「ポストモダン依存症」

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48考える名無しさん
「主体とは従属である」というフーコーの弁証法に
近代的(モダン的)主体への懐疑は全て現れていると思う。
構造主義者フーコーの言いたいことは、近代的主体には実は主体性はない、
だからこそ、近代的主体を否定し、真に主体的たれ、
ということだろう。
現に晩年のフーコーは「自己が自己に対して主人である」という
「主体性」の理想はいかにして可能かを問うたとされる。
だから主体性の否定を「ポストモダニズム」の特徴的思想だとすると、
それはむしろ、近代的主体性を従属の一形態と見抜いた上で、では
従属ではない真の主体性はいかにして可能かを人に啓発する
「真の主体性主義」であろう。
普通、モダニズムこそ主体性主義だとされているが、
そうならば以上の理由から、むしろモダニズム(近代的主体)こそ
ポストモダニズム(主体性の否定=従属)といわねばなるまい。
だから、ポストホダニズムはモダニズムへの批判から出てきたというより、
前者は後者の正統な必然的帰結だろう。
ポストモダニストの真の目論見は近代的主体(モダン)とその否定(ポストモダン)との
弁証法的癒着の暴露であり、そこからの脱却だろう。
そのためには、無論、モダニズムの否定が不可欠だが、
加えて、ポストモダニズムの否定も不可欠である。
従って、真の主体性主義としてのポストモダニズムは、まさに
ポストモダニズムの否定においてしか成立しえないのであろう。
モダン(近代的主体)とポストモダン(近代的主体の否定、その実、近代的主体の従属性の顕在化)
の弁証法を超えでて、「従属でないような主体性」の確立こそ所謂”ポストモダニスト”の
真の目論見だったのだが、その真意は誤解とともに記号的に消費されてしまったといえよう。