時間論

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98考える名無しさん
人類にはこれまで二つの思考原理が提示された。
第一はアリストテレスの『論理学(オルガノン)』であり、第二はベーコンの『ノウム・オルガヌム』である。
しかし、第三のものが第一のものよりも前から存在していた。
ウスペンスキー著『ターシャム・オルガヌム』は、まず我々が世界について何も知らないという事実から出発する。

世界を外的・客観的世界と、内的・主観的世界に区分する。
彼はカントの「我々は世界を我々の知覚に合わせて認識する」という有名な命題を基にしている。
カント哲学の核心である「現象と物自体」の命題を真の意味で発展させる思想はカント以後登場していない。
フィヒテ、シェリング、ヘーゲルはむしろカントの命題を避けて独自の観念論を発展させた。

我々が世界を三次元であると知覚するのは、我々の知覚器官が三次元性を認識するようにできているからである。
その証拠に、犬や猫、馬のような比較的高度な動物は世界を二次元に知覚し、蛇のような動物は世界を一次元のものとして知覚する。
二次元の知覚存在は、我々三次元の知覚存在が「静止している」とみなすもの、
すなわち「曲線」や「角度」といったものを「運動」として知覚する。
そして、二次元存在にとって「立体」という概念は「時間」として認識される。
すなわち、動物にとって「立体」とは静止した存在ではなく、
(我々にとっての過去、現在、未来という瞬間と同じように)その時その時に立ち現れる一時的な現象でしかない。
こうしたことが起こるのは、動物は「立体」という「概念」を持たないからである。
人間も世界を「平面」としてしか知覚できず、「立体」としては見ない。
にもかかわらず、人間が三次元性を把握できるのは、人間は「立体」という「概念」を持つからである。

「時間」とは静止したものとして知覚することのできない「空間」のことである。
従って、四次元の観点から見れば、我々が「時間」として知覚するものは、静止した空間の一座標となる。
それは、我々が「立体(三次元性)」として認識するものが、二次元の観点からは「時間」として知覚されるのと同じである。
宇宙には我々が考えるような意味での「時間」は存在せず、「永遠の今」のみが存在する。