「他者」について

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148ミック
>そもそも「話す-聞く」関係と「教える-学ぶ」関係との態度変更は話者が行うものではなく、
>その場の状況に応じて変化していくものである。
>友人との間に理解のずれが生じることなどよくあることである。
>その際には友人との間で「教える-学ぶ」関係が成り立っているというべきであろう。

外国人と友人は、「程度の差」でいいと思いますよ。
ただ外国人や子供みたいに思い切り規則が共有されていない例のがわかりやすいだけでしょう。単純化が柄谷さんの信条ですから。
Wは別に「外国人や子供しか他者ではない」とは言ってないと思います。ケンブリッジの彼の周囲はみんな多かれ少なかれ「他者」だったことでしょう。

>共同体を同じくしない他者を想定するならば、植物くらいを持ち出さなくてはならないだろう。

上のを敷衍すると、植物でさえ共同体に取り込めませんか。アニミズムでしたか?昔の人は植物や鉱物にも生命や人格(植格?)
を認めていたと思います。アニミズムあやふやな理解で不安ですが。
大森さんも『流れとよどみ』の中で「ロボットを共同体に取り込んではいけないなどという理由は見つからない」と言ってましたね。
あるいは、精神病的なご婦人で、人形を自分の子供と思って服を着せたり、料理を作って食べさせてやったり(食べさせる振りですが)していた場合、
その人形は彼女の世界(共同体)の立派な一市民と言えないでしょうか。彼女が話し掛ければ、人形はちゃんと返事をするのです。昔高校の参考書で、そういうご婦人についての文章を読みました。

Wはこういうアニミズムを認めるかな。認めそうだな。

あと、『探求』の誤訳ってどこですか。

149ミック:2000/11/23(木) 06:32
>√2を例に挙げると、これは一つの数ではなく、2の平方根を求める数式だとみなすべきです。

これは生茶さんが自分で考えたんですか?
すごいですね。形式主義と直観主義の対比ではないですか。
野矢さんの『無限論の教室』(講談社現代新書)
佐々木さんの 『科学革命の歴史構造 下巻』(講談社学術文庫)
に、この二つの主義が詳しく解説されてます。Wとも縁が深い主義です。両方とも。
入りやすさで野矢さん、正確さで佐々木さんです。ぜひどうぞ。