人は何故生きるのか 生きる目的はなんなのか?

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41剣豪
 消えた・・もう一度書くか。
 作家としてのカミュを悩ませたのは、こうしたアポリアの言語性、というより言葉そのものが持つアポリアだった。晩年の作品「転落」の主人公は、俺はダメな人間さ、生きるに値しないクソヤローだよ、と執拗に告白する。がこういう饒舌にこそ欺瞞がある。告白、或いは言語とは、その社会性からして他者を志向するものだ。しかも特定の他者ではなく、まさしく外部の匿名性をだ。
 なぜ告白するのか。人生についてののっぴきならぬ煩悶、自分自身が、そう、まさに代替不可能な存在としての自己が引き受けるべき経験の緊張を、なぜ言語化し他者に晒すことによって弛緩させるのか。自己決定の瞬間を、なぜ際限無く保留するのか。或いはこの留保こそが発話の本質なのか。
 人生の意味について、教えてください、というけれど、結論などない、というより、結論が不断に先送りになる、というのがこの設問の事実とすれば、これは笑うべきことだろうか。
 といのは、俺達はこういうモラトリアムな領域を逃れられないからだ。
 「人生の目的ってわかんないけど、みんなそれぞれに思うとこあったり、悩んでるわけだけ。ま、悩みが多ければそれだけ生きがいも増すってものさ」
 こういう帰結では困る、と言いたいわけではない。哲学とはまさにそうしたモラトリアムな領域を問題にするしかない、という感想を持っているだけ。
 無意味ではないか、という疑問がある。だがこれが心底、死への希求に昇華されるのであれば、わざわざ饒舌になる必要もあるまい。さっさと首をくくるだろうから。
 哲学(或いは倫理学)が所詮、こういう半端もんの傷の舐め合いだとすれば、俺達に出来るのは、せいぜい派手に舐め合うことさ。もっとも、ここにネットの匿名性という限界が浮上するんだけどね。言語の限界でもあるかな、こりゃ。
42剣豪:2000/06/22(木) 05:53
2回書き込んじゃった。ゴメン・・
できれば41のほうをお読みいただけたらと。
43代理いぬ:2000/06/22(木) 06:27
>41
>なぜ告白するのか。
発話は紛れもなく行為なのだよ。
告白は君が言うところの、
「自己保存を志向するところの狡猾な人間理性」
が引き起こすものではない。
言うなれば狡猾な人間本能か?

要するにただのストレスのはけ口だよ。
わかりやすく言えば"愚痴"だな、愚痴。

>…だがこれが心底、死への希求に昇華されるのであれば、
>わざわざ饒舌になる必要もあるまい。
>さっさと首をくくるだろうから。
なるほど、君もなかなか饒舌なようだ。
しかし、もう少しわかりやすく語ってほしいものだな。
君も頭を整理して出直すか?
44剣豪:2000/06/22(木) 06:53
 お・・早いな。最近文句ばっかり書く込んでるから、つい饒舌になっちまった。
 おやおや愚痴っぽくなった。でも愚痴といえば君のレスも愚痴だな。
 別に文句言ってるわけじゃないぜ。こんな朝早くに、御互いストレス発散ご苦労サマ、って言いたいわけよ。
 俺達のストレスのはけ口を提供してくれる哲学に、というより俺達の思考そのものに感謝したいものだ。
 けどこういうストレス発散こそが「考える」ていう行為の自己保存の現れとは思わないか。
 つまり俺達は、ほんとは考える必要もない設問を勝手にこしらえ、勝手にあーだこーだと愚痴ってる。
 こういう繰り返しそれ自体が「人間理性」の狡猾な自己保存の動きとは思えないか、と感じてるわけさ。身体的な本能?それは分からないし答えたくも無い。
 ニーチェの言う本能ってのは観念的なものだったかもしれないしね。
 続きはまた。
 
45代理いぬ:2000/06/22(木) 07:11
>44
>こういう繰り返しそれ自体が「人間理性」の狡猾な自己保存の動きとは思えないか、
>と感じてるわけさ。
やれやれ。
君はカミュになぞらえて人間を不条理だと語ったが、
ちっともわかっていないようだ。
理性は自己保存などしない。
理性がそのように整然とした指向性を持つものならば、
カミュは人間を不条理な存在だとは言わなかっただろう。

しかし、
理性について勘違をしている輩がすこぶる多いな。
理性は決して"理性的"ではない。
理性の本性はカミュの指摘する通り不条理なものだ。
46岡ちゃんの眼鏡:2000/06/22(木) 08:22
 久しぶりにみてみたら、雰囲気が変わってた。

>発話は紛れもなく行為なのだよ。

だとしても、「自殺する」と語ることと、実際に自殺することの
間いには、埋められない深淵が横たわっているだろう。
 あらゆる自己否定はそれが言説として表現される限り、
根底において自己肯定に結びついているだろう。
 「自己の否定」を語るということと、実際に自己を否定する
ことはおそらくまったく違うことではないだろうか。
 結局のところ、語るという行為は、代理いぬさんが言う通り、
暇つぶしであり、気晴らしであり、ストレスの発散であって、
それらはすべて根底において生への志向を示していると言える。
 言いかえれば、言語ゲームはその根底において「生への目的」
というそれ自体無目的なものによって支えられている。

>理性は自己保存などしない。
>理性がそのように整然とした指向性を持つものならば、
>カミュは人間を不条理な存在だとは言わなかっただろう。

 仮に、理性が整然とした志向性を持っていたとしても
やはり、カミユは人間を不条理な存在だと言っただろう。
不条理の本質は無意味さであり、理由のなさである。
 人間の理性が自己保存という整然とした志向性を持っている
とすれば、そのことそれ自体が不条理ではないだろうか。
 極論すれば、存在すること自体が不条理なのであり、
人間が意味と理由を求める動物であるかぎり、世界は不条理で
ありつづけるしかない。
 もちろん、理性の背後にはどす黒いカオスがとぐろをまいて
いるのであって、それに統一的な志向性があるのかどうかは
私の知るところではない。
 しかし、もしそのような究極的な志向性を求めるなら、
自己保存欲よりも、勝利欲のほうが説得力があるように思う。