数えました。
125名前なし:2009/09/21(月) 01:57:42 ID:+YygIJwJ
フランツ  僕は君がそこらじゅう穿鑿していることを聞いたよ。(間)ねえ、奥さん、君はもう少しで僕を殺すところだった。
       (ヨハンナ、笑う)笑え。笑うがいいさ。僕はショックで死んだかもしれなかった。
       君は何てことをしたのだ? 僕は心臓が悪いために面会を禁じられている。
       この器官は、予測できない状況がなくても、きっと故障を起こしただろう。
       君が美人であろうとは思いがけなかった。ちょっと待ってくれたまえ。じきに治まるからな。
       どういうわけか……僕は君を幽霊か何かだと思っていたのだ。
       この幸運な間違いを無駄にしないようにするのだよ。罪を犯さないうちに消えなさい。
ヨハンナ  嫌です。
フランツ  (叫ぶ)行くぞ……(脅すように彼女の方に寄り、停止する。どかりと椅子に腰を下ろし、脈拍をとる)
       少なくとも百四十くらいある。だが、頼むから帰ってくれ。この通り、僕は死にそうなのだから。
ヨハンナ  それが一番いい解決法ですわ。
フランツ  何だって? (胸から手をはずし、驚いてヨハンナを見る)あれが言った通りだ。君は買収されている。
       (立ち上がって楽々と歩く)そうあっさりとはやられないぞ。落ち着け、落ち着くんだ。
       (休に彼女の方に戻って)一番いい解決法だって? 誰のためだ? 地球上のあらゆるにせの証人のためかね?
ヨハンナ  ウェルナーのため、私のために。

(彼を見つめる)
126名前なし:2009/09/21(月) 01:58:37 ID:+YygIJwJ
フランツ  (呆れて)僕は迷惑かね?
ヨハンナ  あなたは私たちを苦しめていますわ。
フランツ  僕は君という人を知りもしない。
ヨハンナ  ウェルナーをご存知よ。
フランツ  あれの顔つきまで忘れてしまったよ。
ヨハンナ  私たちは無理にこの家に引き止められています。あなたの名前でね。
フランツ  誰に?
ヨハンナ  お父様とレーニです。
フランツ  (ふざけて)二人が君たちを殴ったかね、鎖に繋いだかね?
ヨハンナ  まさか。
フランツ  それでは?
ヨハンナ  脅迫です。
フランツ  なるほど。それは彼らがよく知っていることさ。(気のない笑い。最初の驚きに戻って)僕の名前でね? どうしようというんだろう?
ヨハンナ  私たちを予備にとっておくのです。事があったら、私たちが交替するわけですわ。
フランツ  (陽気になって)ご亭主が僕のスープを作って、君がこの部屋の掃除をするのか? 繕い物はできるのかい?
ヨハンナ  (ボロの軍服を指して)針仕事はあまりぞっとしませんわ。
フランツ  それは間違いだ。この穴は補強されているよ。妹に妖精のような手がなかったら……
       (急に真剣になって)交替はいらないね。ウェルナーをどこにでも連れて行きなさい。君には、もう二度と会いたくないのだ。
       (自分の椅子の方に行く。腰をおろす瞬間に振り返る)まだ、そこにいるのか?
ヨハンナ  ええ。
フランツ  僕の言うことが分からないのだな。自由を返してあげると言っているのだ。
ヨハンナ  私には何も返してくださらないわ。
フランツ  君の自由なのだ。
ヨハンナ  そんなのは言葉よ、風よ。
フランツ  行為が必要だと言うんだね?
ヨハンナ  ええ。
フランツ  さて、どうしたものかな?
ヨハンナ  一番いいのは、あなたを消すことですわ。
フランツ  まだそんなことを言って! (くすくす笑う)それを当てにしてはいけないよ。お気の毒だがね。
ヨハンナ  (間)それでは、私たちを助けてくださいな。
フランツ  (声を詰まらせて)え?
ヨハンナ  (熱を帯びて)フランツ、私たちを助けてくださらなければいけませんわ。

(間)
127名前なし:2009/09/21(月) 02:00:34 ID:+YygIJwJ
フランツ  駄目だ。(間)僕は二十世紀の人間ではない。僕はみんなを同時に救うだろうが、誰も特別に助けたりはしない。
       (せかせかと歩く)君たちの問題に僕を引きずり込んではいけないのだ。いいかね、僕は病人なんだ。
       それをいいことに、一番嫌な依存生活をさせられているんだ。だから、若くて健康な君たちは、
       片輪の人間に、虐げられた人間に救いを求めることを恥じるべきだ。
       (間)僕は弱いから、安静が第一なのだ。医学の命令だ。僕は指一本動かさずに、目の前で君を絞め殺せるよ。
       (悦に入って)僕にうんざりしたかね?
ヨハンナ  酷いものですわ。
フランツ  (手をこすって)そいつはありがたい。
ヨハンナ  それくらいのことでは出て行きませんわ。
フランツ  よろしい。(ピストルを握ってヨハンナを狙う)三まで数えるよ。
       (彼女は微笑む)一、(間)二、(間)バン。もう誰もいない。姿を消したな。
       (蟹に)なんて静かなんだろう。彼女は黙っている。諸君、全ては元通りになった。
       「美しくあれ、だが沈黙せよ」か。たかが一つのイメージさ。それは諸君のガラス板に記録される? されっこないさ。
       何が記録されるんだろう? 何も変わっていない。何も起こらなかったのだ。
       部屋には空砲で真空が打ち込まれた。それだけのことだ。真空はどんなガラス板にも、傷を残さないダイヤモンドだ。
       不在だ。美だ。哀れな甲殻類よ、君たちはそこに光しか認めないだろう。君たちは何が存在するかを調べるために、我々の眼を選んだ。
       だが我々は人間の時代に、その同じ目で存在しないものを見たことがあった。
ヨハンナ  (静かに)お父様が死にそうなのです。

(沈黙。フランツはピストルを投げ出し、急に立ち上がる)
128名前なし:2009/09/21(月) 02:01:42 ID:+YygIJwJ
フランツ  お気の毒様。レーニがたった今、親父は樫の木みたいに丈夫だと言ったよ。
ヨハンナ  あの人は嘘をついているのです。
フランツ  (自信たっぷり)僕以外の人間にはね。これがゲームのルールさ。
       (急に)さあ隠れるんだ。君は恥ずかしさのあまり死ぬ思いをしているに違いない。
       こんな醜い策謀が、こんなに早く馬脚をあらわしてはね。どうしたというのだ? 
       一時間もしないうちに、二倍も綺麗になって---この絶好の機会を生かそうともしないとは。
       君はどこにでもいるつまらない女だよ。ウェルナーの奴が、君と結婚したことを、今となってはもう驚かないよ。

(ヨハンナに背を向け、腰を下ろして二つの牡蠣の殻を打ち合わせる。孤独なこわばった表情。彼はヨハンナを無視している)
129名前なし:2009/09/21(月) 03:04:23 ID:+YygIJwJ
ヨハンナ  (初めて度を失って)フランツ! (沈黙)あの方は、あと半年で亡くなりますのよ! 
       (沈黙。恐怖をこらえて彼に近寄り、肩に触れる。反応なし。彼女の手がたれる。黙って彼を見つめる)
       あなたが言う通りですわ。私は自分の機会を生かすことが出来ませんでした。さようなら!
フランツ  (急に)待って! (彼女はゆっくり振り返る。彼は彼女に背を向ける)
       そこに、管に入った錠剤がある。ナイト・テーブルの上だ。それをとってくれ。
ヨハンナ  (ナイト・テーブルの所へ行く)ベンジドリン、これね? 
       (彼は頷く。彼女はガラスの管を投げ、それを彼が受け取る)どうしてベンジドリンなんかお飲みになるんですの?
フランツ  君に対抗するためさ。(四錠飲む)
ヨハンナ  いっぺんに四錠も?
フランツ  それに、ついさっきの四錠と合わせて八錠だ。(飲む)誰かが僕の生命を狙っている。僕は知っているのだ。
       君は殺し屋の手先なのさ。今こそ、的確に、緻密に考えるべきなのだ。そうだろう? 
       (最後の錠剤を取り上げる)霧がかかっていた……
       (指を額に当てて)……ここにね。僕はここに太陽をすえつけるのだ。
       (飲む。自分を強く抑えて振り返る。はっきりした固い表情)
       この服、この宝石、この金鎖をつけるようにすすめたのは誰だ? しかも今日という日に? 親父があなたをよこしたのだな。
ヨハンナ  違います。
130名前なし:2009/09/21(月) 03:05:51 ID:+YygIJwJ
フランツ  しかし、親父が、君に親切な意見を聞かせてくれたに違いない。
       (ヨハンナ、話そうとする)無駄だよ。自分の手で作った物みたいに、僕は親父をよく知っているんだ。
       だから、簡単に言うと、二人のうちのどちらがどちらを作ったのか、まるっきり分からない。
       親父がめぐらす陰謀を、前もって知りたければ、僕はまず頭を洗濯して、それから空っぽになった頭を信用する。
       最初に浮かぶ考えが、親父が考えていることなんだ。なぜだか知っているかい? 
       親父は自分に似せて僕を作ったからさ---親父が自分の作品の形になったのでなければね。
       (笑う)君には何も分からないのかい? (面倒臭そうに腕を横に動かして)反射現象だよ。
       (父親の口真似をして)「何よりも美人になりなさい」僕にはここから親父の声が聞こえる。
       あの老いぼれ気違いは美女が好きなんだ。だから、僕が、気違いの真似事は別として、
       美人を一番上に置くことを知ってるんだよ。君は親父の女かね? 
       (ヨハンナ、首を横に振る)親父も年をとったな。それでは、ぐるか?
ヨハンナ  これまでは敵でしたわ。
フランツ  同盟関係の寝返りか? 親父はそれが大好きなんだ。(急に真面目になって)半年?
ヨハンナ  ぎりぎりのところよ。
フランツ  心臓かい?
ヨハンナ  咽喉です。
フランツ  癌か? (ヨハンナ、頷く)一日に葉巻を三十本なんて! でたらめだ! 
       (沈黙)癌か? それなら親父は自殺するぞ。
       (間。立ち上がって貝殻をつかみ、ヒトラーの肖像に投げつける)老いぼれ総統め、親父が自殺する、自殺するんだ。
       (沈黙、ヨハンナはフランツを見る)どうした?
ヨハンナ  何でもないわ。お父様がお好きなのね。
フランツ  僕自身と同じくらいにね。それでもコレラほど好きじゃない。親父は何を望んでいるんだい? 謁見かね?
ヨハンナ  いいえ。
フランツ  その方が親父のためだ。(叫ぶ)親父が生きることなんかどうでもいいのだ。
       死んだって知るものか。親父が僕をどんな目にあわせたか分かってくれ。
131名前なし:2009/09/21(月) 03:07:17 ID:+YygIJwJ
(錠剤の管を取り、蓋を取ろうとする)

ヨハンナ  その管をお渡しなさいな。
フランツ  何を余計なことをするんだ。
ヨハンナ  (手を差し出して)それをおよこしなさい。
フランツ  僕は興奮剤を飲まなければならない。他人に習慣を変えられるのは嫌いなのだ。
       (彼女はまだ手を差し出している)これは君に渡すけれど、もうあんな馬鹿馬鹿しい話はしないでほしいな。いいね? 
       (ヨハンナは、同意ともとれるように、漠然と頷く)よし。
       (管を渡す)僕は全部忘れてしまうからね。ちょっと待って。自分で何を望んでいるかも忘れるんだ。これも強みだ、そうだろう? 
       (間)そうだ、願わくば平和に眠らんことをRequiescat in paceだ。話しなさい。
ヨハンナ  誰のこと? 何を?
フランツ  この一家のこと以外なら何でも。君のことを、ね。
ヨハンナ  何もお話しすることはありません。
フランツ  それは僕が決めよう。(彼女を注意深く見つめる)美しい罠というか、君はまさにそれだ。
       (仔細にヨハンナを見る)その点ではプロだな。(間)女優だね。
ヨハンナ  そうだったわ。
フランツ  それからどうした?
ヨハンナ  ウェルナーと結婚しました。
フランツ  成功しなかったの?
ヨハンナ  ぱっとしなかったわ。
フランツ  端役かい? それともスターの卵?
ヨハンナ  (過去を拒む身振りで)馬鹿らしい!
フランツ  スターかな?
ヨハンナ  どうでもよろしいように。
フランツ  (皮肉交じりに感心して)スターだね? それでも成功しなかったの? 何が欲しかった?
ヨハンナ  何を欲しがることができるの? 全部よ。
フランツ  (ゆっくり)そう、全部ね。それ以外の何でもない。全てか無か。(笑う)で、結果はまずかった?
ヨハンナ  いつもね。
132名前なし:2009/09/21(月) 03:08:33 ID:+YygIJwJ
フランツ  で、ウェルナーは? あいつは全てを欲しがるのかね?
ヨハンナ  いいえ。
フランツ  どうして弟と一緒になったの?
ヨハンナ  愛していたから。
フランツ  (穏やかに)違うね。
ヨハンナ  (むっとして)え?
フランツ  全てを望む人間は……
ヨハンナ  (同じ調子で)何なの?
フランツ  愛することができない。
ヨハンナ  今では、もう何も望んでいないわ。
フランツ  弟の幸福の他は、と願いたいものだね。
ヨハンナ  それだけよ。(間)私たちを助けてくださいな。
フランツ  僕に何を期待するんだ?
ヨハンナ  あなたが復活すること。
フランツ  へえ! (笑って)僕に自殺しろというんだね。
ヨハンナ  どちらかよ。
フランツ  (腹黒い嘲笑)すっかり分かったぞ。(間)僕は殺人罪に問われている。
       戸籍上の僕の死が追求を終わらせた。君は、それを知っていたんだろう?
ヨハンナ  知っていましたわ。
フランツ  それなのに、僕が復活することを望むんだね?
ヨハンナ  ええ。
フランツ  僕には分かっている。(間)義兄殺しができなければ、投獄させるのだ。
       (ヨハンナは肩をすくめる)ここで警察を待つべきか、それとも自首するべきだろうか?
ヨハンナ  (苛立って)あなたは監獄になんか行かないわ。
フランツ  行かない?
ヨハンナ  もちろん、行かないわ。
フランツ  それでは、親父が僕の件を片付けてくれるというんだね。
       (ヨハンナ、頷く)老人はがっかりしてはいないんだな? 
       (皮肉な口調に恨めしさを込めて)僕のためには手をつくしてくれたからね。見上げた人物だよ、親父は。
       (部屋と自分自身とを指す身振り)その結果がこれだ。(乱暴に)みんなくたばってしまえ。
ヨハンナ  (落胆にひしがれて)まあ、フランツ、あなたは卑怯ね。
フランツ  (荒々しく身体を起こして)何? (自分自身を取り戻して、一生懸命シニックになり)そう、その通りだ。それから?
ヨハンナ  それから、これは何?

(指先で勲章にそっと触れる)
133名前なし:2009/09/21(月) 03:10:17 ID:+YygIJwJ
フランツ  これ? (勲章を一つ剥ぎ取り、銀紙を除く。その勲章はチョコレートでできている。彼はそれを食べる)
       ああ、僕はこの勲章を全部貰ったのだ。僕のものだよ。僕にはこれを食べる権利がある。
       ヒロイズム、僕の問題はこれだ。しかし、英雄たちは……要するに、君は英雄って何か知っているかい?
ヨハンナ  いいえ。
フランツ  いいかね、英雄にもいろいろある。憲兵と泥棒、軍人と民間人---民間人にはないがね---卑怯者もいれば勇気のある人々さえもいる。
       まあ市のようなものさ。ただ一つの共通の特徴は勲章だ。僕は卑怯な英雄だからチョコレートの勲章を下げている。
       このほうが品がいい。ほしいかね? 遠慮するなよ。引き出しに百以上あるんだから。
ヨハンナ  喜んでいただくわ。

(彼は勲章を一つもぎ取って彼女に差し出す。彼女はそれをつまんで食べる)

フランツ  (急に乱暴に)いけない。
ヨハンナ  何と仰ったの?
フランツ  僕は弟の女房につべこべ言わせておかないぞ。(強く)僕は卑怯者ではない。それに監獄も恐くない。
       現に監獄に生きているのだ。君は僕に押し付けられている生活に三日と我慢できないよ。
ヨハンナ  それが何の証拠になるの? あなたがそれを選んだのよ。
フランツ  僕が? 僕は決して選ばない。僕は選ばれるのだ。
       僕が生まれる九ヶ月前に僕の名前が選ばれ、僕の役目、僕の性格、僕の運命が選ばれた。
       いいかね? この独房生活は押し付けられているんだ。それに、よほどの理由がない限り、
       こんな制度に服従しないということが君に分かるはずだ。
ヨハンナ  どんな理由?
フランツ  (一歩後退する。短い沈黙)君の眼が光っている。僕は白状しないよ。
ヨハンナ  フランツ、あなたは進退きわまっているのよ。あなたの理屈が正しいか、
       弟の妻があなたを頼みがいのない男だと判断するか、そのどちらかです。

(彼に近づき、勲章を一つはずそうとする)
134名前なし:2009/09/22(火) 02:02:50 ID:/gtmGuXc
フランツ  君は死神だな? いや、十字勲章をとりなさい。それはスイス製のチョコレートだから。
ヨハンナ  (十字勲章を取って)ありがとう。(少し彼から離れる)死神ですって? 私が死神に似ているの?
フランツ  時によって。
ヨハンナ  (鏡をちらっと見る)そんなことあるかしら。どういう時に似ているの?
フランツ  君が美しい時。(間)奥さん、君は彼らの手先になっているのだ。
       彼らは、君が僕の責任を追及するように工作したのだ。だが、もし君の要求に応じたら、僕の命が危ない。
       (間)仕方がない。どんな危険でも冒すよ。さあ、どうぞ。
ヨハンナ  (ややあって)どうしてこんな所に隠れているの?
フランツ  第一、僕は隠れてなんかいないさ。追及を逃れようと思ったら、とうの昔にアルゼンチンに出かけていただろう。
       (壁を指して)窓が一つあった。ここだ。その窓は、昔のうちの庭に向いていた。
ヨハンナ  昔の?
フランツ  そうだ。(一瞬顔を見かわす。言葉を続ける)僕はその窓を塞がせた。(間)何かが起こっている。あの外側で、何か僕に見えないことが。
ヨハンナ  何でしょう。
フランツ  (軽蔑の気持ちを交えて、彼女を見つめる)ドイツの虐殺だ。
       (彼女を見つめながら、相手の発言を阻止するように、半ば懇願し、半ば脅迫する調子。二人は危ない瀬戸際に達した)
       黙りなさい。僕は廃墟を見たのだ。
ヨハンナ  いつ?
フランツ  ロシアから帰るときにね。
ヨハンナ  あれから十四年になるわ。
フランツ  うん。
ヨハンナ  それなのに、何も変わらなかったと思っているの?
フランツ  その後も、全てが悪化していることは知っている。
ヨハンナ  あなたに知らせるのはレーニでしょう?
フランツ  そうだよ。
135名前なし:2009/09/22(火) 02:04:57 ID:/gtmGuXc
ヨハンナ  新聞をお読みになって?
フランツ  レーニが読んでくれる。壊滅した都会、破壊された機械、荒らされた産業、失業の急上昇、
       結核、出生率の急激な低下、何一つ僕が知らないことはない。妹はあらゆる統計を写し取ってくれて
       (テーブルの引き出しを指して)その写しがその引き出しに整理されている。歴史が始まって以来最も見事な殺害だ。
       僕はあらゆる証拠を握っている。早ければ二十年、遅くとも五十年後には、最後のドイツ人が死んでいるだろう。
       愚痴をこぼしていると思わないでほしい。僕たちは負け、彼らは僕たちを豚みたいに屠殺しようとしている。
       これは絶対に間違いのないところだ。でも、おそらく、分かってくれるね。この屠殺の場に居合わせたくないという僕の気持ちは。
       壊された教会を見物してまわったりするものか。穴倉にすし詰めの過程訪問は真っ平。
       僕は方輪者や、奴隷や、裏切り者や売笑婦の中をふらついたりはしないよ。
       君はそういう光景に慣れっこになっていると思うけど、正直なところ、僕にはそれは辛抱できないだろう。
       僕の目から見れば、卑怯者って、そんな光景に我慢している奴らのことさ。
       今度の戦争には勝つべきだった。どんな手段を使っても。どんな手段でもだ。そうだろう? 
       さもなければ消滅だ。僕にはこの首をはねさせる軍人らしい勇気があったことを信じてくれ。
       しかし、ドイツの国民が押し付けられた目もあてられない苦しみを引き受けた以上、
       僕は、いつか否と叫ぶために、黙っている決心をした。
       (急に興奮する)違う、無罪だ。(叫ぶ)否。(沈黙)というわけだ。
ヨハンナ  (ゆっくり、決しかねて)押し付けられた目もあてられない苦しみ……
フランツ  (彼女から目を離さずに)それだ、それだけなのだ。
ヨハンナ  (ぼんやりと)そうね。それだけ。それだけなのね。(間)それだけの理由で、あなたは閉じこもっているのね?
フランツ  そうだ。(沈黙。ヨハンナは考え込む)どうしたね? 仕事をやってしまうんだ。僕が恐かったのか?
ヨハンナ  ええ。
136名前なし:2009/09/22(火) 02:06:04 ID:/gtmGuXc
フランツ  なぜだい。
ヨハンナ  あなたが恐がっていらっしゃるからよ。
フランツ  君をかい。
ヨハンナ  私がこれから言うことをね。(間)私は今知っていることを知らなかったらよかったと思うわ。
フランツ  (激しい不安を制して、不信を交え)君は何を知っている? 
       (彼女はためらう、二人はにらみ合う)え? 何を知っているんだ? 
       (彼女は答えない。沈黙。お互いに相手を見る。二人とも恐いのだ。
       ドアをノックする音。五つ、四つ、二つずつの三回。フランツがかすかに微笑む。
       立ち上がって、奥のドアの一つを開けに行く。浴槽がちらっと見える。小声で)
       ほんの少しの間だけだ。
ヨハンナ  (小声で)隠れるのは嫌よ。
フランツ  (一本の指を口に当てて)しっ。(低い声で)偉そうなことを言うと、君の可愛らしい計略の収穫をふいにするよ。


(彼女はためらう。やがて浴室に入る決心をする。まだノックが続いている)
137名前なし:2009/09/22(火) 02:37:39 ID:/gtmGuXc
第六景  フランツ、レーニ


(レーニは盆を持っている)


レーニ  (呆れて)閂を差さなかったの?
フランツ  ああ。
レーニ  どうして?
フランツ  (ぶっきらぼうに)訊問する気か? (早く)盆をよこして、そこにいなさい。

(レーニから両手で盆を受け取り、テーブルに置きに行く)

レーニ  (面食らって)どうかしたの?
フランツ  この盆は重すぎるよ。(振り返ってレーニを見る)お前、僕の親友に文句をつける気だろう?
レーニ  そんなつもりはないわ。でもね、それが恐ろしいのよ。あなたが親切になると、私は最悪の場面を考えるの。
フランツ  (笑って)はっはっは。(彼女は室内に入り、後ろのドアを閉める)中に入れとは言わなかったよ。
       (間。鶏肉の手羽をつまんで食べる)さあ、これから、晩飯だ。また、明日。
レーニ  待ってよ。許してほしいのよ。喧嘩を吹っかけたのは私だから。
フランツ  (頬張って)喧嘩?
レーニ  そうよ、さっき。
フランツ  (はっきりせずに)ああ、そう。さっきね……(威勢良く)この通り許すよ。
レーニ  あなたを軽蔑するのは恐ろしいと言ったけど、あれは嘘よ。
フランツ  結構、結構。申し分なしだ。(食べる)
レーニ  あなたの蟹たちね。私は彼らを認めるわ。蟹の裁判に服するわ。私の口からそれを言ってほしいの?
      (蟹たちに)甲殻類よ、私はあなた方に敬意を表します。
フランツ  どうしたんだい?
138名前なし:2009/09/22(火) 02:39:11 ID:/gtmGuXc
レーニ  分からないわ。(間)このこともあなたに言いたいの。私には、あなたが、家の名を継ぐあなた、
      愛撫で私を辱めずに、酔わせてくれるただ一人の男のあなたが、生きていることが必要なのよ。
      私には三文の値打ちもないわ。だけど、私はゲルラッハ家の生まれよ。それはこういうことなの。
      とても自尊心が強くてね---私はゲルラッハ家の男としかあれができないの。
      近親相姦は私の掟、私の宿命だわ。(笑って)一言で言ってしまえばね、それが家族の絆を引き締める私の流儀なのよ。
フランツ  (押しかぶせるように)たくさんだ。心理学は明日のことにしてくれ。
       (彼女は飛び上がる。また不信の念が蘇る。彼女は彼をしげしげと見る)約束するよ。仲直りはすんだのだ。
       (沈黙)あのせむしの女は……
レーニ  (不意をつかれて)せむしって?
フランツ  ウェルナーの女房さ。少なくとも美人かい?
レーニ  十人並みね。
フランツ  分かった。(間。真剣に)礼を言うよ。お前は、お前に出来ることをやってくれた。出来る限りのことをね。
       (出口まで連れて行く。レーニは不安なままに、無抵抗でいる)僕はあまり扱いやすい病人じゃなかったな、え? おさらばだ。
レーニ  (笑おうとして)なんて大げさなの? ね、また明日会えるでしょう。
フランツ  (穏やかに、優しそうに)本心からそう思うがね。


