「他者」について

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140OFW
>>134(生茶さん)
>私と他者というのは対の表現であり、
>他者とは私ならざるものとして規定しても良いと思われます。
 対というと、相対的存在という1次的な関係性ですが、それは相互的
(二重の同等な対)と補完的(二重の不等な対)に反照する、相互補完性
 に発展するものでしょう。
 「私−あなた」「あなた−私」は同等な不等性
 「この私−そのあなた」「その私−このあなた」は不等な同等性(相当性)
>自分のことを私と呼ぶとき、それは個有名で置き換えられない
 匿名性はプライバシー(私秘性)の原点であり、自分(個人)の「真の
 名前」は特別な相手(結婚相手とか?)だけにしか教えないという民族も
 あったそうですね。また、前の方のスレに出てきた、サルトルの「私の
 視線は他者を凝固させる」とは主観(対自)と対象存在(即自)の関係で、
>柄谷さんが「なぜ猫の視線では凝固しないのだろうか」ともっともな批判
>を提出していましたね。
 で言われている「言語ゲーム」(語ること)についてではないでしょう。
 場合によって、人は猫の視線で凝固することもある。「猫が見ていた殺人」
 なんてね。自己の内心を猫の目に反射させる訳。
>同一性の基準には二つある。一つは同じ種類ならば同一と言っても良い
 本質的同一性(類種的同一性と言う人もいた)ですね。それは実体的同一
 性になる。
>もう一つは、何かが二つあるならば、それが同じであることはありえない
 個体的同一性ですね。それは主体的同一性になる。
><>はその一般化を無限に拒否するという機能を持つ記号でしかない。
 どっかで聞いたような話だなぁ。永井氏ってひょっとして、…。
>ウィトゲンシュタインも…結局のところ、<私>という表現は言語内に
>おいて確固たる位置を占めることができないということしか語っていない。
 だから、彼の哲学はかえってモノローグ的なのかな。私が語るのであり、
 私を語ることはできない。が、語ることは何らかの形で自己を表わすこと。