ドゥルーズ君のチャット

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==第一節 欲望する生産
2種類の機械を区別している。
エネルギー機械=流れを発する機械=源泉機械
器官機械=流れを切断する機械=器官機械

==分裂者の散歩
分裂者は家を離れて散歩をする。それは自然とつながりあうこと。神や家庭や
父母との関係を離れて。これは分裂者が欲望する諸機械だということだとされる。
オイディプス・コンプレックスの概念を用いた精神分析をすることはこうした
「欲望する諸機械」を抑制すること。

==自然と産業。<過程>
分裂者を固定した極点としてではなく過程として理解することの重要性が
強調される。
これを説明するために、人間がいかに<過程>であり、それが人間と自然の
一体性の明証になっているかを説明している。
自然と人間とは対立するものとして扱われるが、それは間違いだ。
対立するものだと考える代わりにどういう風に考えればいいのか。

1)全てが生産である。
生産(加工)と分配(流通)と消費(使用)とを分ける考え方は、人間と
自然の様々な区別に基づいているが、まず、それら全てが生産の働きの一部で
あるという形で修正される。
これは資本主義においては消費者の需要が生産者の生産活動にも影響を与える、
ということを考えるとわかる気がする。全ては関係しあった一群のプロセスなのだ、
と考えることができる。 自然の一部から何かを摂取してそれを加工して移動
させて消費してまた自然へ返すようなプロセス。
けれどもこれだけなら、自然と人間の間には加工する人間と加工の対象としての
自然という対立関係があるということにもなるような気がする。生産する主体と
しての人間と生産活動の材料として客体化される自然。

2)人間と自然は一体をなしている
生産するものと生産されるものとの関係はお互いがお互いを成立させる条件
になっているという関係だ。(これは「ゲシュタルト」のことを連想させる。
記号論的に分節の形式と言ってもいいけど。あるゲシュタルトがあるからある
対象が存在しているように見えてくると同時に、そもそもそのゲシュタルトを
成立させる「何か」が対象の側にあって自分を触発した面もある。相互生成的。
生産者と生産物も、触発されて切り取る者と触発して切り取られる物として相互
生成関係を持っている。と言いたいのではないか。)

生産が生産される、ということは、エネルギー機械に器官機械が接続され、
流れが切り取られて別の流れに接続されること。で、人間はそうした接続を
やめないものであり、その意味で機械の接続を担当する係員である。
(この係員を人間が、人間だけが勤めているのだとしたら自然と人間の対立を
否定する考えとどうつじつまが合うのかよくわからない。)

3)過程は完成を目指すと考えるべき
過程を無限に継続することはよくない。過程そのものの完成がよい。

以上を総合すると、次のようなことが言える。
分裂者は自然と一体であり、それを社会の問題や家庭の問題(オイディプスの
問題)として解釈することは彼/女の自然と一体となった欲望のあり方を歪める
ことになる。
それは過程であって、完遂されるべきものではあってもある状態とか臨床実体として
固定されるべき症状などではない。
これは更に以下の2項で繰り返し主張・説明される。

==欲望する機械。部分対象と流れ。<これと、あれと>et...et...

ひとつの機械は常に他の機械と連結している。
器官機械は自分自身から流れ出るエネルギーに従って世界全体を解釈する=流れを切り取る。
流れは混沌として、切断は分節として考えるとわかりやすい。というかポスト構造主義的な
記号論として考えることが出来る。

==第一の綜合。接続的綜合あるいは生産の生産

「分裂症患者の机」を例にして、
生産されたものはまたすぐさま次の生産活動のきっかけとなり、
初めから定められた目標に従ってではなくその都度の欲求に従って
生産の過程が続いていく、
ということが示される。