ドゥルーズ君のチャット

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40考える名無しさん
「器官なき身体」(cso)と「部分対象」という概念によって、
D=Gが試みたのは、「全体」と「部分」の関係を
規定し直すことだったのではないかな?
彼らは、「有機体―全体化する全体」に対抗するもの
として「cso―全体化しない全体」を出してきているんだと思うよ。

ところで、「organisim」は「有機体/生物」であると同時に、
「組織/機構/機関」のことでもあるよね。
また、「corps」は「身体」であると同時に、「集団/団体」でもある。
「corps」は、身「体」、物「体」、団「体」
あるいは政「体」の「体」なんだ。
だから「corps sans organe」は「器官なき身体」であると同時に
「組織(organe)のない団体/政体」とも訳せるわけ。

すると、「cso」のイメージがずいぶん変わってこない?
個人の特異性を抑圧して、己の部分として統合する/全体化する「組織」と
個人と個人(部分と部分)との自由な出会い/接続から
自然に生じてくるある「まとまり」。
閉鎖的「組織」と開放的「団体」とでも言うべきかな。
あるいは、こういった図式も成り立つ。
有機体として組織化されている「身体/生命」と
そうした組織化を逃れ、「身体」の組成そのものを
解きほぐしつつ生成変化のプロセスに参入していく「非有機的身体/生命」。
「cso」っていう概念を導入することで、D=Gはおそらく、
生命の次元に関わる事柄と社会/政治の次元に関わる事柄を同一平面上で
並行的に論じているんだろうね。

まぁ、極めて粗っぽい図式だけど、理解のとっかかりぐらいには
なるんじゃないかな。