(出口のドアを開ける。身を屈めて妹の額に接吻する。レーニは顔を上げ、いきなりフランツの唇に接吻して退場)
139名前なし:2009/09/22(火) 17:15:35 ID:3ckrm6Kw
第七景  フランツ一人


(ドアを閉め、閂を指し、ハンカチーフを取り出して唇を拭く。テーブルの方に戻る)


フランツ  諸君、間違えてはいけない。レーニは嘘が吐けないのだ。
       (浴室を指して)嘘吐き女はあそこだ。あの女をやり込めてやろう。え? 心配したもうな。
       術はいろいろ心得ている。今夜はにせの証人の大敗北をお目にかけよう。
       (手が震えているのに気付き手から目を離さずに、震えを押さえようと苦心する)さあ、さあ、静かに、静かに。
       (手の震えがだんだん止まる。鏡をちらりと見て、上衣の裾を引っ張り、ベルトを締め直す。
       彼は一変した。この場面の冒頭以来、初めて彼は完全に自分を制御する。浴室のドアの所に行き、ドアを開けて一礼する)
       奥さん、仕事だ。


(ヨハンナ登場。彼はドアを閉め、冷たく看視するように彼女の後に従う。次の場では、終始、彼が彼女を制しようとしているのが看取される)
140名前なし:2009/09/22(火) 17:16:50 ID:3ckrm6Kw
第八景  フランツ、ヨハンナ


(フランツはドアを閉めなおした。ヨハンナはドアの方に一歩歩いて立ち止まる)


フランツ  (動かずに)レーニはまだサロンを出ていない。
ヨハンナ  あの人はサロンで何をしているの?
フランツ  片付けものだ。(一歩寄って)君の踵の音。
       (女靴の踵の音を真似て、ドアをこつこつ叩く。ヨハンナから目を離さずに喋る。
       彼が自分が冒している危険の大きさを測定していて、彼の言葉が計算されているのが分かる)
       君は帰りたがっていたが、僕にいろいろ教えることがあるということだったな。
ヨハンナ  (浴室を出てからばつが悪そうに見える)いいえ。
フランツ  へえ! (間)仕方がない。(間)何も言わないのかい?
ヨハンナ  何も言うことはありません。
フランツ  (急に立ち上がって)いけないよ。それではあまり虫がよすぎる。僕を解放しようと思ったが、気が変わった。
       そして僕の胸につかえる疑惑中の疑惑を後に残したままで、永遠におさらばだなんて、とんでもないよ。
       (テーブルの方に行き、一本の瓶と二つのグラスを取る。シャンパーニュを注ぎながら)
       ドイツのことだね? ドイツは立ち直っているのか? 僕らは大いに繁栄しているのかね?
ヨハンナ  (苛立って)ドイツは……
フランツ  (非常に早口に、耳を押さえて)無駄だ。無駄だよ。僕は君の言うことを信じない。
       (ヨハンナは彼を見つめ、肩をすくめて黙り込む。彼は軽い足取りで無造作に歩く)要するにそれは失敗だな?
ヨハンナ  それって?
フランツ  君の計略さ。
ヨハンナ  そうね。(間。弱い声で)あなたを癒すか、さもなければ殺さなければならなかったのよ。
フランツ  その通りだ。(愛想良く)他の手段を見つけるんだな。
       (間)君は、僕に君を眺めさせてくれた。だから僕は君の寛大さに、ぜひともお礼を言わなければならない。
ヨハンナ  私は寛大ではなくてよ。
141名前なし:2009/09/22(火) 17:18:10 ID:3ckrm6Kw
フランツ  その無駄骨に何という名をつけるのかね? それに、鏡台に向かってやったこの仕事は? 
       そのために何時間もかかるのだよ。たった一人の男のために、何とご丁寧に手間をかけたものだろう。
ヨハンナ  毎晩していることだわ。
フランツ  ウェルナーのためにね。
ヨハンナ  ウェルナーのために、そして時々はあの人のお友達仲間のために。
フランツ  (微笑を浮かべて、首を横に振る)嘘だ。
ヨハンナ  私が部屋の中を女中みたいな格好で歩いているというの? 私が身なりに構わないというの?
フランツ  それも違う。(彼女から目をそらして、壁の方に向かい、想像の彼女を描写する)
       君はまっすぐに立っている。本当にまっすぐに。顔を湯でぬらさないためだ。
       髪は捲き上げ、唇には口紅をつけていない。お白粉気も全然ない。
       ウェルナーには、君の世話を焼き、優しくいたわり、接吻してもらう権利があるのだ。
       だが微笑みかけられる権利は絶対にない。君は、これからはもう笑わないぞ。
ヨハンナ  (微笑んで)妄想家ね。
フランツ  閉じ込められた人間は、彼らの間で、お互いを見分ける特別の光線を持っている。
ヨハンナ  そうたびたびめぐり合うはずはないわ。
フランツ  そう、だがね、それは時々あることさ。
ヨハンナ  あなたには、私の見分けがついて?
フランツ  僕たちはお互いに相手を見分けられるよ。
ヨハンナ  私も閉じ込められた女なの? 
       (立ち上がって鏡を見てから振り返る。非常に美しく、初めて挑発的に見える)
       そんなことになろうとは、思ってもみなかったわ。

(彼の方に行く)

フランツ  (勢いよく)踵の音!

(ヨハンナは微笑みながら靴を脱ぎ、片方ずつヒトラーの肖像に投げつける)
142名前なし:2009/09/22(火) 17:19:33 ID:3ckrm6Kw
ヨハンナ  (フランツのそばで)ウェルナーの依頼者の娘さんに会ったことがあるのよ。
       その人は鎖につながれて、体重は三十五キロ、身体じゅう虱だらけだったわ。私、その娘に似ているかしら。
フランツ  まるで姉妹みたいだ。その娘は全てを望んだのだ。きっとね。それでは勝負は、初めから負けだよ。
       彼女は全てを失ったので、全てを拒むふりをして、自分の部屋に閉じこもったのさ。
ヨハンナ  (苛立って)いつまでも、私のことを話すつもりなの? (一歩後にさがり、床を指して)レーニはサロンを出て行ったに違いないわ。
フランツ  まだ、まだ。
ヨハンナ  (腕時計をちらりと見て)もうウェルナーが帰ってくるわ。八時よ。
フランツ  (乱暴に)いけない。(ヨハンナは驚いてフランツを見る)ここには時間などない。あるのは永遠だ。
       (落ち着いて)辛抱しなさい。じきに自由に慣れるんだから。

(間)

ヨハンナ  (不信と好奇心とが入り混じって)それでは? 私は閉じ込められるの?
フランツ  そうさ。
ヨハンナ  傲慢の殻にね?
フランツ  そうだとも。
ヨハンナ  あなた、何がご不満なの?
フランツ  君のおめかしが足りなかったよ。
ヨハンナ  (微笑んで)お世辞ね。
フランツ  君が考えていることを言ったまでさ。
ヨハンナ  で、あなたは? どう考えているの?
フランツ  僕のことかい?
ヨハンナ  私のこと。
フランツ  君は憑かれた女だと、ね。
ヨハンナ  気違いだっていうの?
フランツ  正真正銘のさ。
ヨハンナ  何を話しているの? あなたのこと? それとも私のこと?
フランツ  僕たち二人のことだ。
143名前なし:2009/09/22(火) 17:21:34 ID:3ckrm6Kw
ヨハンナ  あなたをとらえていたのは、何だったの?
フランツ  名前のつけようがあるかな? 空だよ。(間)いわば、偉大さだ……
       偉大さは僕を虜にしていたが、僕は偉大さを持ち合わせてはいなかった。
ヨハンナ  そう、それよ。
フランツ  君は、自分の隙をうかがっていただろう? え?
ヨハンナ  ええ。
フランツ  君は自分を驚かそうとしていたね? (ヨハンナ、頷く)我と我が身を罠にかけたんだな?
ヨハンナ  まさか。(自己満足でなしに、鏡を見て)私はこれを見ていたのよ。
       (自分の映像を指す、間)私はね、よく町のロード・ショー劇場に行ったの。
       スターのヨハンナ・ティースがスクリーンの上をすべる時、かすかなざわめきが聞えたわ。
       お互いに他人の感動につられて、お客は感動しているのよ。私は見ていたわ……
フランツ  それから?
ヨハンナ  それから先はもう何も。私は、お客の目にどう映るものか、一度も見たことがないわ。(間)で、あなたは?
フランツ  さあね、僕にも君のようなことがあったよ。僕はしくじったな。
       全軍の前で、勲章を貰ったんだ。ウェルナーは、君を美人だと思っているの?
ヨハンナ  そうでなければいいと思うわ。たった一人の男なんかが、問題になるとお思いになって?
フランツ  (ゆっくりと)僕は、君が美人だと思うんだ。
ヨハンナ  あなたはそれでいいかもしれないけれど、もうその話はなさらないで。お分かりになるわね。
       世間が私を捨ててからは、もう誰も、そんなこと……
       (少し落ち着いて、笑う)あなたは、ご自分を兵団と勘違いしていらっしゃるのよ。
フランツ  それがどうして悪いのだ? (絶えず彼女を見つめて)僕を信じなければいけない。
       そこが君のチャンスなのだ。僕を信じてくれれば、僕は無数の人間になるのさ。
ヨハンナ  (神経質な笑い)「僕の狂気の中にお入りよ。僕は君の狂気の中に入るから」、これでは取引だわ。
144名前なし:2009/09/22(火) 19:19:19 ID:EsUzVAZj
フランツ  取引がなぜ悪い? 君には、もう失うものは何もない。それに、僕の狂気のことだが、君は、もうずっと前からその中にいるのだ。
       (ドアを指して)僕がドアを開けたとき、君が見たのは僕じゃない。あれは君の目の奥にあったあるイメージなのさ。
ヨハンナ  眼が空っぽだからなのね?
フランツ  まさにその通りだ。
ヨハンナ  死んでしまったスターの写真がどんなだったか、私にはそれさえも、もう思い出せないわ。
       あなたが口を開いた時、全てが消えてなくなったのよ。
フランツ  最初に口をきいたのは君だよ。
ヨハンナ  とても我慢できなかったわ。沈黙を破る必要があったのよ。
フランツ  魅惑を破る必要が、ね。
ヨハンナ  どっちにしても、それはもうすんでしまたこと。(間)どうなさったの? 
       (神経質な笑い)まるでカメラの目みたい。もう結構よ。あなたは死んでいるわ。
フランツ  君に仕えるためだ。死は死の鏡なのだ。僕の偉大さが、君の美しさを反映しているのだ。
ヨハンナ  わたしは生きている人の気に入りたいわ。
フランツ  死を夢見る疲れ切った民衆のね? 君は永遠の休息の純粋で静かな顔を見せていた。映画館はね、墓地なのだ。君の名は?
ヨハンナ  ヨハンナ。
フランツ  ヨハンナ、僕は君をほしいとは思わない。君を愛してはいない。僕は、君の、そしてあらゆる人間の証人なのだ。
       僕は数々の世紀の前で証言して、言うよ。君は美しい。
ヨハンナ  (魅せられたように)ええ。

(フランツは激しくテーブルを叩く)
145名前なし:2009/09/22(火) 19:20:52 ID:EsUzVAZj
フランツ  (冷たい声で)嘘を吐いていたことを白状しなさい。ドイツは苦しんでいると言うのだ。
ヨハンナ  (苦しそうに戦慄する。正気に返る)えっ! 
       (彼女は震え、顔が引きつる。瞬間的に、ほとんど醜怪な形相になる)あなたは全てを台無しにしてしまったわ。
フランツ  全てね、そう、僕はイメージを曇らせてやったのだ。
       (急に)しかし、僕を生き返らそうというんだね? 君は空しく鏡を壊すのだ。
       僕は君たちの中に降りて行き、家族揃って晩飯を食べる。
       君はウェルナーとハンブルクに行くだろう。そんなことをして、僕たちはどうなるのだ?
ヨハンナ  (我に返って、微笑を浮かべ)ハンブルクに。
フランツ  君は向こうに行ったら、もう決して美しくはなくなる。
ヨハンナ  ええ、もう決して。
フランツ  ここにいれば、君は来る日も来る日も美しい。
ヨハンナ  ええ、毎日戻って来ればね。
フランツ  戻って来なさい。
ヨハンナ  ドアを開けてくれる?
フランツ  ああ、開けてあげるよ。
ヨハンナ  (フランツを真似て)そんなことをして、私たちはどうなるかしら?
フランツ  ここで、永遠の中で。
ヨハンナ  (微笑んで)二人一緒に一つの狂乱の中に……
       (彼女は考え込む。熱狂がさめて、彼女は最初のもくろみを取り戻す)そう。私はまた来るわ。
フランツ  明日?
ヨハンナ  多分、明日ね。
フランツ  (優しく。ヨハンナは沈黙)ドイツは苦しんでいると言うのだ。そう言いなさい。さもなければ、鏡は木っ端微塵だ。
       (彼は苛立ち、両手が震え始める)言いなさい。言いなさい。言いなさいというのに。
ヨハンナ  (ゆっくり)二人一緒に一つの狂乱、そうね。(間)ドイツは苦しんでいるわ。
146名前なし:2009/09/22(火) 19:21:58 ID:EsUzVAZj
フランツ  本当かい?
ヨハンナ  ええ。
フランツ  僕たちは豚みたいにやられるんだね?
ヨハンナ  ええ。
フランツ  よろしい。(耳をそばだてる)レーニは行ってしまった。
       (ヨハンナの靴を拾いに行き、彼女の前にひざまずいて、靴を履かせてやる。彼女が立ち上がる。
       彼は立って踵を打ち合わせ、上半身を屈める)
       また、明日。
       (ヨハンナはドアのすぐそばまで行く。フランツは後を追い、閂を抜き、ドアを開く。
       彼女はフランクに向かって会釈し、きわめてかすかな微笑を見せる。彼女が出て行こうとすると、フランツが引き止める)
       待って。
       (ヨハンナが振り返る。彼は突然、不信をのぞかせて、彼女を見つめる)誰が勝ったのかな?
ヨハンナ  何の勝負?
フランツ  一回戦さ。
ヨハンナ  胸に手を当ててごらんなさいな。


(ヨハンナ退場。フランツはドアを閉める。鉄棒を引っ掛け、閂を差す。安堵の態。部屋の中央まで戻って立ち止まる)
147名前なし:2009/09/22(火) 19:23:17 ID:EsUzVAZj
第九景  フランツ一人


フランツ  やれやれ。
       (一瞬、彼の顔に微笑が残るが、やがて表情が引きつる。彼は恐れている)
       こちらはDe Profundis Clamaviだ。
       (彼は苦悩に苛まれる)
       歯を鳴らせ。ぎりぎり鳴らせ。さあ、鳴らすんだ!

(震え始める)


---幕---
148名前なし:2009/09/23(水) 02:39:13 ID:YBeyhpeS
第三幕

ウェルナーの仕事部屋。近代的家具類。鏡一枚。二つのドア。

第一景  父親、レーニ

(ドアをノックする音。舞台には誰もない。再びノックの音。続いて父親登場。左手に書類鞄を持ち、巻いたレインコートを右腕にかけている。
ドアを閉めて、レインコートと書類鞄を肘掛け椅子の上に置いてから、思い直して戸口に戻り、ドアを開ける)

父親  (舞台奥に向かって)お前に用があるんだ。(非常に短い沈黙)レーニ!

(レーニがすぐ顔を見せる)

レーニ  (幾分つっけんどんに)ここよ。
父親  (頭を撫でてやりながら)おはよう。隠れていたのかね?
レーニ  (僅かに後にすさって)おはよう、お父さん。そうよ。私、隠れていたの。(父親を見つめる)まあ、何て顔色なの。
父親  旅はわしを、苛々させたよ。

(咳をする。苦しそうに乾いた短い咳)

レーニ  ライプチヒでは流感が流行っているの?
父親  (質問が分からずに)流感だって? (今度は質問を飲み込んで)いや、わしは咳が出るのだ。
     (レーニは一種の不安感を交えて、じっと父親を見る)それがお前にどんな迷惑をかけるというのかね?
レーニ  (くるりと後ろを向き、虚空を見つめる)そうならなければいいけれど。

(間)
149名前なし:2009/09/23(水) 02:41:02 ID:YBeyhpeS
父親  (陽気に)それでは、お前はわしをスパイしていたんだな?
レーニ  (愛想良く)そう、お父さんをつけねらっていたのよ。お互い様だわ。
父親  時間にゆとりのない女だな。わしは今着いたばかりだ。
レーニ  着いてすぐ、何をなさるか知りたかったのよ。
父親  この通り、わしはウェルナーに会いに来た。
レーニ  (ちらっと腕時計を見て)今は造船所なのをご存知のくせに。
父親  待つのさ。
レーニ  (呆れたような素振り)お父さんが?
父親  どうして待てないんだ? (腰を下ろす)
レーニ  全くね、待てないことなんかないわ。(彼女も腰掛ける)私もいていい?
父親  わしだけだよ。
レーニ  結構よ。(彼女は腰をあげる)何をしていらしたの?
父親  (ぎょっとして)ライプチヒでか?
レーニ  ここでよ。
父親  (またぎょっとする)わしが何をしたというのだい?
レーニ  それを聞いているのよ。
父親  わしが出かけたのは六日前だった。
レーニ  日曜日の晩はどうなさって?
父親  ええ、うるさい奴だな。(間)何もしなかったよ。晩飯を食べて眠っただけさ。
レーニ  すっかり変わってしまったわ。なぜなんでしょう?
父親  何が変わったのだ?
レーニ  ご存知のくせに。
父親  わしは飛行機から降りたばかりだ。お前はいつまでも変わらないな。何が起ころうとも。
レーニ  お父さん! (鏡を指して)私だって鏡を見ていたのよ。
      (鏡に近寄る)もちろん、お父さんのために、髪も台無しだわ。(髪を直して)これじゃ自分でも……
父親  自分の見分けがつかないというのか?
レーニ  全然よ。(腕をたらす)馬鹿馬鹿しいったらありゃしない! 
      (驚きを交えた明晰さで自分の顔を眺めて)何てくだらないんだろう。
      (振り向かずに)昨日、晩御飯の時に、ヨハンナがお化粧していたわ。
父親  えっ? (一瞬彼の顔が輝くが、平静になる)それで?
レーニ  ただそれだけよ。
父親  そんなのは、女なら誰でも毎日することさ。
レーニ  あの女は滅多にしないことよ。
父親  亭主を自分の腕に取り戻そうと思ったんだろうよ。
150名前なし:2009/09/23(水) 02:42:06 ID:YBeyhpeS
レーニ  亭主ですって? (侮辱するように口を尖らせて)あの人の目を見なかったのね。
父親  (微笑んで)さあ、見ないね。あの二人に何かあったのか?
レーニ  (ぶっきらぼうに)お会いになるといいわ。(間、かさかさした不快な笑い)みんな見違えるに決まっているわよ。
ウェルナーは大声で喋って、やたらに飲んだり食べたりするんですもの。
父親  お前たちを変えたのはわしじゃないぞ。
レーニ  他の誰だというの?
父親  誰でもないさ。このやくざな咽喉がおこした気紛れだ。まあ、なんだな、父親がいよいよ暇乞いをするとなれば……
     だが、何が不平なのだ? わしは六ヶ月も前に予告してやった。
     お前たちには慣れるだけの時間がたっぷりある。だから礼を言うべきだろう。
レーニ  お礼をいいますよ。(間。声が変わる)日曜日の晩、お父さんは時限爆弾をプレゼントしてくださったわね? あれはどこにあるの? 
      (父親は肩をすくめ、微笑を浮かべる)見つけて見せるわ。
父親  爆弾だと? なぜお前はそんなことを……
レーニ  世間の大物たちは、一人で死ぬのがたまらないのよ。
父親  わしが家族を残らず爆破するというのかね?
レーニ  家族じゃないわ。お父さんはそれほど家族を愛していらっしゃらないもの。(間)フランツよ。
父親  可哀想なフランツ、世界が後に生き残る時、わしはあの子だけを墓に引っ張っていくのか? レーニ、ぜひそういうことがないようにしてくれ。
レーニ  引き受けたわ。(父親の方に一歩踏み出す)もしあの人に誰かが近付こうとしたら、お父さんはすぐに一人で出てお行きなさい。
父親  よし。(沈黙、腰をかける)もう他に言うことはないか? (レーニはないという合図をする。威厳を持って、調子を変えずに)お行き。


(レーニは一瞬父親を見つめ、一礼して退場。父親は立ち上がり、ドアを開けに行き、レーニが隠れていないことを確かめるように、
廊下を一渡り見回し、ドアを閉め、鍵穴を覆うようにハンカチーフをかける。振り返って部屋を横切り、部屋の奥に行ってドアを開ける)
151名前なし:2009/09/23(水) 03:14:11 ID:YBeyhpeS
第二景  父親、続いてヨハンナ

父親  (強く)ヨハンナ!

