人は何故生きるのか 生きる目的はなんなのか?

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60代理いぬ
>57
>哲学の歴史そのものの自己保存的な性質こそが問題なのだ。
確かに、ある種の哲学は既に死んでしまっていて、
その事実は隠されている。
実存哲学がもたらした結論が、
自殺か沈黙しかないという二者択一であることは明らかだ。
しかし、それにもかかわらず、
饒舌に語りつづけようとするそのくだらなさは、
死を前にした遅延行為だといえよう。
しかし、一番まずいのは、
死に絶えた言葉を扱うことを哲学だと勘違いしているゾンビ達が、
自分たちをソフィストだと思っていることなのだ。
クリエイティブでもない仕事が知の探求であるはずがない。
哲学の歴史を知ったかぶりをする輩より、
ここで自作の哲学を披露して叩かれている奴の方がよっぽどソフィストだ。

>理性は「理性的であること」よりもなお狡猾だ。
なるほどな。
61代理いぬ:2000/06/27(火) 08:15
>46
結局のところ、人間が主体的生き物だなんて幻想に過ぎないのだよ。
ままならぬ感情と本能に操られながらも、
悩める意識は理性的であろうと悲鳴を上げる。
不条理なことだな。
62名無しさん:2000/06/28(水) 02:32
混同されがちですが、 一応関係を持っているとされているものの
問題と理論と実践と解決は、それぞれまったく別々の独立したものです。
63剣豪:2000/06/28(水) 02:46

>60
 でも饒舌にも救いがあると思う。死に絶える必要があるのは言葉ではなく、
 それを扱う僕らの方だ。ソフィストの欺瞞とは、自我が言葉を思いどおりに
 扱うことができると思い込むことで、逆に制度としての言語の公共性に
 捕られられている点にある。だとしたら、徹底して自我を自殺に追い込む
 必要が出てくるわけだ。思考が、言葉の他者性に接する態度を学ぶのも
 ここ以外にはない。対人関係と同じく、つかず離れずってセンスを
 身につけることは、僕らが言葉を扱う場面においても妥当するような気がする。
 この点で、主体とか精神とかいった形而上学的な概念の再生も、ひとえに
 思惟する側のセンスの問題であるように思うのだか。もちろん、脱形而上学
 を目指す現代思想の場合にも同じ事が言えよう。

 
64名無しさん@1周年:2000/06/28(水) 06:16
ものすごい量の悪意が私をつつんでいる。
偏見を抱かずにそこから脱出するためには
どうすればいい?
65剣豪:2000/06/28(水) 07:20
>64
 じゃまだ!!外野はすっこんでろ。
66代理いぬ:2000/06/28(水) 08:48
>62
>この点で、主体とか精神とかいった形而上学的な概念の再生も、
>ひとえに思惟する側のセンスの問題であるように思うのだか。
それはそうかもしれないが、
結局のところ思想の自殺は延期というわけだな。(堂々巡りだ)

私は偽ソフィストの欺瞞にはうんざりだ。
思想が文学以上の力を持つことはもはやありえない。
人に感銘を与えることはあるにしても、
それが根源的に他人を説得する力となり得ないことは、
予言された不条理な時代を迎えた現在、もはや明らか。
詩的な言葉をこねくるだけでは、他人を説得する力は生まれないのだよ。
現代思想とやらがいまだに哲学の神秘性にすがっているようなら、
まとめて自殺してもらいたいものだな。
「わかる人だけわかればいい」というスタンスでは、
結局文学の域を出ない。
そんなひ弱な哲学はいらない。
他人を積極的に説得する力を持った哲学こそが、
不条理な現代には必要なのだから。
67代理いぬ:2000/06/28(水) 08:52
>64
きりもみジャンプで脱出せよ。
68黒狼:2000/06/28(水) 10:18
>66
>思想が文学以上の力を持つことはもはやありえない。

それはありえないだろうな。思想が本来的な水準で「単なる」ブームに
なったことの最後が「構造と力」の頃か?それであっても、単なるブームに過ぎない。
「ソフィーの世界」や「葉っぱのフレディ」は、癒しなんてことが言われる世代の、
自己肯定のための(これ自身は否定しないが)文学的セラピーに過ぎないだろう。
そして、これが今後の「思想」理解のスタンダードとして既に確立されているから。
しかし、思想が文学よりも力を持っていたのはいつなのか?
思想が文学同等の積極性と説得力を持っていた時代が
20〜30年前まではあったと言う事には疑念を挟まないが。

>他人を積極的に説得する力を持った哲学こそが、
>不条理な現代には必要なのだから。

困難なことではあるな。
「他人」(他者)が、知識レヴェルで高度化し、物質的には充足している状況下で
積極的に説得できうる力量を備えた思想とは、いかにして可能か?
一方では高学歴化による大衆の知識の飽和、片や学級崩壊に象徴される
社会底辺層の向上心の喪失並びに拡大。
他者が多様化し、既得権益を主張する現代において、
他者が能動的に受容(或いは参画)可能な哲学は
はたして確立できるのか・・・。
その基盤には何がなりうるのか?
微温的な全体主義としらけをまとった個人主義への対抗軸は何か?
私は無力感と徒労感を覚えることが多い。
69代理いぬ:2000/06/28(水) 11:34
>68
>自己肯定のための(これ自身は否定しないが)文学的セラピーに過ぎないだろう。
なるほど。
うまいこと言うな。

>社会底辺層の向上心の喪失並びに拡大。
経済に波があるように、こういった社会状態に波があるのは必然だろうな。
不足しない限り需要は生まれないから。
今の日本はあらゆる飽和のつけによって欲を失っている。
しかしそのうち、「これ以上は本当にまずい」という意識が芽生えて、
また転回するのだろう。
これは希望的観測ではなくて必然の理だろうな。

>他者が多様化し、既得権益を主張する現代において、
これぞ不条理社会の根源だろう。
個人が賢くなり過ぎてしまっていて、権力はこれを手に余している。
個々人が自らの利権を守るために、自らの論理で動く。
その結果、公の道理が全く通らない、
極めて不統制な社会ができあがってしまった。
互いの敵意があらわになった嫌な世の中だな。