1 :
考える名無しさん:
ワカラナイ
人権はヒトに対して主張されるもの
他の動植物・自然に胸はっていえるものではない。
人権の根拠など最終的には、ない。
4 :
考える名無しさん:01/09/07 16:22
>>2 主張されてもいない内容を、ある主張に勝手に付着させて、ある主張の説得力を
落とすような論法はやめましょう。
>>3 それは人が生きるべきだ、幸せになるべきだ、ということにも根拠がない
ということと殆ど同じことをいっているのですが、それをあなたは認めるの
でしょうか?
〜には『、』ない。
などと句点をつけて強調し格好つけている時点で
認めてはいないという事が分かるな。
人権というのは
権力が生じるまでは当たり前であるがゆえに気にすることもなかった概念
権力によって人の自由や生存そのものが脅かされるようになったため
その歯止めとして想起された概念ではないかと思う
7 :
考える名無しさん:01/09/08 07:25
人権を否定するのは金の価値を否定する事に等しい。
8 :
考える名無しさん:01/09/08 08:27
人権という概念は、社会的合意が根底にあり、
その表れとして、憲法に規定されている。
9 :
考える名無しさん:01/09/08 13:17
とりあえず、人間は、その他の
動・植物、ましてや鉱物とは違う
異質な存在である
ということだ・・・
>>4 どの人も、幸せになりたいと思っているのは事実ですが、
では「人が生きるべきだ、幸せになるべきだ、ということ」の
「べきだ」の根拠とは?
11 :
考える名無しさん:01/09/08 17:47
>>10 みんなが幸せになればもっと幸せになるから。
つまり善とは広げていくものだから。
※所詮すべての人間が幸せになれないとか
そういう事は他人に質問しないで自分で考えてくれ。
なんじゃそりゃ
13 :
考える名無し:01/09/08 19:06
14 :
考える名無しさん:01/09/08 19:11
15 :
考える名無しさん:01/09/08 19:11
人権の由来?
もともとはキリスト教会の免罪符を購入する権利だね。
阿部謹也(字が違うかも)の著作にそう書いてあったよ。
16 :
考える名無しさん:01/09/08 19:13
人類滅亡のとき、最後に残った一人に人権はあるんだろうか。
それから逆に質問するが、例えば「F=ma」と
幸福とを同じ列に置けると思っているのか?
18 :
考える名無し:01/09/08 19:18
君達の言ってることは「しゃべり場」的だね。
結論ばかり言ってないで根拠を示してみよう。
根拠をいえという奴が根拠を示さないのはどうなんだ。
20 :
考える名無しさん:01/09/08 19:26
>>16 人権を主張すべき相手が存在しないのでは
有っても無くても同じこと。
>>11 他人の不幸は我が身の幸せ というのは?
幸福なんて相対的なものだと思うのですが。
>>20 >他人の不幸は我が身の幸せ
人間関係において短期的には嘘をついた方が得だが
長期的には正直でいた方が得
22 :
考える名無し:01/09/08 19:29
君たちが「しゃべり場」的であるというのは、
自らの主張に対して明晰な論拠を伴っていないこと、
自説の枠内に固執しがちであること、
反駁されると感情的になることなどが挙げられよう。
いずれにしても、あなたたちが一刻も早く広い世界観を
獲得されることを望んでやみません。
21は相対的か?
24 :
考える名無しさん:01/09/08 19:43
それを言うなら
万人が同意する根拠を
示すことなど論理的に不可能なんだ
という言い方をあえてしてみよう
25 :
ただの通行人A:01/09/09 16:30
というか
彼の思う根拠(?)とやらに的中した意見がない
というだけのことだろう
しかし、それって
俺が思うに
特殊厨房の限定ルールって奴で
彼なりには
厨房でしかない自分が
しゃべり場(?) とかいう番組に
出て来る お兄さん連中に比べて
彼の脳内では 「俺の方が上だ〜」
という根拠が いつしか形成された
ということなんだろう
それこそ根拠もなく
高校生(?) より出来る厨房だから
特殊厨房 なの
いやいや 長文を読んで頂いて 感謝!
26 :
考える名無しさん:01/09/09 18:08
とりあえず洋泉社新書の「人権を疑え!」の宮崎哲弥が書いている個所を読め。
人権ってなに?
憲法に書いてあるヤツ?
それとも戦争で捕虜になるときに期待する最低限人間としての扱い?
