ttp://www.aozora.gr.jp/ 夜明け前 第一部上/島崎藤村
(続きから)
四
新茶屋に、馬籠の宿の一番西のはずれのところに、その路傍《みちばた》に芭蕉《ばしょう》の句塚《くづか》の建てられたころは、
なんと言っても徳川の代《よ》はまだ平和であった。
木曾路の入り口に新しい名所を一つ造る、信濃《しなの》と美濃《みの》の国境《くにざかい》にあたる一里|塚《づか》に近い位置を
えらんで街道を往来する旅人の目にもよくつくような緩慢《なだらか》な丘のすそに翁塚《おきなづか》を建てる、
山石や躑躅《つつじ》や蘭《らん》などを運んで行って周囲に休息の思いを与える、土を盛りあげた塚の上に翁の句碑を置く
――その楽しい考えが、日ごろ俳諧《はいかい》なぞに遊ぶと聞いたこともない金兵衛の胸に浮かんだということは、
それだけでも吉左衛門を驚かした。そういう吉左衛門はいくらか風雅の道に嗜《たしな》みもあって、本陣や庄屋の仕事のかたわら、
美濃派の俳諧の流れをくんだ句作にふけることもあったからで。