永井均

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しかし、<私>が問題であるときには、問題となる「内側」は必ずこの内側でなけれ
ばならないのであり、その内側やある内側であってはならないのである。<私>が永
井均である必然性はまったくない。しかしまた、「私」でありさえすれば<私>であ
りうるわけでもない。「私」は多数存在し、多くの「内側」はあっても、この内側た
る<私>が存在しないことは、じゅうぶん考えられることである。それでは、永井均
が今と同様に存在していても、そのような可能性が考えられるだろうか。永井均が存
在しない世界で、<私>が他の何もの(たとえば毒虫)でもありうるのは当然である。
しかし永井均が今と同じように存在しているのに、彼はあるひとりの「私」にすぎず、
彼とは別に<私>が存在することは可能だろうか。私は可能であると考えたい。ある
いは、それが可能であるというしかたで<私>を捉えたい。永井均が<私>であるの
は、この世界の根源的な偶然性なのであり、彼に述定されるいかなる性質も変化させ
ることなしに、彼が<私>でなくなることは想定可能なのである。
(『<私>のメタフィジックス』88ページ)