57 :
剣豪:
相変わらず現代思想オタはうぜぇ・・。ミーハーどもめ。
>代理いぬ
自己保存について相互の理解内容に相違が見られるようだ。
人間の本能としての自己保存とは整然としたもので、理性の
不条理とは相容れないものかもしれない。が、そんなことは
俺には分からない。哲学の歴史そのものの自己保存的な性質
性質こそが問題なのだ。こういう思弁的なテーマに苛立つの
かな?
結論自体を拒否し続けるような暇つぶしの言語ゲームの展開、
人生の不条理について、或いは死について語るが、ぎりぎり
のところで自己決定(自殺か、或いは生の全面的な肯定とし
ての沈黙だ)を遅延してきた哲学の歴史の、そして思考その
もののそういう半端な性質がそれだ。理性が整然とした志向
性を持っていたとすれば、このスレッドのような設問を俺達
に惹起させるはずがない。理性は「理性的であること」より
もなお狡猾だ。
>46
生の自己否定と、それについて言語ゲームが志向する生の肯定
とのアポリアに悩んだカミュの結論はこうだ。つまり、所詮語
るという行為が暇つぶしであり、死を選択しえない生の遅延行為
であるならば、よりよき暇つぶしをしようなじゃないか、と。
彼の最初にして最後の到達点。それは幸福への問いだ。
「よりよく生きるとはどういうことか」
アドルノのテーマでもあったこの問いは、実際「なぜ生きるのか」
という設問よりも根源的なのだ。俺達が死と沈黙を選択しない限り。
・・・・聞いてる?