アンチ・オイディプスを一文づつ読むスレ

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 第二の綜合。離接的綜合あるいは登録の生産。<これであれ……あれであれ>
3871:2001/06/01(金) 23:24
ただし、生産が自分を登録するのは、自分を生産するのと同じ仕方においてではない。
あるいはむしろ、生産を構成する進行の中で生産が自分を生産していたのと同じ仕方で、生産は外見上の客観的運動の中で自分を再生産するわけではないのだといったほうがいいかもしれない。
389登録の生産・・・:2001/06/01(金) 23:30
何故なら、われわれは気づかぬうちに登録の生産の領域に移行していたのであり、登録の生産の法則は、生産の生産の法則とは同じものではないからである。
生産の生産の法則は、接続的綜合すなわち連結であった。
ところが、生産的接続が、(ちょうど、労働から資本に移行するように)機械から器官なき身体に移行するとき、この生産的接続は別の法則の下に入るのだといってもいい。
この別の法則とは、「自然的なるあるいは神聖なる前提」としての非生産的境域との関係において、分配を表現する法則のことである。
(これが資本の離接の働きである)。
種々の機械は、それだけの数の離接点として器官なき身体の上に引っかかり付着していて、これらの離接点の間には、新しい綜合の網が全面的にはりめぐらされ、これらの離接点が表面を碁盤の目のように仕切っているのだ。
394・・・:2001/06/03(日) 15:48
分裂症的な「これであれ……あれであれ」《soit ... soit》が、「これの次にあれ」《et puis》を引き継ぐことになる。
どのような二つの器官が考察されるにしろ、これらの二器官が器官なき身体に引っかかり付着する仕方は、これら二器官の間の一切の離接的綜合が、つるつる滑る表面においては結局は同じことになるといった仕方でなければならない。
「あれか……これか」《ou bien》が、互換不可能なる二項の間の決定的な(二者択一的)選択を表明しようとするものであるのに対して、分裂症的な「これであれ……あれであれ」は、種々に相異したものの間で互換が可能なる体系を指示しているものなのである。
397・・・:2001/06/03(日) 15:57
この場合には、相異したものは、自分をおきかえ、互に滑り合い、たえず同じものに帰するのである。
398・・・:2001/06/03(日) 15:57
ベケットの話す目と歩く足との場合がそうである。
「かれは、時には何もいわずに立ち止ることがあった。
400ベケットの引用です。:2001/06/03(日) 16:00
 かれが結局はいうことがなかったにしろ。
401・・・:2001/06/03(日) 16:01
あるいは、何かいいたいことはありはしたが、結局はいうのをやめることにしたにしろ……。
402・・・:2001/06/03(日) 16:01
 他の主要な場合が心に浮かんでくる。
403・・・:2001/06/03(日) 16:02
 〈すぐにまた歩き始めて、話がすぐに続く〉。
404・・・:2001/06/03(日) 16:02
 〈間をおいてまた歩き始めて、話がすぐに続く〉。
405・・・:2001/06/03(日) 16:02
 〈すぐにまた歩き始めて、話が間をおいて続く〉。
406・・・:2001/06/03(日) 16:03
 〈問をおいてまた歩き始めて、話が間をおいて続く〉。
407・・・:2001/06/03(日) 16:04
〈すぐにまた歩き始めて、話はすぐには続かない〉。
 〈間をおいてまた歩き始めて、話はすぐには続かない〉。
 〈すぐにまた歩き始めて、話は間をおいても続かない〉。
410399〜409引用終わり。:2001/06/03(日) 16:06
〈間をおいてまた歩き始めて、話は間をおいても続かない〉。」
もっとも貧しい、もっとも痛ましい資本(たとえば、 マローヌの所有物がそうしたものである)の占有者たる分裂症患者は、自分の身体の上に種々の離接の長々とした連祷を書き込み、<これであれ……あれであれ……>のパレードの世界を自分のためにつくりだすのだ。
このパレードの世界においては、ほんの少しでもおきかえをすれば、そのことが新しい状況に対して、あるいはぶしつけな質問者に対して応答することであるとみなされるのだ。
だから、登録の離接的綜合が生産の接続的綜合に重なってくることになるのだ。
414登録の場合は手順なんだ?:2001/06/05(火) 11:18
生産の過程としての〈過程〉が、登記の手順としての〈手順〉にまで及ぶことになる。
415ぬ、ヌーメン!?:2001/06/05(火) 11:19
あるいは、むしろ、ひとが欲望する生産の接続的「労働」をリビドーと呼ぶのであれば、われわれは、このエネルギーの一部が離接的登記のエネルギー(《ヌーメン》)に変換するということを語っておかなければならない。
これは、エネルギーの変換である。
417ヌーメン(numen)=神霊:2001/06/05(火) 11:23
無意識の問題が惹き起している一切の暖味さは、この問題がみかけの上でだけ宗教的であるにすぎないことに由来するのであるが、にもかかわらず、エネルギーのこの新しい形態をなぜ神聖なるもの《つまり、《ヌーメン》[神霊]》と呼ぶのか。
418>>303-304参照:2001/06/05(火) 11:26
器官なき身体は《神》ではない。
まさにその反対である。
しかし、器官なき身体が一切の生産を吸引し、これらの生産をすべてそれぞれに離接の中に登記することによって、 一切の生産に対して、奇蹟を行う力をもった魔法の表面としての役割を果すことになるとき、この器官なき身体を遍歴するエネルギーは神聖なるものであるわけなのである。
ここから、シュレーバーが《神》との間に結んだ奇妙な関係がでてくることになるのである。
422・・・:2001/06/05(火) 11:35
あなたは《神》を信じているのかと問うひとに対しては誰にでも、われわれは、厳密にカントあるいはシュレーバーのような仕方で、次のように答えなければならない。
423・・・:2001/06/05(火) 11:42
すなわち、〈もちろん、信じていますとも。ただし、それはただ、ちょうど、離接〔選言〕的三段論法の先天的原理を信じているのと同じように、あるいはこの三段論法を操作する先生〔主人〕を信じているのと同じように、信じているだけのことなのです〉、と。
(ここでは、《神》は《実在の総体》 Omnitudo realitatis と規定されており、この実在を分割することによって、一切の実在が派生してくるのである)。