「たとえば、今まで意識していなかった人が恋しくなったりとか」
「ないね」
「じゃあ、恋が芽生えても離れ離れにならなければならなくなったときの辛さとか」
「そんなことはまだ感じていない」
正直に答えているだけの迫に罪はない。
「あれだろ。おれを台本のネタにしようとか」
「ところで、久遠は?」
夏の空模様と、女の子の話はくるくると変わりやすい。自分の質問がすかされたことはいつものことだから、迫は単純に「いない」と
みどりの黒髪の少女に答えを返してやった。それにしても演劇部の同級生、久遠荵の姿が見当たらない。いつもなら暇さえあれば
部室の中で「わんわんおー!」と小道具片手にはしゃいでいるはずなのだが、今日に限って犬小屋から姿を消して首輪を外している。
荵と会わなかったことは考えていた通りだとあかねは胸をなでおろす。だいたい久遠のやることはあかねには分かるらしい。
お外に出ていたあかねの気持ちは迫に諭されてハウス!脱線した話を修復する。
「夏休み公演のお話が思い浮かんだんです」
「あれか。参加するつもりなのか」
「梅雨前の発表会を見て出たくなったんです」
演劇部では2、3ケ月おきに部内でご褒美つきの発表会を行っていた。
部内でいくつかの班に別れ、少人数だけで一つの劇を作り上げること。そして今回は、部内で優秀だった者は街の夏祭りの舞台に
出ることが出来るという。学園公式ではないもの、切磋琢磨が目的の部内発表会だった。少人数だからこそ小回りが効くし
逆に制約がつくことで毎回これで頭を悩ませる部員も多い。いつものような、みんなで作り上げる仲良しごっこではなく、
ライバル同士の作業にあかねは始め戸惑った。それを後押ししたのは荵だった。この子なら頑張れる……と。
荵もその話を聞くと表情を変えないものの首を縦に振った。普段なら「わんわん!やるよ!」というはずだが、
あかねは親友の目を信じることにした。その日からあかねは表情を露にしないものの、寝る間を惜しんでノートと睨みあっていた。
迫は本人の希望でこの公演では彼ら、彼女らを見守ることにしていた。そして、あかねは迫に内容を隠さずに打ち明ける。
「イヌだった娘と少年の話、です」
迫のメガネが切れかけて点滅している電灯を映しこむ。
「真っ白なイヌが神様にお願いして人間の娘になるんです。でも、ただのイヌから人間になって、
人間が当たり前だと感じていたことを彼女は初めて感じるんです。それは、誰かを好きになること。
イヌでいる間はなんとも感じていなかった。遊んでくれて、いっしょにいてくれる存在だった人間。だけど、自分が人間になって
それ以上の感情が分かる存在なんだと知ったとき、初めて彼女は恋心を抱きます。ケモノだった自分からの開放」
ケモノだから?
イヌだから?
同じ生きとし、生けるもの同士なのに?
想い人の姿を目に入れる自分が恥ずかしくなるような錯覚。
人間にだけ許された「好きになる」感情をケモノは手に入れてはいけない。果たしてそうなのか。迫はメガネを摘む。
「でも、幸せなときは長く続かない。彼女は神様から再び元のイヌへ戻るようと告げられます。
それは、ケモノが人を好きになってしまったからという『罪』の咎として。神への反抗として」
全貌を聞いた迫に、いくつかの疑問が生じた。
これはあかねと荵の舞台だ。では、少年役は誰がするのか。何故、あかねは荵がいなかったことを幸いとしたのか。
そして、果たしてあかねはいったい何を考えているのか。雨音が強くなるに連れて不安が増す。