ドゥルーズ君のチャット

このエントリーをはてなブックマークに追加
90トモス
*今日で三節は最後になります。

第一章 欲望する諸機械
第三節 主体と享受
歴史上のさまざまの名前

分裂者を無気力人間として描き、実際にそのような人間にしてしまう、という
のは精神医学の仕業。
これは、精神分析が神経症患者をとりあげてオイディプスの欲望の解釈の枠の
中に閉じ込めてしまうことと関係がある。

これらが間違いだということは、「だからこれは...である」という消費の
働き方、連接的綜合の形態がオイディプス的な精神のはたらきとは大きく違って
いるということを考えればわかる。

消費の働きは、
パラノイア機械(反撥)と奇蹟を行う機械(吸引)の力の割合によって強度が
発生し、次々とその強度が生きられる、というもの。
器官なき身体の上に欲望する諸機械を中心に幾つかの円環が形成され、主体は
欲望する機械の残りものとして生み出され、次々と円環を移っていく。
主体は周縁にあって自己同一性を持たない。
ニーチェには、クロソウスキーが指摘した通り、文献学の教授としての自我が
あってそれが消えていろいろな奇妙な人物に一体化する、ということが起こる
のではない。ニーチェの主体がただいろいろな状態を経巡るだけ。
分裂者はそうして世界史を一挙に消費する。全てを荘厳に、一日の間に、
パントマイムで(世界史のパロディを)演じる。

(つづく)