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615考える名無しさん,,2001/03/29(木) 13:36,物語の内部で目的論的に構成された主張なんて やはり神話的、ないしは宗教的な陥穽をまぬかれないだろうね、とした
デリダや浅田氏の主張を支持したつもりなんだな。 だからさ、いまさら「アイデンティティ」なんてどうでもいいわけよ。
アイデンティティは嘘、迷信だってところから、しかし、 これをさもあるかのごとく主張すると社会的には勝ちやすいから、
もちろん勝利は不当な差別への抵抗として意味があるから アイデンティティそれ自体の存在(という言い方)
は利用価値ある、そういう議論をした。 でも、哲学的には嘘だ、と。 でも、社会学的・政治的には「ある」というべきだ、と。
デリダが批判した意味での、オント・テオ・テレオロジー を構成し形成し荷担する議論ははじめからだめだとおもうよ、
残念かもしれないけどさ。 なぜドゥルーズやデリダがいいかってーと
カントやらが哲学的に形式主義的に批判哲学を書いた、 でも何か間違いがあるとすれば
そこに宗教的神話的な目的論的構成があるからだろ?と指摘し そういう構成(落ち)をはずしたところから
哲学をまとめたところだよ。 社会がいまだに時代遅れのくそったれで
そこではまだまだ宗教的神話的構成をした 言説がまかり通っているのなら
その構成を利用して主張すれば勝ちだし それは当然の結果である。
そのことと、そういう構成を常に支持するか どうかとは別問題だよ。
哲学者としてどういうかという問題と 社会運動家・社会学者としてどういうかという問題は
区別して理解できるし、またそうすべきことかと思ってる。
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