何かを創るときに使うエネルギーというのはどうもかなり種類が似ている。
詩がいったい何を記述するかといえば、どんな種類であれ、エネルギーなのだとすると、創る行為そのものがすでに詩である。
垂直方向のエネルギーを記述しようとした田村の言っていたことはなんとなく、そういうことに近い気がする。
深度を得るということは、創作の精度を高めて、高めて、さらに次の何かに手を伸ばそうとする行為に似ている。
そして詩は、さらにその手を超えて飛び出していく瞬間に、色濃く立ち昇る。
金曜日の青ピーマン
尖らない鉛筆の先っちょで
膨らんだ水風船の腹を押す
明日からはお休みで
学校は眠りについて
笑い声の記憶にまどろんでいく
廊下の本棚の辞書が流す涙は画数の多すぎる漢字
期限が切れたポスターの色あせた写真に
キスをしてまわって
上靴がかたっぽう
ロッカーに
運動場のたつまき
「エンドルフィン」
イルカ
海で
コドモ
きゅうきゅうと
赤子が
腹の下の乳首を吸い付いた
きゅう
きゅう
きゅうきゅう
海が鳴いて、乳がとろけて、産褥の血が青く染まった
「月影」
煌々と照らし出す砂原に濃い月影を造りだし
一人の老人が杖を突いて歩む
影は彼の足元から、斜め後方に延びて
砂原の起伏に翻弄されてダンスを踊る
ざくっ、ざくっ と歩む老人の足元で
彼が踊っているのは
生きられることがなかったひとつの人生の歌だった