28 :
考える名無しさん:01/09/09 18:58
>27
>戦争で捕虜になるときに期待する最低限人間としての扱い?
なにそれ?頭悪いんじゃないの?
29 :
考える名無しさん:01/09/09 19:24
30 :
心脳問題(13) ◆FyoH59Do :01/09/09 20:29
分析美学では、結局そのような問いは「疑似問題」ってことで匙を投げてる。
グッドマンは「慣習の守り」に帰着させちゃうし、
マルゴリスは「同一性なんてどうでもいいじゃねえか馬鹿野郎(意訳)」とキレてる模様。
要するに、その問いが設定される文脈によって、「何が同一か」は
クリプキとはまるで無関係ですが、モデルが扱っている事
が非常に似ている。意味を構成しようとする切り口の模索
という点で。
人間の音認知能力は絶望的なまでに相互通約不可能であることが
よくわかる。
このスレにはまだ工学的話題は少ないようなので強調しますが、
聴取上の同一性は、音の側の問題というより、個々の主観の感知能力の状況に
たまさか存在する自分がそれを「聞き取れる」のか、疑問に感じる。
宇宙の外なんて誰も判らないかもしれない
しかしよく宇宙は 「限りなき有限」という表現をされるように
及ぼしたと考えられる事柄を時代の区分としているわけでしょ?
つまり、どこに重要性を認めるかによって、時代区分は変わったりする
わけなんだよ。問題は、ここは「あった」んじゃなくて、
観念論的音楽美学の90%はその類だ。ヘーゲルとか(まああれはあれで当時の芸術
イデオロギーのドキュメントとして一級品だと思うけど)。
まあ、認知科学の発展には非常に期待はしているが、
(世界内での音認知現象に関する、一例を提供してくれるという意味で)
認知科学の主張だけで音楽聴取に関わる問題が解決できるとはとうてい思えない。
上記に仮定した「現実」「-1現実」「-2現実」以外の現実は存在するのか?
存在と言う概念ですでに「-2現実」である。
ライプニッツのモナドロジーとも共通してるんじゃないかな。
問いの立て方の角度を変える努力をしなければならないのでは、と思う。
31 :
考える名無しさん:01/09/09 20:30
原子核がα線を放出する現象をα崩壊といいます。α線は放射線で、
原子核がα崩壊を起こしたときに発生する。α線粒子はヘリウム原子核。
もちろん宇宙が崩壊するわけ無いぞ。
これらは測定技術の問題ではなく、自然の法則なのである。それゆえ「原理」と呼ばれている。
問題はこの不確定原理を神秘性の根元のようにいいかげんなことをいうエセ解釈が多いことだ。
不覚訂正原理は「世界は予測できない」という証拠と思われ勝ちでであるが、実際はその逆だ。この原理は青土の高い観測を行うための秘策なのである。
そう、AB間の距離を広く取るほど正確になる。
だが、速度を測定している間、車は何処にあるのだろう?
AとBの間のどこかだ。
例えば、A点とB点間を走る自動車をストップウォッチで測るとしよう。
A点のいる観測者がまず車が目の前を通り過ぎるときにストップウォッチを押す。
次にB点のいる観測者が車が通り過ぎる瞬間にストップウォッチを押す。
このABの距離が分かっていれば、2つのストップウォッチの差を計算すれば、速度が分かる。
しかし、ストップウォッチは真に通り過ぎる瞬間に押せるか?
実際にはいろいろ誤差がでてしまう。
では速度計算の誤差を極小にする工夫は?
では、そのどこかを極力正確に知るには?
AとBの距離が短いほど、精度が高くなる。
この交換条件はなにも量子の成果に関わらず、観測問題に関わる典型的ジレンマだ。
位置と運動量は「相補的」に変化しうる。
原子の運動量と位置は同時に計れないとしたもの。
粒子の位置を測定する為には波長の短い粒子で測定しなければならない。したがって測定波の粒子の運動にぶつかり、観測対象の粒子ははじきとばされてしまい位置は測定できない。
逆に粒子の運動量を正確に測定しようとすると、波長の長い波をつかわなければならないが、今度は位置が正確につかめないというというもの。
ハイゼンベルグが仮定したのは「粒子の位置と運動量の両方を正確に知るのは、根本的に限界がある」ということだった。
その限界が「プランク定数」と呼ばれる量子力学の基本定数であり、実験の予測結果に限界を設けることになる。
原子の異なる状態における量子遷移は特定のエネルギーを持つ光子を放出する。同じ遷移が起これば、全く同じエネルギーを持つ光子が放出されることが予測される。つまりハイゼンベルグの不確定性原理は世界をより確定できるものにしたのである。
実際には車自身に速度計と距離計がついていれば、問題は解決される。
しかし、粒子に計器を搭載し、それを直接観測することは不可能だ。観測技術の限界がある。
微視的世界の量子物理学が不確定性を免れぬことから、決定論的因果律が崩壊したかにも語られるが、むしろ巨視的世界で成立」している通念を押し通すことのできぬ微視的世界が見出されたという認識が重要だろう。
32 :
考える名無しさん:01/09/10 13:44
結局、人権が問題にされる
ということは
「何故、人を殺してはいけないのか?」
という命題(?)に 決着をつける時が来た
のではないのか?
