人間の価値は何で決まるのか

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128考える名無しさん
>>127
なら今すぐその場で首吊って死んでみて下さい。そしたらあなたが正しいと認めます。

というかそんな事するまでもない。なぜならあなたが今生きてるのは、あなた自身が
「生きる」ことを選択し続けた結果だから。あなたの主体性で生きる道を選んだからです。
人間の主体性を、関係性の中で「ある様に見えるだけ」と考えるのは一方的な考えです。
主体性を「精神」、関係性や構造を「肉体」に例えてみると理解出来ます。
あなたのいう「主体性などない」というのは「肉体があるから精神がある」というもの言い
です。確かに肉体が死ねば精神も死ぬ。だから肉体が優位であると。
しかし逆もある。精神が「もう何も考えるのやめた」と決断したとする。当然体を動かそう
とも思わないから、肉体はピクとも動かない。放っとけばいずれ餓死するでしょう。
精神が死ねば、肉体も滅ぶ。ここでは精神が優位に立ってる。
つまり精神と肉体、どちらが先ということはない。「右の手と左の手を合わせた時、
どちらが鳴っているか」というなら、両方あって初めて音が鳴る。なら人間=自我は
どちらのサイドに属してるかと言うと、もちろん「人間は精神である」。

「在る」とは存在と非存在の境界線を設けて、初めて成立する。関係性の中で溶け合い
境界線をなくしたら「在る」ことにはならない。それは存在の死だ。
人間で「在る」ためには境界線を設ける=主体性を主張しなければならない。
主体性、精神の優位を主張し続けなければ、人間で「在れ」ない。
主体性を主張することが、行動であり、生であり、存在なのです。
つまり関係性に取り込まれまいと走り続けることが「生きる」こと。走ることを
放棄した段階で「死ぬ」。当然生きる意味も消える。そして生きるか死ぬか、どっち
を選択するかは本人の意志次第。関係性に降伏して自殺するのは本末転倒だ。
なぜなら人間は「それと戦うために意識するのだから」。