宮崎駿ってどう?

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33千と千尋について
今日は2回目を見た。

最初見た時は、正直、ラストがあっさり気味かなあと感じたが、
2回目はそれほど疑問には思わなかった。

それでも、電車(片道しか運行していない)で銭婆の所へ行くのは何の隠喩か、
カオナシをあのまま銭婆の家に置き去りにしたのは、アッサリしすぎてて、
もしや、脚本の手詰まりじゃなかったのか疑問に感じてもいたが、
スタッフロールの最後の、「おわり」の絵、監督自身が描いたものと思うが、
あれは、「川に流される幼い頃の千尋の靴」だったのだが、
この意味を考えたとき、監督の投げかけたすべての謎が解けたような気がした。

もしかしたら俺の妄想かもしれない。でもあえて書こう。

「神隠し」って何も人間が行方不明になった事とはかぎらなくて、自分が大切にしてた物、
靴とか本とか、おもちゃとか、そういう自分にとって大事な宝物を無くしたこと、
それも「神隠しにあった」と、言えることなんだろう。
さらに、宝物でなくても、思い出、情熱、希望、やさしさやピュアな精神といった、
昔の自分ならいつでも心に感じていたこと、それが、いつしか、
川に流される靴のように、記憶の彼方へおいやられていき、思い出すこともなく、
そういう心を持っていたことさえも忘れているとしたら、これもきっと神隠しなんだろう。

そう思うと、俺自身の、本当の自分の心こそが、
「今このとき」神隠しにあっているのだ! と、気付いてしまったのだ。
替わりにいつのまにか、心に住みついていたのは、まさしく「カオナシ」なのだ。

片道電車は、「覚えていても、思い出せない」自分自身の心の深層への旅だったのだ。
そこへ旅することが、今このとき神隠しにあっている自分を取り戻すことであり、
替わりにカオナシを心の底に静かに導くようにと、監督はメッセージを込めていたのだ。
途中の駅で生活している暗い影の人々は、日々の生活に追われ、
生きる気力を取り戻せない状態を比喩しているのだろう。

「生きる力」とは、「気力に満ちていた頃の自分を取り戻す」ことなんだ。