(咳き込みのために言葉を続けられない。くるりと振り向く。一人になった今、彼はもう自制できず、明らかに苦しんでいる。
事務机の所に行き、水差しを取り、コップに一杯の水を注いで飲む。ヨハンナは奥のドアから入り、父親の後姿を見る)

ヨハンナ  何の御用? (父親が振り返る)あなたでしたの?
父親  (まだ咽喉の詰まった声で)うん、わしだよ。(ヨハンナの手に接吻する。声が確かになる)わしを待っていたのではなかったのか?
ヨハンナ  お父様のことは忘れていましたわ。(彼女は言い直して笑う)旅行はいかがでした?
父親  素晴らしかったよ。(ヨハンナは鍵にかけられたハンカチーフを見る)あれは何でもない、穴塞ぎだ。
     (間、ヨハンナを見る)お化粧をしていないね?
ヨハンナ  ええ。
父親  それでは、フランツの所には行かないのだな。
ヨハンナ  誰の所にも行きませんわ。私は夫を待っているのです。
父親  でも、あれには会っただろう?
ヨハンナ  誰に?
父親  わしの息子だ。
ヨハンナ  息子さんは二人ありますから、どちらのことか分かりませんわ。
父親  上の方だ。(沈黙)なあ、嫁さん。
ヨハンナ  (飛び上がって)お父様!
父親  で、わしらの約束は?
ヨハンナ  (おかしくて呆れたという様子で)そうね。あなたには権利がおありになるわ。何という酷いお芝居でしょう! 
       (打ち明け話のような口調で)一階では何もかも、もうじき死んでいくあなたまで滑稽ですわ。
       どうすれば、そんなもっともらしいふりをしていらっしゃれるの? 
       (間)そう、あの人に会いましたわ。(間)あなたには、何もお分かりにならないに決まっています。
父親  (その告白を期待していたものの、一種の苦悩なしにはそれを聞かれない)フランツに会ったのだな? (間)いつだ? 月曜日か?
ヨハンナ  月曜日に。それから後は毎日。
父親  毎日だって! (唖然として)五回も?
ヨハンナ  多分そうでした。回数は数えませんでしたわ。
父親  五回も会ったとは。(間)奇跡というべきだ。

(揉み手をする)
152名前なし:2009/09/23(水) 03:15:43 ID:YBeyhpeS
ヨハンナ  (威圧するように、しかし声を張り上げずに)お好きなように、何とでも。(父親はまだ手をポケットに突っ込む)喜ぶには当たりませんわ。
父親  ヨハンナ、わしは聞いてもらわなければならない。帰りの飛行機の中で、わしは汗のかき通しだった。すべてはお終いだと思っていたのだ。
ヨハンナ  ところが……
父親  あなたが毎日あれに会っていることが分かった。
ヨハンナ  全てがお終いなのは私ですわ。
父親  なぜだ? (ヨハンナは肩をすくめる)なあ、あなたがあれの部屋のドアを開ければ、あなたたち二人は理解し合うに違いない。
ヨハンナ  私たちは理解し合っています。(シニックで冷酷な調子)馴れ合いみたいなものですわ。
父親  (度を失って)何だと? (沈黙)要するに、あんた方は親友なんだね?
ヨハンナ  友達以外の全てですわ。
父親  全て? (間)というと……
ヨハンナ  (不意をつかれて)何ですの? (彼女は吹き出す)恋人同士だと仰るの? 
       そんなことは考えもしませんでしたわ。私たちの恋愛関係が、あなたのご計画には、どうしても必要でしたの?
父親  (幾分むっとして)すまなかったな。しかし、あなたが悪かったのだ。わしには分かるまいと決め込んで、何も説明してくれないから。
ヨハンナ  説明して差し上げることなんて、何もありませんもの。
父親  (心配そうに)まさか、あれは病気では?
ヨハンナ  病気? (彼女は父親が何を言いたいか気付く。圧倒的な軽蔑を込めて)まあ気違いですって? 
       (肩をすくめて)そんなこと知るもんですか?
父親  あなたはあれの暮らしぶりを見ておいでだ。
ヨハンナ  あの人が気違いなら、私は気違い女です。それに、どうして私が気違い女でないと言えるでしょう?
父親  とにかく、あれが不幸せかどうか、言ってもらえるね?
ヨハンナ  (面白がって)もちろん申し上げます! (打ち明けるように)上では言葉が同じ意味を持っていないのです。
父親  分かったよ。上では、人が苦しむことを何というのかね?
ヨハンナ  あの人は苦しみませんわ。
父親  え?
ヨハンナ  あの人は忙しいのです。
153名前なし:2009/09/23(水) 05:04:59 ID:YBeyhpeS
父親  フランツが忙しいって? (ヨハンナ、頷く)何にだ?
ヨハンナ  何にですって? 誰のためにと仰りたいのでしょう?
父親  そうだ。わしは知りたいのはそれだ。
ヨハンナ  それは、私には全然関係のないことですわ。
父親  (穏やかに)あなたは息子の話をしたくないのだな?
ヨハンナ  (全くうんざりした、といわぬばかりに)何語で話せと仰るんですの? 
       終始翻訳ばかりしていなければならないので、私はへとへとになってしまうのです。
       (間)お父様、私、この部屋を出て行きますわ。
父親  あれを見捨てて行くのか?
ヨハンナ  あの人には誰も要らないのです。
父親  なるほど、出て行くのはあなたの権利だ。あなたは自由だ。(間)あなたはわしに約束したのだよ。
ヨハンナ  それは守りましたわ。
父親  あれは知って……(ヨハンナ、頷く)何と言っていた?
ヨハンナ  タバコを吸いすぎるって。
父親  それから?
ヨハンナ  それだけ。
父親  (酷く傷つけられて)わしは知っていたのだ。あの娘は一から十まで嘘を吐きおった。
     あばずれ女めが。十三年間に、あの女が、何を喋らずにいただろう……

(ヨハンナは静かに笑う。彼は喋るのを止め、ヨハンナは彼を見つめる)
154名前なし:2009/09/23(水) 05:06:23 ID:YBeyhpeS
ヨハンナ  あなたには、やっぱり何もお分かりにならなかったんですわね。
       (彼は硬くなって、彼女を見つめる)私がフランツの所で、何をすると思っていらっしゃるの? 私は嘘を吐くのですよ。
父親  あなたがね?
ヨハンナ  彼に向かって口を開けば、嘘ばかり吐いています。
父親  (呆気にとられ、ほとんど無抵抗に)だが……あなたは嘘を憎んでいた。
ヨハンナ  今も憎んでいますわ。
父親  それで?
ヨハンナ  それで、この通り嘘を吐いています。ウェルナーには沈黙で、フランツには言葉で。
父親  (非常に素っ気無く)それはわしらの約束とは違うぞ。
ヨハンナ  ええ、違いますわ。
父親  あなたの言う通りだった。わ、わしには分からない。あなたは自分の利益に背いた行動をしている。
ヨハンナ  ウェルナーの利益です。
父親  あなたの利益だ。
ヨハンナ  それはもう分かりませんわ。

(沈黙。父親は一瞬どぎまぎするが、気を取り直して)

父親  あなたは寝返りを打ったのか?
ヨハンナ  敵も味方もありませんわ。
父親  よろしい。それでは聞いておくれ。フランツは全く嘆かわしい状態だ、そこであなたが面倒をみてやりたいと思った、とわしは考える。
     だが、あなたはもうそれが続けられない。あなたが、同情に負けてくれるなら……
ヨハンナ  私たちには同情の気持ちなんかありませんわ。
父親  「私たち」って誰のことだ?
ヨハンナ  レーニと私です。
父親  レーニの話は別だ。しかし、あなたが自分の気持ちをどう呼ぼうと勝手だが、
     これ以上息子に嘘を吐いてくださるな。あなたは、あれを堕落させてしまうよ。
     (ヨハンナは微笑む。いっそう強く)あれの欲望はたった一つしかない。逃げるということだ。
     あなたが嘘であれに錘をつけたら、あれはそれをいいことに、海の底をめがけてまっすぐ突っ込むだろう。
ヨハンナ  私には、あの人をそんな酷い目に会わせる暇なんかありませんわ。私は出て行きます。
父親  いつ、どこへ?
ヨハンナ  明日、どこどいうあてもなく。
155名前なし:2009/09/23(水) 05:07:36 ID:YBeyhpeS
父親  ウェルナーと一緒か?
ヨハンナ  どうしてかしら?
父親  逃げ出すというわけだね?
ヨハンナ  ええ。
父親  しかし、どうして?
ヨハンナ  二つの言葉、二つの生活、二つの真実。一人の女には、それだけでも多すぎるとお思いになりません? 
       (笑う)ねえ、お父様、デュッセルドルフの戦災孤児たち、私はあの子達を捨てきれないのです。
父親  何の話だ? 嘘の話かね?
ヨハンナ  二階の真実です。その子たちは孤児で、収容所で飢え死にしていきます。
       とにかく、その子たちは実在するには違いありません。だってこの一階まで私を追いかけてくるのですもの。
       夕べ、もう少しでウェルナーに、その子たちを救えないものかしらと聞くところでしたわ。
       (笑う)それはありもしないことでしょう。だけど二階では……
父親  どうした?
ヨハンナ  私は自分に一番抵抗を感じます。声で嘘を吐き、身体でそれを打ち消しているのですわ。
       私は飢えの話をして、ドイツ人は餓死すると言っています。さあ、私をごらんになって。
       栄養不良に見えまして? フランツが私を見たら……
父親  それでは、あれはあなたを見ていないのか?
ヨハンナ  まだ見るところまでいっていませんわ。
       (自分に話しかけるように)裏切り者、狐つき、説教屋だわ。あの人が喋り、こちらが聞くのです。
       すると、突然、あの人は急に鏡に映る自分の姿に気付きます。
       あの人の胸には横に長い札がついていて、それには、あの人が黙っていても、
       こちらには読める《裏切り》というたった一つの言葉が書いてあります。
       これが毎晩あなたの息子さんの部屋で、私を待っている悪夢なのです。
父親  それはみんなの悪夢だ。毎日毎晩。

(沈黙)
156名前なし:2009/09/23(水) 05:09:13 ID:YBeyhpeS
ヨハンナ  一つお聞きしてよろしいでしょうか? (父親の合図に応じて)
       この問題で、私がどうすればいいと仰るのです? なぜ、私を問題の中にお引き入れになったのです?
父親  (きわめてぶっきらぼうに)あなたはどうかしている。問題に関わる決心をしたのはあなただよ。
ヨハンナ  どうして、私が決心するとご存知でしたの?
父親  私は知りはしなかった。
ヨハンナ  嘘を仰らないでくださいな。私の嘘を責めるあなたが、とにかく、あまり早く嘘を仰らないで。
       六日間、それは長いわ。あなたは考える暇をくださいました。(間)家族会議は私一人のために開かれたのですわ。
父親  違うよ。ウェルナーのためだ。
ヨハンナ  ウェルナーですって? 馬鹿らしい。私を弁護にまわらせるために、夫を攻撃していらしたわ。
       フランツに話すことを思いついたのは私です。それは確かにそうよ。というよりも、その案を探し出したのは私だったんだわ。
       あなたはその案を前もって部屋の中に隠しておいて、とうとう私の目にはっきり見えるようになさったのだわ。そうでしょう?
父親  事実、わしはあなたがあれに会ってくれることを願っていた。それは、先刻ご承知の理由があるからさ。
ヨハンナ  (強く)私には分からない理由のためにね。(間)あなたは、知っている私と、知りたがらないあの人と、
       この二人を会わせた時、あの人を殺すには一言で足りると前に仰ったかしら?
父親  (威厳を装って)わしの息子のことは何もかも知らないのだ。
ヨハンナ  あの人が逃げようとしていること、私たちが嘘であの人の企みを手伝っていること、この二つの他は何もね。
       その先に行きましょう。あなたは確実に勝負をなさいますわ。一言であの人を殺せると申し上げても、身じろぎ一つなさらないのです。
父親  (微笑んで)それは何という言葉かね?
ヨハンナ  (父親の鼻先で笑って)ぜいたく。
父親  何と言った?
ヨハンナ  それでも、他のどんな言葉でも、私たちがヨーロッパで一番のお金持ちの国民だということを、
       あの人に分からせさえすればいいのです。(間)あまり驚いたような顔はなさいませんのね。
157名前なし:2009/09/23(水) 05:10:44 ID:YBeyhpeS
父親  驚いてはいないよ。十三年前、あれの口からもれたいくつかの言葉で、あれの心配のたねが分かったのだ。
     あいつはドイツの滅亡が計られていると思って、我々の皆殺しの場に居合わせないために閉じこもったのさ。
     あの頃に、未来をはっきり見せてやれたなら、病気はすぐに治っていたのだが。今では、救うことはもっと難しくなった。
     あれにはいろいろな習慣ができてしまったからさ。レーニはあれを甘やかしている。
     坊主暮らしにも、都合のいいところがいろいろあるからな。だが、何も心配することはない、あいつの病気のたった一つの薬は事実だ。
     はじめは嫌な顔をするだろう。だって、仏頂面をするたねを、あなたが取り上げてしまうのだからな。
     しかし、一週間もすれば、真っ先にあれがあなたに礼を言うだろうよ。
ヨハンナ  (荒っぽく)つまらないったらありゃしない。(乱暴に)私は昨日あの人に会いました。それではまだ足りないと仰るのですか?
父親  足りないね。
ヨハンナ  二階では、ドイツには月ほどの生気もありません。もし、私がドイツを復活させたら、あの人は口の中にピストルの弾丸を射ち込みます。
父親  (笑って)まさか。
ヨハンナ  分かりすぎるほど分かっています。
父親  あれは、もう自分の国を愛していないのか?
ヨハンナ  熱愛していますわ。
父親  それでもそこには、共通の意味がないよ、ヨハンナ。
ヨハンナ  そりゃ、ありませんわ。(少々戸惑って笑いながら)共通の意味ですって? 
       その頭(父親を指して)の中にあるのは、それなんですのね? 私の頭の中にあるのは、あの人の目ですわ。
       (間)みんな止めてください。あなたの時限爆弾がその手の中で爆発しますわ。
父親  私には何も止めることができない。
ヨハンナ  それなら、わたしはあの人に会わずに、永遠に行ってしまいます。
       事実の方は申しますからご心配なく。でも、フランツにではなく、ウェルナーに。
父親  (急いで)いかん。(我に返る)亭主を苦しめるだけだ。
158名前なし:2009/09/23(水) 17:21:43 ID:YBeyhpeS
ヨハンナ  日曜日から、私は夫にいいことをしているでしょうか? 
       (遠くに自動車の警笛)ほら、帰って来ましたわ。十五分もすれば、夫は何もかも知るでしょう。
父親  (押しかぶせるように)待ちなさい。
     (ヨハンナはどぎまぎして立ち止まる。彼はドアの所に行き、ハンカチーフを取って、鍵を回し、ヨハンナの方に戻る)あなたに提案がある。
     (彼女は黙ったまま顔を引きつらせている。間)亭主には何も話してはいけない。
     最後に一度フランツに会いに行って、わしが会見を申し出ていると言ってくれ。
     もし、あれが承知すれば、ウェルナーを誓いから解放してやる。そして、あなた方は、二人一緒に、いつでも都合のいい時に出て行きなさい。
     (沈黙)ヨハンナ、あなたを自由にしてあげるよ。
ヨハンナ  分かっています。

(自動車が庭園に入る)

父親  どうかね?
ヨハンナ  そんな代償を払ってまで、自由をほしくはありませんわ。
父親  どんな代償だ?
ヨハンナ  フランツの死です。
父親  ヨハンナ! どうしたのかね? まるでレーニの話でも聞いているようだ。
ヨハンナ  レーニの話を聞いていらっしゃるのですわ。私たちは双生児の姉妹ですの。
       驚いてはいけません。私たち二人を、同じようになさったのはあなたですもの。
       地球上のあらゆる女がフランツの部屋で行列したら、みんなレーニになってあなたに刃向かいますわ。

(ブレーキの音。自動車が車寄せの階段の下に停まる)
159名前なし:2009/09/23(水) 17:22:41 ID:YBeyhpeS
父親  お願いだ。まだ何も決めないでほしい。約束するから……
ヨハンナ  無駄ですわ。お金で雇える殺し屋なら、男の人にお頼みなさいな。
父親  ウェルナーに全部話すのかね?
ヨハンナ  ええ。
父親  大いに結構。では、わしがレーニにすっかり話したらどうだ?
ヨハンナ  (驚き、怖気づいて)あなたが、レーニに?
父親  どうして話せないというのだね? 家が爆発するだろうよ。
ヨハンナ  (ヒステリーを起こしそうになって)家を爆発させなさいな。地球を爆発させなさいよ。それでやっと落ち着けるわ。
       (最初は低く弱い笑い、それがとめどもなく大きくなる)本当に、落ち着けるわ。


(廊下に足音。父親はつとヨハンナのところに行き、乱暴に彼女の肩をつかんで、じっと見つめながら彼女をゆすぶる。
ヨハンナは落ち着きを取り戻す。ドアが開く瞬間に、父親は彼女から離れる)
160名前なし:2009/09/23(水) 17:23:38 ID:YBeyhpeS
第三景  同じ人物、ウェルナー


ウェルナー  (大急ぎで部屋に入り父親を見て)おや。
父親  お帰り、ウェルナー。
ウェルナー  お帰りなさい。旅行はうまく行きましたか?
父親  何。(気付かずに両手をこする)うまくいったかって、そうだ、うまくいったよ。まあ、大成功だな。
ウェルナー  何か話でも?
父親  お前にか? いや、何もない。わしは失敬するよ。(出口で)ヨハンナ、さっきの提案は引っ込めてないよ。

(退場)
161名前なし:2009/09/25(金) 02:43:08 ID:FKwFcaJi
第四景  ヨハンナ、ウェルナー


ウェルナー  どんな提案だい?
ヨハンナ  後で言うわ。
ウェルナー  親父がこの部屋を探りにくるのは気に食わないね。
         (食器戸棚からシャンパーニュの瓶とグラスを二つ取る。グラスを事務机の上に置き、栓を抜きにかかる)
         シャンパーニュはどうだい?
ヨハンナ  いらないわ。
ウェルナー  よろしい。一人で飲もう。

(ヨハンナ、グラスを遠ざける)

ヨハンナ  今夜は駄目よ。私にはあなたがいるの。
ウェルナー  驚いたね。(彼女を見つめる。急に)まあ、どっちにしろ、それで飲めないということはない。
         (栓を勢いよく飛ばす。ヨハンナが小さな叫びをあげる。ウェルナーは笑い出し、二つのグラスを満たして彼女をじっと見る)
         おや、恐がっているな。
ヨハンナ  むしゃくしゃするのよ。
ウェルナー  (一種の満足感をまじえて)君は恐がっているんだよ。(間)誰をだ、親父か?
ヨハンナ  お父様もね。
ウェルナー  だから守ってほしいというんだな。(冷笑しながらも、少し気を緩めて)役割が逆転したな。
         (一気にグラスをあける)気になることを話してごらん。(沈黙)そんなに難しいことなのかい? おいで。
         (彼女は動かない。顔をこわばらせている彼女を引き寄せる)頭を肩にのせるんだ。
         (ほとんど力ずくで、ヨハンナの首を曲げさせる。間。鏡をのぞいて微笑を浮かべる)これで元通りになった。
         (ごく僅かな沈黙)さあ、話してごらん。
ヨハンナ  (顔をあげてウェルナーを見つめる)フランツに会ったわ。
162名前なし:2009/09/25(金) 02:44:32 ID:FKwFcaJi
ウェルナー  (怒ってヨハンナを押しのける)フランツに。
         (ヨハンナに背を向け、事務机の所まで歩き、もう一杯シャンパーニュを注ぎ、
         ゆうゆうと一口飲んで気を落ち着け、微笑みながらヨハンナを振り返る)
         それはよかったな。君は家族の全員を知ったわけだ。
         (ヨハンナは面食らって彼を見る)兄貴をどう思う、箪笥みたいな男だろう、え、どうだい? 
         (まだ面食らっている彼女は、首を横に振る)ほう! 
         (面白がって)これは、これは、どうも。あいつはひょろひょろかい? 
         (彼女は口をきくのに困難を感じる)どうなんだ?
ヨハンナ  あなたの方が背が高いわ。
ウェルナー  (同じ口調で)はっはっは。(間)それから、あの立派な将校服は? 相変わらず着ているのか?
ヨハンナ  もう立派な服じゃないわ。
ウェルナー  ぼろか? だが、哀れなフランツめ、よほど参っているのかい? 
         (ヨハンナのこわばった沈黙。グラスを取り上げる)兄貴が治るように。
         (グラスを上げてから、ヨハンナの手が空なのに気付き、別のグラスを取りに行き、ヨハンナに差し出す)飲もう。
         (ヨハンナはためらう。押し付けがましく)これを持てよ。
ヨハンナ  (挑戦的に)フランツのために。

(彼女は自分のグラスをウェルナーのグラスに合わせようとする。ウェルナーは、勢いよくグラスを引っ込める。
彼らはまごついて、お互いに相手を見やる。ややあって、ウェルナーが笑い出し、グラスの中身を床に捨てる)
163名前なし:2009/09/25(金) 02:45:50 ID:FKwFcaJi
ウェルナー  (陽気に、荒っぽく)馬鹿な。そんなことあるものか。
         (ヨハンナ、唖然となる。彼女の方に進んで)君は一度もあいつと会ってはいないさ。一分、一秒だって僕は騙されなかったのだ。
         (彼女の鼻先で笑って)それに閂は? 鉄の棒は? 言っておくがね、彼らには決まった合図があるんだぜ。
ヨハンナ  (冷静な態度を取り戻して)合図は一つよ。私は知っているわ。
ウェルナー  (まだ笑っている)一体どうして知ったんだ? レーニに聞いたな?
ヨハンナ  お父様にお聞きしたのよ。
ウェルナー  (驚いて)えっ! 
         (長い沈黙。事務机の方を振り向く、陽気な態度を失ってはいないが、自制することに非常に苦心しているのが分かる)
         そうだ。こうなるのは当然だった。
         (間)親父は目的なしに何もする男ではない。このことが何か親父の得になるのかな?
ヨハンナ  私はそれを知りたかったのよ。
ウェルナー  さっき、親父は、何を君に提案したんだい?
ヨハンナ  フランツがもしお父様に会うことを承知すれば、あなたを自由にしてくださるって。
ウェルナー  (陰気で疑い深くなる。彼の不信は次のやり取りの間にその度を増す)
         二人が会うんだって……で、フランツが承知するというのかね?
ヨハンナ  (自身ありげに)ええ。
ウェルナー  それから?
ヨハンナ  何もないわ。私たちは自由になるのよ。
ウェルナー  何をする自由だ?
ヨハンナ  出て行く自由よ。
ウェルナー  (味気なく冷たい笑い)ハンブルクにか?
ヨハンナ  私たちの行きたい所に。
ウェルナー  (同じ口調で)よかろう。(冷たい笑い)ねえ、君、こんなに見事に足を払われたのは、生まれて初めてだよ。
ヨハンナ  (呆気にとられて)お父様は、一時もお考えにならなかったわ……
164名前なし:2009/09/25(金) 02:47:12 ID:FKwFcaJi
ウェルナー  次男坊のことはね? 全くその通りだ。フランツが僕の事務所を占領して、
         僕の椅子に座り、僕のシャンパーニュを飲み、貝殻を僕のベッドの上に捨てるんだ。
         それは別として、誰が僕のことなんか考えてくれるだろうか? 僕に値打ちがあるのだろうか? 
         (間)年寄りの気が変わったらそれだけのことだ。
ヨハンナ  それはそうでしょうけど、あなたには何も分からないのね。
ウェルナー  親父が、兄貴を会社の筆頭にしようとしていることは、分かっているさ。
         それから、君が、わざわざあの二人の仲立ちをつとめたこともね。
         僕をここから引き離しさえすれば、僕が蹴飛ばされて、地位を奪われることなんか、君にはどうでもいいのだ。
         (ヨハンナは冷たい目で彼を見る。言い訳をしようとさえせずに、言葉を続けさせる)
         僕はね、懐かしい子供のころの思い出の、この恐ろしい建物に軟禁されるために、弁護士の仕事を途中で止めさせられたんだぜ。
         やがて、道楽息子が部屋を出ることに同意すると、そのお祭騒ぎで僕を外に叩き出して、女房を始め、みんながご満足だ。
         え、そうだろう? その話をハンブルクでするがいいさ。
         (事務机の所に行き、シャンパーニュを一杯注いで飲む。浅いけれどもはっきりそれと分かる彼の酔いは、幕の終わりまでにどんどん酷くなっていく)
         荷造りは少し待った方がいいだろう。僕も、いいなり放題になっているかどうか分からないからな。
         (強く)僕には会社がある。僕は会社を手放さない。僕の真価を見せてやろう。
         (事務机の所に行って座る。静かだが悪意のある、酷い疑惑を含んだ声で)今は、放っておいてくれ、よく考えなければならないからな。

(間)
165名前なし:2009/09/25(金) 02:48:08 ID:FKwFcaJi
ヨハンナ  (急がずに、落ち着いたような声で)会社なんか問題ではないのよ。誰もあなたと会社の取りっこなんかしていないわ。
ウェルナー  親父とその息子の他はな。
ヨハンナ  フランツは造船所の采配をふるったりはしないわ。
ウェルナー  なぜ?
ヨハンナ  その気がないのよ。
ウェルナー  気がないのか、それとも出来ないのか?
ヨハンナ  (自分の気持ちに嘘を吐いて)両方よ。(間)それに、お父様もご存知だわ。
ウェルナー  それで?
ヨハンナ  それでね、死ぬ前にフランツに会いたいと思っていらっしゃるのよ。
ウェルナー  (少し安心したが、疑い深く)怪しいものだ。
ヨハンナ  とても怪しいわ。でも、それはあなたに関係のないことよ。

