永井均

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永井はこの世界で唯一の、それがそれであるが故に発する「私」の比類なさから論を進めていきます。その手並みは鮮やかなものです。しかし私は読み進めて行くうちに、どうにも遣りきれないような奇妙な焦燥感に駆られてしまいます。
いつも、永井の著作のどれを読んでも、何かとても大事なものを積み残したままで、その緻密で力強い論理がドライブして行ってしまう様に不安を覚えます。
私の特別さから出発する永井は、すでにあらかじめ単独性を否定しています。特別なのは「私」だけであり、その他はみな同じである、と言明しています。でもほんとうにそうなのでしょうか。

私には「この鉛筆」とか「あなた」とか「今朝咲いた花」を同じと見なすことは不可能です。私が私であるところの特別さと、比べようもなくまたそれらも、特別です。これは同じ種類の特別さを持っていると言ってるのではありません。
それらは比べようもなくそれぞれにおいて特別であるが故に、そのどれかに「特別な特別さ」を付け加えることができないように思えるのです。

(しかしコッソリ付け加えるなら、すべてがみな同じに見える瞬間というのは儘あるものではないでしょうか。アレもコレも《私》もすべてがおしなべて、境界もない曖昧な一つの全体として感じることは。あれっていったいなんなんでしょうかね?)

もちろん永井は永井の「私」について語っているのであり、私は私の「私」について語っています。どちらが正しいという話ではない。
しかしそれでもわたしは永井の前提の建て方に疑問を持ちます。ものみなすべてがそれぞれの比類無き特別さを湛えて輝く瞬間を、永井だって持ったことがあるはずだ、そう想像してしまうのです。

あるいはここにいらっしゃる、永井ファンのみなさんはどうでしょうか。
単独性という言葉を、それが言語ゲームの枠内にとらわれない皆さん個々人の、言葉に言い表せない個別的な体験のうちに感得する――そういう瞬間があったのではないでしょうか。
どうやっても言い尽くすことのできない、「それ」が「それ」であることの驚きと訝しみ。「それ」が「それ」であることによって、奇妙にも「それ」が全肯定されてしまう、そんな原初的驚駭。そういうものを持ったことはないでしょうか。