「他者」について

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134生茶
なんかずっと下がっているので下げたままにしておきます。
私と他者というのは対の表現であり、
他者とは私ならざるものとして規定しても良いと思われます。
その前提のもとに様々なレベルが考えられます。
1.特定の人格、自我を指すのに使う。
 他人が私と言うのを聞いて、個人名に置き換えることができる
2.特定の人格、自我とは無縁の私
 自分のことを私と呼ぶとき、それは個有名で置き換えられない

私と他者が対を成すからには、特定の人格と結びついた他者、
結びつかない他者が想定できることを示しています。
これらは一般化されうる、つまり日常の言語使用において
適当な位置を占めている。

ここで話を少しだけそらしますが、
同一性の基準には二つある。一つは同じ種類ならば同一と言っても良いとする基準
もう一つは、何かが二つあるならば、それが同じであることはありえないとする基準。
自分のクローンが生成された時、それはある意味では自分と同じだが、
ある意味では違うと言いたくなると思います。
柄谷がいいことを言っていたはずなのだが、手元に著書が無いのが無念。

3.この私、「この」性(this-ness)に注目
 私の固有性に注目すると、世界でただ一つ意識を持った存在として
 私を規定しうる。世界の基盤であり、それなくしては世界が存在できないような存在者。
このレベルでは私の意識が問題にされることが多いようです。
事実として世界は独我論的であり、他人の心のなかも知り得ない。
この見解ではこの私は一般化されないはずなのだが、誰もが
この私という表現を理解できると言うことによって、誰もがこの私なる存在になりうる。
そこから独我論、多主観論が生じます。
4.永井均のいう<私>
 この見解は純粋に構造論的です。
 彼は<私>なる存在について語っているのではなく、
 私という表現はどこまでも一般化されうるということしか語っていない。
 <>はその一般化を無限に拒否するという機能を持つ記号でしかない。
 従ってこのレベルでは他者の存在は無意味になる。具体的には「私の世界」の一部となる。
3までは有効な議論ができますが、4は無意味な議論しかできない。
ウィトゲンシュタインも青本の最後1/5ほどをこの議論に費やしていますが、
結局のところ、<私>という表現は言語内において確固たる位置を占めることができない
ということしか語っていない。
「語り得ないことは沈黙しなければならない」という彼の信念のためか、
哲学探究においてこの議論は省略されているように見えます。