「深夜、自宅特急に乗って」
僕が小学校高学年になると父と母はもう同じ部屋では眠らなかった
それまでたびたび夜中に聴こえた両親のいさかいの声がなくなったことを
喜ぶべきなのか悲しむべきなのか僕にはわからなかった
二段ベッドの下で眠る兄がまた僕の寝台を蹴り上げてくる
いくら文句を言っても兄はそれをやめようとはしないので僕ももう諦めてしまって
ごすんごすんと僕を揺らす兄の足に一定のリズムを期待しながら
幼い僕には膨大な夜の時間をひとりもてあます
子供の頃の僕にとって深夜は内も外も等しく暗かった
だからその暗い空間にはまだ僕の空想を詰め込む余裕がたっぷりとあった
僕はこの4DKの築30年の家が音もなく動き出す空想に包まれて眠りにつく
モアイ像の立ち並ぶイースター島やペンギンのすむ南極に向かって
僕の家はゆっくりと見慣れた景色を離れて滑りだす
そしてスピードをぐんぐんと上げてゆく
真っ暗な窓の向こうに吹き飛んでゆく紺色の町を映し出しながら
僕はここではない見知らぬ場所へとベッドにからだを横たえながら進んでゆく
日焼けした父の逞しい両腕に抱きかかえられて眠った幸せな記憶を呼び起こして
この家は太平洋の大海原を飛んでゆく 眠につく父と母 兄を乗せて
目が覚めたらモアイ像やペンギンに囲まれて皆びっくりするだろうな
なんてひとりでにやついて次の日のことなんて全部わすれて
この家はすごいスピードで夜の闇を走ってゆく
(つづき)
現在兄は遠くで自分の生活を送っている 父と母はいささか年老いた
兄に毎夜蹴り上げられた二段ベッドは僕が中学生になった時壊して捨てた
あの住み慣れた4DKの築30年の家も今は駐車場になっている
深夜が暗闇をもてあました領域であった頃はもう遠く
僕は昼と地続きになった夜をひとり過ごす
子供の頃の意味においての未知の領域はもうない
イースター島も南極も夢と同時に現実の匂いが常に付きまとうようになった
それがかなしいことだとは思わない 僕は大人になったのだから
眠りにつく時 ふと幼いころ空想した自宅特急を思い出す
もう長い間思い出すことすらなかった小さな空想に身を任せてみる
向かう先はイースター島でも南極でもない
そこに向かってこの部屋は音もなく見慣れた風景を離れてゆく
ぐんぐんとスピードを上げて
紺色の現実を吹き飛ばして