「他者」について

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168OFW
>>162(・e・さん)
>死と再生、忘却と回顧という対向概念をある種弁証法的に運動させることに
>よっていろんなインタージェネレイションの問題が処理できないかな
 人は誰も自己(個体)の死を体験できない。他者の死を目の当りにして自己
 も仮死的そして必死的存在であることを知る。それは有限者としての個人の
 自覚になる。それは実存的問いになる。一方、子は親になり、他の子を生む。
 それは自然的かつ社会的な歴史を形成するが、記憶は直接伝達されない。
 人間が単なる種ではなく、類であるのは、個人が過去に囚われずに全く新し
 く生を始めることのできる自由な主体であるからだが、それは忘却(ヘーゲ
 ルは忘恩的と言う)による。しかし、実体的な歴史は運命として個人を襲う。
 たとえば、「ヒットラーなんて知らないよ」と言っていたアバンギャルドの
 世代も、その子供の世代になって「民族浄化」と言う言葉に、かってのホロ
 コーストの記憶を呼び覚まされる。そうなると、「問題を処理する」ために
 は、忘却ではなく、唯物論的な社会認識が必要になる。
 「人間は歴史を作る。しかしそれを知らない。」人間が真に類的な主体
(共同的かつ個体的)として生成するまでは、社会は実体としていつまでも
 背後にとどまったままでしょう。
    ・・・妄想につられて妄想の追加。
 しかし、「ベンヤミンの自死」「ハーバーマスの裏切り」は何故なのか?