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紀貫之は大胆にも「仮名」を持ち込んで「たおやめぶり」の風を構築した。
教科書には、「万葉・古今・新古今」として一般には安易にみえる分類がなさ
れている。にもかかわらず、「たおやめ」時代に属するはずの「拾遺集」中に
はもう、「新古今」の匂いが何とはなく感ぜられはしないだろうか。
定家が「拾遺集」の愛読者だったことはよく知られている。そこから「新古今」
への道はさほど遠くはなかったかもしれない。人麻呂の歌がそこには散乱して
いた。定家の眼にはそれらが水の底の砂金に映ったのかもしれない。彼は多分
それらを注意深く、拾いあげていったにちがいない。
幾時代かが過ぎた─。
江戸の漢文体はあくまでも江戸のそれであって、維新以後のそれではない。
明治が欲したそれとは、たしかに似てはいる。似てはいるが、似ているのと求
められているのとではいうまでもなくちがいがあり、ちがいがある以上、採用
されるはずもなかった。
そんなとき、正岡子規という一人の男が四国は松山からやってきて、いった。
「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候」、と。
この一言をもって、すくなくとも時代は子規とリンクすることに決定した。
それまで人麻呂が引き、貫之が引き、定家が引き、芭蕉が引いたきた、ことば
の琴線の断層が、また、新たに刻みこまれたのであった〜。