「他者」について

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154ミック
なるほど、Wは確かに我々が普通使う日常言語を主として頭において『探求・・・・・・ちゃう探究』の議論を進めているのは事実です。
でも彼は身振りとか書かれた文書もその日常言語の中に入れて考えているのでは。
W自身の文章では、ちょっと僕もそれを示す例がわかりませんが、わりと多くの研究者がそう解釈していたようです。

という前提を受け入れてもらえば、動物の身振りや鳴き声を私の言語ゲーム内に翻訳することもできるでしょう。
植物が風にそよぐ様子も、(以下同文)

と、説得したら、Wは納得しませんかね。
それとも、アニミズム信仰や、ロボットに人格を認めるか、という問題は言語ゲームとは別個の問題と考えるべきなのか。

生茶さん自身はどう考えますか?やはり植物や鉱物は、言語ゲーム内に取り込めない「他者」でありつづけると思いますか?
だとすれば、アニミズムやロボット問題をどう考えますか。
もし動物には、言語ゲーム内への翻訳可能性があって、植物や鉱物に翻訳可能性がないのなら、その違いはどこに存するのでしょう。
(と、強引に生命の問題に結び付けてみる。)

僕は、人間にはそれこそ森羅万象を(人でも動物でも人形でも植物でも鉱物でも)内面化する力(まさに生きていくための能力と呼んでいい気がします)があると思います。