「クレモナ」 1/3
僕はクレモナというスポーツの愛好者だ。
必要なのは、やや錆びついてキイキイ鳴る自転車
そしてできるだけ長い、だらだらと下る坂道。
宵闇迫るころ、長い坂をぼーっと下り
その勢いでどこまで行けるかを競う。
ペダルを漕ぐことは一切許されない。
歩行者を避け、信号や段差を避け
夕方の街をそろそろと走ってゆくのだ。
クレモナの愛好者は、この町では僕の他に二人。
一人は肉屋のご隠居。
伝説のチャンプと呼ばれ、蝸牛が這う速度で
どこまでも行ってしまう僕らのマイスター。
僕はご隠居と口をきいたことがない。
遠くから限りないリスペクトを捧げるだけだ。
2ヶ月前から入院中なのは無念という他ない。
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2/3:2006/11/30(木) 20:06:41 ID:r86WC5KZ
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もう一人は、肉屋の三軒先の洋装店の次男坊。
僕の旧友でクレモナの名付け親
誰よりもクレモナを熱く語る男。
ご隠居は富士山の麓まで行っちゃったらしい
いや、世界にはドーバー海峡を
クレモナで越えた猛者もいるらしい。
ドーバーを越えた猛者は
船の中を自転車で走っていたという。
「いくらなんでもそりゃウソだろう」
「いや、ホントにホントだって!
クレモナの達人はどこまででも行けるんだ」
クレモナとは、北イタリアにある小さな街で
そこに世界最高の下り坂があるのだという。
いつか聖地クレモナで世界選手権を開く。
それが次男坊と僕の夢。
ヨーロッパの夕日を浴びながら
長い石畳の道をゆっくりと降り
遙かなるローマを目指すんだ。
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3/3:2006/11/30(木) 20:08:34 ID:r86WC5KZ
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それもこれも、半年前までの話だ。
長い旅から帰ってくると
ご隠居は肺炎で亡くなっていた。
次男坊は一度だけ、クレモナ中を見かけたが
今は会いに行けない建物の中にいる。
牛丼屋で包丁を振り回したそうだ。
こうして、クレモナ愛好者は
この町に僕一人になってしまった。
ついでに言うと、調べたら
クレモナには長い下り坂なんかなかった。
それでも僕は、今日も夕方になると
愛用の錆つき自転車で坂を下るのだ。
クレモナ中の僕はただの重量。
ただの重量が,
夕暮れの商店街を
無表情にとろとろと走ってゆく。
最後に見かけた次男坊を思い出す。
時間が止まったような、まっしろな顔を。
僕にも、もはや漕ぐべきペダルはない。
クレモナは、そういう人間たちのスポーツだから。
どこまで行けるか。
サドルから滑り落ちる、その瞬間までに。