中国哲学は「哲学」の名に値するのか?

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663にいなな
ああ、やっとまともな意見をいただけました。根拠なき罵倒ではなく。

えっと、あまり新しいことは言えないのですが、

我々の定義する「儒家」と、「世間」が認識する「儒家」とは、
そもそも異なる概念だから、前者の定義のなかに後者が現れるのは
問題ない、ということです。

たとえば、電波男さんが「学者」であるかか否かを考えるため、
「学者」を定義すると仮定しましょう。
 (単なる例です。他意はありません > 電波男さん)

ここで我々が定義する「真の学者」「客観的に認められる学者」を、
仮に〈学者〉と呼ぶことにします。
世間のイメージする「学者」や、イっちゃってる自称「学者」なんかと
区別するために。

〈学者〉の定義を仮に

 「学者」を自認しており、なおかつ学識ある人

とすると、これはトートロジーではないと、私は考えます。
なぜなら、〈学者〉と「学者」と「学者を自認している」とは、
異なる概念だから。
664にいなな続き:2001/08/10(金) 12:30

世間には、自称「学者」がウヨウヨしていますし、連中を「学者」だと
「世間」は見ているかも知れない。
しかし、連中が考える「学者」や、彼らを「学者」と認める「世間」の
イメージする「学者」と、我々の〈学者〉とは異なる概念ですよね?

上の定義をトートロジーだという方々にとっては「自称学者」が
イコール〈学者〉ということになるのかも知れませんが。

〈学者〉の定義の中に「「学者」を自認する」が登場するからと
いっても、これらは字面が同じだけの、異なる概念です。
だからトートロジーには該当しない。

たとえば遁天児さんが「自分は学者だ」と自称しても、彼はおそらく
我々が考える〈学者〉の定義に合致しない。要件の後半を満たさないから。
同様に、乾隆帝は「儒家」ではありません。

また、誰か学識ある会社員が「自分は「学者」ではなく会社員だ」と
自認しているなら、彼は〈学者〉ではない。
早起き会あたりのモラリストが「儒家」ではないように。

……こんなもんでよろしいですか?