結論から言えば
人を殺してはいけない根拠は残念ながらなく
ただ
自分は何故 人を殺さないのか
という理由付けが各人によって
自発的に提案(?)される
誰の意見が一番上だとか下だとかの
順位はなく 全てが並立して提示される
のが 正しい姿 で・・・
33 :
考える名無しさん:01/09/10 14:03
人殺しが許されるより許されない方が都合がいいってだけじゃねーの?
特別出演
しかし特殊厨房とは名言だな
だから、その特殊厨房のなれの果て
が ガンダムの富野由悠季なんだろうな
だけど、彼も60歳を目前にして
眩暈(?) とか耳鳴り とかの
身体症状をついに現出させたようだけど
それは 根拠なく
自分は優れている
と、思い込んでたことの
天罰だ
ある意味、酷な言い方するけど・・・
だから、富野に魅力を感じてしまった
現役 中・高生がもしいるのなら
今の内に彼を切り離せ
俺は 鬼ではないつもりだ・・・
35 :
考える名無しさん:01/09/10 20:37
おい、誰だか知らんがいきなり乱入してくるな!
で、人権の話はどうなんだ?
36 :
考える名無しさん:01/09/10 20:39
なんで殺す側の視点でばかり殺人を捉える? アホか。
37 :
阿修羅無限大落とし:01/09/10 20:46
男女平等といわれている昨今だけど、決して世間は男女平等じゃないのよ。
世間は女には暖かく優しいけど、男に冷たく厳しいわ。
女が困った時にはきっと誰かが助けてくれるだろうけど、男がいくら困ろうと誰も助けてはくれないわ。
タイタニック号のように女と子供を優先的に助けていくから、男まで手が回らないのよ。
手が回ったとしても誰も男なんか助ける気ないしね。
以上の内容を息子に話しました。
息子は納得できない顔をしていましたが、
女子優待優先至上主義の現実をそろそろ知らなくてはならない年頃ですから仕方ありません。
女は大学に入学した頃には女の子は大切に扱われることを身で実感して喜ぶけど、
男はまだまだ自分が軽く扱われる身だということに気が付かないみたいね。
そして女の子に優しく男の子に冷たい世間を、女の子は当たり前の様に享受しているのよ。
女の子は自分が男の子よりも優遇されることに何の疑問も持たない。
だって当たり前だと思っているのだから。
だから辛い思いをしている男の子に同情し手を指しのべる女の子なんてひとりもいやしないわ。
だからこそ男の子は強く頼らず生きなきゃいけないの。
女性も軍隊や政治的指導者になるべきという議論は、たまにプラトンが男女平等
思想の持ち主である根拠とされるけど、僕自身はあやしいと思う。
例えば『ティマイオス』では、全く逆に男尊女卑的な進化論?みたいなものを
説いている。他の著作での話はおくとしても、プラトンの場合は、男女の別なく
人間を国家の道具としたいだけじゃない?
私のいっているのは、「違和感を感じたとしても」平気な(不快に感じない)人もいるのではないか?
ということです。
実際、男性の肉体で、自分の感覚では女のような気がする、
あるいはその逆であったとしても、それだけでは病気ではないわけです。
病気というのは、日常生活になんらかの支障をきたして初めて病気といえるわけで、
それ以前の状態では単なる特異体質というだけのことだと思います。
性同一性障害というのは、その違和感が「堪えられないほどの苦痛」であるから、
病気と認定されて、外科的な治療も認められるのだと理解しています。
ですから、脳と体の性の不一致 = 病気ということにはならないと思います。
38 :
考える名無しさん:01/09/10 20:48
ベニーグッドマン?
