YOSAKOIソーラン・よさこいのイベント情報・画像・動画

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2002年6月18日 北海道新聞「YOSAKOIソーラン祭り どう思う」より「心の潤い与えぬ」日高晤郎

 あくまで私個人の好き嫌いの問題だが、あえて言わせてもらうなら、
YOSAKOIは「祭り」ではないと思う。踊り手や観客の数は増え続けているが、中身は結局、学生が始めた「イベント」の域を出ていない。
 私は決して祭りが嫌いではない。祇園祭や三社祭に参加したこともあるが、街のそこかしこで酒をふるまわれたり、市民が道すがら声を掛けてくれたりする気安さや温かさがある。
みこしをかつぐ人も、かつぎ手を見守る人も、みんながわくわくし、血をたぎらせる−それが祭りではないか。
 それに比べてYOSAKOIには札幌全体が浮き立つような楽しさはない。高価な衣装をそろえ、振り付けを必死に覚える。
マスゲームのようで、練習の成果を披露する踊り手だけが喜んでいる。だれもがどんな服装でもどんな振り付けでも自由に参加できるのが、祭りのあるべき姿ではないか。
「踊る阿呆(あほう)と見る阿呆…」というが、YOSAKOIには「同じ阿呆」という優しい感覚に欠け、祭りの最大の素晴らしさである「共有」がない。
 昨年、あるチームが踊り終わった後、観客に向かって声を揃え、「ありがとうございました」と礼を言った。
踊り手が、参加者ではなく出演者として、参加者という同じ立場であるはずの観客を見下し、観客との距離を自ら広げているように感じた。観客に踊りを"見学"させるだけで、
参加させていないのだ。
 あるイベントに招かれたチームの踊り手が「今日の観客はちゃんと見ていない」と楽屋で文句を言ったのも聞いた。素人である踊り手がなぜこのようなことが言えるのか。
メンバーをオーディションで選ぶチームもあると聞く。参加を制限するなんて、祭りの精神とほど遠い。いっそ「YOSAKOIコンクール」に名前を変えたらどうか。
 祭りは土地の歴史を物語る。YOSAKOIはしょせん、高知からの借り物にすぎない。
二番煎じを北海道に根ざすものにできるのか。「YOSAKOI」と名乗っている以上、北海道の歴史を刻めないだろう。
 そろいの衣装とペインティングで徒党を組み、地下鉄やホテルなどの公共の場における一般的なマナーも守れない踊り手も少なくない。このイベントに関係ない人を威圧し、無言にさせている。
経済効果がいくらあっても、YOSAKOIは市民に心の潤いを与えていない。そうした現実を謙虚に受け止めるべきではないか。