「沼」1/2
雨の晩、窓をたたくものがあって、カーテンを開くと
ずぶぬれの男が青白い顔を正面のまま、ガラスにべたりと貼り付けている
鼻がないのだった。口をぺろりと丸く開き、窓ガラスにおしつけると
ガラスが細かく震えて奇妙な声になった
皇子、沼へ。主がお召しでございます
主とは齢数百を数えるという大雷魚であり、
皇子とはおれが30年も前に釣って殺した主の子供だということだった
だが、おれは皇子ではない
そう言うと、沼の使いは顔をガラスから引き剥がし、雨音のみを響かせる闇の中へと戻った
ガラスには河童のいやらしい粘膜の跡が残され、それは顔と両手のひらだった。指の間には水かきがあった
明日の朝、見つけた妻が気味悪がるだろうと思い、おれはぞうきんで窓ガラスをきれいに拭いた
その晩の夢に現れた主は おまえの子をとろう と言った
妻は臨月であったために、おれは即座に行動せねばならず、その週末には実家に戻り、
予め手配しておいた業者のポンプがすでに沼の水を半分以下に減らしていた
親父はここらの地主であり、沼も親父の土地の中にあった。土曜日には小さな沼の水はすべて抜かれて干上がり、
巨大な雷魚やもしかしたら男の死体でもあがるかと期待していたが
そのようなものはなにも見つからず、フナやドジョウが泥の中で跳ねているだけだった
沼は日曜日に埋め立てられた。おれは沼があった場所のやわらかい土の上に足跡をひとつ残した
帰り道、念のためにうちが檀家になっている寺に預けておいた妻は 退屈だったわ と言っていた
生まれたのは男の子だった
雨の晩、窓をたたくものがあって、カーテンを開くと
やはり、この前の河童だった。言う
この世はすべて沼となりましょうや?
なるであろう
ベビーベッドの中から答えが返った
おれの口も自然に動いた
それはすでに
おれたちはテレビの青白い画面をみつめており
闇には雨が降っている