>>289 ウィトゲンシュタイン風に言うならば、
他者論という「ハエ」に「ハエ取りツボ」からの「出口」を
教えてあげるというアプローチをするということでしょうか。
ベルクソンならば、「錯覚」を取り除く
と言うのかもしれません。
「他者論に何の価値もない」について
よく吟味された考え方があるとするならば、
その考え方を追思考し、さらに追い抜くことができれば
「他者論に価値がある」ことがかえって際立つかもしれません。
もしかしたら、このような追思考こそ
西洋哲学の古典を読んでいくことなのかもしれません・・・?
言語は社会的なもの(公共的なもの)であり、
このような言語の<他>として
「純粋持続」(ベルクソンが本来的な時間とみなすもの)は
論じられています。
純粋持続について論じるベルクソンの思考を
「言語にとっての他者論」という切り口から
読み直していくのも面白そうです。
「廃墟はこの花咲く子供たちの母親で、
この彩り豊かな生き生きとしたものは、
過去の瓦礫から養分を得ているのです」
(ノヴァーリス『青い花』岩波文庫)。
廃墟スレッドというのも
あんがい良いものかもしれません。
もちろんこの物語で母親(たち)は死んでいるのですが・・・。
「それにしても子供たちがちゃんと成長するのに、
母は死ななければいけないのでしょうか。
そして父親は母の墓のそばで永遠の涙に暮れて、
ひとり坐っているのでしょうか。」(同上)。