(ウェルナーは立って、ヨハンナの所に行く。彼女の目を見つめる。彼女は彼の視線にたえている)
166名前なし:2009/09/25(金) 18:37:42 ID:FKwFcaJi
ウェルナー  君を信じるよ。(飲む。ヨハンナはむっとして顔を背ける)無能力者め。
         (笑う)おまけに、痩せっぽちのちびときている。日曜日に親父はぶくぶく太るとか言っていたな。
ヨハンナ  (いきいきと)フランツは骨と皮よ。
ウェルナー  うん。囚人みたいに、ちっぽけな腹をしてね。
         (鏡に映る自分の姿を見て、ほとんど無意識に胸を突き出す)無能者だ。乞食だ。半気違いだ。
         (ヨハンナの方を向く)兄貴には……何度も会ったのか?
ヨハンナ  毎日よ。
ウェルナー  奥方は、どんな思考材料を発見なさいましたかね。(自信を新たにして歩く)「屑のない家族はない」か。
         誰がそう言ったのか、今はもう分からない。恐ろしいことだが、事実だろう? ただ、これまでは、屑は自分だとばかり思っていた。
         (ヨハンナの肩に手を置いて)ありがとう。君は僕を解放してくれたよ。
         (グラスを取りに行こうとする。ヨハンナが引き止める)兄貴に、僕からの酒を瓶で届けさせてやってくれ。
         (笑う)それから君だがね、もう二度と兄貴に会ってはいけないよ。会うことは禁止だ。
ヨハンナ  (相変わらず冷たく)いいわ。私をここから連れて行ってちょうだいな。
ウェルナー  君は僕を解放してくれたと言ったではないか。僕は、あれやこれやと想像していたのだ。これからは、全てうまくいくよ。
ヨハンナ  私には駄目。
ウェルナー  駄目か? (彼女を見つめる。表情が変わり、肩が僅かに丸みを帯びる)僕が生活を変え、考えを実行に移してもかい?
ヨハンナ  それでも駄目よ。
ウェルナー  (出し抜けに)一緒に寝たな。(素っ気無い笑い)白状しろよ。そんなことで君を恨みやしないさ。
         兄貴が口笛一つ吹きさえすれば、女たちは仰向けに引っくり返ったものらしい。
         (いやらしい態度でヨハンナを見る)僕は君に質問したんだぜ。
ヨハンナ  (きわめて強硬に)無理に返事をさせようとするなら、許さないわよ。
ウェルナー  返事をしろよ。そうすれば、許さなくてもいいさ。
ヨハンナ  嫌よ。
167名前なし:2009/09/25(金) 18:38:54 ID:FKwFcaJi
ウェルナー  君たちは一緒に寝なかったんだな。よろしい。だけど君は寝たくてたまらないのさ。
ヨハンナ  (静かだが、一種の憎しみを込めて)いやらしい人ね。
ウェルナー  (にやにやして陰険に)どうせ僕はゲルラッハ家の人間さ。答えろよ。
ヨハンナ  嫌です。
ヨハンナ  (冷静なままで)あなたよりも、死と狂気が私を引きつけたのよ。
       二階では、また、あれが始まる。私は、あれはご免だわ。(間)あの人の蟹、あの人よりは蟹を信じるわ。
ウェルナー  お前があいつを愛しているからさ。
ヨハンナ  蟹が真実だからよ。気違いはね、ウェルナー、真理を語るものだわ。
ウェルナー  へえ。どんな真理だい?
ヨハンナ  真理は一つしかないわ。それは生きる恐怖よ。(熱を取り戻して)私は、嫌よ、嫌よ。自分を騙す方がいいわ。
       (身振りで天井を指して)この蓋が、私を押し潰すの。愛してくれるなら、助けてちょうだい。
       全てがみんなのもので、みんなが騙し合いをしている町に、連れて行ってちょうだい。
       風が吹く町、遠くから来る風が吹く町に。ウェルナー、誓うわ。私たちはお互いを見直すことよ。
168名前なし:2009/09/25(金) 18:40:11 ID:FKwFcaJi
ウェルナー  (藪から棒の乱暴な荒っぽさで)見直すって? へえ。ヨハンナ、で、僕がどうして君を見失ったというんだ? 
         僕は一度も君をものにしたことがない。もうたくさんだ。僕は、君の鼻息ばかりうかがっていなければならなかった。
         君は、僕にまやかしものをつかませた。僕がほしかったのは女なのに、手に入れたのは女の死骸にすぎなかった。
         君が狂ったって仕方がないよ。僕たちはここに残るのだ。
         (ヨハンナの口真似をして)「私を守って! 助けてちょうだい」どうすればいいのだ? 
         尻に帆をかけるかね? (感情を抑える。不快で冷たい微笑)さっきは興奮してしまった。
         許してくれ。貞淑な妻でいるためには、どんなことでもするんだよ。それが君の人生の役割なんだ。だが、全ての楽しみは君の勝手さ。
         (間)君に兄貴を忘れさせるにはどこまで行ったらいいのだろう? どこまで逃げるのだろう? 
         列車、飛行機、船、何て面倒臭くて骨の折れる仕事だ。君は、全てをその虚ろな目で見る。
         いやというほどぜいたくをさせられても、それで君が変わることはない。僕はどうだ? 
         その間中、僕が何を考えるか、考えてみたことがあるかい? あらかじめ敗北を宣告されて、指一つ動かさずに逃げたということさ。
         卑怯者、卑怯者だ。君は、そういう僕が好きなんだよ。慰めてやることができるからね。母親ぶってさ。
         (力を入れて)僕らはここに残るんだ。僕たち三人のうち誰かが、君か、兄貴か、僕が参ってしまうまでね。
ヨハンナ  よほど私が憎いのね。
ウェルナー  君を征服したら、君を愛するよ。僕はこれから戦うんだ。おとなしくしろ。
         (笑う)僕は勝つぞ。君たちは、君たち女は、力しか愛さないのだ。しかし、力の持ち主というのは、この僕さ。

(彼女の胴を抱きかかえ、乱暴に接吻する。ヨハンナは両の拳で彼を打って身体を引き抜き、笑い出す)
169名前なし:2009/09/25(金) 18:41:21 ID:FKwFcaJi
ヨハンナ  (大声で笑って)まあ、ウェルナーったら、あの人は噛みつくと思っているの?
ウェルナー  誰だ? フランツか?
ヨハンナ  あなたがあやかりたいと言っている、兵隊上がりの乱暴者よ。(間)ここに残るのなら、毎日あの人の所に行くわよ。
ウェルナー  それはちゃんと考えているさ。そして、君は、毎晩僕のベッドに入ってくるんだ。(笑う)ひとりでに比較できるというわけさ。
ヨハンナ  (ゆっくり、寂しそうに)情けないウェルナー。

(出口の方に行く)

ウェルナー  (急に慌てて)どこへ行く?
ヨハンナ  (意地の悪い微笑を浮かべて)比較しに行くのよ。

(ドアを開けて外に出る。ウェルナーは、彼女を引き止める身動き一つしない)


---幕---
170名前なし:2009/09/27(日) 01:44:13 ID:Ezk4G74A
第四幕

(フランツの部屋。第二幕と同じ装置。しかし、ボール紙の札は全てなくなっている。
床には、もう牡蠣の殻はない。テーブルの上に、電気スタンド。ただヒトラーの肖像だけが残っている)

第一景

フランツ  (一人)天井の覆面の住人たちよ。天井の覆面の住人たちよ、聞いてくれ。(沈黙、天井に向かって)何? 
       (口の中で)彼らの反応がない。(強く)諸君! 諸君! ドイツが、殉教のドイツが、君たちに話をしているのだ! 
       (間。がっかりして)この聞き手たちは凍りついたのだ。(立ち上がって歩く)不思議な、確かめようもない印象だが、歴史は今夜停止するぞ。
       ぴたりだ。地球の爆破が予定されて、学者どもの指がボタンにかかっている。おさらばだ。
       (間)それでも人類が生き残ったら、そいつがどうなるか知りたいだろうな。
       (苛立って、ほとんど乱暴に)彼らの機嫌とりにおべんちゃらを言っても、向こうでは耳をかそうともしてくれない。
       (熱を帯びて)親愛な諸君、お願いだ、君たちにはもう聞いてもらえず、にせの証人が君たちを籠絡してしまったとしたら……
       (急に)待ってくれ! (ポケットの中を探る)俺は罪人を捕まえているぞ。
       (革ベルトの端をつまんで腕時計を憎らしそうにつまみ出す)俺はこの獣を贈物にされたが、これを受け取ったのはまずかった。
       (腕時計を見る)十五分遅れているな。けしからんぞ。こいつを、この時計を打ち割ってやろう。
       (手首につける)十五分、もう十六分だ。(声高に)意地悪く俺を怒らせると、長々と続いた俺の我慢もそれまでになる。全ては酷い結末になるぞ。
       (間)あけてやるものか、わけはないさ。丸々二時間、躍り場にほったらかしにしておいてやろう。


(ドアを三つ叩く音。急いで開けに行く)
171名前なし:2009/09/27(日) 01:45:06 ID:Ezk4G74A
第二景  フランツ、ヨハンナ

フランツ  (ヨハンナを中に入れるために後退する)十七分だ。

(腕時計を指す)

ヨハンナ  何と仰ったの?
フランツ  (時報の声を真似て)四時十七分三十秒でございます。弟の写真を持って来てくれたね? (間)どうだい?
ヨハンナ  (不機嫌に)ええ。
フランツ  見せてくれよ。
ヨハンナ  (相変わらず不機嫌に)写真で何をしようというの?
フランツ  (傲慢な笑い)写真をたねに何ができるかね?
ヨハンナ  (ためらった挙句)はい、これ。
フランツ  (写真を見ながら)へえ、これが弟とは恐れ入った。どうして立派なスポーツマンだよ。おめでとう。(写真をポケットにおさめる)で、孤児たちは元気かね?
ヨハンナ  (面食らって)どの孤児たち?
フランツ  ほら、あのデュッセルドルフの戦災孤児だよ。
ヨハンナ  まあね……(急に)死んだわ。
フランツ  (天井に向かって)蟹たちよ。孤児は七百人だった。火の気にも土地にもありつけない哀れな七百人の子供たちだ……
       (ここで中絶)ねえ、君、僕はあの孤児たちなんてどうでもいいんだ。できるだけ早く葬ってもらうんだな。これで厄介払いというものさ。
       (間)この通り、僕は、君のおかげでこんな男に、悪いドイツ人になってしまった。
ヨハンナ  私のせいですって?
172名前なし:2009/09/27(日) 01:46:57 ID:Ezk4G74A
フランツ  君の間違いが全てを狂わせるということを、知っておくべきだった。
       この部屋から時間を追放するのに五年はかかった。それなのに、君はあっという間に、時間を引き戻してしまった。
       (腕時計を指して)僕の手首の周りで唸り声をあげていて、レーニのノックが聞えると、ポケットに突っ込まれるこの甘ったれの獣は、
       普遍的時間、時報の時間、列車時刻表の時間、測候所の時間だ。だが、それをどうしろというのだ? この僕は普遍的だろうか? 
       (腕時計を見ながら)僕はこの贈物は臭いと思ったよ。
ヨハンナ  それでは返してくださいな。
フランツ  断じて返さない。とっておくよ。君がなぜ僕に時計をくれたのか、ただそれが不思議なのだ。
ヨハンナ  あなたが生きている限り、私もまだ生きているからよ。
フランツ  生きるとはどういうことだ? 君たちを待つことだろうか? 千年たつまでは、僕はもう何も待たない。
       レーニは勝手な時にやってくる。眠りがどうしても僕を捕まえようとする時、
       僕は行き当たりばったりに眠ったものだ。つまり、全然時間を知らなかったのさ。
       (不機嫌に)今では昼と夜とが押し合い圧し合いしている。
       (ちらっと腕時計を見る)四時二十五分、影がのび、君が行ってしまう時、
       この部屋はこうこうと明るいのに、夜がやってくる。だから、僕は恐いのだ。
       (不意に)あの哀れな子供たちは、いつ葬られるのかね?
ヨハンナ  月曜日でしょう。
フランツ  教会の廃墟の屋天に、仮安置所を作らなければなるまい。ぼろ着姿の群衆に見守られる七百の小さな棺。
       (ヨハンナを見つめる)お化粧していないね。
ヨハンナ  ごらんの通りよ。
フランツ  忘れたの?
ヨハンナ  いいえ、来るつもりじゃなかったの。
フランツ  (乱暴に)何だって?
ヨハンナ  今日はウェルナーの日なのよ。(間)そうだわ、土曜日ですもの。
フランツ  弟にはどうしてまる一日が必要なのだ? 毎晩があるじゃないか? 土曜日だから……
       なるほど、イギリス式の一週間だな。(間)それでは、もちろん日曜日もだね?
ヨハンナ  その通りだわ。
173名前なし:2009/09/27(日) 01:48:37 ID:Ezk4G74A
フランツ  僕の聞き違いでなければ、今日は土曜日だね。ああ、時計は曜日を教えてくれない。
       僕に日付入りの手帳をくれなければいけないよ。(ちょっと冷笑するが、急に)君なしの二日だって? それは駄目だ。
ヨハンナ  この時だけは一緒に暮らせるというその時を、夫から取り上げられるとお思いになるの?
フランツ  どうしてできないのだ? (ヨハンナは答えずに笑う)弟には君を自由にする権利があるのかね? 残念ながら、僕にもその権利はあるんだよ。
ヨハンナ  (一種の乱暴な調子で)あなたにですって? 全然ないわ。これっぽっちも。
フランツ  君を探しに行ったのは僕だったのだろうか? 
       (大声で)意気地なくこうやって待つと、仕事から僕の気がそれるのが、いつになったら分かってもらえるのだ。
       蟹どもは戸惑い、警戒している。だから、にせの証人たちが大威張りだよ。(当てこするように)ダリラ。
ヨハンナ  (意地の悪い笑い声を立てて)ふふふ。(フランツの方に行き、傲然と彼を見つめる)で、ここにいるのはサムソン? 
       (さらに激しく笑って)サムソン! サムソン! (笑い止めて)サムソンって、もっと違った人だと思ってたわ。
フランツ  (凄まじく)サムソンは僕だ。僕は何世紀もの時代を背負っている。僕が頭を上げて立ち直れば、それらの時代が崩れ落ちてしまうのだ。
       (間、普通の声、苦々しい皮肉を込めて)それにあいつはきっと哀れな男だったに違いない。
       (部屋を横切って歩く)何と卑屈なこのざま。(沈黙、腰を下ろす)僕には君が邪魔だよ。
ヨハンナ  もう邪魔はしなくてよ。
フランツ  何をしたんだい?
ヨハンナ  ウェルナーにすっかり話してしまったの。
フランツ  えっ、いったいどうして?
ヨハンナ  (苦々しく)私にもなぜか分からないわ。
フランツ  弟は話をよくとっているかい?
ヨハンナ  とても悪くとったわ。
フランツ  (不安になり、苛々して)弟の奴、僕たちと別れるというのかい? 君を連れて行くのかね?
ヨハンナ  あの人はここに残るわ。
フランツ  (安心して)それは結構、(揉み手)大変結構だ。
174名前なし:2009/09/27(日) 01:50:10 ID:Ezk4G74A
ヨハンナ  (苦い皮肉たっぷりに)で、あなたは私から目をお放しにならないの? でも、何を見ていらっしゃるの? 
       (彼女はフランツに接近し、フランツの顔を両手で挟み、無理に自分を見つめさせる)
       私をごらんになって、そう。そういう風に。さあ、これで大変結構といってもいいわ。
フランツ  (ヨハンナを見つめ、その手から顔を引き抜く)分かる。そうだ。分かるよ。
       君はハンブルクを懐かしがっている。安易な生活。男たちの賛美と彼らの欲情。
       (肩をすくめる)君にはそれが問題なのさ。
ヨハンナ  (悲しそうに、冷たく)サムソンって一人の哀れな男にすぎなかったのね。
フランツ  そう。そう。そうだ。哀れな奴だった。

(横ばいを始める)
175名前なし:2009/09/27(日) 03:25:33 ID:Ezk4G74A
ヨハンナ  何をなさるの?
フランツ  (咽喉の奥から出るごわごわした声で)蟹の真似だよ。(自分の言葉に驚いて)何だって? 
       (ヨハンナの方に戻りながら、普通の声で)僕は、なぜ哀れな男なんだろう?
ヨハンナ  何もお分かりにならないからだわ。(間)私たちは、地獄の苦しみを味わおうとしているのよ。
フランツ  私たちって誰が?
ヨハンナ  ウェルナー、あなた、そして私。(短い沈黙)あの人は嫉妬のためにここに残っているんだわ。
フランツ  (驚いて)え?
ヨハンナ  嫉妬よ。お分かりになる? (間、肩をひくひくさせる)あなたは、嫉妬って何かもお分かりにならないのね。
       (フランツ、笑う)あの人は、毎日、その日がたとえ日曜でも、あなたのお部屋に私をよこすでしょう。
       造船所の大臣室のような広い事務所で、苦しむことでしょうよ。そして夜になって、償いをさせられるのは私なんだわ。
フランツ  (心から驚いて)すまなかったね。でも、弟は誰を妬いているのかな? 
       (ヨハンナは肩をすくめる。フランツは写真を取り出して眺める)僕を? 僕がどうなったか……あの男に言ったの?
ヨハンナ  言ったわ。
フランツ  それで?
ヨハンナ  それであの人は妬いているのよ。
フランツ  まさに倒錯症だ。僕は病人で、たぶん気違いで、身を潜めているんだ。戦争が僕を壊してしまったんですよ、奥様。
ヨハンナ  戦争はあなたの傲慢を打ち砕きはしなかったわ。
フランツ  それだけのことで弟は僕に嫉妬できるのかね?
ヨハンナ  ええ。
フランツ  僕の傲慢は粉みじんになったと言ってやりなさい。自己防衛のために、空威張りをしているんだと言ってやるんだ。
       さあ、とことんまで卑下しよう。ウェルナーに僕が嫉妬していると言うんだよ。
ヨハンナ  あの人に?
フランツ  あいつの自由と、筋肉と、微笑と、細君と、立派な心がけに嫉妬しているとね。(間)ふん、あの男のうぬぼれには、この上ない慰めだ。
176名前なし:2009/09/27(日) 03:26:53 ID:Ezk4G74A
ヨハンナ  私の言うことを信じてくれないわ。
フランツ  あれには気の毒だが、仕方ないさ。で、君は?
ヨハンナ  私?
フランツ  君は僕を信じるのかい?
ヨハンナ  (おぼつかなく、苛立つように)いいえ。
フランツ  君はうかうかといろいろな秘密をもらしてしまった。僕は、君の刻一刻の私生活を知っているよ。
ヨハンナ  (肩をすくめて)レーニの言うことは嘘だわ。
フランツ  レーニは君のことなんか口にしないよ。(腕時計を指して)おしゃべり女はこいつだ。こいつときたら、何でもかんでも喋ってしまうんだからな。
       君がこの部屋を出る途端に、八時半、家族の夕食、十時、めいめいが自分の部屋に戻り、君が亭主と差し向かいになる、などと喋り出すのだ。
       十一時、夜の化粧、ウェルナーはベッドにもぐり、君は風呂に入る。十二時、君がウェルナーのベッドに滑り込む。
ヨハンナ  (傲慢な笑い)あの人のベッドに。(間)違うわ。
フランツ  ダブルベッドかな?
ヨハンナ  そうよ。
フランツ  どっちのベッドで寝るのかね?
ヨハンナ  (怒って傲然と)こちらで寝たり向こうで寝たり。
フランツ  (口の中でつぶやくように)ふん。(写真を眺める)八十キロね。あのスポーツマンは君を押し潰すに違いない。君はそういうのが好きなんだな?
ヨハンナ  私があの人を選んだとすれば、枯れ木みたいな男よりスポーツマンの方が好きだからよ。
フランツ  (ぶつぶつ言いながら写真を見た後、もとのポケットにおさめる)六十時間前から、僕は目を閉じていないのだ。
ヨハンナ  なぜなの?
フランツ  僕が眠っている間に、君がウェルナーと一緒に寝てはならないからだ。
ヨハンナ  (素っ気無い笑い)それでは、これからは一睡もなさらなければいいわ。
フランツ  僕はそのつもりだ。今夜、あいつが君を抱く時、僕が目を覚ましていることが分かるだろう。
ヨハンナ  (乱暴に)お気の毒だけれど、そんな薄汚い孤独の快楽は、取り上げてしまうわ。今夜はお休みなさいな。ウェルナーには、私に触らせないわ。
フランツ  (面食らって)へえ。
ヨハンナ  がっかりなさったの?
フランツ  いや。
177名前なし:2009/09/27(日) 03:28:32 ID:Ezk4G74A
ヨハンナ  あの人の過ちがもとで、私たち二人がここにいる限り、あの人は私にはもう触れないわ。
       (間)あの人が何を考えているかご存知? あなたが私を誘惑したんですって。
       (当てこするように)あなたがよ。(間)あなた方、二人とも似ているのね。
フランツ  (写真を示して)似ているものか。
ヨハンナ  似ていますよ。二人のゲルラッハ、二つの抽象、幻影を追う二人の兄弟。私は一体何なのかしら? 
       何でもないわ。ただの責め道具でしかないのよ。めいめいが、私の身体に、相手の愛撫の痕を探っている。
       (フランツに近寄る)この身体をごらんなさいな。
       (彼の手をとり、無理に自分の肩にのせさせる)昔、男たちと仲間付き合いをしていた頃、
       あの人たちがこの身体をのぞむのに、黒ミサなんか必要なかったわ。
       (身体を離して彼を押しやる。間。不意に)お父様があなたにお話があるんですって。
フランツ  (平静に)へえ。
ヨハンナ  あなたがお父様にお会いになれば、ウェルナーは誓いから開放してもらえるのよ。
フランツ  (平然と、何食わぬ顔で)で、それから? 君たちは行ってしまうのか?
ヨハンナ  それは、もう、ウェルナー次第だわ。
フランツ  (依然として平静に)君はこの会見をのぞんでいるんだね?
ヨハンナ  ええ。
フランツ  (相変わらず平静に)君に会うことは諦めなければならないのか?
ヨハンナ  もちろんよ。
フランツ  (同じ口調で)僕はどうなるのだろう?
ヨハンナ  あなたの永遠の中に帰るのよ。
フランツ  よかろう。(間)親父の所に言いに行ってくれたまえ……
ヨハンナ  (不意に)嫌よ。
フランツ  え?
ヨハンナ  (熱っぽく乱暴に)嫌よ。お父様には何も言わないわ。
フランツ  (勝利を意識して、平然と)返事をしなければならないのだ。
ヨハンナ  (同じ口調)無駄よ。お返事の取次ぎはご免こうむるわ。
フランツ  なぜ親父の要求を取り次いだのだね?
ヨハンナ  いやいやながら。
フランツ  いやいやだって?
178名前なし:2009/09/27(日) 03:29:36 ID:Ezk4G74A
ヨハンナ  (薄笑い。視線にはまだ憎悪を残して)ねえ、私は、あなたを殺そうと思っていたのよ。
フランツ  (非常に愛想良く)へえ、ずっと前からかい?
ヨハンナ  五分前から。
フランツ  それも、もうすんだのかね?
ヨハンナ  (微笑を浮かべ、落ち着いて)まだあなたの頬を痛めつけたいという気持ちはあるわ。
       (フランツの顔に両手で、平手打ちを加える。彼はされるがまま)こういう風に。

(両手をおろし、彼から離れる)

フランツ  (相変わらず愛想良く)五分か、君が運がいい。僕の方の、君を殺したいという気持ちは一晩中続くよ。

(沈黙、ヨハンナは寝台に腰掛け、空を見つめる)

ヨハンナ  もう行きはしないわ。
フランツ  (彼女の様子をうかがって)もう決して?
ヨハンナ  (彼を見ずに)決して行きません。

(彼女は乱れた含み笑いを浮かべ、何かを落とすかのように両手を開き、足元を見つめる。
フランツはヨハンナを観察し、態度を変える。彼は第二幕と同様に、冷酷で偏執的になる)
179名前なし:2009/09/27(日) 03:31:19 ID:Ezk4G74A
フランツ  それじゃ、僕と一緒にいるのだ。完全にね。
ヨハンナ  この部屋に?
フランツ  そうさ。
ヨハンナ  決して外に出ないで? (フランツ頷く)籠城なのね?
フランツ  まさにその通り。
       (歩きながら喋る。ヨハンナは目で彼を追う。フランツが喋っている間に、ヨハンナは次第に我に返って、固くなる。
       フランツが彼女の錯乱をそのままにしておこうとしかしないことに気付く)
       僕は、十三年間、山頂の氷の屋根の上で暮らした。僕はおびただしいガラス細工を闇の中に投げ込んだのだ。
ヨハンナ  (既に警戒気味に)どんなガラス細工なの?
フランツ  奥様、世界ですよ。君が生きている世界。(間)この邪悪のがらくたは復活した。復活させたのは君なのだ。
       君が僕から去る時、その中に君がいるので、がらくたが、僕を取り囲むのだ。君はザクセン・スイスの麓で、僕を踏み潰す、
       僕は海面から五メートルのこの部屋の中をふらつく。浴槽の君の体の周りに、また水が湧く。
       今エルベ川が流れ、草が伸びている。女は裏切り者だ。
ヨハンナ  (暗い面持で堅苦しく)私が誰かを裏切るとすれば、それはあなたではないわ。
フランツ  僕だよ。二重スパイの僕も裏切られるのだ。日に二十時間、他の全ての人間と一緒に、
       君は僕の靴の下で、見たり、感じたり、考えたりする。君は僕を、卑俗な人間の掟に従わせるのだ。
       (間)もし僕が君を閉じ込めれば、絶対に平穏無事だよ。世界は暗闇に帰り、君はあるがままの君でしかなくなる。
       (ヨハンナを指して)この君だ。蟹どもはまた僕を信用するようになり、僕は彼らに話しかけるよ。
ヨハンナ  (皮肉に)時々は私に話してくださるの?
フランツ  (天井を指して)二人で一緒に彼らに話すのだ。
       (ヨハンナ、吹き出す。彼はあっけにとられて彼女を見つめる)断るのかい?
ヨハンナ  何を断らなければならないのかしら? あなたが悪夢の話をし、私がそれを聞いている、それだけのことだわ。
フランツ  ウェルナーとは別れないのだね?
ヨハンナ  別れないと言ったでしょう。
180名前なし:2009/09/27(日) 03:38:21 ID:Ezk4G74A
フランツ  それでは、僕と別れなさい。これは亭主の写真だ。(写真を渡す。ヨハンナそれを受け取る)
       それから、この腕時計だけれど、これは時報の時刻きっかりに、永遠の時間に入る。
       (腕時計をはずし、文字盤を見つめる)それっ! (時計を床に投げる)これからは、いつまでも四時半だ。君の思い出にね。おさらばだ。
       (戸口に行き、閉め金をはずし、差した鉄棒を抜く。長い沈黙。ヨハンナに一礼し、出口を指す。
       ヨハンナは急がずに戸口まで足を運び、鉄棒を通し、閂の閉め金をかける。
       平静に、笑顔も見せず、堂々と威厳を示して、フランツの所に戻って来る)
       よろしい。(間)どうしようというのかね?
ヨハンナ  月曜日から私がしていること。行ったり来たりよ。

