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考える名無しさん:
とはいっても完全にヘンデルとグレーテルに重なるわけではない。
そこのところに西欧人と日本人との違いがあるわけで。
たとえば『ヘンデル』の場合に森が舞台であるのに対して、
『千と千尋』では異界が舞台である。
中世以前の未開の土地であり同時に恐怖の対象でもあった森は
西欧人にとって邪悪なものが棲む世界であるから。
一方日本人にとってはこの世界は多くの層を持つと考えられるから、
神や化け物、あるいは幽鬼といったものが住む世界、
鳥居や四つ辻の向こう側が物語の舞台となる。
ではそれぞれの物語の世界における魔女の地位はどのようなものなのだろうか?
『ヘンデル』から見ていこう。
魔女と言えば魔女狩りであるが、西欧においては魔女は悪魔と関係を持つ者であり、
神を冒涜する者として異端審判の対象であった。
そもそもプラトニズムの流れを汲むキリスト教においては
神と悪魔を対置すること自体が既に異端の考えであるように思えるが、
(この辺よくわからんままに書いてる、詳しい人こっそり教えてたもれ)
ともかくこの世は聖と邪に分けられると言う前提が
『ヘンデル』の特徴と言えよう。
『ヘンデル』の魔女は邪悪な存在であり、
お菓子の家に迷い込んだ子供たちを食べてしまう。
そんな魔女につかまってしまった兄妹のうち、
兄は牢獄に押し込められ、妹は盲目の魔女に仕えることになる。
物語の間中兄はただ太らされるために食べるだけであり、
妹の機転によって魔女は滅び、兄妹揃って帰還するところで話は終わる。
この物語において魔女は圧倒的な力をもっている。
が、何故か盲目でありそこに付け入れられ、
グレーテルに暖炉の中に突き落とされて焼け死ぬ。
こうした終焉の激しさは西欧の物語に共通しており、
秩序を重んじ悪を滅ぼす性向を表している。
この性向は聖邪の区別がはっきりついていないと
成立しないということは言うまでもあるまい。
この盲目というところに重要な意味があると思うのだが、
さっぱりわからん。
『千と千尋』の魔女も子供への盲目的な愛情を利用されてるし。
書いててようわからんくなってきたので次いく。
『千と千尋』の魔女は少女千尋をさらって働かせるところまで
『ヘンデル』の魔女に似ている。
しかし、魔女湯婆(?)は邪悪な存在ではない。
住んでいる場所も鳥居の奥の異世界であり、
聖にも邪にもなりうる場が舞台となる。
日本人にとって神とはニュートラルな存在であり、
清浄なものに触れては聖なるものとなり、
不潔なものに触れて邪となるのが日本の神々なのだ。
物語は千尋の家族が異世界に紛れ込み、
豚になってしまった両親を救うために働くところから始まる。
異世界に紛れ込み、両親もいなくなってしまって途方にくれる
千尋を謎の少年ハクが助ける辺り、記紀神話のイザナギ・イザナミの話を思い出した。
たぶん重要な関連はなかろうが。
そう言えば『ヘンデル』で兄妹が森に入っていくのは
乱暴な父から逃げるためであったかな?