「他者」について

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156生茶
>>154
まず、柄谷の失敗とは何か、それがなぜ失敗といえるかについての
私の見解だけを簡単に述べます。

彼の失敗は
1.任意の共同体を設定した事(任意の他者の設定でもある)
2.日常言語を言語ゲームの例として挙げている。
の二点である。
これのどこがおかしいか。
2.については、言語ゲームはその定義上、閉じたものであるのに
日常言語を任意の例として挙げていることである。
ただしこの点については、彼の不注意によるものだと言えば十分であろう。
生活様式という表現から、容易に日常言語が思い浮かぶから。
しかし1に関しては、ウィトが批判した当のものを
柄谷は主張していると言える。
ここでウィトの文脈において、言語ゲームがどのような性質を
持っているかを確認しておこう。(この言い方は矛盾している)
結論だけを簡潔に纏めるが、
1.特定の言語ゲーム内において、その言語ゲームを根拠付ける
規則は存在しない。
2.特定の規則によって根拠付けられる言語ゲームは存在しない。
となる。
あらゆる規則が存在しないという異常な状況においては、先の結論は次のように言い換えられる。
1'.言語ゲームの根拠付けは、あらゆる仕方でなされうる。
(それらの試みは全て無意味である)
2'.あらゆる任意の言語ゲームが想定されうる。
(それらの試みは全て無意味である)
ウィトの提出したこの結論から、柄谷の言語ゲーム=共同体を見ると、
任意の言語ゲームを設定している点において矛盾している。
ウィトの結論ではあらゆる言語ゲームが想定されるのであり、
実際に柄谷が設定する言語ゲーム内において、
別の言語ゲームが(原理的には無際限に)設定されうる。
従って「規則を同じくする共同体」は、どこにも存在できないのである。
(その規則の中にあらゆる規則を設定できるから)
以上で終わり。

ただしこのスレは他者についてのものだから
他者は存在できないという結論を出すのはやめて、
柄谷が他者論の前提として提出する「同一の共同体に属さないもの=他者」
という観点について少しだけ書こう。
私は、<他者>論に陥らずに他者論を展開する可能性を
ここに見出している。どういう事か。
日常言語のなかに「我々」という表現があるが、
この表現を使用する際、その使用において仮想の共同体が
設定されていると言えないだろうか。(我々が誰を指すのかは
明らかでないとしても。そして、その場限りの共同体でしかないとしても)
つまり私は、我々に対する「彼ら」という表現から他者論を展開できないか
と考えているのである。
誰かこの観点から語ってくれぬか・・・。