(身振り)

フランツ  もしドアを開けなかったら?
ヨハンナ  (落ち着いて)あなたは開けてくださるわ。

(フランツは、屈んで腕時計を拾い、耳に持っていく。表情と声が変わる。言葉に一種の熱を帯びてくる。
このやり取りから、しばし二人の間に真の共犯関係が成立する)
181名前なし:2009/09/27(日) 03:39:23 ID:Ezk4G74A
フランツ  僕たちは運がいいな。時計が動いている。(文字盤を見る)四時三十一分。永遠一分過ぎだ。
       針よ、回れ、回れ、回れ、生きなければならないのだ。(ヨハンナに)どうやって?
ヨハンナ  分からないわ。
フランツ  僕たちは三人の猛烈な気違いになるのだ。
ヨハンナ  四人よ。
フランツ  四人?
ヨハンナ  会見を断れば、お父様はレーニにお話しになるわよ。
フランツ  いかにもありそうなことだ。
ヨハンナ  どういうことになるかしら?
フランツ  レーニは手の込んだことは嫌いさ。
ヨハンナ  そうすると?
フランツ  あっさり片付けるだろう。
ヨハンナ  (フランツのテーブルの上にあるピストルを握って)これで?
フランツ  それを使うか、さもなければ別の方法で。
ヨハンナ  そういう時には、女は女を狙って射つわ。
フランツ  レーニは半分しか女じゃない。
ヨハンナ  死ぬのはおいや?
フランツ  正直に言って、そうだな。(天井に向かって身振り)僕は彼らに分かってもらえる言葉を見つけなかった。で、君はどうだね?
ヨハンナ  ウェルナーだけが生き残るのは嫌だわ。
フランツ  (含み笑い、結論的に)僕たちは、死ぬことも生きることもできないのだ。
ヨハンナ  (同じ口調で)会うことも、分かれることも。
フランツ  僕たちはみっともない格好で追い詰められている。

(腰を下ろす)

ヨハンナ  みっともない格好でね。

(寝台に腰掛ける。沈黙。フランツはヨハンナに背を向け、二つの貝殻をすり合わせる)
182名前なし:2009/09/27(日) 03:41:20 ID:Ezk4G74A
フランツ  (ヨハンナに背を向けたまま)一つは出口がなければならない。
ヨハンナ  出口はないわ。
フランツ  (強く)一つはなければならないのだ。(偏執的、絶望的に、荒々しく貝殻をこする)え?
ヨハンナ  さあ、貝殻を捨てなさいな。我慢できないわ。
フランツ  黙りたまえ。(貝殻をヒトラーの肖像に投げつける)僕がどんなに骨を折っているか見てごらん。
       (半ば彼女の方に振り向き、震える手を見せる)何を心配しているか分かるかね?
ヨハンナ  出口でしょう? (彼は依然として震えながら頷く)どうなさったの?
フランツ  静かに。(立ち上がり、そわそわ歩く)急かさないでくれたまえ。あらゆる道が、最小の悪の道までが閉鎖されている。
       通行が不能なために、決して閉鎖されない道だけが残っているのだ。それは、最悪の道だ。僕たちはその道を行くんだよ。
ヨハンナ  (大声で)嫌よ。
フランツ  前には出口を知っていたんだがね。
ヨハンナ  (熱っぽく)私たちは幸福だったわ。
フランツ  地獄でね?
ヨハンナ  (夢中で喋りたてる)そうよ。地獄で幸福だったわ。あなたの意思にも、私の意思にも背いてね。
       お願いよ、後生だから、このままでいましょうよ。一言も言わず、眉毛一本も動かさずに待ちましょう。
       (フランツの腕をとらえ)変えるのはよしましょう。
フランツ  ヨハンナ、他人は変わるよ。彼らは僕たちを変えにやって来る。(間)レーニが僕たちを生かしておくと思うかね?
ヨハンナ  (乱暴に)レーニなら、私が引き受けるわ。射たせなければならないとしたら、私が真っ先に射つわ。
フランツ  レーニの話は別にしよう。僕たちは、今、二人きりで顔をつき合わせている。何が起こるだろう?
ヨハンナ  (同じ熱心さで)何も起こらない、何も変わらないわ。私たちは……
フランツ  君が僕を破壊することになるだろうよ。
ヨハンナ  (調子を変えず)そんなこと決してないわ。
フランツ  君は、ゆっくり、確実に、僕を破壊していくのだ。君がいるというただそれだけのことで。
       既に僕の狂気がいためられている。ヨハンナ、狂気は僕の隠れ家だったが、明るみに出た僕の狂気はどうなるのだろうか?
183名前なし:2009/09/27(日) 03:43:30 ID:Ezk4G74A
ヨハンナ  (同じ調子で)あなたは癒えるわよ。
フランツ  (短い叫び)へえ。(間。冷たい笑い)僕は垂れ流しの老いぼれになるのさ。
ヨハンナ  私は決してあなたに酷いことなんかしないわ。あなたを癒そうとも思わないわ。
       あなたの狂気。それは私の檻なの。その中を私はぐるぐる回っているんだわ。
フランツ  (苦く寂しい愛情を込めて)可愛いリス。君はぐるぐる回っているんだね? リスは素晴らしい歯の持ち主だ。君は格子をかじるだろう。
ヨハンナ  それは嘘。私は格子をかじりたいとさえ思わないわ。あなたの、ありったけの気まぐれに従っているのよ。
フランツ  それはそうさ。だが、あまり見え透いているよ。君の嘘はとりもなおさず告白だ。
ヨハンナ  (引きつって)あなたには決して嘘を吐かないわ。
フランツ  君は、それ一本槍だ。寛大に、忠実に。まるで真面目な兵卒みたいだね。
       ただ、君は嘘がまずすぎるよ。巧く嘘を吐くには、自分が嘘でなければならない。僕の場合がそれさ。
       君という女は真実なのだ。君を見ると、真実は存在しているが、僕の側にはないことを認識するね。
       (笑う)僕ならば、もしデュッセルドルフに孤児がいるとすれば、孤児たちはうずらみたいに丸々太っていると断言するね。
ヨハンナ  (機械的で依怙地な声で)あの子たちは死んだわ。ドイツは死んだのよ。
フランツ  (乱暴に)黙りなさい。(間)ねえ、君は今でも最悪の道を知っているね? 
       君は僕の目を閉じようと夢中になって、かえって、僕の目を開けさせるのだ。
       しかし、毎度君の裏をかく僕は、君の共犯者をつとめている。というのは……というのは、僕が君に惹かれているからさ。
ヨハンナ  (幾分我に返って)それでは、お互いに、自分が望むのと反対のことをしているというわけね?
フランツ  全く、その通りだよ。
ヨハンナ  (横柄なごつごつした口調で)それで? 出口は一体どうなの?
フランツ  お互いにやるべきことを望むということさ。
ヨハンナ  私は、あなたを破壊することを望まなければならないの?
フランツ  僕たちはお互いに、相手が真実を望むように助け合わなければならないのだ。
184名前なし:2009/09/27(日) 04:09:01 ID:Ezk4G74A
ヨハンナ  (調子を崩さずに)あなたは決して真実を望みはしないわ。骨まで誤魔化されているのよ。
フランツ  (素っ気無く冷ややかに)ねえ、君、僕はどうしても自分の身を守らなければならなかったのだ。
       (間、いっそう熱を帯びて)僕は即座に世迷言を捨てるだろう……ただし……ただし……

(躊躇する)

ヨハンナ  ただし?
フランツ  僕が自分の嘘以上に君を愛し、僕の真実に懲りずに君が僕を愛するとすればだよ。
ヨハンナ  (皮肉に)あなたに真実があるの? どんな真実? あなたが蟹たちに話すあれなの?
185名前なし:2009/09/27(日) 04:10:44 ID:Ezk4G74A
フランツ  (ヨハンナの方に飛び掛って)どの蟹だ? 君は気でも狂ったのかい? どんな蟹だ? 
       (間。くるりと向きを変える)あ、そう、そうだとも……(一気に、突然)蟹は人間だ。
       (間)何? (腰を下ろす)蟹を探して、どこへ行ったかって? 
       (間)昔は……知っていたのだが……そう、そう、そうだ。しかし、僕には気がかりになることが山ほどある。
       (間。きっぱりした口調で)本当の、善良で立派な人間は、積み重なった世紀のあらゆるバルコニーにいるのだ。
       法廷を這いずり回っていた僕には、彼らの声が聞こえるような気がした。「兄弟よ、あれは何だ?」あれというのは、僕のことだった……
       (立ち上がる。軍隊式敬礼。不動の姿勢、強い声で)僕は蟹だ。
       (ヨハンナの方を振り向き、親しげに話しかける)ところで、僕は、否、と言った。
       人間は、僕の時代を裁きはしないだろう。彼らは、結局、どうなるのだろうか? 
       僕らの子供のそのまた子供たちは? 祖父さんを断罪することが、子供たちに許されるんだろうか? 
       僕は状況を逆転した。僕は叫んだ。「ここにいるのは人間だ。俺がなくなった後は大洪水で、その大洪水の後には、蟹が、君たちが残るのだ」と。
       全員が覆面をとった。バルコニーには節足動物がうようよしていた。(厳粛に)君は人間が悪足類に属することを知らないわけではない。
       僕は、人類の死骸を甲殻類の法廷に引き渡して、とことんまで推し進めた。(間。彼はゆっくり横に歩く)よし。だが甲殻類というのは人間らしい。
       (取り乱した様子で静かに笑う。ヒトラーの肖像の方に後ずさりする)ほら、やはり人間なんだよ。
       (急にかっとなって)ヨハンナ、僕は彼らの裁判権を忌避して、この訴訟を彼らの手から取り上げ、君に任せる。僕を裁いてくれたまえ。
ヨハンナ  (驚きよりは諦めの方が強く)あなたを裁くの?
フランツ  (怒鳴って)きみはつんぼかい? (荒々しさが不安な驚きに変わる)何だって? 
       (我に返る。素っ気無く、むしろきざだが不吉な笑い)僕を裁くのだ。間違いなく裁くのだ。
186名前なし:2009/09/27(日) 04:11:41 ID:Ezk4G74A
ヨハンナ  昨日はまだ、あなたは証人だった。人間の証人だったわ。
フランツ  昨日は昨日だ。(額に手をやる)人間の証人……(笑って)それは誰だと思うかね? 
       ねえ、奥さん、それは人間でございますよ。そんなことは子供にだって察しがつく。
       被告が自分のために証言するのだ。僕は悪循環が存在するのを認める。
       (暗い傲慢さで)ヨハンナ、僕は人間だ、全人類だ、人間の全てだ。
       (唐突な滑稽な卑屈さ)誰彼と同じようにこの世紀なのだ。
ヨハンナ  それならば、私は誰か他の人の裁判をやるわ。
フランツ  誰の?
ヨハンナ  誰でもいいのよ。
187名前なし:2009/09/27(日) 04:13:11 ID:Ezk4G74A
フランツ  被告は模範的な態度をとるという約束をしている。僕は被告に有利な証言をするべきだったが、お望みなら、自分を告発してもいいのだ。
       (間)もちろん、君は自由だ。しかし、僕を理解しないで、知ることを恐がって、
       僕を捨てるならば、よかれ悪かれ判決を下したことになるのだ。決心しなさい。
       (彼は天井を指す)僕は頭の中をかすめることなどを彼らに話しているけれど、全然反応がないのだ。
       冗談や笑い話もしてやっているが、それについては、果たして彼らが早飲み込みをしているのか、
       それとも僕に敵意をもって意見発表を差し控えているのか、もっと考えなくてはならない。
       僕の罪の上には沈黙のピラミッドが、口を閉ざしている千年の時間がある。こいつは全くやりきれない。
       ひょっとして、彼らは僕を知らないのだろうか? 僕を忘れていたら? 
       裁判所がなかったら、この僕はどうなるだろう? 何という侮辱だ。
       「お前はしたいことをするがいい。世間はそんなことに構っていられない」なんて。
       それでは? 僕が勘定にも入らないっていうのか? 罰されない生命は、大地に飲み込まれるのだ? 
       それは、旧約聖書だった。今度は新約だ。君は未来と現在になる。世界と僕自身とになるのだ。
       君の他には何もない。君が、数々の世紀を忘れさせてくれて、僕は生きるだろう。
       君は僕の話に耳を傾け、僕が不意に君の目を見て、君が答えてくれるのを聞くだろう。
       いつか、おそらくは何年かの後、君は僕の無罪を認め、僕は君の判決を知るだろう。
       こんなにめでたい話があるだろうか? 君は僕の全てになり、全てが僕の無罪を宣告してくれるのだ。
       (間)ヨハンナ! そんなことがあるだろうか?

(間)

ヨハンナ  あるわ。
フランツ  僕は、まだ愛されるだろうか?
ヨハンナ  (寂しいけれども深い誠実味のこもった微笑)残念ながら。

(フランツ、立ち上がる。彼は開放されたような、ほとんど幸福な様子。ヨハンナの方に進み、彼女を腕に抱える)
188名前なし:2009/09/27(日) 04:14:28 ID:Ezk4G74A
フランツ  もう決して一人にはならないぞ……
       (ヨハンナに接吻しようとしてから、急に彼女を押しやり、偏執的で冷酷な態度に変える。
       ヨハンナは彼を見つめ、相手が本来の孤独に舞い戻ったことを汲み取って、固くなる。
       陰険だが、それも自分だけを目当てにした皮肉を込めて)
       ヨハンナ、許してくれ、僕が自分で選んだ審判者を堕落させるには、ちょっと早すぎる。
ヨハンナ  私はあなたの審判者じゃないわ。愛する人を裁くなんて、できないことよ?
フランツ  だが、僕を愛さなくなったら? いよいよ判決ということではないだろうか? 最後の審判ではないだろうか?
ヨハンナ  どうして私にそんなことが出来るの?
フランツ  僕の正体を知ったからね。
ヨハンナ  もう知っているわ。
フランツ  (楽しそうに、手をすり合わせて)いや、全然、知らないよ。
       (間。すっかり狂ったように見える)やがて、いつか、毎日と変わらない日がやって来る。
       僕は自分のことを話し、君がそれを聞き、突然愛が崩れ落ちる。
       君は僕に恐怖の眼差しを向け、僕は感じるのだ。自分が、またもとの……
       (四足になって横に這う)……蟹になることを。
ヨハンナ  (フランツに恐怖の眼差しを向けて)やめて。
フランツ  (四つん這いのまま)君はそういう目つきをするのだ。まさにその目つきだ。
       (ぱっと立ち上がる)どうだね、僕は有罪だろう。救いのない罪人なんだ。
       (儀式ばってはいるが楽天的な声に変わる)もちろん、同じように、無罪放免の対象になる可能性もあるがね。
ヨハンナ  (蔑むような緊張した態度)無罪を願っているのかどうか、はっきりしないわ。
フランツ  もう審判は切り上げたいのだ。どっちに転ぶにしても。

(間)
189名前なし:2009/09/27(日) 04:55:12 ID:Ezk4G74A
ヨハンナ  ブラヴォー。あなたは勝ったわ。私が行ってしまえば、あなたを断罪することになるし、
       このまま残れば、私たちの二人の間に、あなたが不信を育てることになるのよ。
       その不信は、もうあなたの目の中に光っているわ。さあ、予定通りに運びましょう。
       二人で、一緒に堕落するために、夜を明かしましょう。手抜かりがないように、お互いを堕落させましょう。
       私たちの愛を責め道具にしましょうよ。ね、飲みましょう。あなたはまだシャンパーニュを飲むのよ。私はウィスキーだったわ。
       持って来るわね。めいめい自分の瓶を持って、相手の前で、しかも一人で飲むのよ。
       (暗い微笑)私たちが何になるかご存じ、人間の証人さん。ありきたりの男女よ。
       (彼女は自分のグラスにシャンパーニュを注いで、グラスを上げる)二人のために! 
       (一気に飲み干して、グラスをヒトラーの肖像に投げつける。グラスは肖像に当たって砕ける。
       ヨハンナは壊れた家具の山から肘掛け椅子をとって来て、その椅子を起こして座る)さあ、どうなさるの?
フランツ  (唖然として)ヨハンナ……あの……
ヨハンナ  私が聞いているんだわ。どうするの? 言いたいことって、何なの?
フランツ  君には、僕が言うことが分からなかったのだ。もし、僕たち二人だけだったら、誓ってもいいが……
ヨハンナ  他に何があるの?
フランツ  (苦しそうに)妹のレーニがいるのだ。僕が喋る決心をするのは、二人があの女から逃れるためなのだ。
       僕は、言うべきことを……言うだろう。逃げずにね。だが、僕なりに、じわりじわりと話すのさ。
       それには、何ヶ月も何年もかかるのだ。そんなことはどうでもいいさ。
       僕は、君の信頼しか求めないし、もう僕しか信じないと約束してくれたら、君は僕の信頼を得ることができるのだ。
190名前なし:2009/09/27(日) 04:58:10 ID:Ezk4G74A
ヨハンナ  (長々と彼を見つめる。前よりも優しくなって)いいわ、私はあなたしか信じなくてよ。
フランツ  (少々もったいぶっているが、真面目に)君がこの約束を守る限り、レーニは僕たちに何もできないのだ。
       (椅子に座る)僕は恐かった。君が僕の腕の中にいた。僕は君がほしかった。僕は、その時、まさに生きようとしていた……
       だが、急に、妹の姿が頭に浮かんで、彼女が二人の仲をぶち壊すだろう、と思った。
       (ポケットから一枚のハンカチーフを取り出して、額の汗を拭き取る)やれやれ。
       (優しい声で)今は夏だね。暑いに違いない。(間、空を見つめて)あの人が僕を素敵な機械にしてしまったことを知っているかい?
ヨハンナ  お父様が?
フランツ  (同じ調子で)うん。ブレーキなんだ。(くすくす笑い。間)また夏が来た。だが、機械はまだ回転している。相変わらず空転しているのさ。
       (立ち上がる)僕の過去を話してあげよう。だが、とんでもない悪辣な行為を予想してはいけないよ。
       いや、そんなものはありさえしないのだ。僕が自分に責めているのは何か知っているかい? 
       何もしなかったことさ。(ゆっくり照明が弱まる)何も、何も、決してしなかったのだ。
191名前なし:2009/09/27(日) 05:00:34 ID:Ezk4G74A
第三景  フランツ、ヨハンナ、女

女の声  (優しく)兵隊さん。
ヨハンナ  (女の声を聞かずに)戦争に行ったのね?
フランツ  当たり前さ。

(舞台が暗くなり始める)

女の声  (一段と強く)兵隊さん。
フランツ  (舞台の前面に立つ彼だけが見える。椅子に座っているヨハンナは闇に包まれている)
       人間が戦争を作るのではない。戦争が人間を作るのだ。戦闘を交えている間僕は適当にふざけていた、
       僕は軍服を着た一般市民だったのだ。ある晩、僕は永遠に軍人になった。
       (後ろのテーブルの上から将校用の帽子をとって、いきなりかぶる)僕は、乞食同様の敗残者、無力な人間だった。
       ロシアから帰る途中だったが、身分を隠してドイツを横切るうちに、廃墟になったある村に入った。
女  (依然として姿は見えない、さらに強い声で)兵隊さん。
フランツ  何だ? 
       (急に後ろを向く。左手に懐中電灯を握り、右手でケースからピストルを抜き取り、
       引き金に指をかける。懐中電灯はつけていない)
       誰だ、俺を呼んでいるのは?
女  よく探してごらん。
フランツ  お前たちは何人だ?
女  お前さんが立っている所には、もう一人もいない。地べたには私がいるのさ。
    (フランツは不意に懐中電灯で、地面を照らす。一人の黒衣の女が床板の上に半ば横たわり、壁にもたれている)
    目がくらむじゃないか。それを消しとくれ。
    (フランツ、電灯を消す。二人を包み、客席から二人を見えるようにしているぼーっとした光だけが残る)
    あっはっは。射ちな、さあ、射ちなよ、ドイツ女を一人殺して、それでお前の戦争は終わりにするんだ。

(フランツは、その気もないのに銃口を女に向けていたことに気付く。愕然としてピストルをポケットにおさめる)
192名前なし:2009/09/27(日) 05:02:19 ID:Ezk4G74A
フランツ  そこで何をしているのだ?
女  ごらんの通り、壁の根元にいるのさ。(昂然と)これは私の壁だ。村中で一番頑丈な壁だ。たった一つ残った壁だよ。
フランツ  一緒に来い。
女  灯火をつけな。(フランツ、懐中電灯をつける。光束が地面を照らす。
   光は闇の中から、頭の先から足の先まですっぽりと女を包んでいる毛布を照らし出す)ごらんよ。
   (毛布を少し持ち上げる。フランツは女が見せようとするものに光を当てるが、
   それが何かは客席からは見えない。彼はついで呻き声を上げ、急に電灯を消す)そうだ、これも昔は私の脚だったのさ。
フランツ  何かお前にしてやれることがあるだろうか?
女  ちょっとお座りよ。(フランツは彼女のそばに腰を下ろす)私は、この壁の根元に、一人のドイツ兵を座らせてやった。
    (間)とりたてて、どうしろとも言わずにね。(間)その兵隊が弟ならばいいと思ったが、弟は戦死したんだよ。
    ノルマンディーでね。仕方がないさ。お前で間に合うよ。弟の奴に言ってやりたかったな。
    「見ろ! (村の廃墟を指して)これはお前の仕業だぞ」とね。
フランツ  お前の弟の仕業だって?
女  (じかにフランツに向かって)それからお前の仕業だ。
フランツ  なぜだ。
女  (分かりきっていると言わんばかりに)お前はただ負かされるままになっていた。
フランツ  馬鹿なことを言うな。
       (不意に立ち上がって女と向き合う。それまで見えなかった貼り紙に、彼の視線がぶつかる。
       貼り紙は投光器で照らされている。貼り紙は女の右側、地上百七十五センチメートルの高さの壁に貼ってある。「罪人はお前たちだ!」)
       まだあるんだな。してみると、奴らはところかまわずに貼りめぐらしているのだ。

(ビラを剥がしに行く)
193名前なし:2009/09/27(日) 05:03:30 ID:Ezk4G74A
女  (顔をのけぞらせて、フランツを見つめながら)よしなよ。ほっときなというのに。これは私たちの壁だよ。
    (フランツ離れる)罪人はお前たちさ。(ポスターの文字を読み、フランツを指して)お前、弟、お前たちみんなだ。
フランツ  お前、奴らと同意見なんだな?
女  夜と昼のようにさ。奴らは、私たちは食人種だなんて神様に告げ口する。そうすると神様は奴らのいうことを聞くわけだ。
   だって、奴らは勝ったからさ。それでも、あたしはね、本当の食人種は勝った奴だという考えを捨てないよ。
   兵隊さん、正直に言いな。お前は人間を食おうとは思わなかった、とな。
フランツ  (うるさそうに)俺たちは破壊した。破壊したのだ。町も、村も、数々の首都も。
女  奴らが、お前たちを負かしたとすれば、お前たち以上にぶち壊したからさ。
   (フランツは肩をすくめる)お前は人間を食ったかい?
フランツ  で、そっちの弟は? 弟は人間を食ったのか?
女  滅相もない。弟はきちんと礼儀を守っていたよ。お前さんのように。
フランツ  (沈黙の後)お前は収容所の話を聞いたことがあるか?
女  どの収容所だね?
フランツ  知っているくせに。皆殺しの収容所さ。
女  その話なら聞いたさ。
フランツ  もし、お前の弟が死ぬ時に、そういう収容所の番兵だったと聞かされたら、お前は鼻が高いだろうか?
194名前なし:2009/09/27(日) 05:16:00 ID:Ezk4G74A
女  (残酷に)そうともさ。よく聞きな。弟が何千という死人に良心を咎めていれば、その中に、
   あたしたちのような女や、この石ころの山の下で腐っていく子供たちと同じような子供がいれば、あたしは弟を自慢するだろうよ。
   弟が天国にいること、弟には「おれは出来るだけのことをやったのだ」と言う権利があることが、わかっただろう。
   だがね、あたしは、弟がどんな人間か、よく知っている。
   弟は自分の名誉や立派さほどに、あたしたちが好きじゃなかった。そこで、この始末だ。
   (腕を振り回す。乱暴に)テロが必要だった。お前たちが、残らずぶち壊さなければならなかったのさ。
フランツ  それなら俺たちはやったよ。
女  あれっぱかりで足りるものか。収容所も足りなかった。死刑執行人も足りなかった。
   お前たちは、自分のものでもないものを他人にくれて、私たちを裏切ったのだ。
   それがまだ赤ん坊だったといっても、一人の敵の生命を助けるたびに、お前は味方を殺したのだ。
   お前は相手を憎まずに戦争をしようとしたけれど、この心を虫食う憎しみをあたしに植え付けた。
   お前の立派さはどこに行ったのだ? ろくでなしの兵隊め。負けて逃げ出す兵隊め、
   お前の名誉はどこに行った? 罪人はお前だ。神様はお前がやったことを裁くんじゃない。
   お前にやりとおせなかったこと、犯さなければならないのに犯さなかった罪のことで、お前を裁くのだ。
   (だんだん暗くなる。ただ貼り紙だけが見える。遠ざかりながら、女の声が繰り返す)
   罪人はお前だ、お前だ、お前だよ。
195名前なし:2009/09/28(月) 01:04:34 ID:eRwq0OYq
第四景  フランツ、ヨハンナ

フランツの声  (闇の中で)ヨハンナ!

