ドゥルーズ君のチャット

このエントリーをはてなブックマークに追加
28トモス
27も僕です。何だか文字化けしてますが。

==自然と人間の関係についての疑問

D=Gの見るところ、生産は人間に特有な活動なのだろうか?
自然=エネルギー機械 人間=器官機械 であり、
であって、人間は自然を採取加工する主体であり、自然は採取加工される
客体であるということになのか? ならばどのような意味で人間と自然とは
一体なのか?
また、人間は係員だという言い方がされていて、これは人間が何か特別な役目を
担っているというような感じを受ける。

これが対立でない可能性は3つある気がするがD=Gがどの立場をとっているのか
はよくわからない。

可能性1:主体と客体の間に相互依存関係にあるので対立関係にない。

そもそも材料があってこそ加工がなり立つわけで、生産対象と生産活動
とは相互依存的な関係にある。更に言えば、生産活動(自然をある形で切り取る
こと)があってこそそこに”自然”があるのだ、対象があるのだということが
成立すると同時に、そこにそもそも何かがある(無でない)からこそある形で
切り取る活動が可能になるわけで、どちらかが欠ければそれでどちらもが成立
しなくなってしまう。

この立場の欠点は自然は混沌であって人間がそれを切り取ろうが切り取るまいが
混沌として存在し続けるのだ、という見方をすれば自然は人間と相互依存関係に
ないという風に言えてしまうこと。

可能性2:相互浸透的、相互規定的なので対立関係にない

人間もまたエネルギー機械であり、自然を採取し、自然に採取される
ということが生じているので人間と自然とは渾然一体となった複雑な回路を形成
しているのであってきれいな対立の構図など存在していない。線引きができない。
例えば母乳は人間の一部だが、その母乳の流れが口によって採取されるという
生産が生じているように、人間もエネルギー機械として他の機械に採取されることになる。

あるいは更に言えば、人間も自然も主体などではなくていずれもあるパターン
に従って物事を処理する(流れを流す)機械だということなので、単にそれらが
複雑に接続しあっているだけ、ということになる。
このような考え方は、個人がそもそも諸機械であるが故に自分と他人(例えば
ドゥルーズとガタリ)という区別は無効で、ただ複数の諸機械の間にいろいろな
接続があるだけなのだ、という彼らの考え方に似ている。
ただ、この諸機械の接続、回路の形成を取り仕切る係員が人間だということを
強調するなら、人間の主体性は完全になくなるわけではない。

338ページからの「生気論と機械論の彼岸へ」を見るとおおよそそういう風に
書いてある。係員の問題は残るが。

可能性3:共に生命であるという同等性があるだけで対立はない
人間はただ様々な欲望に突き動かされ、回路の接続をするのだし、
自然もまた様々な生命が欲望に動かされて同様の活動を営むのだ、という
意味で両者は対立していない。同じ事をしているだけ。
この立場の欠点は人間が他の生命よりも強力に見えることをどう説明するのか
疑問が残ること(強い者が主体として自らの欲望に従って行動し、弱い者は
それに規定されて物=客体のような立場になる)
と、
そもそも諸機械だと言っていることを生命と機械とは同じものなのだ、という
ことを言っているのだととるならば、石ころにも台風にも欲望があるのだという
見方になるわけで、共に生命であるということを根拠にするわけにはいかなくなる。

「生気論と機械論の彼岸へ」を見ると、どちらもが諸機械であって、複雑に接続されて
いるのだから区別するのがおかしい、ということを書いてある。そうだろうか。
それは木を見るか森を見るかの問題のようにも思える。やはり人間は他の自然の
諸部分から突出した存在だと言えてしまう状況があるのではないか。
機械にも欲望がある、のではなく、欲望は機械に宿っているもので主体にある
のではない、ということが340ページからの「機械の二つの状態」で主張されている。

(まだつづく)