39 :
考える名無しさん:01/09/10 21:10
なんで殺す側の視点でばかり殺人を捉える? アホか。
40 :
考える名無しさん:01/09/10 21:17
[ ]←空白が入ってない場合はコピペです。
オナニーをさせられたり、汗臭いオマンコを顔に押し付けられたり、
汗でぬれたタオルや下着を口の中に押し込まれたり、
足をなめさせられ踏まれたりします。当然、騎乗位でセック
スもやらされます。何人の汗臭い女に犯され、
何回も愛液や唾液を吹きかけられます。犯された男の人は何度もいかされ
て愛液と自分の精液と先輩の唾液でべとべとになり、声をあげて泣きます。
童貞の人は恐怖で顔が引きつっていました。土下座されても泣かれても
痛がっても、勃起してはセックスして、射精したらまんこや足を
なめさせたり、乳首を愛撫し感じさせたりフェラで無理やり立たせます。
41 :
人権を怪しむ人:01/09/10 21:46
「基本的人権」が憲法に書かれてる以上、それが
侵害されてるっていう裁判は起こり得る。ところ
が、訴えられた側がその裁判で逆に「基本的人権」
を主張したとする。司法で人権と人権がぶつかり
あっちゃったら、どうなるんですかね?
人権の根拠とは関係ない話ですが・・・
>41
なんねーよ馬鹿
憲法くらい読んでから書き込めや
>>1 一応、法学的には、
@天賦人権=自然権
A人格的利益説
B一般的自由説
C人格核心説
などがあります。参考までに。
44 :
考える名無しさん:01/09/11 00:30
>>43 そこまで言うのなら
短くて良いから 解説してちょ
45 :
考える名無しさん:01/09/11 05:10
わからん 何故 逃げる?
おい 阿修羅 とか
ご指名だ! 一つ芸を
披露してから
逝くなら 行け!!
46 :
考える名無しさん:01/09/11 05:19
>>41 「人権が侵害されている」という形では、裁判上は主張出来ません。
日本では、付随的審査制という判断方法がとられており、それによれば
「訴訟上の利益がない」という判断を食らって終わりです。
憲法裁判所がある国では、人権が侵害されているという形で主張する
ことが出来る場合があります。
11=14さんの言っていることは、非常に「明晰」な論理だと思いますがねえ。
『「人が生きるべきだ、幸せになるべきだ、ということ」の
「べきだ」の根拠とは? 』(
>>10)に対し、
『みんなが幸せになればもっと幸せになるから。
つまり善とは広げていくものだから。 』(11)の答えが
どのように明晰なのか、詳しく知りたい・・
「分かりきったことだから」ですよ。
だから善(よい good)という事はよい事「だから」
広げようとする「べき」って事だろ?
違うのか?
善ってのは人を殺しちゃいけませ〜んとか
そういうたぐいの主張はしていないつもりなんだが
勝手に、そういう人を殺してはいけないとかこいつは
そういう事を前提として話しているとか考えられても困る。
いや、考えてはいないだろうけれども。
「人を殺さない事」とかを無意識に善い事といわれる事に当てはめて
実は違うんじゃないかとか考えて
なんでよい事はするべき事なのとかワケワカラン事をいわれても困る。
「よい」だから「べき」に繋がるんだろうが。
幸せとかを勝手に狭めてそこから反発されても困るんだよ。
例えば「殺された方が幸せ」などが入らない幸せを
勝手に定義してないか?
してないだろうけどね。
結局アレだ。
こういう善悪の問題はまず偽善ってのが出てくるんだよな。
そんで、ギリシャの善い事をすれば善、悪い事をすれば悪
という主張が書かれてそれに納得できない奴がグダグダグダグダ
いって終わり。
いいんだよ?
別にその極端な偽善だとか、人間は『所詮』自分に利する行動しか
できないっていう縄張り、ねぐらからギャアギャア事ある事に喚いていて
時にはそこから一歩二歩出て、ああ議論したなあなんて
一服したりしても。
そういえば人権の問題だったな。
53 :
考える名無しさん:01/09/11 12:18
54 :
考える名無しさん:01/09/11 13:14
>11
貴方の中では
幸せになる権利=人権ですか?
俺の中では
他人に迷惑をかけずに自由に生きる権利=人権だが、何か?