(明かりがつく、フランツは帽子をかぶらず、テーブルの脇に立っている。ヨハンナは、肘掛け椅子に腰掛け、女の姿は消えている)

ヨハンナ  (飛び上がって)なあに?

(フランツが彼女の方に行く。彼は長々とヨハンナを見つめる)

フランツ  ヨハンナ!

(回想を追い払おうとしながら、ヨハンナを見る)

ヨハンナ  (幾分素っ気無く、後ろに飛び退って)その人はどうなったかしら?
フランツ  あの女かい? 次第によるね。
ヨハンナ  (驚いて)何の?
フランツ  僕の夢さ。
ヨハンナ  あれは思い出ではなかったの?
フランツ  夢でもあるのさ。時によって、あの女を連れて歩いたり、また捨てたりするのだ。そして……
       ひょっとするとあいつは死んだ。あれは悪夢だよ。(視線を動かさず、自分に向かって)あの女を殺しはしなかったかな?
ヨハンナ  (驚きもせず、恐怖と嫌悪を交え)まあ!

(フランツ、笑い出す)
196名前なし:2009/09/28(月) 01:06:25 ID:eRwq0OYq
フランツ  (架空の引き金に指をかける仕草)こうやってね。(軽蔑の微笑)君なら、あの女の苦しみをほったらかしておいただろう。
       あらゆる道路上に犯罪が転がっている。下手人を待つばかりになっている予謀犯罪がある。本物の兵隊が通りかかって、その犯行を引き受ける。
       (不意に)この話はお気に召さないかね? 僕は、君の目が嫌だ。ああ、君の気のすむように、あの女を始末してやってくれ。
       (大またに、彼女から離れる。テーブルのそばで振り向く)「罪人はお前だよ」君はどう考える? あの女は正しかったのだ。
ヨハンナ  (肩をすくめて)気違いだったのよ。
フランツ  うん、それが何の証拠になるのだ?
ヨハンナ  (強く、はっきり)兵隊と飛行機の数が足りなかったから、ドイツは負けたのよ。
フランツ  (ヨハンナをさえぎって)分かった。分かったよ。(間)それはヒトラーにかかわりのあることさ。
       (間)僕は、君に自分の話をしているところなのだ。戦争は僕の巡り合わせだった。どこまで戦争を愛するべきだったろうか? 
       (ヨハンナが口を開こうとする)考えてくれ。よく考えてくれ。君の返事は決定的だ。
ヨハンナ  (ばつが悪そうに、苛立って固くなり)よく考えたわ。
フランツ  (間)もし、ニュールンベルクで裁かれたあらゆる大罪を、実際に僕が犯したとしたら……
ヨハンナ  どんな罪なの?
フランツ  知るものか。集団虐殺と大量の婦女暴行さ。
ヨハンナ  (肩をすくめて)どうして、あなたがそんな恐ろしい罪を犯したの?
フランツ  戦争は僕の巡り合わせだったからだ。僕たちの父親が母親を孕ませた時、彼らは母親の腹に兵隊を作ったのさ。僕には、なぜか分からない?
ヨハンナ  兵隊は男よ。
197名前なし:2009/09/28(月) 01:07:16 ID:eRwq0OYq
フランツ  男よりも兵隊の方が先なのだ。ところで? 君はまだ僕を愛するだろうか? 
       (ヨハンナが口を開こうとする)しかし、お願いだ。ゆっくり考えてくれ。
       (ヨハンナ、黙ってフランツを見る)さあ、どうだ?
ヨハンナ  駄目だわ。
フランツ  もう愛してはくれないのかい? (ヨハンナ、頷く)君には、僕が恐いのか?
ヨハンナ  ええ。
フランツ  (吹き出して)よし、よし、よし。安心したまえ、ヨハンナ。君が相手にしているのは無垢の少年さ。無罪は保証つきだ。
       (彼女は疑い深く厳しい態度を捨てない)僕に気を許しても大丈夫だよ。僕はセンチメンタルになってドイツを殺してしまったのさ。

(浴室のドアが開き、クラーゲス登場。ゆっくりした足取りで、フランツの椅子に座りに来る。フランツもヨハンナもクラーゲスには目もくれない)
198名前なし:2009/09/28(月) 01:08:36 ID:eRwq0OYq
第五景  フランツ、ヨハンナ、クラーゲス


フランツ  スモレンスク付近の我が軍は五百名だった。ある村を固守していた。
       隊長は戦死、大尉たちも戦死で、結局僕たち二人、つまり二人の中尉と、それに一人の曹長がいた。
       奇妙な三頭政治だった。クラーゲス中尉は牧師の息子で、理想主義者で、雲の上の住人だった! 
       曹長のハインリッヒは、地に足のついた男だったが、百パーセントのナチだった。
       僕たちと後衛との間を、パルチザンが遮断していた。彼らは火網で街道を制圧していたのだ。
       食料は三日分しかない。二人のロシア人農夫が発見されて、こちらは彼らを納屋に放り込んで捕虜ということにした。
クラーゲス  (困惑して)なんて酷いことを。
フランツ  (振り向かずに)えっ?
クラーゲス  ハインリッヒ。何と酷いことをするのだ。
フランツ  (振り向かずに、ぼんやりと)ああ……
クラーゲス  (情けなさそうな暗い顔で)フランツ、僕は肥溜めに落ちたも同然だ。
         (フランツが急にクラーゲスの方を向く)曹長は二人の農夫に口を割らせようと、もくろんでいるのだ。
フランツ  やれやれ。(間)で、君は、ハインリッヒが農民たちを小突き回すのが嫌なのか?
クラーゲス  僕は間違っているだろうか?
フランツ  問題はその点ではない。
クラーゲス  それでは何だ?
フランツ  君は、ハインリッヒに、納屋への出入りを禁止したのだな? (クラーゲス頷く)そうすると、彼は入ってはならないわけだ。
クラーゲス  君も承知しているように、あの男は僕の言うことは聞くまい。
フランツ  (怒りをまじえた驚きを装って)何だって?
クラーゲス  僕には言葉が見つからないのだ。
フランツ  何?
クラーゲス  あの男を説得する言葉がさ。
フランツ  (呆れて)しかも、君は曹長を説得しようというんだからね。(乱暴に)畜生みたいに扱ってやるんだ。這わせてやるのさ。
クラーゲス  僕にはできない。たった一人でも、たとえ相手が首斬り人であっても、もし僕が人間を軽蔑したら、もう誰も尊敬できなくなるんだ。
199名前なし:2009/09/28(月) 01:10:16 ID:eRwq0OYq
フランツ  部下が、一人でも、君に服従することを拒んだら、君はもう誰にも服従されなくなる。
       人間の尊敬なんてちゃんちゃらおかしいよ。しかも、君が規律をほったらかすなら、敗北か殺戮だ、それとも両方一緒だ。
クラーゲス  (立ち上がって、ドアの方に行き、外部をちらっと見る)あいつは納屋の前にいる。椅子をうかがっているのだ。
         (ドアを閉め、フランツの方を見る)彼らを助けてやろう。
フランツ  君が自分の権威を救いさえすれば、あの二人を救えるよ。
クラーゲス  僕は考えたんだが……
フランツ  何を……
クラーゲス  ハインリッヒは君のいうことなら、神の言葉みたいに、よくきくのだ。
フランツ  こっちが糞の塊り同様に扱ってやるからさ。当然のことだ。
クラーゲス  (困惑して)君に命令を出してもらえたら……(懇願するように)フランツ。
フランツ  駄目だ。捕虜は君の担当だ。僕がかわりに命令したら、僕は君を無視することになる。
       君の面目をつぶしてから一時間後に、僕が戦死したら、ハインリッヒが一人で指揮をとるだろう。
       そうなれば破滅だよ。僕の部下たちにしてみれば、あいつはまるで獣だし、君の捕虜たちには、意地悪そのものだからな。
       (部屋を横切ってヨハンナに近付く)そして、何よりもクラーゲスの破滅だ。たとえ相手が中尉でも、ハインリッヒは彼を倒してしまっただろう。
ヨハンナ  どうして?
フランツ  クラーゲスはドイツが負けることを願っていたからだ。
クラーゲス  僕はドイツの敗北を願いはしない。望んでいるのだ。
フランツ  君にそんな権利はないよ。
クラーゲス  敗北すれば、ヒトラーが崩壊するのだ。
フランツ  そしてドイツがね。(笑いながら)降参だ! 降参だ! (ヨハンナの所に戻って)彼は心の中で留保するのが得意だった。
       肉体でナチに奉仕していることを隠すために、心でナチの連中を罰していたんだよ。
ヨハンナ  その人はナチに奉仕なんかしなかったわ。
200名前なし:2009/09/28(月) 01:49:40 ID:eRwq0OYq
フランツ  (ヨハンナに)よかろう。君たちは同じ穴のむじなだ。彼の声は、手は、ナチに奉仕していたのだ。
       彼はいつも紙に向かって言ったものだ。「私は私がやることを望んでおりません」とね。
       それなのに、それをやっていたのだ。(クラーゲスの所に戻って)戦争は君に滲みとおっている。
       戦争を拒んだら、君は自分を永遠に無力なものにしてしまうのだ。モラリストの君は、魂をただで売り飛ばしたのさ。
       僕の魂は、無料で渡したりするものか。(間)まず勝つことだ。ヒトラーに構うのはそれからだ。
クラーゲス  それでは間に合うまい。
フランツ  やってみるさ。(ヨハンナの方に戻り、脅かすように)僕は騙されたことがあるから、もうそれ以上騙されまいと決心したのだ。
ヨハンナ  あなたを騙したのは誰なの?
フランツ  それが知りたいのかい? ルターだよ。(笑って)え、分かったろう。僕はルターを悪魔にまかせ、戦争に出て行った。
       戦争は僕の宿命だった、だから僕は心から戦争を望んだね。とうとう僕が行動したのだ。僕は秩序を組み立てなおして、本来の僕と一致した。
ヨハンナ  行動するって、殺すことね?
フランツ  (ヨハンナに)行動は行動さ。自分の名前を書き誌すことだ。
クラーゲス  何に書くのだ?
フランツ  (クラーゲスに)そこにあるものにさ。僕はあの平原に僕の名前を書き込む。
       まるでたった一人でやったように、僕は戦争の責任を負う。そして、勝利をおさめた暁にはやり直すのだ。
ヨハンナ  (非常に素っ気無く)で、フランツ、捕虜は?
フランツ  (彼女の方を振り向いて)何だって?
ヨハンナ  全てに責任を負うあなたは、その捕虜たちに対しても責任を負ったの?
フランツ  (間)僕は彼らを救ってやったよ。
       (クラーゲスに)君の権威を傷つけずに、どうしてハインリッヒにこの命令をくだしたものだろう? ちょっと待ちたまえ。
       (考え込む)よし(戸口に行ってドアを開く。呼ぶ)ハインリッヒ!

(テーブルの方に戻る。ハインリッヒが駆け込んでくる)
201名前なし:2009/09/28(月) 01:51:34 ID:eRwq0OYq
第六景  フランツ、ヨハンナ、クラーゲス、ハインリッヒ

ハインリッヒ  (挙手の礼、不動の姿勢)中尉殿、何でありますか?

(幸福な、優しいくらいのほのかな信頼の微笑が、フランツに話しかける彼の顔色を輝かせる)

フランツ  (急がず曹長の方に進み、頭のてっぺんから足の先まで点検する)曹長、身だしなみが悪いぞ。
       (ボタン穴にぶら下がっているボタンを指して)それは一体何だ?
ハインリッヒ  これは……その……ボタンであります、中尉殿。
フランツ  (親切に)なくすところだったぞ。(さっとボタンをもぎ取り、左手に握る)付け直しておけ。
ハインリッヒ  (恐縮して)中尉殿、糸を持っている者は、もう一人もおりません。
フランツ  文句を言うか、くそったれめ! (素早く右手で平手打ちを二度食らわせる)拾え! 
       (ボタンを落とす。曹長は屈み込んでボタンを拾う)気を付け! (ボタンを拾った曹長は、不動の姿勢をとる)
       今日から、クラーゲス中尉と俺とは、毎週勤務交替をすることに決めた。君はただちに注意を前哨に案内しろ。
       (ハインリッヒは挙手の敬礼)待て。(クラーゲスに)捕虜がいると思うか?
クラーゲス  二人いる。
フランツ  結構、俺がその二人の面倒をみる。
ハインリッヒ  (目を輝かせる、フランツが彼の申し出を承認すると思っている)中尉殿!
フランツ  (驚いた様子で、乱暴に)何だ?
ハインリッヒ  奴らはパルチザンであります。
フランツ  なるほどな。それで?
ハインリッヒ  もしお許しくださるならば……
クラーゲス  曹長には前もって捕虜にかまうことを禁じてある。
202名前なし:2009/09/28(月) 01:52:35 ID:eRwq0OYq
フランツ  分かったな、ハインリッヒ? これで話はついた。行け!
クラーゲス  待て。こいつが何と聞いたか知っているか?
ハインリッヒ  (フランツに)中尉殿、じ、自分は冗談を言ったのであります。
フランツ  (眉を寄せて)上官に対して? (クラーゲスに)何と聞いたのだ?
クラーゲス  「自分が中尉殿の命令に服従しなければ、どうなさいますか?」とね。
フランツ  (味気ない声で)ふん。(ハインリッヒの方を向く)曹長、今日は、返事を聞かせるのは俺の役目だ。もし服従しなければ……
       (ピストルのケースを叩きながら)……射殺する。

(間)

クラーゲス  (ハインリッヒに)前哨に案内したまえ。

(フランツの目くばせしてハインリッヒの後から外に出る)
203名前なし:2009/09/28(月) 02:15:09 ID:eRwq0OYq
第七景  フランツ、ヨハンナ

フランツ  部下の兵隊を殺すのはいいことだろうか?
ヨハンナ  あなたは兵隊を殺さなかったわ。
フランツ  彼らを死なせないために、やるべきことを全部やりはしなかったのだ。
ヨハンナ  捕虜は喋らなかったでしょう。
フランツ  君に何が分かる?
ヨハンナ  お百姓のこと? あの人たちには、何も喋ることなんか、なかったわ。
フランツ  彼らがパルチザンではないと、誰が証明してくれるのだ?
ヨハンナ  一般に、パルチザンは喋らないものよ。
フランツ  そうだ。一般にはね。(夢中になって言い張る)ドイツは犯罪に相応しいって? 
       (俗っぽく、ほとんど滑稽なほど、取り止めのない気安さで)僕の言うことが分かってもらえるかどうか分からない。君は、既に世代の違う人間だ。
       (間。荒っぽく、固くなって、冷たく、真剣に、彼女には目もくれず、瞳を凝らして、ほとんど不動の姿勢で)
       短い人生、そして最高の死! 進め! 進め! 恐怖の果てまで行って、地獄を乗り越えるのだ。
       火薬庫があれば闇の中でそれを爆発させて、ドイツ以外の全てを吹き飛ばしていただろう。
       一瞬、僕は忘れることの出来ない花火の、くるめく最後の一発になり、やがて何もなくなる。
       ただ夜と青銅に刻まれた僕の名前だけが残っただろう。(間)正直なところ、僕は二の足を踏んだ。ねえ、君、原理は常に原理だ。
       僕はその二人の身元不明の捕虜よりも、部下の兵隊の方が可愛かった。
       それなのに、否と言わなければならなかったのだ。そして僕は食人種になっただろうか? いや、せいぜい菜食人種さ。
       (間、大げさに、立法官よろしく)全てをつくさない人間は、無為の人間だ。
       つまり、僕は、何もしなかったのさ。何もしなかった人間は誰でもない。誰かいないか? 
       (答えるように、名乗り出て)おります。(間、ヨハンナに)これが第一の訴因だよ。
ヨハンナ  私は無罪を宣告するわ。
204名前なし:2009/09/28(月) 02:16:29 ID:eRwq0OYq
フランツ  この訴因について、審理しなければならない。
ヨハンナ  私はあなたが好きなのよ。
フランツ  ヨハンナ! (五つ、四つ、三つずつ二回ドアをノックする音。二人は互いに顔を見合わせる)少し遅かったな。
ヨハンナ  フランツ……
フランツ  僕を無罪にするには少々遅い。(間)親父が喋ったのだ。(間)ヨハンナ、君は死刑執行を見るだろうよ。
ヨハンナ  (彼を見て)あなたの? (再びノックし始める音)で、黙って殺されるの? (間)それでは、あなたは私を愛していないのね?
フランツ  (音もなく笑って)僕たちの愛情のことは今話すよ……
       (ドアを指して)……あれの目の前でね。見られた図じゃあるまいな。
       しかし、これは覚えておいてほしい。僕は君に助けを求めるけれど、君は助けてはくれないだろう。
       (間)また、幸運があるとすれば……あそこに入るんだ。

(彼はヨハンナを浴室に連れて行く。ヨハンナ、中に入る。フランツはドアを閉めて、レーニに入り口を開けてやりに行く)
205名前なし:2009/09/29(火) 00:45:08 ID:B6IwJO6S
第八景  フランツ、レーニ

フランツ  (素早く腕時計のベルトをはずして、ポケットに入れる。レーニは、白い砂糖に包まれた小さなサヴォワ風の菓子を盆にのせて入って来る。
       菓子には四本の蝋燭が立ててある。左の小脇に新聞を一部はさんでいる)こんな時間に、何だって邪魔しに来たのだ?
レーニ  時間を知っているのね?
フランツ  お前が出て行って、まだ間もないことだけは知っているよ。
レーニ  時間が短く感じられたのだわ。
フランツ  運。(菓子を指して)何だい?
レーニ  可愛いお菓子よ。明日、食後に上げようと思ったの。
フランツ  へえ、それで?
レーニ  それを、この通り、今晩持ってきたわ。蝋燭をつけてね。
フランツ  蝋燭を? なぜだ?
レーニ  数えてごらんなさい。
フランツ  一、二、三、四。はて?
レーニ  兄さんは三十四になったのよ。
フランツ  うん。二月二十五日からな。
レーニ  二月十五日はお誕生日だったわ。
フランツ  それで、今日は?
レーニ  大事な日よ。
フランツ  よし。(盆を受け取り、テーブルに運ぶ)「フランツ」僕の名前を書いたのはお前か?
レーニ  誰に書いてもらいたかったの?
フランツ  名声の女神だ。(自分の名をしげしげと見る)薔薇色の砂糖文字のフランツ。精銅版よりも美しいが、それほど気を引かないな。
       (蝋燭に火をつける)静かに燃えろ。お前たちの消耗は、僕の消耗だ。(投げやりに)親父に会ったな。
レーニ  向こうから会いに来たのよ。
フランツ  お前の部屋にかい?
206名前なし:2009/09/29(火) 00:46:11 ID:B6IwJO6S
レーニ  ええ、そうよ。
フランツ  長いこといたかい?
レーニ  相当ね。
フランツ  お前の部屋とは、格別のごひいきだな。
レーニ  その代償を払うのは私よ。
フランツ  僕もだ。
レーニ  兄さんもね。
フランツ  (菓子を二つ切り取る)これは僕の身体だ。(二つのグラスにシャンパーニュを注ぐ)これは僕の血だ。
       (菓子をレーニに差し出す)お上がり。(レーニは笑って首を振る)毒が入っているかな?
レーニ  そんなことをして何になるの?
フランツ  お前の言う通りだ。なぜだろう。(グラスを一つ差し出す)健康のために乾杯してくれるね? 
       (レーニはグラスを受け取り訝しそうに眺める)蟹?
レーニ  口紅よ。

(フランツはグラスを奪い取り、テーブルに叩きつけて割る)

フランツ  お前の口紅だ。お前は食器も洗えないのだな。
       (別のグラスを満たして差し出す。彼女はそれを受け取る。三つ目のグラスにシャンパーニュを注ぎ、それをとっておく)
       僕のために飲んでくれ。
レーニ  兄さんのために。

(グラスを上げる)

フランツ  僕のために。(自分のグラスをレーニのグラスと合わせる)僕のために何を祈ってくれるね?
レーニ  何もないように。
フランツ  何もなしか? ああ、それから? 素晴らしい思いつきだ。(グラスを上げて)無のために飲もう。
       (グラスを空にしてテーブルに置く。レーニがよろめき、フランツが腕に抱きとめ、肘掛け椅子に連れて行く)お座りよ。
レーニ  (腰を下ろしながら)ご免なさい。疲れているのよ。(間)それにまた、これから一番辛い仕事が残っているわ。
フランツ  その通りだ。

(顔を拭く)
207名前なし:2009/09/29(火) 00:47:12 ID:B6IwJO6S
レーニ  (独白のように)酷く寒いわ。また天候異変の夏ね。
フランツ  (呆れて)暑苦しいよ。
レーニ  (愛想良く)え? おそらくね。

(フランツを見つめる)

フランツ  僕を見ているね?
レーニ  ええ。(間)兄さんはもう別人だわ。そう見えるはずなのに。
フランツ  そう見えないかい?
レーニ  ええ、あたしに見えるのは兄さんよ。(間)誰のせいでもないのよ。
      ねえ、あなたは私を愛さなければいけなかったのよ。でも、あなたには、それができなかったと思うわ。
フランツ  お前をとても愛していたよ。
レーニ  (乱暴な怒りの叫び)黙ってよ! 
      (彼女は自分を制しているが、その声はどこまでも非常な残酷さを失わない)お父さんは、あなたがヨハンナを知っていると言ったわ。
フランツ  あの人は、時々会いに来る。本当に真面目な女の子だ。僕はウェルナーのために嬉しいね。
       お前は僕に何と言ったっけな? 彼女は全然せむしではないよ。
レーニ  せむしですとも。
フランツ  違うったら。(手を垂直に動かす)あの人は……
レーニ  そうよ。あの人の背筋は真っ直ぐだわ。だからといってせむしじゃないってわけじゃないわ。(間)綺麗だと思う?
フランツ  で、お前は?
レーニ  死神みたいな美人ね。
フランツ  今お前が言ったことはなかなか痛烈だ。僕自身も、あの人について、そう考えたことがある。
レーニ  あの人のために飲むわ。

(グラスを空にして投げる)

