<散文詩・投げ壜通信>
T『新大久保 魔辻に立つ』
この場所だった。君の勤務先に近い、新大久保のこの狭い公園で、君と
よく芥川や太宰の話をしたのだった。
君は足が悪かったし、俺はタクシーに乗る金を持っていなかったから、
俺達はいつも公園のベンチに座り込んでいつまでも話をしたのだった。あ
どけない少女のような君に似合わない話題だったが、俺は君と芥川の話を
するのが好きだった。ロッテのガム工場から流れる甘い匂いと、ラブホテ
ルから流れるほこりっぽい匂いにつつまれて、芥川の話をするのは、楽し
かった。君はいつも芥川の小説の中で、「河童」がもっとも優れている、
と言って河童の話をしたがったが、俺は断然「歯車」だと思っていて、と
きどきは喧嘩になった。
ある日、君が死んだ。通夜だというので、君の家族が続き部屋を借りて
住んでいたアパートに上がらせてもらい、俺は正座して焼香したのだった。
気がつくと、自分の靴下のかかとに大きな穴があいていたので、(いや、
そうではない。むしろその穴を見て、君のかあさんが、なぜか泣きそうに
なったので)、帰り道で俺は、唐突に芥川の「河童」のことを考えて、俺
はあの小説のオス河童のように君に殺されたかったかもしれない、などと
考えて、君はなぜ河童が好きだったのか、と考えて、君が不自由な体で俺
や他の男を愛した事を考えて、しかし、結局はその町を俺は去ったのだった。とどまれば死んでいたに違いない。その、魔辻に昨日、俺は立って君を想った。
U『飯田橋ホッピー/ハッピー/ラッキースター』 1/2
俺の詩をポンとたたいて、「地獄の言葉は、表現手段ではないよ。」と、塔
島君は言ったのだった。塔島君は長身痩躯、背広の似合う年上の友人で夜学に
通っていると言っていた。それにしても、ああ。説明とは何という無駄で愚鈍
な行為なのか、曖昧の甘い眠りを、俺によこせと騒ぎ立てる愚かな蛆虫どもの
言い分もわからないではない。しょせん蛆虫は蛆虫だが。時間を戻そう、時間
を戻すなんて、そんな大それたことが何故許されるのか、本当は俺には皆目わ
からないのだが。とにかく俺と塔島君は大学近くの立ち飲み焼鳥屋の一番奥に
陣取って、ホッピーに口をつけたのだった。
「表現とは自己表現のことだね。」と言ったきり俺には後が続けられなかっ
た。今でも続けることはできない。そんな俺を放置して、自分勝手な秘密の理
由で含羞みながら、塔島君は、「俺の言葉じゃないよ。」と言ったのだ。俺の
知る限り野球の話しかしたことの無い、あるどうでもいい奴が、立て込んでき
た店の中に立ち込める煙の染み込んだ脳味噌で自分も何か考えたのだとでも言
いたげな顔で、「問題は「表現」ではなくて、「手段」のほうだよ。つまり手
段ではないってことだろ。」と言って、俺はますます赤くならなければならな
かったのだった。こんな奴はいまならとにかく殴ってはやるんだろうが、あの
頃俺はいまほど腕が太くなく、入澤の詩論も読んでいなかったし、また自分の
頭が悪いことの自覚も無く、地獄の言葉が自己表現とは無関係であることも経
験的に知っていただけで、言葉で考えていたわけではなかったのだ。
2/2
七年後、ある大切な友人の紹介で、俺は、君の弟であると名乗る、その道で
はそれなりに有名な俳優に会った。その人は、何度目をこすっても、俺の目に
は塔島君自身にしか見えなかったし、実際俺はだまされたのかもしれない。し
かし、実際あの人が塔島君、君の弟だったとしてだ。彼は俺に不思議なことを
言ったのだった。そのころ兄は失踪していたと。もう長いこと会っていません
が、そうですか。そう言えばあなたは、兄に似ていますね。と。
君はあの焼鳥屋の夜、あれは寺山修司の言葉だと言った。有名な言葉だと。
俺はまだあの言葉を発見できないよ。本当にあれは君の言葉では無かったの
か?俺よりも寺山よりも、君にこそ良く似合う言葉だったが。或いは、俺に
だけは寺山を読んでもATGに通っても、あの言葉は水で書いた絵のように、見
えないのか。
俺の記憶にとって事実と幻覚の違いなど何の意味も無いが、俺は知りたい
と思う夜がある。君はあの夜、本当に、いたのか。
75 :
ボルカ ◆TcCutL/5sw :2005/11/03(木) 01:43:47 ID:D2n3DpLL
V 『鳥男』
早稲田通りを疲れるまで歩き、今は無い古書店街の跡に至って、見上げると電柱と言う
電柱、電線と言う電線を埋め尽くして、異様な数の鳩と、それとほぼ同数のカラスが群れ
ていたのだった。
その数は恐らく一万を超えていただろう。電線には隙間が無く、アスファルトは燐鉱石
の取れる不思議な島のように、一面に白く濡れていた。
どのような法則が鳥たちを呼び寄せたのか。この辻で、俺の見ている前で、俺とおまえが
この街で暮らした二年のあいだに、三度、人が死んだ。いや、運ばれた先で救われたのかも
しれないが、頭蓋の割れた青年や奇妙に腰の曲がった少女を、この辻で俺は見たし、それに
先立つ運動会の銃声のような明るい音や人が飛ぶ映像をこの辻で俺の脳は識ったのだった。
その角に立つ廃屋のような商店の二階にいつも窓を開け放った一室があり、部屋の奥に
いつも動かない暗い人影があり、辻を見つめていた。屋根も柱も軒も庇も桟も樋も、全てが
白くまだらに汚れたその家を、俺とお前は「鳥男の家」とよんでいたのだった。ある夕方、
お前は見たといった。「鳥男」の部屋に信じられない数の鳥たちが吸い込まれていくのを。
ある夜更け、一度だけこの辻の歩道で、俺とお前は、夏だと言うのに長い黒いコートを着
込んだ老婆とすれ違った。
「鳥男だよ。」とお前がささやき、俺もそれを確信したが、何故そう思ったのか、その
理由はわからない。
(了)