迷惑をかけなきゃ生きれない人間についてはシラネーヨ
にしても幸せになる権利=人権
というのは、
まるでまるでまるで幸せなら他人に迷惑をかけていいのか
とかそういうクッダラナイクッダラナイ誘導尋問のような
意味が含まれているかのような質問だな。
57 :
考える名無しさん:01/09/11 14:14
というか人権というのは
こいつの人権は守るが
あいつのは守らない
というダブル・スタンダード
は認めない ということを
確認し合うだけの ものじゃないの?
ある意味
>11
そんな裏のある質問をしたつもりではないんだが
気分を害したんなら謝っときます。
それでは「幸せになるべきだ」の一連の発言は
直接人権のことを言っていたのではないのですね。
とりあえず、裁判所その他の国家機関に対して人権を主張することができるのは、そう
いうもんが憲法典に書いてあったり、解釈上認められたりしてるからでしょう。
要するに、国家が認めているから、人権があると。
しかし、そんなツマラン事が聞かれているわけではないんでしょうね。
60 :
想う名無しさん:01/09/11 18:20
自分の人権を主張する人程、他人の人権を否定しがちだと思うのだが
憲法(厳密には法)の根拠について真面目に(49だって大真面目ですが)
敷衍しますと、一応「自然法論」と「法実証主義」という考え方に分かれます。
ラフな言い方をすると、自然法論は、いわゆる天賦人権の考え方です。
法実証主義は、法的に承認された権利を認めるべきであるという考え方です。
憲法学をやっていない人からすると、法実証主義のほうがいいのではないかと
思われがちなのですが、実際にはこれがややこしい問題になっています。
もともとの自然法論を承認していた論者は「天賦」だから、「自然権」があると
言っていたのですが、現在では
>>11,
>>14,
>>49のような形に主張を変更している
者が殆どであるのに、どういうわけか一般向けに自然法論を解説する人間
(それは自然法論の結論を認める人間ではないことが殆どである)は、勝手に
自然法論をそのまま踏まえているかのような構成で解説する、ということです。
また、実際には、法に制定法外の理念が入るのは明らか(というのは、制定法を
形成する際の、主体の意思がそこにあるから)なのに、法実証主義はそれを
隠蔽する役割を果たしているという面があります(実際の法実証主義者は、
もちろんそれを回避(いい意味で)する主張をしますが、上記の定義で納得
できるかのように、一般向けに書く論者がいるということです)。
自然法論は、実定法を指導する理念を外部に承認するという点では好ましいのです。
ただ、法実証主義も、そこでいう法が「法の支配(人の支配に対する語で、
簡単に言えば、裁判所の違憲立法審査権がその表れであるとみて構いません。
ただ、裁判所による実質的な救済を常に論議の対象とする概念であることに
注意してください)」に服している、または「実質的法治主義(制定法の内容の
正当性を要求する)」ことを前提にするなら、問題がないということもできます。
間違えました。
>>61の冒頭は、「憲法」じゃなくて、「人権」でした。
ついでにいくつか・・・。
>>54 幸せに「なる」権利=人権ではないです。
幸せになるべきだから、幸せに必要な「法的関係」を主張する権利
=人権を認めるのです(法的関係というのは、人権は法的に解決
できる問題しか、解決できないからです。例えば学問上の地位とか
職場での地位は、人権が介入する領域ではありません)
>>55 それだと私法関係・刑法関係で十分論じうる問題になっちゃいますよ。
>>60 人権の主張は普通私法関係を通じてなされます。その際に、私法上の
判断を下す上で、指針となるものとして、人権が観念されている
面が強いです。少なくとも裁判所や、学者はそのように理解してます。
「指針」は「個人(「自分」全て)」の権利を「公共の福祉に
反しない限りで(ここは非常に問題がある説明ですが)」守ると
言っているのであって、「自分」「他人」という構成をとっていません。
自分と自分の主張を認め、主張に基づいて、調整するわけです。
だからそういう突っ込みはおかしいです。
63 :
想う名無しさん:01/09/11 21:25
60です。
その、法的には他人という立場をとらないってのはそうなんですけど、
まあ、俺の言ってる場合は
例えば言い争いをした場合、って事です。
言葉が足りなかったみたいでスマソ
自然法論も法実証主義も「人権の根拠は何か」の答えにはならんよ。
自然法論はその「根拠」を「外部に承認」するだけ、法実証主義は
法律の中にそう書いてあれば、その「根拠」自体については基本的に問わない
という姿勢をとる。自然法論、法実証主義、いずれも法律というものに
関する哲学、法哲学なのだからあたりまえだ。別に人権思想なんぞ
含まない法律についても言える哲学なのだから。
>>46、