フランツ  (客観的な調子で)お前は妬いているね?
レーニ  私、何も感じなくてよ。
フランツ  うん、あまり早すぎるのもな。
レーニ  全く早すぎるわ。

(間。フランツは菓子を一切れつまみあげて食べる)
208名前なし:2009/09/29(火) 00:48:27 ID:B6IwJO6S
フランツ  (菓子を指しながら笑って)こんなものでたぶらかす気だな。
       (左手に菓子を持っている。右手で引き出しを開け、ピストルを取り出し、菓子をかじりながら、レーニに差し出す)ほら。
レーニ  これでどうしろというの?
フランツ  (立ちはだかって)射て。そしてあの人は、そっとしておいておやり。
レーニ  (笑って)引き出しにしまいなさい。私には、ピストルの使い方さえ分からないわ。
フランツ  (腕を伸ばしたまま。掌にピストルが乗っている)あの人に怪我をさせないな?
レーニ  私が、十三年もあの人の世話をしたかしら? あの人の愛撫をねだったかしら? あの人の唾を飲み込んだかしら? 
      食べさせたり、身体を洗ってやったり、着物を着せたり、みんなから守ってやったりしたかしら? 
      あの人は、私に全然借りがないのよ。だから、あの人には指一本触らないわ。あなたを愛すればこそ、あの人が少し苦しめばいいと思うだけ。
フランツ  (むしろ肯定的に)僕はすっかりお前の世話になったな?
レーニ  (猛然と)何もかもだわ。
フランツ  (ピストルを渡して)さあ、それを握れ。
レーニ  あの人がほしくてたまらないのね。あなたは、あの人にどんな思い出を残すかしら? 
      それに、あの人には、寡婦暮らしがどんなに似合うことでしょう。あの人は未亡人向きに出来ているのよ。
      (間)ねえ、私はあなたを殺そうとは思わないわ。世の中にあなたが死ぬほど恐ろしいことはないのよ。
      ただ、私は、どうしても、あなたをうんと苦しめなければならない。私が考えているのは、ヨハンナにすっかり話してしまうことよ。
フランツ  すっかり?
レーニ  すっかりね。あの人の胸の中にあるあなたを、粉々にしてやるわ。
      (ピストルの上にのせたフランツの手が引きつる)さあ、哀れな妹を射ちなさいな。あたしは手紙を書いたわ。
      まずくすると、ヨハンナは、今夜それを受け取るはずよ。(間)私が仕返しをしていると思って?
フランツ  仕返しをしているのではないのか?
209名前なし:2009/09/29(火) 00:49:29 ID:B6IwJO6S
レーニ  正しいことをやっているのよ。死んでいようが生きていようが、あなたは、当然私のものよ。
      だって、私は、ありのままのあなたを愛する、たった一人の女だもの。
フランツ  たった一人だって? (間)昨日だったら、僕は人殺しをやってしまっただろう。
       今日は、幸運が、ちらほら見えている。あの人が僕を受け入れてくれる百分の一の幸運が。
       (ピストルを引き出しにしまって)まだお前に生命があるとすれば、レーニ、僕がこの幸運をとことんまでためす決心をしたからだ。
レーニ  大変結構ね。私が知っているということを、あの人が知って、いい方が勝てばいいわ。

(椅子から立ち上がり、浴室の方に行く。彼の後ろを通り抜ける時に、新聞をテーブルに投げ出す。フランツが飛び上がる)

フランツ  何だ?
レーニ  フランクフルター・ツァイトゥングよ。私たちの話が出ているわ。
フランツ  僕とお前の?
レーニ  一家のよ。「ドイツを再建した巨頭たち」という続きものをやっているの。誰にも正当な名誉をと言うわけで、まずゲルラッハ一門を皮切りにね。
フランツ  (新聞を取り上げる決心がつかない)親父は巨頭かね?
レーニ  世間がそう言っているのよ。読めば分かるわ。お父さんは、巨頭中の巨頭ですってさ。

(フランツは一種のしゃがれた呻き声を出して、新聞をつかみ、ページを開く。
観客に向かい、浴室に背を向け、広げた新聞で顔を隠して座る。レーニは浴室のドアを叩く)

      開けなさいな。そこにいることは知っていてよ。
210名前なし:2009/09/29(火) 01:45:36 ID:B6IwJO6S
第九景  フランツ、レーニ、ヨハンナ

ヨハンナ  (ドアを開けて)それはよかったわ。私は、隠れるのは好きじゃないの。(愛想良く)こんにちは。
レーニ  (愛想良く)こんにちは。

(不安げなヨハンナは、レーニから離れて、まっすぐフランツの所へ行き、彼が新聞を読むのを眺める)

ヨハンナ  新聞? (フランツは振り向きさえしない。レーニの方を向いて)あなた、随分早手回しね。
レーニ  私は忙しいのよ。
ヨハンナ  この人を殺すのを急いでいるのね?
レーニ  (肩をすくめて)とんでもないわ。
ヨハンナ  走ったらいいわ。私たちは先を越しているんだから。今日からは、この人はきっと真実に耐えられると思うわ。
レーニ  不思議なことがあればあるものね。お父さんも、あなたが真実に耐えると信じているのよ。
ヨハンナ  (微笑を浮かべて)私は何にでも耐えるわ。(間)お父様はあなたに喋ったのね?
レーニ  ええ。
ヨハンナ  お父様はね、このことで私を脅迫したのよ。ここに入る方法を教えてくださったのはお父様なの。
レーニ  えっ?
ヨハンナ  それを仰らなかった?
レーニ  言わなかったわ。
ヨハンナ  お父様は私たちを操っているのね。
レーニ  そんなこと、分かりきっているわ。
ヨハンナ  あなた、それでいいの?
レーニ  ええ。
ヨハンナ  私にはどうしろっていうの?
レーニ  (フランツを指して)あなたが、兄の生活の外に出て行くことよ。
ヨハンナ  もう出て行かないわ。
レーニ  私が出してみせるわ。
ヨハンナ  やってごらんなさい。

(間)
211名前なし:2009/09/29(火) 01:47:20 ID:B6IwJO6S
フランツ  (新聞を置いて立ち上がり、ヨハンナの所へ行く。すぐそばで)ヨハンナ、君は僕しか信じないって約束したね。
       今こそ、その約束を思い出すべきだ。今日、僕たちの愛情は、ただそれにかかっている。
ヨハンナ  あなたしか信じないわ。
       (顔を見合わせる。彼女は優しい信頼を込めて微笑みかけるが、フランツの顔は蒼ざめ、痙攣のためにくしゃくしゃ。
       ヨハンナに笑顔を見せようと努力するが、顔を背け手元の位置に戻り、再び新聞を取り上げる)
       どう、レーニ?
レーニ  私たちは二人。一人余計ね。余計な方は名乗り出なければならないわ。
ヨハンナ  どうやりましょうか?
レーニ  真剣に勝負するのよ。もし、あなたが勝ったら、私と交替なさいな。
ヨハンナ  あなたは誤魔化すわ。
レーニ  そんな必要はないわ。
ヨハンナ  なぜなの?
レーニ  あなたが負けるに違いないんですもの。
ヨハンナ  さあ、勝負しましょう。
レーニ  いいわ。(間)フランツはハインリッヒ曹長とロシア人捕虜の話をしたの? 
      二人のパルチザンを救ったために、戦友たちを死に追いやったといって、自分を責めたのね?
ヨハンナ  ええ。
レーニ  そして、あなたは、彼が正しかったと言ったのね?
ヨハンナ  (皮肉に)何でもご存知じゃない。
レーニ  驚くことはないわ。フランツは私にそう言ったのよ。
ヨハンナ  それで? あなたはフランツが嘘を吐いていると言い張るの?
レーニ  彼があなたに言ったことは、間違いは全然ないわ。
ヨハンナ  でも……
レーニ  でも、話はまだ終わっていないわ、ヨハンナ、これからが勝負よ。
フランツ  素敵だ。(新聞を投げ出して立ち上がる。狂った目つきで、顔面は蒼白)
       百二十の造船台。うちで作った船の、一年間の航程は、地球から月まで届くだろう。ドイツは立ち上がった。ドイツ万歳。
       (大またの機械的な足取りで、レーニの方に行く)ありがとう、レーニ。さあ、僕たち二人だけにしてくれ。
レーニ  嫌よ。
フランツ  (居丈高に、怒鳴る)二人だけにしろというんだ。(レーニを引っ張ろうとする)
ヨハンナ  フランツ!
フランツ  何だい?
212名前なし:2009/09/29(火) 02:23:54 ID:B6IwJO6S
ヨハンナ  私はあの話の結末を知りたいわ。
フランツ  あの話に結末はない。僕を除けば、みんな死んでしまったのだ。
レーニ  この人の目をごらんなさい。一九四九年のある日、私に全部白状しちゃったのよ。
ヨハンナ  白状したんですって? 何を?
フランツ  馬鹿馬鹿しい話さ。レーニに真面目な話ができるかい。僕は冗談を言ったのさ。(間)ヨハンナ、君は僕しか信じないと言ったね?
ヨハンナ  ええ。
フランツ  僕を信じるのだ。いいか、信じるのだ。
ヨハンナ  私……あなたはこの人の前だと、もう別人だわ。(レーニ、笑う)あなたを信じたいという気にならせてちょうだいな。
       この人は嘘を吐いていると言って。話してよ。あなたは何もしなかったわね?
ヨハンナ  ええ。
フランツ  (呻き声に近く)何も。
ヨハンナ  (荒々しく)でも、はっきり、そう仰いよ。この耳で、あなたの声を聞かなくては。仰いな。僕は何もしなかった、と。
フランツ  (上ずった声で)僕は何もしなかったよ。
ヨハンナ  (一種の恐怖の色をあらわして彼を見つめ、叫び始める)あっ! (叫び声を抑える)もう、あなたの見分けがつかなくなったわ。
フランツ  (執拗に)僕は何もしなかったのだ。
レーニ  兄さんは、止めなかったのよ。
ヨハンナ  誰を?
レーニ  ハインリッヒを。
ヨハンナ  二人の捕虜は?
レーニ  あの二人を手始めにね。
ヨハンナ  他にも何かあったの?
レーニ  踏み切ったが最後よ。
213名前なし:2009/09/29(火) 02:44:33 ID:B6IwJO6S
フランツ  僕が説明するよ。君たち二人を見ていると、頭が混乱してしまうんだ。
       ヨハンナ、僕らだけになったら……君たちは僕を死ぬ目にあわせるよ……めまぐるしいったら、ありゃしない……
       しかし、ヨハンナ、頭を冷やして、真実をすっかり話すよ。僕は生命よりも、君を愛しているのだ。
ヨハンナ  離してよ。

(彼女はレーニの脇に並ぶ。フランツは彼女と向き合って呆然としている)

レーニ  (ヨハンナに)下手に手を出したわね。
ヨハンナ  負けたわ。彼はあなたのものよ。
フランツ  (戸惑って)二人とも、聞いてくれ……
ヨハンナ  (一種の憎悪を込めて)拷問したのね? あなたったら!
フランツ  ヨハンナ! (彼女はフランツを見つめる)そんな目をしてくれるな。いけないよ、そんな目をしては。
       (間)僕には、こうなることが分かっていた。(笑い出して四つん這いになる)後退だ、後退だ。
       (レーニが悲鳴をあげる。彼は起き上がる)蟹の格好をするのを、見たことはないのかい? (間)二人とも出て行ってくれ! 
       (レーニはテーブルの方に行き、引き出しを開けようとする)五時十分だな。親父に、六時に会議室で会うと言ってくれ。出て行け。
       (長い沈黙。照明が弱まる。まず、ヨハンナが後を見ずに外に出る。
       レーニは少しためらってから、ヨハンナの後を追う。フランツは腰を下ろし、新聞をまた取り上げる)
       百二十の造船台、まるで一つの帝国のようなものだ。


---幕---
214名前なし:2009/10/04(日) 03:35:25 ID:2dIwLLkB
第五幕

(第一幕と同じ装置。午後六時。陽が沈もうとしている。窓の鎧戸が閉ざされ、部屋は薄明かりに浸っているので、
最初、日没の時刻であることが分からない。時計が六つ時を打つ。三つ目を打った時、左の窓の鎧戸が外側から開き、光が差し込む。
父親が窓を押す。父親登場。同時に二階のフランツの部屋のドアが開き、フランツが躍り場に現れる。
一瞬、二人が顔を見合わせる。フランツは小さくて黒くて四角いケースを手に持っている。彼の録音機だ)

第一景  父親、フランツ

フランツ  (動かずに)お父さん、こんにちは。
父親  (自然な親しみのある声で)こんにちは。(よろめいて、椅子の背につかまる)お待ち。明るくしてやろう。

(別の窓を開け、鎧戸を押す。第一幕の終わり頃の緑がかった光が部屋に入って来る)

フランツ  (一段くだって)話を聞きましょう。
父親  別に話はない。
フランツ  何ですって? うるさがられるほどレーニに頼んでおいて……
父親  お前が呼んだから、わしはこの建物まで来たのだ。
フランツ  (唖然として父親を見つめてから、吹き出して)いや、全くその通りです。
       (また一段おりて止まる)見事な勝負だ。レーニを向こうに回してヨハンナを操り、
       ヨハンナを向こうに回せば、レーニを動かしている。三手でチェックメイトですよ。
父親  詰まったのは誰だ?
フランツ  黒の王、僕です。勝つことには飽き飽きしていませんか?
父親  勝つことを別にすれば、全てのことにうんざりしている。決して勝てはしないのだ。わしは、局面を打開しようとしているのさ。
フランツ  (肩をすくめて)お父さんは、いつだって、最後には望みどおりのことをやるんですよ。
父親  それが一番確実な負け方だ。
215名前なし:2009/10/04(日) 03:37:45 ID:2dIwLLkB
フランツ  (厳しく)それはそうだ。(急に)実際、どうしようというのです?
父親  今かね? お前に会うことだよ。
フランツ  僕はここに来ています。まだできる範囲で、僕との会見に堪能なさい。
       お父さんだけに話せる、特別の話があるのですよ。(父親、咳をする)咳をこらえなさいよ。
父親  (一種の卑屈さをあらわして)やってみるよ。(まだ咳が続く)どうもあまり具合がよくない……(咳を抑えて)さあ、これでよし。
フランツ  (父親を見つめながら、ゆっくりと)情けないな! (間)さあ、笑ってくださいよ。
       今日はお祭です。父親と息子の再会で、大盤振る舞いですよ。(出し抜けに)僕の裁判官にならないでくださいね。
父親  誰がそんなことを言った?
フランツ  あなたの目ですよ。(間)二人の犯罪者、お互いが、自分では踏みつけにした信条に従って、相手を断罪する。この茶番劇を何と名付けますか?
父親  (平然と)正義。(短い沈黙)お前は犯罪者か?
フランツ  ええ。あなたもね。(間)僕はあなたの裁判を忌避します。
父親  それではなぜわしに会いに来たいと言ったのだ?
フランツ  あなたにお知らせするために。僕は全てを失いました。あなたも全てを失うでしょう。
       (間)聖書にかけて、僕を裁かないとお誓いなさい。さもないと、すぐにも部屋に帰りますよ。
父親  (聖書の所まで行き、ページを開いてその上に手を広げる)誓うよ。
フランツ  ありがとう。(階段を降り、テーブルの所まで行って、その上に録音機を置き、振り返る。父子は一つ床の上で向き合う)
       年月のあとはどこにあるのでしょう? お父さんは変わりませんね。
父親  いや、変わったよ。
フランツ  (見込まれたように近寄る。明らかな、しかも防御的な横柄さで)会ってみても、別に何の感動もありませんね。
       (間。手を上げ、ほとんど無意志的な身振りで、その手を父親の腕に置く)老ヒンデンブルク。何だって? 
       (後方に飛び退りする。素っ気無く不快に)僕は拷問をやったのだ。(沈黙。乱暴に)聞いたんですか?
父親  (顔色を変えずに)うん、聞いたよ。先を続けなさい。
216名前なし:2009/10/04(日) 03:39:13 ID:2dIwLLkB
フランツ  それだけです。パルチザンが我が軍を脅かしていました。
       彼らは村全体をぐるにしようとしていたのです。僕は、村民に口を割らせようとしてみました。
       (沈黙、ぶっきらぼうに、苛々して)だが、例によって例のごとくなっただけです。
父親  (重々しく、ゆっくり、しかも無表情で)いつも、そんなものさ。

(間。フランツは傲然と彼を見る)

フランツ  僕を裁くんですね?
父親  いや。
フランツ  結構です。ねえ、お父さん、もう一度言っておきますが、
       あなたが密告者だったからこそ、僕は拷問の下手人になったのですよ。
父親  わしは誰も密告しなかったぞ。
フランツ  で、例のポーランドのユダヤ人は?
父親  あの男のことだって密告しはしなかった。わしは、何度となく……面白くもない責任を背負い込んだのだ。
フランツ  それは同じことです。(彼は過去を回想する)面白くもない責任か? 僕もそいつを背負い込みました。
       (笑って)ああ、不愉快きわまる責任だ。(笑う。父親はその隙を見て咳をする)どうしたんです?
父親  お前と一緒に笑ったのさ。
フランツ  咳をしていますね。止めてください。お願いです。胸が掻き毟られるようだ。
父親  すまない。
フランツ  もうじき死ぬんですか?
父親  承知だろう。
フランツ  (父親に近寄る。急に後退)これで厄介払いだ! (手が震える)こいつは、さんざんてこずるな。
父親  何が?
フランツ  そのがんがんなる咳がですよ。
父親  (苛々して)馬鹿な。

(また咳の発作が起こり、次いでおさまる)
217名前なし:2009/10/04(日) 04:34:45 ID:2dIwLLkB
フランツ  あなたの苦しみ、それが僕の身にこたえる。(目を据えて)僕には想像力が足りなかった。
父親  いつのことだ?
父親  戦地にいた時。(長い沈黙。父親から目を背け、奥のドアの方を見る。喋る時には、直接父親に話しかける場合を除いて、現在の中で過去を生きている)
     上官たちは四分五裂。手の内には曹長とクラーゲス、足元には兵隊たち。唯一の命令は、頑張れ、だ。
     俺は頑張った。俺は死者と生者とをより分ける。お前は死にに行け! お前はここに残れ! 
     (間。舞台の前縁で、高貴にまた陰惨に)俺は最高権力を握っているのだ。(間)何だと? 
     (目に見えない対話者に耳を傾ける様子。やがて父親の方に向き直って)僕はよく聞かれたものですよ。「権力をどうするのだ?」とね。
父親  誰から?
フランツ  それは夜の空中でしたよ。毎晩のように。
       (見えない対話者のささやきを真似て)権力をどうしようというのだ。権力をどうしようというのだ。
       (叫ぶ)馬鹿野郎め! 俺はとことんまでやるんだ。力の限りやるんだ。(突然、父親に)なぜか知っていますか?
父親  ああ。
フランツ  (少し慌てて)え?
父親  生まれて始めて、お前も無力を思い知ったのだ。
フランツ  (大声で笑いながら)老ヒンデンブルクは頭がしっかりしているぞ、万歳だ。そう。僕は無力を知りましたよ。
       (笑い止めて)ここで、あなたのおかげでね。あなたは奴らにユダヤ人を引き渡した。
       彼らは四人がかりで僕を押さえつけ、他の奴らが、そのユダヤ人を絞め殺したのです。僕に何ができたでしょうか? 
       (左手の小指を立てて、それを見つめながら)小指の一本を動かせなかった。
       (間)奇妙な体験だった。だが、未来の指導者たちにはこんなことをすすめませんね。誰だってこいつから立ち直ることはできないのです。
       お父さん、あなたは僕を王子様に仕立ててくれました。しかし、誰が僕を王にしたか知っていますか?
父親  ヒトラーだ。
218名前なし:2009/10/04(日) 04:35:58 ID:2dIwLLkB
フランツ  そうです。恥辱を通じてね。あの……出来事の後で、権力は棒の天命になりました。僕が彼を礼賛していたことも知っていますか?
父親  ヒトラーをか?
フランツ  知らなかったのですか? ああ、僕は彼を憎んだ。前と後で。しかし、あの日は、彼が僕を虜にしてしまいました。
       二人の指導者は、殺しあうか、さもなければ、一人がもう一方の女房にならなければなりません。
       僕はヒトラーの女房になりました。ユダヤ人は血を流していました。
       そして、僕は、自分の無力の中心に、何と言っていいか、ある種の同意を発見したのです。
       (過去に戻る)あれには最高の権力がある。ヒトラーは、俺を不倶戴天で神聖な他者に、彼自身にしたのだ。
       俺はヒトラーだ。だから、自分を乗り越えていくだろう。(間、父親に)もう食料はありません。
       部下たちは、納屋のまわりをうろついていました。(過去に戻って)四人の堂々たるドイツ人が、俺を地べたに叩きつけて、打ち砕くだろう。
       そして、部下たちは、血の気がなくなるほど、捕虜を痛めつけるだろう。
       いや、俺は断じて汚らわしい無力には陥るまい。俺は誓うぞ。暗くなった。
       恐怖はまだ鎖につながれている……大急ぎで彼らを押さえるのだ。もし、誰かが恐怖を解き放つとすれば、それは俺だ。
       俺は悪を要求する。人間を生きながら虫けらに変えるという、不滅な行為の独特な力で、俺の権力を示してやろう。
       俺は、一人で捕虜を引き受け、彼らを汚辱の中に投げ込んでやろう。彼らは口を割るぞ。権力は深い淵だ、俺にはその底が見える。
       未来の死者だけを選んだのでは、まだすまない。一本のナイフと一個のライターで、俺は人間の支配を決定するのだ。
       (うわずって)目がくらみそうだ。主権者たちは地獄に行く。それは彼らの名誉だ。俺は行くぞ。

(彼は、舞台の前縁で、そのまま幻覚にとらわれている)
219名前なし:2009/10/04(日) 04:37:35 ID:2dIwLLkB
父親  捕虜は口を割ったのか?
フランツ  (追想から引き離されて)え、何ですって? (間)いや。(間)その前に死にましたよ。
父親  負けるが勝ちさ。
フランツ  いや、すっかり分かりましたよ。僕には腕がなかったのです。まだなかったのです。
父親  (寂しい微笑)それは関係がない。人間の支配を決定するのは彼らなのだ。
フランツ  僕は彼らのようにすればよかったんだ。一言も言わずに、鞭に打たれて死ぬんだった。
       (平静になる)それに、そんなことは真っ平です。僕は自分の権威を保った。
父親  長い間か?
フランツ  十日間です。その十日が過ぎた時、敵の戦車が攻撃して来て、我が軍は全員戦士---捕虜たちまで。
       (笑って)いや、僕は別ですよ。僕は死ななかった。全然死ななかったのです。
       (間)僕が拷問をやったということ以外に、僕の話は何一つ確実ではない。
父親  それから? (フランツ肩をすくめる)お前は街道を歩いた。身分を隠したのだな? そして、わしらの所に返ってきたのだな?
フランツ  そうですよ。(間)廃墟が僕を正当化してくれました。破壊された家が、手足をなくした子供たちが僕は好きだった。
       僕はドイツの苦悶を目の当たりにしないために、閉じこもったのだと主張してきた。それは嘘だ。
       僕はドイツの死を願い、ドイツ復活の証人にならないために閉じこもったのです。(間)僕を裁いてください。
父親  お前は聖書にかけてわしに誓わせたが……
フランツ  考えが変わったのです。その結末をつけましょう。
父親  駄目だ。
フランツ  あなたを誓いから開放してあげると言っているのですよ。
父親  拷問の下手人が密告者の宣告を受けるのかね?
フランツ  神はいないというのですか?
父親  神はいないのではないかと思うな。神がいないので、時には困ることもあるのだ。
フランツ  それじゃ、密告者であろうとなかろうと、あなたは僕の自然の審判者ですよ。
       (間。父親は首を横に振って否定する)僕を裁かないのですか? 全然? 
       するとあなたは別のことを考えているんですね。こいつはまずいぞ。(急に)待っているんですね。何を?
220名前なし:2009/10/04(日) 04:38:33 ID:2dIwLLkB
父親  何も待ってはいないよ。お前がここにいるから。
フランツ  あなたは待っているんだ。僕は知っていますよ。あなたが長い長い間待っていたことを。
       僕は、あなたが冷酷な人間や悪人どもと対決しているのを見たことがありますよ。
       奴らがあなたを中傷しても、あなたは何も言わず、待っていました。
       最後には、お人好しのほうがへこたれてしまったのです。(間)喋りなさい。何でもいいから。これでは我慢ができない。

(間)

