「いいのか、打ち合わせとか」
「ありません。久遠には台本を渡しません」
さらりとあかねは言い返したが、正解なのかは分からない。荵の思い描くセリフをいつも見ているあかねは、アドリブで
この舞台を荵という忠犬と共に挑んでみたかったのだった。いつもやっているエチュード、それを思い出せばよい、と。
「このお話、イヌの娘は人間からの会話で動き始めます。元々、イヌだった娘と全く同じ状態です。なので、台本は一人分で十分」
「賭けだよな」
「ほんのさわりと役柄、そして結末だけ久遠に教えてあげるんです。思った通りに久遠が動くよう本を書いていますから」
風車を見て巨人と思い込む勇者。友に空白の舞台を全て任せた少女。さして変わりは無い。
「あの子なら……尻尾を振ってやりますよ。『演劇のイヌ』ですから」
「そのまんまだな」
演劇に出会って得たもの全てが荵を育み、荵が得たもの全てを演劇に賭ける。
これからずっと、これからきっと、一緒に歩いていくんだから『イヌ』と呼ばれても構わない。全身で恩返ししてやるんだから。
演じること、よき信頼関係で居たいという意味で、あかねは敢えて荵のことを『イヌ』と呼んだ。
「黒咲はだんだん誰かに似てきたな。楽しみにしているから」
「わたしは出ません。この本、迫先輩のために書いてきたんです。多分、ぴったりです」
「やめとく。おれはそんな賭けなんかしない主義なんだ」
「賭けていないんですか。演じることに」
「賭けてるよ。失敗する方へ」
初めて先輩にあかねは目に光るものを見せた。
外の天気がそうさせているからと、言い訳できれば良いのに。
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事実、賭けは迫の勝ちだった。あかねは荵を買い被り過ぎていた。
試しに部室で迫と荵はあかねの台本どおりに進行してみた。しかし、穴があった。荵はそれほど単純な子ではないということと、
荵はあかねが思っていたほど動いてくれなかったということ。本を書くのがいくら好きでも、荵には耐えられなかった。
そして、あかねはエントリーを取り消した。
そのことを未だに悔やむあかねは、すっかり夏色に染まる荵に焼いていたのかもしれない。
なぜなら、部室の窓からお子様プールの荵を眺め続けているのだから。秋にも発表会はあるだろと、迫にまで気を遣わせる始末。
「多分、久遠荵はこの件を本能的に避けたかったんだろう。でも、おまえの願いだから受け入れた」
「……ですかね」
迫の返事はしないことで結論付ける。
あかねだって承知だ。不安になってすがりより、迫に弱音を吐く姿は荵に見せたくはなかった。
中庭から荵の空を突き抜けるような声が通る。
「久遠はこの間のことを……」
「忘れてないよ。だってイヌは恩を一生忘れないからって言うだろ。黒咲のことを恩に思っているだろうからな」
「えっ」
中庭からの声。夏色の声。
「いいこと思いついたのだっ!夏は力持ちだぞ!今度はあかねちゃんにわたしが脚本を書いてあげてあげるのだっ」
思わずあかねは「久遠っ」と反応するや否や、
荵はお子様水着姿で「わんっ」。
迫は一言呟く。
「……な。アイツはイヌだから忘れないって」
あかねはエントリーを取り消してよかったと初めて思った。