「ポストモダン依存症」

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160考える名無しさん
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解釈共有とは、ものごとの本質(竹田青嗣の『現象学』では、
本質とは、言葉の形でだけ所有される意見や世界観という意味
です)に関する確信と理解するならば、人それぞれによって言
葉から受けとるエロス価値(色あい、情熱、等々)の多様性を
持っているからであり、ある言葉の共通の<意味>(指示性)
を持つのは間主観的な確かめを信憑として成立するということ
になります。竹田『現象学』はこのことの<意味>を問うこと
の方法と了解可能性の創造だと思います。
 ジャック・デリダの脱構築では、「現前性」の思考が、テク
ストに不法行為を仕掛けて、純然たる戯れを揺るがす様を明ら
かにし、手を変え品を変えて、私たちをつなぎ止めにかかる、
存在論=神学と形而上学のウソを見抜くことになります。イン
チキ知の商人のささやき(「フランスの哲学界のスターに心酔
すれば、知の最前線を安上がりに遊べて、さらに「かげろう」
のようなチャート図式を論文として何か意味のあるもののよう
に見させれば、金にもなる。」)に魂を売り渡すことへの抑止
にもなる筈です。夢見られ続ける「現前性」の罠との永遠の格
闘が続くことになります。一筋縄ではいかない「脱構築」のプ
ロセスには、『歓待』ということが原則であり、デリダは間主
観性構成体たる<意味世界>を「エクリチュール」と呼びます。