父親  どうしようというのだ?
フランツ  また二階に戻ります。
父親  今度はいつおりてくる?
フランツ  もう二度と降りてきません。
父親  誰にも会わないのか?
フランツ  レーニには会います。身の回りの用を足すために。
父親  で、ヨハンナは?
フランツ  (ぶっきらぼうに)おしまいです。(間)あの女には勇気が欠けて……
父親  お前はあの女が好きだったのだな?
フランツ  孤独が僕に覆いかぶさってきたのです。(間)もし、ありのままの僕をヨハンナが受け入れたら……
父親  自分を受け入れるのか、お前は?
フランツ  そして、あなたは、僕を受け入れてくれますか?
父親  駄目だね。
フランツ  (深く傷つけられて)父親までもが?
父親  そうだ。
フランツ  (声を変えて)それでは、僕たちは一緒に、一体何をやるんです? 
       (父親、答えず、深刻な苦悶の色を見せて)ああ、あなたに会うのではなかった。こんなことだと思っていた。思っていたんだ。
父親  何を?
フランツ  僕に何が起こるかを。
父親  お前には何も起こりはしない。
221名前なし:2009/10/04(日) 04:39:56 ID:2dIwLLkB
フランツ  今はまだです。でも、夢で見たように、あなたがそこにいて、僕がここにいる。しかも、夢とそっくりで、あなたは待っている。
       (間)結構。僕だって待つことができます。(自室のドアを指して)あなたと僕の間に、あのドアを置きましょう。六ヶ月の辛抱だ。
       (一本の指で父親の頭を指して)六ヶ月たったら、その骨の中身は空っぽになり、
       その目はもう見えず、蛆虫がその唇をむさぼり、ついでにその唇を膨らませている軽蔑まで食いつぶすさ。
父親  わしはお前を軽蔑しておらん。
フランツ  (皮肉に)全く、その通りだ。僕が今のような話をしてしまった後ではね?
父親  お前はわしに何も話しておらんぞ。
フランツ  何ですって?
父親  お前のスモレンスクの話なら、三年前から知っている。
フランツ  そんなことがあるものか。彼らは死んだ。証人は一人もいない。死んで埋められたんだ。一人残らず。
父親  ロシア軍が解放した二人は別としてな。彼らはわしに会いに来たよ。五十六年の三月のことだ。フェリストとシャイデマン、彼らを覚えているかな?
フランツ  (うろたえて)いいえ。(間)二人は何を要求しました?
父親  口止め料だ。
フランツ  それで?
父親  わしは四の五の言うわけにはいかない。
フランツ  奴らは……
父親  黙っているよ。お前はあの二人を恐れていたのだな。先を続けなさい。
フランツ  (空を見つめて)三年か?
父親  三年だ。わしは、ほとんどその直後に、お前の死亡申告をした。そして、あくる年にウェルナーを呼び戻した。その方が慎重だったからだ。
フランツ  (父親の声を聞かずに)三年間。俺は蟹に演説をぶってきた。彼らに嘘を吐いていたのだ。(不意に)その時から、僕に会おうとしていたのですね?
父親  そうだ。
フランツ  なぜ?
父親  (肩をすくめて)まあね……
フランツ  奴らはお父さんの事務室に座っていた。奴らが僕を知っていたので、お父さんは奴らの話を聞いてやった。
       そのうち一人が言いました。「フランツ・フォン・ゲルラッハは、死刑執行人だ」と。何という芝居だ。
       (冗談を言おうとして)あなたはさぞかしたまげたでしょう、ね?
父親  いや、それほどでもない。
222名前なし:2009/10/05(月) 22:03:26 ID:rl/BrNXV
フランツ  (叫ぶ)あなたと別れた時には、僕は純白だった。純粋だった。あのポーランド人を救おうとしたりして……驚きませんでしたか? 
       (間)何を考えたのです? あなたはまだ何も知らなかった、それなのに、突然知ったのですから。
       (いっそう声を張り上げて)一体、何を考えたんです?
父親  (深く暗い愛情を見せて)可哀想な奴だ。
フランツ  え?
父親  わしが何を考えたか聞くなんて! 言ってやろう。
     (間。フランツは身体を起こし、すすり泣きながら父親の肩に頭をのせて悶える)可哀想に! 
     (不器用に頸筋を撫でてやる)可哀想にな。

(間)

フランツ  (いきなり身体を起こして)やめてください。(間)こいつは驚いた。
       十六年前から泣いたことなんかなかったのに、十六年後に泣き始めるとは。僕を憐れまないでください。
       そんなことをされると、噛み付きたくなるから。(間)僕は自分をそれほど好きじゃありません。
父親  なぜ自分を愛したりするのだ?
フランツ  なるほど。
父親  それはわしがすることだ。
フランツ  あなたは、僕を愛するのですか? スモレンスクの屠殺者を?
父親  スモレンスクの屠殺者とはお前だぞ。
フランツ  構いませんよ。どうぞご遠慮なく。(わざと卑しい笑い)人間にはいろいろな好みがありますからね。
       (急に)あなたは、僕を操っているんだ。感情を表にあらわすのは、それがあなたの目論見に役立つからだ。
       全く、あなたは、僕を操っているんだ。剣突を食わせておいてからほろりとしたりして。
       あなたがちゃんと僕を裁いてくれれば……この事件をよく考える時間は、有り余るほどあったんだし、
       人間が傲慢すぎるから、あなた流に決着をつけたいという気持ちを、あなたは抑え切れませんよ。
父親  (陰気な皮肉)傲慢だと? そんなものは、とうの昔のことさ。
     (間。明るいけれども、陰険な一人笑い。フランツの方を振り向いて、恐ろしく優しく、また執念深く)
     だが、この事件は、如何にもわしが始末しよう。
223名前なし:2009/10/05(月) 22:05:06 ID:rl/BrNXV
フランツ  (飛び退って)そんなことはさせませんよ。この事件はあなたに関係があるのですか?
父親  これ以上お前に苦しんでもらいたくないのだ。
フランツ  (まるで別の人間を非難するかのように冷たく、乱暴に)僕は苦しんでなんかいません。
       苦しませたのです。多分、この言葉のあやは分かってもらえるでしょうね?
父親  分かるさ。
フランツ  僕はすっかり忘れた。あいつらの悲鳴までも。僕はがらんどうです。
父親  そんなことだろうと思うよ。そいつは、ますます酷いな?
フランツ  どうしてそんな?
父親  十四年間、お前は、自分でこしらえておきながら、当人のお前が身にしみてもいない苦しみに取りつかれているのだ。
フランツ  だが、誰が僕のことを話してくれと言いました? そうです。これはますます酷い。
       僕は馬の役目をおおせつかって、苦しみがこの僕に跨っているのです。この騎手にはならないように願いますね。
       (急に)ところで、どんな解決法があるのです? (父を見つめ、目を輝かせて)くたばってしまうがいい。

(父親に背を向け、苦しそうに階段を上る)

父親  (フランツを引き止めるような身振りは全然しない。だが、彼が二階の踊り場に達した時、力の入った声で)ドイツはお前の部屋の中にあるんだぞ。
     (フランツはゆっくりと振り向く)フランツ、ドイツは生きている。お前は、もうそれを忘れることは出来ないのだ。
フランツ  知っていますよ。戦争に負けたのに、ドイツが何とかやっていることは。こいつは僕が処理しますよ。
父親  敗戦がもとで、ドイツはヨーロッパの最強国になっているのだ。お前がそいつを処理するって? 
     (間)ドイツはいさかいの種で、賭け金だ。我々は甘やかされている。あらゆる市場が我々に向かって開放され、機械は回転している。
     まるで鍛冶屋のような騒ぎだ。フランツ、天の助けによる敗戦だ。ドイツには、バターもあれば大砲もある。
     いいか、兵隊もいるのだぞ。近い将来には爆弾もできる。そうなれば、ドイツがたてがみを振る。
     後見人どもが蚤のように跳ね飛ばされるざまが見られるわけだ。
224名前なし:2009/10/05(月) 22:06:32 ID:rl/BrNXV
フランツ  (最後の弁護)ヨーロッパを支配していながら、我々は敗北者なのだ。我々は一体何を戦勝国に仕立てたのだろう?
父親  我々は勝てなかったのだ。
フランツ  それでは、この戦争には負けるべきだったのですか?
父親  戦争は、負けるが勝ちでやらなければならなかったのだよ。
フランツ  お父さんがやったのはそれですね?
父親  そうだ。戦争の初めからだ。
フランツ  で、勝利のためには、軍人としての名誉まであえて犠牲にするほど、国を愛していた連中は……
父親  殺し合いを引き伸ばし、再建を邪魔するようなことになりかねなかった。(間)実を言えば、彼らは個人的な殺人以外には、何もしなかったのだ。
フランツ  それはよく考えていい問題だ。こいつは、あの部屋で考えてみよう。
父親  あの部屋には、もう一刻もいてはならない。
フランツ  そういう考えが、あなたを誤らせているのです。僕は、僕を否認するこの国を否定しますよ。
父親  十三年間かかって、お前はその否定を試みたが、あまりうまくいかなかった。
     今では、お前は何もかも知っている。どうして、またあの芝居が続けられるだろうか?
フランツ  しかし、どうすればあの芝居から抜けられるでしょうか? 
       ドイツが潰れるか、さもなければ、僕が一般法の罪人にならなければならない。
父親  その通りだ。
フランツ  それでどうだというんです? (父親を見つめる。急に)僕は死にたくないんですよ。
父親  (落ち着いて)なぜ死にたくないのだ?
フランツ  こちらから聞きたいところですよ。お父さんは名前を残しました。
父親  そんなことは取るに足らんよ、そいつが分かってもらえればな。
フランツ  嘘をおっしゃい。あなたは船を作りたいと思って、それを実行したのですよ。
父親  船を作ったのは、お前のためさ。
フランツ  へえ、僕はまた、船のために、僕という人間を作ったのかと思っていましたよ。
       どちらにしても船は存在している。死んだとしても、あなたは一つの船団だ。だが、僕は? 僕は何を残すだろう?
父親  何もないな。
225名前なし:2009/10/05(月) 22:07:43 ID:rl/BrNXV
フランツ  (逆上して)だから僕は百年生きるのだ。僕には、僕の命しかない。
       (凄みを加えて)命しかないのだ。僕の命を取られてなるものか。
       考えてもごらんなさい。僕は人生を憎むけれど、それでも無よりはましなんですよ。
父親  お前の生命、お前の死は、とにかく無だ。お前は何でもない。何もしないし、何もしなかった。お前は何もできないのだ。
     (長い間。父親はゆっくり階段に近寄る。フランツの真下の電灯のところに立って、顔を上げてフランツに話しかける)すまないな。
フランツ  (恐怖で固くなり)僕に、あなたが? こいつは策略だ。(父親は待つ。いきなり)何がすまないのです?
父親  お前だ。(間。微笑を浮かべて)親なんて馬鹿なものだ。彼らは太陽を停止させるのだ。
     わしは、世界はもう変わるまいと思っていたが、変わってしまった。わしがお前に与えたあの未来を思い出すかね?
フランツ  ええ。
父親  わしは、しょっちゅう未来の話をしていたので、お前は未来を頭に描いていたわけだ。
     (フランツ、頷く)ところが、それは、わしの過去にすぎなかったのだよ。
フランツ  そうですよ。
父親  知っていたのか?
フランツ  ずっと前から知っていました。最初は僕もそれでいい気になっていたけれど。
226名前なし:2009/10/05(月) 22:10:02 ID:rl/BrNXV
父親  可哀想な奴だ。お前がわしの後を継いで、会社をリードしていくことをわしは望んでいた。
     しかし、リードするのは会社なのだ。会社が人員を選ぶのだ。このわしは、会社にはじき出された。
     わしは所有主だが、もう指揮はしていない。そして、王子であるお前は、最初から断られた。
     会社には、王子など何の必要があろう? 会社は自分の手で経営主を養成し、募るのだ。
     (父親が語る前に、フランツはゆっくり階段を降りる)
     お前にはあらゆる才能と、権力に対するわしの厳しい好みを授けたが、それは役に立たなかった。
     何ということだろう。行動するために、お前は一番大きな危険を冒したが、会社はお前のあらゆる行動を手足の動きに変えた。
     お前の苦悩は、遂にお前を犯罪に追い込んだ。しかし会社は犯罪行為の中でも、お前を消してしまうのだ。
     会社は、お前の敗北のおかげで太っていくのだ。フランツ、わしは過ぎたことを悔やみたくはないよ。
     他の場所で、他の形なら、お前も有能だと考えられれば……
     だが、わしはお前を専制君主に仕立てた。今では、それは、何の用もなさないということを意味している。
フランツ  (微笑を見せて)僕は運命付けられていたのですね?
父親  そうだ。
フランツ  無力に対して。
父親  うん。
フランツ  犯罪に対して。
父親  うん。
フランツ  あなたの手でね?
父親  わしがお前に吹き込んだ情熱によってな。お前の蟹の裁判所に申告するがいい、わしだけが有罪だ、しかも全てについて有罪だ、とな。
フランツ  (同じ笑顔で)それをあなたの口から聞きたいと思っていたんですよ。
       (彼は最後の何段かをおり、父親と同じ床の上に立つ)それでは承知しますよ。
父親  何を?
フランツ  あなたが僕に期待していることを。(間)ただ一つ条件がありますが、それは、二人一緒に、今すぐにということです。
父親  (急に狼狽して)今すぐにか?
フランツ  ええ。
父親  (嗄れ声で)今日中にだな?
フランツ  今すぐです。(沈黙)望んでいたところでしょう?
父親  (咳をする)こんなに……早くではない。
フランツ  早くて、なぜいけないのです?
227名前なし:2009/10/05(月) 22:52:17 ID:rl/BrNXV
父親  お前に会ったばかりだからさ。
フランツ  あなたは誰にも会いませんでした。あなた自身にさえも。
       (彼は今やっと落ち着き、率直になったが、全く絶望的である)
       僕は、あなたのイメージの一つにすぎなかったんだ。別のイメージは、あなたの頭の中に残っていました。
       運悪く、僕のイメージだけが、人間の形を取ったのだ。ある晩、そのイメージは、スモレンスクで獲得した……
       何を? 一瞬の独立です。というわけで、その瞬間を除けば、あなたは全てのことについて有罪です。
       (間)引き出しの中に、弾丸の入っているピストルをおいて、僕は十三年間暮らしてきました。
       なぜ、自殺しなかったのか知っていますか? 僕は考えたのです。やったことは取り返しがつかない、と。
       (間。非常に誠実に)死んだところで、何も片付きません。僕のきまりはつかない。あなたは笑うでしょうが……
       僕は……生まれなければよかったと思いましたよ。僕は、二階で嘘ばかり吐いていたのではない。
       夜は、部屋を横切って歩きながら、よくあなたのことを考えたものだ。
父親  わしは、ここで、椅子に掛けていた。お前は歩いていた、わしはその足音を聞いていたのだ。
フランツ  (素知らぬ顔で無表情に)ああ。(感情を抑えて)僕は考えた。
       もし、この始末におえないイメージをとらえて、僕の内側に取り込み、
       僕の中に溶け込ませる手段があるとすれば、もう父しかいないのだ、と。
父親  フランツ、わしだけしかいなかったのだよ。
228名前なし:2009/10/05(月) 22:53:51 ID:rl/BrNXV
フランツ  あっさり言いましたね。それを証明してください。(間)生きている限り、僕たちは二人です。
       (間)メルセデスには六人用の座席があったけれど、あなたは僕しか連れて行かなかった。よく言いましたね。
       「フランツ、慣れなくてはいけないよ。スピードを出すからね」と。僕は八つだった。
       僕たちはエルベ河沿いのあの街道を走りましたね……トイフェルス橋は今でもありますか?
父親  昔のままだ。
フランツ  あそこは危険な場所で、年々死人が出ていました。
父親  死人は毎年増える一方だ。
フランツ  あなたはアクセルを踏みながら、「ほら、来たぞ」と言いました。僕は、恐さと嬉しさでもう夢中だった。
父親  (かすかに顔をほころばせて)一度は、もう少しで、前のめりに転覆するところだった。
フランツ  二度ですよ。近頃の車はもっと出るんでしょう。
父親  お前の妹のポルシェは、百八十キロ出るよ。
フランツ  それに乗りましょう。
父親  そうすぐには……
フランツ  何を望んでいるのです?
父親  猶予だ。
フランツ  それはありますよ。(間)そう長くはありませんがね。(間)僕は、あなたを憎まずに、一時間と過ごしたことはありません。
父親  今は?
フランツ  今は違います。(間)あなたのイメージは、頭にこびりついて離れない他のイメージと一緒に、
       粉微塵になるでしょう。あなたは、最後まで、僕の大義名分だったし、宿命だったんだ。

(間)
229名前なし:2009/10/05(月) 22:55:10 ID:rl/BrNXV
父親  よし。(間)わしはお前を作った。だからお前を解体するのだ。わしの死は、お前の死を包むだろう。だから、結局死ぬのはわし一人さ。
     (間)待て。わしにとっても、万事がこう早く行こうとは思っていなかったのだ。
     (微笑を浮かべるが、それは、彼らの苦悩を隠しおおせない)がらんどうの空の下に砕け散る生命か、おかしなものだ。こ、これには、何の意味もない。
     (間)わしを審判する奴はいないだろう。(間)なあ、わしも自分が好きではなかったのだ。
フランツ  (父親の腕に手を置いて)それは僕の言うことですよ。
父親  (同じ仕草で)やっとこうなったな。わしは雲の影だ。大雨が降り、やがて太陽は、わしが生きた場所を照らすことだろう。
     そんなことはどうでもいいさ。勝つ者は負ける。わしとお前を押し潰す会社を作ったのはわしなのだ。何も惜しむことはない。
     (間)フランツ、少しばかり飛ばそうかね? お前も慣れるよ。
フランツ  ポルシェに乗るんでしょう?
父親  もちろんだ。車をガレージから出してくる。
フランツ  合図をしてくれますね?
父親  ヘッドライトでな? よし。(間)レーニとヨハンナがテラスにいる。あの娘たちに別れの挨拶をしなさい。
フランツ  僕は……やりましょう……呼んでください。
父親  それでは、じきにな。

(退場)
230名前なし:2009/10/05(月) 22:56:31 ID:rl/BrNXV
第二景  フランツ一人、続いてレーニとヨハンナ

(父親が大声で怒鳴るのが聞える)

父親  (大声で)ヨハンナ! レーニ!

(フランツは暖炉に近付き、自分の写真を眺める。いきなり黒リボンをはがして床に投げる)

レーニ  (その直前に現れて)何をしてるの?
フランツ  (笑って)僕は生きているだろう、え?

(今度はヨハンナが入って来る。彼は舞台の前面に戻る)

レーニ  中尉殿、私服を着ているのね?
フランツ  親父がハンブルクまで連れて行ってくれるんだ。明日、船に乗るよ。もう君たちには会えないだろう。
       ヨハンナ、君の勝ちだ、ウェルナーは自由だよ。空気のように自由だ。幸せに暮らしなさい。
       (彼はテーブルの縁の所にいる。人差し指で録音機に触れて)この録音機を君にあげよう。
       五三年十二月十七日の、僕の一番よくできた録音と一緒にね。僕は霊感を受けていたのだ。
       後で聞きなさい。いつか、弁論の要旨を知りたいとか、そうでなくても、ただ僕の声を思い出したいという時に。受け取ってくれるね?
ヨハンナ  いただくわ。
フランツ  さよなら。
ヨハンナ  さよなら。
フランツ  さよなら、レーニ。(父親のように、髪を撫でてやる)お前の髪は柔らかいな。
レーニ  どの車を使うの?
フランツ  お前のだ。
レーニ  で、どこを通って行くの?
フランツ  エルベ街道だ。

(屋外で、自動車の二つのヘッドライトがつく。その光が窓越しに部屋を照らす)

レーニ  分かったわ。お父さんが合図しているわよ。さよなら。

(フランツが外に出る。エンジンの音。その音が膨れ上がって、また小さくなる。光芒が別の窓をさっと掃いて消える。車は出発した)
231名前なし:2009/10/06(火) 00:02:11 ID:VM5odd8R
第三景  ヨハンナ、レーニ

レーニ  今何時?
ヨハンナ  (時計に近寄って)六時三十二分。
レーニ  六時三十九分には、私のポルシェは水に落ちているわ。おさらばよ。
ヨハンナ  (驚いて)どうしてなの?
レーニ  トイフェルス橋は、ここから七分よ。
ヨハンナ  あの二人は行くのね……
レーニ  ええ。
ヨハンナ  (こわばって引きつり)あなたがあの人を殺したのよ。
レーニ  (同じようにこわばって)で、あなたは? (間)どうすることが出来るっていうの? あの人は生きたいと思っていなかったのよ。
ヨハンナ  (ずっとこらえている彼女は、今にも歯をカチカチ鳴らしそうになって)七分。
レーニ  (時計に近付いて)もう六分よ。いいえ、五分三十秒だわ。
ヨハンナ  駄目かしら……
レーニ  あの二人をつかまえること? やってみなさいな。(沈黙)で、あなたはどうするの?
ヨハンナ  (きつくなろうとして)ウェルナーが決めてくれるわ。で、あなたは?
レーニ  (フランツの部屋を指して)あそこには、誰か閉じこもる人間が必要なのよ。その人間は、私よ。
      ヨハンナ、もうあなたにはお目にかかれないわ。明日の朝、あのドアをノックするように、
      ヒルダに言ってちょうだい。あの娘に言いつけることがあるから。
      (間)あと二分。(間)私、あなたを憎んではいなかったわ。(録音機に近付く)弁論の要旨よ。

(録音機の蓋を取る)

ヨハンナ  私は嫌よ……
レーニ  七分! さあ、お放しなさい。あの人たちは死んだわ。

(最後の言葉を言い終えると、すぐに録音機のボタンを押す。ほとんど同時にフランツの声が響く。
フランツが語る間、レーニが部屋を横切る。彼女は階段を上がり、部屋に入る)
232名前なし:2009/10/06(火) 00:03:33 ID:VM5odd8R
フランツの声  (録音機から)来るべき世紀よ。ここにいるのは被告、孤独で異形な私の世紀だ。
          私が引き受けた被告は、我と我が手で腹に穴を開けた。諸君がリンパ液だと思っているものは、血液なのだ。
          赤血球が全然なく、被告は飢えて死ぬのだ。しかし、私は、この複雑な穿孔の秘密を話そう。
          もしも残忍な太古以来の敵、被告の滅亡を誓った肉食類、毛のない魔性の野獣、
          すなわち人間に狙われなかったならば、現世紀は幸せだっただろう。
          一プラス一イコール一、これが二十世紀の神秘だ。野獣は身を潜めていた。
          同類の馴れ馴れしい獣の中に、我々は突如として野獣の目をとらえた。そこで、我々は殴ってやった。
          それは、予防のための正当防衛だった。私は不意に野獣を襲って殴りかかった。一人の人間が倒れた。
          依然として生きている野獣を、私を。一プラス一イコール一である。何という酷い誤解だろう。
          私の咽喉につかえる、このすえたようなむかつく味は、誰の、何の味だろう? 人間の味か? 野獣の味か、私自身の味か? 
          これは二十世紀のあの味なのだ。幸福な来たるべき世紀よ。諸君は、我々の憎しみを知らない。
          我々の生命を賭けた愛の、凄まじい力を、どうして諸君は理解するだろう。愛、憎しみ、一プラス一イコール……
          我々を無罪にしてほしい。被告は、まずはじめに恥辱を知ったのだ。彼は、自分が一糸もまとっていないことを知っている。
233名前なし:2009/10/06(火) 00:04:41 ID:VM5odd8R
         美しい子供たちよ。君たちは、我々から生まれたのだ。我々の苦しみが、君たちを作ったのだ。
         二十世紀は女で、子を産んだのだ。諸君は、自分の母親を断罪するのか? さあ、答えたまえ。
         (間)三十世紀は、もう答えはしない。我々の世紀の後には、おそらく世紀などはもうないだろう。
         おそらく一発の爆弾が、光を吹き消してしまっているだろう。夜よ、おお、かつてあり、未来にもあり、現に今もある夜の法廷よ。
         私は生きた。生きたのだ。この私、フランツ・フォン・ゲルラッハは、ここで、この部屋で、二十世紀を双肩に担った。
         私は言った。「この責任を担う」と。今日、そしてまた永遠に。え、何っ?


(レーニはフランツの部屋に入ってしまっている。ウェルナーが建物の入り口に現れる。
ヨハンナは彼を認めてそちらへ行く。無表情な二人。彼らは言葉を交わさずに退場。
「さあ、答えたまえ」からあと、舞台は空っぽ)


---幕---
234名前はいらない:2010/04/18(日) 10:49:48 ID:61rGgpxw
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235名前はいらない:2010/06/27(日) 20:34:31 ID:e5oDVQtd
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2008年3月より、TDNスレには上記のDBマークをテンプレに張ることが義務付けられています。
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236名前はいらない:2010/06/27(日) 20:35:31 ID:e5oDVQtd
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237名前はいらない:2010/06/27(日) 20:37:06 ID:e5oDVQtd
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238名前はいらない:2010/07/09(金) 06:09:22 ID:6jc6tLK9
【速報】真夏の夜の淫夢4章出演の野獣先輩、待望の2作目が発掘される
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1278560788/
239名前はいらない
ンアッー!