「ポストモダン依存症」

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116考える名無しさん
 ナルシスティックな「内面」に自閉し、ただ現代的な「世相」
や「風俗」の「風景」しか描けていないと思える林檎の詞に、
現実や歴史の困難を高度資本主義の現在の安易な肯定のなかに
解消するような感覚があり、それを批判するために「外部」や
「他者」の立場に立つ視線を要求するのが、ポストモダン的な
見解になるのかと思います。
 林檎の詞が外部現実に直面することを回避し自閉しているよう
に感じるのは、一時的にくすんでいた生が輝き出す日常を描い
ているために、生きることの燃焼感・躍動感などは社会や現実
なかに見いだすことはできないとするポストモダンからは社会
に埋没した毒々しい刺激を描いているとしか思えないからです。
 しかし、林檎の詞が告げ知らせるものは、生きることの意味を
自分や社会から見失い、そのことを心の底から了解した時にだ
け回復してくる生きることの手応えと困難に対する深い癒しの
響きに違いないと思えるのです。

    参考文献       竹田青嗣  「陽水の快楽」