au by KDDI 総合・雑談スレッド《Part18》
キーマンに聞く――沖縄セルラー電話社長親泊一郎氏、自らやらねば誰がやる(逆襲)
2003/07/18 日経産業新聞
沖縄セルラー電話はガリバー・NTTドコモを向こうにまわし、新電電として都道府県別シェアで唯一首位に立つ。グローバル化
に突き進む通信業界で、あえて地域に特化した経営の成功の秘密は何か。親泊一郎社長(71)に聞いた。
――県内専業会社として設立された経緯は。
「一九七二年の本土復帰から二十周年を控え、九〇年に沖縄と本土の経済人が協力する『沖縄懇話会』を立ち上げた。本土側
からは中山素平・日本興業銀行元頭取や牛尾治朗・ウシオ電機会長などが参加したが、メンバーの一人がDDI(現KDDI)創業
者の稲盛和夫氏だった」
「鹿児島県出身の稲盛さんは、薩摩藩の琉球王国侵攻以来の本土に対する複雑な県民感情をよく理解していた。『独自に携帯
電話事業をやってみたら』と提案され、我々も自らやらないと誰がやる、という気概で応じた。九一年六月に会社は設立、九二年
十月からサービスを開始した」
――なぜNTTドコモに勝てたのか。
「沖縄県は人が住む島が四十以上ある。那覇市を中心にコンパスで円を描くと、北海道に負けない広さになる。インフラ整備は
非効率がつきまとうが、携帯電話はつながらないことには意味がない。沖縄は車社会だからまず幹線道路を皮切りに、ち密に
基地局を整備した」
――KDDIが五一%出資する。親会社との距離感は。
「独自の考えで経営し、KDDIもほとんど口を出してこない。社長は琉球石油、オリオンビール、三代目の私が琉球新報社と、
すべて地元から出ているが、それは親会社側の希望でもある。KDDIからの出向もたいていは沖縄出身者。他のセルラーが
合併する際も、沖縄も加えようという話は全く出なかった」
「基地局の整備や広告宣伝、料金請求など単独でできる投資はなるべく自前でやっている。沖縄県内の上場企業は当社を
含めて五社。資金調達や雇用創出、納税などKDDIの視点から離れて、地元経済に貢献している」
――社長は誰が、どう決めているのか。
「それは私が聞きたい(笑)。私のいた琉球新報社は実は沖縄セルラーの株主ではない。それなのに私が琉球新報の会長
時代、米国出張から戻ると、財界の総意だと言って決められていた」
――経営の課題は。
「沖縄経済の柱は観光とIT(情報技術)。その中で沖縄セルラーをどう位置付けていくか。例えばauはアジアの国・地域と国際
ローミングを進めているが、それらの国・地域のほとんどは沖縄との定期直行便があり、観光客も多い。auの南の窓口としての
役割を意識せざるを得ない」
「携帯電話によるインターネットサービス『EZweb』で当社は独自にポータル(玄関)サイトを運営、約九十のコンテンツを持つ。
例えば年末の那覇マラソンは約二万人が参加するが、完走者全員の名前と順位、タイムを配信しており、県外や海外の家族
などに結果がすぐ伝わると好評だ。沖縄三味線の楽譜と音を動画で配信、全国のどこでも練習できるサイトなど、ITを使う文化
発信も意識している」
第2部時の試練地の宿命(7)通信競争沖縄の解答――強い地元セルラー(逆襲)
2003/07/18 日経産業新聞
小市場を大きく切り取る
日本のほぼ南端に位置する沖縄県の宮古島。北側の浅瀬で年に一度、三月三日の干潮時に南北十キロ、東西六キロに及ぶ
「幻の大陸」が出現する。
待ちかねた島民や観光客が上陸し、潮干狩りを楽しむ。もしその場の臨場感を声やメールで伝えたいなら、auの携帯電話を持