>>11 「・・・<権利>はある行為をやったりやらなかったりする自由であり、
<法>は、そのどちらかに決定し、それを拘束するものだからである。
したがって法と権利には、義務と自由のような違いがあり、
同一のことがらにかんして両者が一致することはない」(ホッブス)
よって、人には自分の欲望や幸福を追求する自由が天賦にあるとする自然権と、
「人が生きるべきだ、幸せになるべきだ、ということ」の義務とは、
区別されるものということになります。
また、また、「万人がそれを望んでいる」という事実命題から
「望ましい」という価値命題を、導き出すことは誤りになります。
三段論法について、「その前提が二つとも直説法になっている場合は、
その結論もやはり直説法になるはず」であり、
「結論が命令法になるためには、前提の少なくとも一つが
それ自体命令法になっていることが必要」(ポアンカレ)
>>64 中段の部分について触れないで、法についての一般的な理論構成の部分だけ
取り出されても困ります。
承認する上での必要性が感じられている、その理由(というか、実感みたいなもの)が
大切なわけですから。承認しないことが何を意味するかを考えたうえで、それらの
理論のあり方を考えるのが大切です。
>>65 別に人が幸せになるべきだということが義務だとは言っていません。
義務だといっていないなら、法は義務も包含するものだから、法の根拠は、
「自然権」を認める根拠と区別されることになる、ということでしょうが、
「外部に法の制定根拠を認める立場」は、実際上「個人」が幸せに生きられる
ことを念頭においてそれを主張しているわけです。とすれば、それは実質的に
「自分」による幸せについての無制限の主張を認めない(つまり義務を包含する)
ということは、はじめからその内容にしなくてはならないことは、明らかです。
義務は「「個人が」幸せになるための義務」であって、「「自分」が幸せに
なるための義務」ではないのです。
後半の、「万人がそれを〜」について;
私は望んでいるし、望ましいあり方をもたらす構成をとるべきだと考え、
同意を求めます。
同意をして、構成をとるべきだと考える人が増えれば、増えた人たちの間では、
価値命題を認めることは「事実上」できます。望ましいと単に考えているだけに
とどめなければいいだけの話です。
>>66(46)
>別に人が幸せになるべきだということが義務だとは言っていません。
「人が生きるべきだ、幸せになるべきだ、ということ」(
>>4)の文脈の流れ
(
>>4 >>10-11
>>13-14)に対し、
>>47で、
「11=14さんの言っていることは、非常に「明晰」な論理だと思いますがねえ。」
として、支持しているのかと思ってましたが、違うということですね。
それで、
『義務だといっていないなら、法は義務も包含するものだから、法の根拠は、
「自然権」を認める根拠と区別されることになる、ということでしょうが、 』
についてはわかりますが、それに対し、
『「外部に法の制定根拠を認める立場」は、実際上「個人」が幸せに生きられる
ことを念頭においてそれを主張しているわけです。とすれば、それは実質的に
「自分」による幸せについての無制限の主張を認めない(つまり義務を包含する)
ということは、はじめからその内容にしなくてはならないことは、明らかです。』は、
「外部に法の制定根拠を認める立場」がそう主張しているから、「明らか」だ、
としていることの論法については、よく理解できませんし、
「明らかです」については、(文章の組み立てで)何が明らかのか意味不明です。
でも、『「万人がそれを〜」について;・・・同意を求めます。
・・・同意をして、構成をとるべきだと考える人が増えれば、
増えた人たちの間では、価値命題を認めることは「事実上」できます。』で、
「万人がそれを望んでいる」という事実命題から
「望ましい」という価値命題を導き出す方法として、
同意形成の手続きを挙げています。
それで、合意形成の手続きを選挙や投票と具体的に考えた場合、
民主主義国家の場合、人権を保証しなければならないとする根拠を、
同意形成の手続きに求めることが可能だと思いますし、
その場合、その人権保障の根拠を、同意形成の手続とすることは、
それを天賦の自然権とすることより、理由がはっきりしていると思います。
少なくとも日本の場合、
「この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、
国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。
この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、
その過半数の賛成を必要とする。」によって憲法を改正することが出来ます。
(「また、また、」 → ×、 「また、」 → ○)
>>65