あるいは、別の例をあげれば、アンリ・ミショーは、欲望の進行にほかならない生産の進行に合わせて形成された机《分裂症患者の机》のことを書いている。
「ひとたび注目されるや否や、この机はずっとひとの心を引きつけ続けてきた。
何か分らない仕事であるが、この机は恐らくずっとそれ自身の仕事を果し続けてさえきたのだ……。
驚くべきことは、この机が単純でもなく、またじっさいに複雑でもなかったということである。
つまり、始めから複雑であったのでもなければ、意図的に複雑にされたものでもない。
あるいは、複雑なプランによって作られて複雑になったのでもない。
むしろ、この机が手を加えられてゆく過程に応じて、単純でなくなってきたのだ……。
この机はそれ自身が、いくつもの付加物をもった机であった。
ちょうど、分裂症患者のデッサンが総じてその相当数がいわゆる積めこんで描かれたものであったことに似ている。
この机が完成することになるのは、この机に何かを付け加えるてだてがなくなった限りにおいてである。
この机はだんだんといろいろのものが付け加えられ積み重ねられて、それはますます机でないものになっていった……。
この机は、机として用いるには、また机として期待するには、全く適さないものとなっていった。
それは、重くてかさばったものとして、ほとんど運び難いものとなっていった。
この机をどう扱ったらいいのか、誰もが分らなくなっていった(考えも及ばず、手をつけることも不可能となっていった)。
机の上面、 つまり普段使う部分は、かさばった余計な構造とはだんだん関係がなくなり、その全体はもはやひとつの机とは考えられないものとなっていった。
むしろ、その全体は、ひとつの特別な家具《あるいは、何の為のものであるのか、分らなくなった忘れられた道具》としてみられることとなり、この机の有用な部分は、次第に減少し消滅していった。
これは人間世界の外にでた机である。
この机は気楽な心安さとは無縁なるものとなり、ブルジョワ風のものでも、素朴なものでも、田園風のものでも、料理のためのものでも、作業のためのものでもなくなった。
それは何ものにも役に立たないものとなった。
それ自身は、どんな形にしろ、サーヴィスやコミュニケイションを提供することを頑なに拒否するものとなっていった。
この机には、何か心をうちのめし、身をすくませるものがある。
恐らく、そこにはとまったモーターを思わせるものがあったのかもしれない。」