っていくべきだ。理由は簡単。auしかつながらないからだ。
NTTドコモが全国シェアの六割を握り、独走する。そんな携帯電話業界の「常識」が唯一通じないのが沖縄県。六月末の県内シ
ェアはKDDIのauが四九%。四一%のドコモを上回る。
なぜか。KDDI子会社の沖縄セルラー電話社長、親泊(おやどまり)一郎(71)は事もなげに言う。「ウチは沖縄の会社ですから」
福岡市に本社を置き九州全域を担当するNTTドコモ九州と、東京本社から全国を束ねるJ―フォン。国内全体の一%未満の沖縄
市場は、ライバルにとっては「ワン・オブ・ゼム」。が、県内専業の沖縄セルラーには「オンリー・ワン」だ。
「郷土の役に立たないと」。通話をつなぐ無線基地局を離島や山間、建物地下まで二百局以上きめ細かく設置。福岡で計画を決
めるドコモの二倍近いとみられる。
「つながりにくい」と苦情がくればすぐ現地へ飛び、電波の死角をつぶす。「人口カバー率など机上の数字では語れない世界」(副
社長の佐川信和=61)。だからゴルフ場のキャディーがドコモ以外の端末を持つのは沖縄県だけ、といわれる。テレビCMも沖縄
セルラーは無名の地元タレントが「やっぱり沖縄が好きっ」と叫ぶ。
「こんなことなら各県に一社ずつ会社をつくればドコモに勝てたかも」。KDDI取締役の中野伸彦(57)は冗談交じりに話すが、沖縄
に専業会社をつくったのは、市場としての魅力の乏しさの裏返しでもあった。
「皆さんが携帯電話をやるならお手伝いするが」。一九九〇年。沖縄と本土の経済人の交流会の席。DDI(現KDDI)会長だった稲
盛和夫(71)はこう水を向けた。
八五年の通信自由化でDDIは関西、九州など地域ごとにセルラーを設立、携帯電話事業に参入した。が、沖縄には二の足を踏ん
でいた。当時の県内サービスはNTT一社だったが、契約数は千四百台。事業として成り立つか危ぶまれた。九州セルラーでカバー
するか、いっそ沖縄は空白地帯でもいいという意見すらあった。
リスクをとったのは、“米軍基地経済”からの自立を目指す沖縄財界だった。「使命感だった」と当時は琉球新報社社長の親泊。DD
Iと沖縄電力や琉球銀行、オリオンビールなど地元三十九社が出資、元琉球石油社長で現在は県知事の稲嶺恵一を初代社長に、
八番目のセルラーは九一年に誕生した。最初の関西から四年遅れだった。
しかし、成功は一番乗りだった。小さなパイで食っていくには、パイをできるだけ大きく切り取るしかない。切迫感が原動力になった。
九七年四月、携帯電話会社初の株式上場を果たした。ドコモより一年半早かった。
沖縄セルラーが地域専業を貫けるのは、親会社が巨額投資のかさむ端末やサービス開発を引き受けているからだ。親泊が「ロー
カルとグローバル、両方の視点を忘れるな」と社員に説くのはこのためだが、同時にその言葉は親会社への「警鐘」として響く。
auは人口二千人の沖縄・東村ではつながるが、九千人の東京・八丈町では使えない。全国規模で経営効率を考えるKDDIの“限
界”だ。爆発的な成長期はそれでよかったが、新規の伸びが鈍り、成熟期に入った今は、別の発想も必要だ。
「スキー場に片っ端から基地局を置け」「漁船でつながるか確かめろ」。KDDIの中野はシェアがたった九%と低迷する新潟県で今、
沖縄流の巻き返し策を命じる。
十八年前に始まった通信自由化の最大の狙いは、独占企業であるNTTの占有率引き下げ。気がつけばその模範生は、最も遠く、
最も小さく、最も出遅れた携帯電話会社だった。=敬称略