人は何故生きるのか 生きる目的はなんなのか?

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(続き)
このたとえでカントが言いたかったのはだな、理性を使って考えるといっても、
考えきれない領域もあるってことだ(だから理性の「批判」なのだ)。そうゆう領域で
まじめに議論しようと思っても、相反する結論が出てきてしまってにっちもさっちも
行かなくなる。理性的に物事を考えようとするなら、その理性が及ばない領域にまで
思弁の範囲を広げてはいけないってこと。
人生は何のためか、なんて問題も、同じだと340はいいたいわけ。
お分かりいただけたか?

ちなみに、おれの意見。「人生の目的はセクースだ」といってる奴と、
「いやいや、神の許しを求めることだ」といってる奴とがいるとして、
どちらの意見が正しいかなんて、第三者が判定できるものじゃないでしょ。
それを判定するのは、極端にゆうと「あぁ、眠い」と「ギコギコハニャ〜ン」とでは
どっちが正しいか、とゆう問題設定と同じになりかねない。
哲学は伝統的に、真偽を問える事柄だけを命題と呼んで来たわけだが(例外もある)、
おれの考えでゆうと、人生の目的を語った文章はどれも真偽を問えないんじゃないかな。
だって、真理ってゆうのは、誰にとっても、またいつの時代でも成立するもの
でなくちゃいけないと哲学は考えるのだが(例外もある)、人生の目的セクース派と、
ハレルヤハレルヤ神様大好き派とが論戦して、片方がもう片方を説き伏せるようなこと
はできないだろうから(またそれはやってはいけないことだろう)。

もう少し書こうかと思ったが、マジレスした俺がバカみたいにも思えてきたので、
この辺にしとくよ(でも、こんな自分がちょっといとおしい)。